地平線の彼方から、太陽がギンギラギンにさり気なく顔を出し、幻想郷を徐々に明るく照らす。その一角、緑豊かな森の中を、スズメが愛らしい鳴き声と共に軽やかに通り抜けた。キラキラと木漏れ日が優しい、そんな穏やかな朝を迎えようとしている魔法の森に、
「優斗のバカぁーーーーーッ!!」
少女の怒声が響き渡った。森全体が振動せんばかりの突然の出来事に、木の枝に留まって羽を休めていた鳥達が、おったまげてバサバサと一斉に飛び立つ。こうして、エレガントに思えた朝は、瞬く間に終わりを告げた。
遡ること数分前。アリス宅にて事件は起こった。
外出する用事があった俺は、玄関に向かう前にリビングに顔を出した。そこではアリスが黙々と人形作りをしている。邪魔しないよう、軽く一声だけかけていくことにするか。
「ちょっと出かけてくる」
「最近よく一人で出かけているみたいだけど、何処に行っているの?」
作業をしている手を一度休め、こちらに向き直りながら、アリスは不思議そうに俺を見る。実のところを言うと、確かにここ最近俺は一人で家を出ることが多くなった。その行き先というのが、
「ああ、紅魔館にな」
「そう。フランと遊んでいるの?」
「いや、咲夜さんと――あ、やべ」
うっかり口を滑らせたことに気づき、しまったと慌てて口をつぐむがもう遅い。むしろ、その不要なアクションがマイナスだった。
「ふーん。咲夜と……何?」
そっけない返事をしながら、椅子から立ち上がったアリスが、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。やや眉間にしわを寄せて、決して穏やかとは言えない雰囲気を纏っている。やがて俺のすぐ傍まで来ると、じっとこちらを見上げた。身長差があるため、顔を覗き込むような体勢になる。南国の海を連想させるブルーの瞳に、心の奥まで見透かされそうだ。というか近い、近いですよアリスさんや。
密着せんばかりの至近距離というラッキーシチュエーションに、いつもなら躍り上がって喜ぶところなんだが、何せ今はエマージェンシーモード。少しだけ距離を取るべく、すり足でじりじりと後退する。まさに気分は決闘するガンマン。ちょっとでも余計な動きを見せたら、ヤラレル……ッ!
俺は額に冷や汗を浮かべながらも、いつも通りを装いヘラヘラと笑って誤魔化す。このことは今バレるわけにはいかない。何としても隠しておきたいことなのだ。
「えーっとだな、あ、アレだ。空を飛ぶ特訓を」
「ウソね。何で目を逸らしながら言うのよ」
「バレるの早ッ!?」
言い訳を言い切る前に否定され、思わずツッコんでしまった。その発言は同時に、嘘を吐いたと自白したことを意味する。どこまで墓穴を掘るんだ俺は。
「……………」
アリスの表情が一転して、ニッコリと笑顔になった。すごく可愛いんだが、ゾクリと背筋に寒いものを感じる。無言なのが尚更怖ぇ。
そして、彼女がすっと俺に手を向けた途端、上海ズが一斉に宙に浮き、陣形を組んで俺の前に立ちはだかった。それぞれの手には西洋ランスみたいな物騒なもんが握られており、その切っ先をこちらに構える。俺の脳内では「WARNING」というアラームが、ビービーと喧しく響いていた。
頭の中を警報が駆け巡る中、武器を向けながら上海達が次々と声を上げる。
「シャンハーイ」
「シャンハーイ」
「シャンハーイ」
「キサマヲコロス」
「ちょっと待て! 今変なの居たぞ!?」
「くだらないこと言わないで。怒るわよ」
「待て待て待て待ってくれ! 俺の話を聞け!! 二分だけでもいい!!」
「何よ?」
アリスがジト目で俺を見据える。よかった。まだ話し合いの余地はありそうだ。だがしかし、次のセリフの選択肢が、俺の生死を分ける。落ち着け、皆にとって最善の未来を選択するんだ、イーノック。よし、ここは気の利いたジョークで場を和ませよう。笑う門には福来るってな。
「こ……コーディネートは、こーでねーと」
「…………」
長い沈黙の後。
プツンと、まるで糸が切れる音のような、そんな幻聴を聞いた。そして、ゲームセットが告げられた。
「もういいわよ知らない! 出てけぇーーーー!!」
「ぎゃぁああああああ!! 採点は厳しかったぁああああああ!?」
とうとうアリスの怒りが爆発した。それを合図とするかのように、待機していた上海ズが襲いかかってきた。
「バカジャネーノ」
「バカジャネーノ」
「バカジャネーノ」
「シヌガヨイ」
「ほら絶対違うの居るって!!」
「うるさい! 優斗のバカぁーーーーーッ!!」
次々と迫りくる上海の猛攻から、死に物狂いで逃げ回る。アリスは怒りMAXのようで、家の中がメチャクチャになるのを気にも留めないくらいに、我を忘れている。いつも落ち着いている印象がある彼女にしては珍しいなとか、暢気に考えている場合ではない。いかん、このままでは命に係わる。俺は玄関まで全力疾走すると、転がり出るように家から逃げ出したのだった。
「というわけで追い出されたんす」
「それはそれは、ご愁傷様」
俺の事情を聞いて、苦笑いを浮かべているのは、香霖堂の店主こと森近霖之助さん。とりあえず家から一番近い、この店に避難した次第だ。しばらくは家に帰れそうにないなぁ。
俺が嘆息していると、霖之助さんが尋ねてきた。
「それで優斗君、これからどうするんだい? 今日は入荷したものがないからアルバイトは頼めそうにないんだけど」
「まぁ、ほとぼりが冷めるまで待ちますよ、今は何しても火に油っすからね。それと、今日は従業員としてではなくて、ちょいと欲しいものがあったんでソレを買いに」
「おっと、お客としてだったか。何をご所望かな?」
「バイトしたときに見つけたもんを。奥の倉庫にあったヤツなんすけど」
というわけで、俺達は目的のブツを取りに場所を移動した。この前掃除した甲斐もあってか、通行の邪魔になるものも無くすんなり歩いて行けた。霖之助さんが錠を外し、中に入る。俺も後に続き、「アレっす」と目星を付けていた品を指差した。俺の示す先を見て、霖之助さんは怪訝そうに首を傾げた。
「本当に、これで良いのかい?」
確認の問いに、俺はグッと親指を立てて肯定のサインを出す。
「うぃ、バッチリ」
「それならいいんだ。じゃあ、従業員割引でもしてあげようか」
「マジっすか? あざっす!」
かくして、俺は目的のブツを格安で手に入れ、香霖堂を後にした。本来であれば今日も紅魔館に行くつもりだったが、予定変更だ。早速、コイツに働いてもらうとしよう。
魔法の森を出て俺が次に向かった先、それは妖怪の山だった。というわけで現在、絶賛登山中なのである。此処に来るのも守矢神社に行った時以来だな。
中途半端に整備された、砂利道くさい山道を歩きながら、俺は手元に広げている紙を凝視する。それは、先日とある人物から描いてもらった山の地図だ。目的地までのルートを、実に分かり易く説明してくれている。いやはや、折りたたんで財布に入れておいたのは正解だったな。おかげで家に取りに帰る手間が省けた。
「えー、次の別れ道を左に行けば良いのか」
マップに従い、複雑な道を迷うことなく進む。これなら遭難する心配はなさそうだ。
登山を始めて何分か何十分か。大分奥まで来たところで、前方に一枚の看板が立っているのを見つけた。貴重なヒントを得るチャンスだ。駆け足で近付き、それに何が書いてあるのか確認する。
「何々? 『地底入口すぐそこ』……よっしゃ、ゴールは目の前だ!」
目的地まであと少しだと知り、思わずガッツポーズをする。地図を四つ折りにしてポケットにしまってから、俺はスキップ感覚で走り出した。やっべ、ワクワクが止まんねぇ。
やがて、それまでは木々で阻まれていた視界が一気に開けた。その先の景色に、思わず唖然としてしまった。
「うお……こいつぁスゲーな」
目の前に広がっている光景を一言で表すならば、巨大な穴。まるで池みたいなサイズの円が、山の一部にぽっかり開いている。話には聞いていたが、実物を見るとなかなか圧倒されるものがある。落っこちないよう注意しつつ、ギリギリまで近寄り中を覗き込む。視線の先には、俺が幻想郷に来る原因になった穴とは比べ物にならないくらいの、底無しの暗闇がどこまでも続いていた。まさに奈落への入口。ふと顔を上げると、すぐ脇にまた別の看板が立っているのに気付いた。「地底入口」……どうやら無事に辿り着けたようだな。ここまでくれば、もうお分かりいただけるだろう。そう、俺の目的は地底に行くことだ。
「なるほどな。入口と言っても、エレベーターも梯子も無いときたもんだ。確かにこりゃ飛べる奴じゃないと無理だわな」
当たり前だが、俺はノーマルな人間のため、飛行能力なんてものは持ち合わせていない。このまま飛び込んだら確実に飛び降り自殺である。じゃあ、どうするか。答えは簡単、さっき香霖堂で購入したものを使うんですよ、奥さん。
「といってもこのままじゃ何も出来ないからな。ちょいと細工するんですがね」
誰にというワケでもないが、ついつい説明口調の独り言をぼやきつつ、俺はその辺にあった大きな石を椅子代わりにして座り、抱えていたものを広げて作業を始めた。作業と言っても、そんな大層なことはしないんだが。
「よっと、それぞれの隅っこにコイツを通して……うむ、完成。三分クッキングより早く終わっちまったぜ」
完成品を軽く引っ張ったりして、強度を確かめる。えらく単純なつくりだが、問題なさそうだ。あとは、ぶっつけ本番になるが、まぁ大丈夫だろう。為せば為る。
石から腰を上げ、ズボンのケツ部分についた汚れをパンパンと払っていると、
ガサガサ……
「お?」
数メートル先の茂みから物音がした。何かデジャヴってんなーと思ったら、上海と初めて遭遇した時もこんな感じだったっけ。誰か来たのだろうか。邪魔にならないよう、とりあえず完成品を一度畳み、再び脇に抱える。
俺は、幻想郷に来たばかりだったあの時と同じく、相手が出てくるのを待つことにした。だが、直後それが失敗だったと知ることになる。
「……じぇじぇ」
「そいつ」を見た瞬間、変な方言が出てしまった。
茂みをかき分けるようにして登場した「そいつ」は、上海――とは似ても似つかないものだった。二メートルはありそうな大きな体に、全身を覆う黒い毛皮。「グルル……」と唸る口元から覗くギザギザの牙。四肢の先端には、その牙に負けず劣らずの鋭さを持つ鉤爪。分かり易く一言で説明しよう。
ある日、森の中、熊さん(敵意剥き出し)に出会った。
熊はこちらに気付くと、のっそのっそと俺の方に接近しながら、ゆっくりと口を開いた。
「コンナ所二人間ガ居ルトハナ」
「うお、喋った」
他に言うことはないのか、俺。
とはいえ、喋る熊とかフツーじゃない。サーカスでもお目にかかれないだろう。フツーじゃないってことはコイツ妖怪か? 考えてみれば人型じゃない妖怪って初めて見たかもしれない。それに、ここまで殺る気バリバリな眼光を向けられるのも初めてだ。奴の目はまさに獲物を狩るビーストのそれ。ガチで生きるか死ぬかの、弱肉強食の世界。目覚めろ野生。今朝アリスとケンカ(あれをケンカというのが適切かはビミョーだが)とは違う、ぞわぞわとした嫌な寒気が背筋を伝う。
内心ビビっているこちらとは対照的に、非力な人間を前にした相手は余裕綽々の声で嗤った。
「ククク、逃ゲテモ無駄ダゾ、人間」
正直かなりピンチだが、同時にある意味これはチャンスともいえる。もし相手がノーマルな熊だったら死んだふりしか手段がなかったが、言葉が通じる相手なら、話し合いで解決できる可能性はある。こちとら、神と問答を交わし、鬼と杯を交わしたことがある男だ。なんとかしてみせようじゃないか。
俺は軽く咳払いをし、相手と向かい合うような形で立つ。そして、ショーの司会者のように仰々しく両手を広げて、交渉を試みた。
「まぁ待ちたまえ。お前が俺を喰う気満々なのは十分伝わってくる。だがここは一つ……」
正直に言おう。この時の俺はバカだった。
考えてもみろ。言葉が通じる相手なら、誰とでも必ず和解できる保証なんてどこにもないだろ? そんなもん、妖怪に限らずとも人間同士にだって当てはまる。俺はそんな当たり前のことすら失念していた。いや、平和ボケしていたのかもしれない。幻想郷に来て出会った人達が、皆いいヤツばかりだったからな。要するに何が言いたいかって? この場合、一目散に逃走するのが正解だったってことだ。
「死ネ」
俺の言葉に耳を貸すことなく、熊妖怪は一言そう吐き捨てると、その大きな体で一気に俺の眼前まで突進し、その鋭利な爪を振りかざした。
「やば――」
ヤバい、と言い切る暇さえなかった。
直後、服ごと肉を裂かれる音と、真っ赤な液体が飛び散る音が、山の中に空しく木霊した。
つづく
近々、残酷な描写がある……かも?