=ストレス耐性
「はぁはぁ、ようやく着いた……」
私は肉体的精神的疲労を押しのけるために、大きく深呼吸をした。
自宅からこの地底までは果てしなく遠く、そして危険な道のりだった。入口付近にいた土蜘蛛曰く、人間が単独で来ることなんて何十年単位でないらしい。それでもここまで来ることが出来たのは我ながら運がいいと思う。
そして、地底の入り口からここまで無事にたどり着けたのは、大通りの真ん中で殺し合いをしている妖怪がおり、他の妖怪たちもギャラリーとしてそちらに釘付けになっていたおかげだろう。身の毛もよだつ凄惨な光景で、思わず一度足を止めて道の裏で吐瀉してしまったが、今回ばかりはその状況に感謝せざるを得ない。
目の前にそびえたつ洋館は自分が人生で見てきたどの建物よりも大きく、そして頑強なようで、いささか委縮してしまうが、勇気を振り絞って戸を叩く。
ドンドン、ドンドン
……反応がない。
その後数度叩いたところで、洋館の奥からどたどたと走るような音が聞こえてきた。
私は一歩後ろに下がり改めて服装を整えると、扉が勢いよく開かれ、文字通り飛び出してきた何かがそのまま私の真横を通り過ぎ地面を滑走した。よく見ると人間の形をしていた。黒い翼が生えているので妖怪の類だろう。カラスか何かだろうか。
「えーっと、はじめまして。こちら古明地こいしさんのお宅で間違いないでしょうか?」
地面に横たわったまま動かない妖怪に向かって恐る恐るといった調子で声をかける。すると唐突に起き上がり、汚れも払わずに屈託のない笑顔でこちらを向いた。
「あ、こいし様のお客さんですね! 今いないので代わりにさとり様でもいいですか?」
代わりに、って一体どういう理屈なんだ。おっといけない、つい顔を引き攣らせてしまった。私は軽く咳ばらいをし、とりあえず妖怪の意見に賛同した。
茶屋で少年の話を聞いて新たに分かったことがいくつかある。
その一、こいしちゃんの本名は古明地こいしであるということ。その二、彼女には地底を治める姉がいるということ。そして最後に、彼女が人間ではないということ。
少年もこいしちゃんと思い出をともにし、あまつさえ私より彼女のことに詳しいことで嫉妬の煙が心の中に充満したことを感じた私は、煙に何かが引火しないうちにその話を切り上げてしまった。
少年を半ば強制的に家まで送り届けた後は、迷わなかった。気が付いたら地底まで来ており、気が付いたらこの地霊殿という洋館まできており、そしてこうしてこいしちゃんの姉であるさとりさんの目の前に座っていた。
「初めまして。古明地さとりといいます。人間のあなたが一体どのような要件で?」
さとりさんはこいしちゃんと似た、幼さの残る顔立ちだが、落ち着いた声色や立ち振る舞いのおかげか彼女のほうがずっと年上に見えた。
「言っていませんでしたが、私は覚り妖怪なのであなたの心を読むことが出来ます。そして私の年齢はあなたよりずっと上です。もちろんこいしもです」
心が読めるとは、なるほど驚いた。こいしちゃんを除けば人生で初めて邂逅する妖怪の力に私は少しばかり畏怖の念を感じた。
「なるほど、こいしに会いに来たと。幼少期にこいしと遊んでくれていたみたいですね。その思い出が忘れられないみたいですね。親に勘当されてまで探すその胆力はいやはや凄いですね。あ、両親との縁は戻ってるんですね。ふむふむ、あなたがそれなりの財産を手にしたことで復縁を願い出てきたと。……あなた、よく復縁を快諾しましたね。人間のほうが妖怪なんかよりよっぽど恐ろしいじゃありませんか。おっと、話がそれてしまいましたね。お空、――先ほどあなたをここまで案内した妖怪ですが、彼女も申し上げたかもしれませんが、こいしはこちらにはおりません」
さとりさんは私が口を開く間も与えずに、まくしたてるように会話を進める。もはや会話と呼べるかはいささか疑問ではあるが。
確かにこれはこれで楽でいいが、本筋と関係ないところまで読まれるのは、少し不気味なものだな。私にやましいところがなくてよかった。清廉潔白に生きてきた甲斐があったというものだ。
「清廉潔白、なかなかの自己評価ですね。冗談であることを祈るばかりです。それに、……そうですね。確かにこれでは会話とは呼べませんが、しかし私も長くこれで生きてきたものですので、少しばかり目をつぶっていただけると助かります」
第三の目で心を読む妖怪が「目をつぶって」とは中々に面白い冗談だ。そういえば、姉であるさとりさんはこうして心を読んでいるが、こいしちゃんにもできるのだろうか。彼女が心を読んだ、ないしそれに近いようなことをした記憶がないのだが。
「こいしは私と同じ覚り妖怪ではありますが、彼女に人の心を読む力はありません。その代償として、彼女は無意識の力を手に入れました。これは推測ですが、彼女があなたの前から消えたのではなく、あなたのほうが彼女のことを認識できなくなったのでしょう」
「っ! 認識できなくなったとはどういうことですか⁈」
私は思わず身を乗り出してしまった。彼女はそんな私の熱など知らんかのように落ち着いて紅茶を一口飲んだ。
「言葉の通りです。彼女は無意識の存在なのです。誰も彼女を認識せず、彼女も彼女を自覚しない。自己と他者の境があいまいである子供は、彼女を認識が出来ることがそれなりに多いようですが、やがて見えなくなり、記憶からも消えてしまいます。まるで最初から存在しなかったかのように。つまるところ、大人になったあなたは二度とこいしには会えません」
私はさとりさんの言葉の勢いに少し飲まれかけた。それに反論しようと口を開きかけたが、それは叶わなかった。
「ええ、確かにあなたはあの子のことを覚えているようですが、まぁそういうこともあります。そこに特別な意味なんて存在しないでしょう。さながら元気な座敷童だとでも思っていていてください」
しばらくの沈黙。彼女は目を閉じて再び紅茶に口をつける。自分から話すことはもうない、ということを暗に示しているのだろうか。
しかしである。彼女の言うことが真実だとしたら、それはとっても残酷なことなのではないだろうか。
「あの子に同情しているのでしょうか? 」
私は口を開かない。しかし、さとりさんは最初から返事なんて期待していなかったようだ。
「無駄なことですね。先ほども言った通り、こいしは自分にすら無意識です。存在に執着などありません。忘れられたとしても次の瞬間には何事もなかったかのように、別のおもちゃを探すに違いありません」
それに、とさとりさんはつづけた。
「あの子は、本質的に狂っています。狂気に支配されています。とても無意識というだけでは説明のつかない闇を抱えて生きています。そんな妖怪に対して、あなたは何を望むのですか?」
抑揚の小さいその声色から彼女の感情を読み取ることは容易ではないが、どこか怒りのような薄暗い感情がそこに渦巻いているような気がした。もしくは、そうあってほしいという私の願望から、そうとらえただけだろうか。
「さとりさん、あなたは、心を操れるんですよね」
「? ええ、まあ、そう言って言えなくはないですね」
さとりさんは眉をひそめた。初めて表情を崩せたことに、私はわずかばかりの喜びを感じた。
「こいしちゃんにもう会えないのは分かりました。彼女が狂気の存在だということもわかりました。そのうえでのお願いです」
私は一息置いて、さとりさんの目をじっと見据えた。
「私も狂気に落としていただけないでしょうか」