=恐怖心の欠如
高揚感。陽気。自信。溌剌。
予想だにしていなかった正の感情が体の隅まで行き届いていくのがわかった。感覚で言ったら酒を飲んでいる状態に近いかもしれない。違うのは、意識がはっきりとしており、むしろ感覚が研ぎ澄まされているという点だろうか。
自分でも認識していなかった心の中の霧が晴れ、視野がぐっと広くなったような気がした。
自分の能力が上がったわけではない。それは自覚している。
だが今なら何でもできる気がする。
これが、狂気。
「気分はどうですか? 先ほどまでと何か変わったような感じはしますか?」
さとりさんの声で思考が現実に引き戻された。変わった点など言うまでもない。存在そのものが生まれ変わったといえるだろう。
「最高です! 全能感さえあります! 今までできなかったことを試したくてたまらないです!」
直接読み取ってもらったほうがはるかに理解できるだろう。それでも私はあえて言葉にした。話すことで、より自覚できると考えたからだ。
「そう、それはよかったですね。用も済んだようですので、私はこれで失礼いたします。地底だと時間がわかりにくいですが、じきに日も暮れるでしょう。夜になる前に地底から出ることをオススメします」
「ありがとうございました! それでは私はこれで失礼します」
私はさとりさんに謝意を述べ、地霊殿を後にした。
行くところは既に決めている。決めたのはつい先ほどだが。これから妖怪の山へ行く。理由は単純明快。行ってみたいと思っていたからだ。
この世界に生まれてそれなり時間も経過し、かなりの場所に足を運んだが、いまだに尋ねたことのない場所の一つが妖怪の山だ。
こいしちゃんと二人で無縁塚に行った時も、かなり怖かったが同時にとても面白かった。今まで自分が身を置いてきた世界の外側に足を踏み入れた感じがたまらなく好きだった。大人になってからそういう体験をすることがなくなったので、せっかくなので無縁塚と同じく危険な妖怪の山に行ってみようという算段である。
それに茶屋で話した少年曰く、こいしちゃんは妖怪の山にいるかもしれない。
これでこいしちゃんも見つかれば一石二鳥一挙両得だ。
私は地底の出入り口へ続く大通りを意気揚々と闊歩する。
往路では気が付かなかったが、普通に歩いていると、意外と妖怪たちに見向きもされないものだ。びくついていたのが馬鹿らしくなってくるほどだ。
そうこうしていると、歓声か怒号か、とにかく多くの声が私の耳に届いた。私の歩く大通りの少し先で幾人もの妖怪たちが集まっていた。もしやまだあの喧嘩は続いているのだろうか。来るときに見た時でさえ、血を血で洗う死闘をしていたのに、今ではもう洗う血すら残っていないのではないか。
横を通り過ぎる時に人垣のスキマからちらりと喧嘩をのぞいてみる。ちょうどろくろ首が相手の腕の腱を引きずり出し、やすり掛けをしているところだった。相手はつぶれた喉で悲痛な叫びをあげており、その様子はチェロ奏者にも見えて私は少し笑ってしまった。
私はそんなことを考えながら、露店に並んでいた小さなまんじゅうを一つくすね、一口でそれを飲み、その場を後にした。
「おい、お前。いまうちの饅頭を盗んだだろ」
喧騒から少し歩いたあたりで何者かに肩を掴まれた。その力に従うように振り返ると、手が何本もある人型の妖怪が怒りの形相を浮かべて立っていた。
こいつの正体は考えるまでもない。今しがた盗んだ饅頭を売っていた店の店主だ。それなりに人通りも多く、店主も見ていなかったためばれないと踏んだがどうやらそう甘くはいかないようだ。
「なんのことですか? わたしは何も知りませんが」
勝算はないがとりあえずとぼけてみることにしよう。わざわざ盗みを認めるのもバカらしいというものだ。
「しらばっくれるな。お前が通りすぎた後で、陳列から何個も饅頭がなくなってるんだよ! お前じゃないっていうならだれがやったって言うんだ!」
なるほど、これは意外と押し切れるかもしれない。店主の口ぶりから察するにどうやら私が盗んだ場面を直接は見ていないようだ。幸い饅頭は既に胃の中で、一口サイズだったため口周りも汚れていない。手は少し汚れていたかもしれないが、最初に振り返る際にこっそり店主の前掛けで拭かせてもらった。それに、何個かということは下手人は私だけではないようだ。
「そんなこと言われても、私は何も知らないので。お力になれず、申し訳ない。それに今こうしている間にも、店先の饅頭が盗まれてるかもしれませんよ?」
おっと、少し煽っているようになってしまっただろうか。できる限りまろやかな声色で言ったため、そこまで挑発じみたようには聞こえていないと思うのだが、そう取られてしまったら、まあしょうがない。その時は走力にすべてを賭けてみよう。
「こいつ、どの口が……!」
数も大きさも人間の倍以上ある店主の拳がこれでもかというほど握られている。ああ、まずいな、まだ準備体操をしていないのに。
しかし振り上げた彼の拳が私に振るわれることはなかった。
「やめねえか!」
私たちがいる場所のすぐ脇にある建物から私たちを貫いた雄叫びが、店主の動きを停止させた。
のそのそと奥から出てきたのは、赤い角とはだけた着物が特徴の、色々と大きなお姉さんだった。
「勇儀さん……。どうして止めるんですか」
勇儀と呼ばれた女性に、店主が委縮しているのがわかる。私は妖怪の専門家ではないので確証はないが、彼女はおそらく鬼だろう。地底という荒くれものの巣窟においては力が絶対だ。そんな世界でここまでの威圧感を発揮できるということはかなりの大妖怪なのだろし、それに、立派な角もある。そういった理由から私はそう推察した。
「別にアレみたいに普通の喧嘩だったらどうってことないけどさ。でもそうじゃねぇんだろう? 聞けば、饅頭を盗んだとか盗んでないとか」
勇儀は親指で例の喧嘩を指さしながらそう言った。
「そうなんですよ、勇儀さん! こいつ、うちの饅頭を盗んだってのに、しらばっくれやがって」
「んで、そんだけ言うってことはてめぇは盗んだところをはっきりとみたんだよな? これだけ身なりのいい兄ちゃんが饅頭盗むってのは、私にはどうにも考えられねぇんだが」
勇儀の威圧感に店主が思わず唾を飲み込んだのがわかった。妖怪も緊張すると唾を飲み込んだりするんだな。少し勉強になった。
「いや、はっきりとは……。でも、他の奴らはみんな喧嘩に夢中だったし、どう考えてもこいつだろうよ!」
「だってよ、兄ちゃん。こいつはこう言ってるけど、盗んだのかい?」
勇儀が私の目を見つめる。さとりさんとはまた違った意味で、心を見られているようだ。とにかく私の言うことはただ一つだけだ。そう思い口を開きかけたが、声が出る前に勇儀が続けて話しだした。
「あっと、言い忘れてたが、私は嘘が嫌いなんだ。もしあんたが嘘をつこうって言うなら、そん時は、分かってるだろうな?」
なるほど、ただならぬ威圧感だ。店主が唾を飲み込むわけだ。生半可な気持ちで彼女の前に立とうものなら、そいつが有罪だろうが無罪だろうが老若男女問わずちびり倒しているだろう。もちろん、正常な精神の持ち主は、ならの話だが。
「盗んでないです。そもそもお饅頭をあまり好んでいないものでして」
私は何事もなかったかのように、まるで今日の天気を答えるかのような気楽さで勇儀に返事をした。香辛料がてら、全く必要のない嘘まで添えて。
私の落ち着きに面食らったのか、彼女は目を見開いた後、からからと笑いだした。
「なるほど、肝の据わった兄ちゃんだな。おい、こいつは盗みなんてしてねえよ。誰でもないなら、大方、古明地んとこの妹さんの仕業だろ。許してやりな」
どうやら私は無罪放免のようだ。要らぬところでこいしちゃんの罪が一つ増えてしまったが、私は10年も放っておかれたのだ。少しくらいは許してほしい。
それに、ここで疑われるってことは、こいしちゃんも日常的にこういうことをやっているのかもしれない。そう考えると、私の心にぞくぞくと何とも言えない多幸感が湧き出した。
店主は納得のいかないのだろうか、渋々といった調子で店へと戻っていった。大きめの舌打ちを残したが勇儀がじろりとにらみつけると、しっぽを巻いてそそくさと言ってしまった。
「助けていただいてありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
「別に助けたわけじゃないさ。無罪でボコられるのはいささか不憫ってもんだろ? それよりこの後は暇か? 面白いやつに会えたんだ。せっかくだし、少し飲もうぜ」
どうやら私は勇儀に気に入られたようだ。人生で初めて、それも大妖怪に気に入ってもらえたのはかなり嬉しい。しかし、私には行かねばならないところがある。
「すみません、ちょっとこの後用事があるので、今日は失礼します。滅多にこないですが、また地底に来たときは勇儀さんのところに寄りますね」
「お、言ったな。絶対だからな。約束は守れよ」
「もちろんです。それでは、またいつか会いましょう」
そうして、無事に地底から出ることに成功した私は、そのまま妖怪の山まで向かった。
そして、二度と会わないであろう一人の鬼に、私は心の中で手を振った。