=冷淡さ
勇儀と別れ、地底の入り口付近で土蜘蛛や釣瓶落としに挨拶をした私は、その足で妖怪の山まで入山していた。
空を見上げると橙と藍のコントラストが良く映えていることがわかる。じきに日も沈む。何気なく見上げた空だったが、この時間帯の空はこんなにも美しかっただろうか。感覚が鋭敏になっている影響かもしれない。そう自覚すると、時間とともにあたりの気温が少しずつ下がっていくことまでわかる気がした。
背後で何か物音がしたような気がしたが振り返ってみるとそこには何もない。必要以上に鋭敏になっている感覚を少し落ち着けるために、軽く伸びをした。
そんな時、遠くから女性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。
今度は聞き間違いではない。あまりに遠い場所から聞こえるのか、静かな森に反響して音の出所がいまいちつかめない。
位置を探っているうちに悲鳴は止んでしまった。特に興味を持たなかった私はそれ以上悲鳴について考えるのはやめて、再び足を動かした。
しかし、十歩も歩かないうちに、再び悲鳴が聞こえてきた。しかも今度は地面を揺らすような低いうなり声もセットで、だ。
先ほどよりこちらに近づいているからか、声のする方角をなんとなく掴むことができた私は先ほどとは打って変わって、そちらに向かって駆けだした。妖怪がいるなら話は別だ。せっかく普段の生活ではめったに出会えない山の妖怪を拝める機会、それを逃す手立ては私にはなかった。
私は徐々に気配を消して近づいた。そこにいたのは、まだ若い女性と小さな家くらいはある鮟鱇に手足が生えたような妖怪だった。女性は腰を抜かしているのか、地面に尻を付けて何とか後退りをしており、妖怪は十はある目玉すべてで女性を捉え、そのままゆっくりと追いつめていた。
そういえば妖怪が人間を食べるところを見たことがないな。はてさて、どうしたものか。
この後の行動の選択肢を頭の中に列挙して思案していると、妖怪が唐突にこちらに振り返った。しまった、気づかれてしまったか。特に物音を立てたわけでもないが、そこは流石妖怪といったところだろう。
私は、無造作に砂や石を掴み、妖怪に向かって勢いよく投げた。それに驚いた妖怪は呻きながら少しばかり後退した。顔を左右に激しく振って苦しんでいることから石か砂が狙い通りに目に入ったのだろう。
「逃げますよ」
倒れていた女性の腕をつかみ無理やり立ち上がらせると、一目散にその場から逃げ出した。女性は目まぐるしい状況の変化に脳がついていっていないのか、いまだ言葉を発さず、ただただ駆けている。
ふと後ろを振り向くと、先ほどの妖怪が怒り心頭に怒涛の勢いで追いかけてきていた。妖怪がひるんでいる隙にあけた距離がみるみる縮まっているのがわかる。
あの見た目でその速さは卑怯ではないか?
絶対足の遅い妖怪だと思ったのだが。
それに女の脚が遅すぎる。
このままでは追い付かれることは必至。ここでの選択肢は三つ。諦めて食われるか、女性を見捨てて自分だけ逃げるか、妖怪を撃退するかだ。さてどれにしようかと、走りながら必死で頭を回した。
妖怪の射程圏内にまで近づかれた私は、走りながらその辺の枝を折り、意を決して妖怪の目にそれを突き刺した。
妖怪が今までの比ではないくらいの咆哮をあげる。苦しみからか、足を止めその辺に木々に向かって頭をぶつけていた。よく見ると血を流しているのがわかった。妖怪の血も赤いんだな、いや、種類によるのだろうか。
ともかく妖怪の撃退には成功したようだ。女の犠牲を払わずに済ませた自分を褒めてやりたいくらいだ。もう少し追い付かれていたら、迷うことなく女を置いていってた。
またいつ追い付かれるか分かったものではないので、私と女はそこからしばらく足を止めなかった。