=衝動的不服従
私は件の妖怪を完全に撒いたが、未だに走り続けている。理由は単純明快。助けたはずの女性に追いかけまわされているのだ。彼女もまた妖怪だったのだ。
共謀して私を捉えようとしていたのか、それともあの鮟鱇の妖怪を食べるために一芝居打っていたのか、そんなことは今の私にはわからない。一つだけわかることは、あの女性もとい妖怪は私に敵意を向けているということだ。
「待てゴルァ!」
どうやらこいつは言葉を話すことが出来るようだ。だがその女性のような見た目に反して声は大男のように低い。今まで話さなかったのは声の低さを隠すためか。最初に聞こえた悲鳴は普通に高い声だったのに、つくづく妖怪というのやよくわからないものだ。
「おい! 無視してんじゃねぇぞ!」
妖怪が走りながらしきりに怒鳴りつけてくる。無視しているのではなく、余裕がないだけだ。こっちは二匹連続で人外と鬼ごっこしてるんだぞ。察してくれ。
そのまま走っていると目の前に浅い川があった。ここはそれなりに上流部分に位置しているため、あたりには大きめの石や岩がゴロゴロ転がっている。
一瞬石で攻撃しようかとも考えたが、変に怒りを買っても仕方ないと思い、川の表面に出ていた石に飛び移り、濡れることなく川を渡った。
「おい、ずりぃぞ! 戻ってこいや!」
ずるい、とはどういうことだろうと妖怪の声に疑問を抱き振り向くと、そいつは川の手前で立ち尽くしていた。もしや水が苦手なのだろうか。思い切って本人に聞いてみることにした。
「水が苦手なんですか?」
「バカにすんな! 怖くねぇよ! ただ水を渡れないだけだ!」
素直に答えてくれた。バカなのだろう。
しかしなるほど、これはラッキーだった。嘘をついている可能性も否めないが、口ぶりがバカっぽいし、そこは問題ないだろう。にしても、水を渡れないとは不思議だな。そういう妖怪なのだろうか?
川幅は私二人分の背丈くらいだ。これくらいなら今からやろうとしていることも問題ないだろうと思い、私は川を渡るときに通った石の道を一個ずつ戻ることにした。
「お、わざわざこっちに戻ってきてくれるなんて殊勝な心掛けだな。褒めてやるぜ」
難しい言葉を知っているのだな、と私は少し感心をしてしまった。しかし、私は食われるためにむざむざと戻ったわけではない。
「おい、来るならこっちまで渡り切れよ。なんでそんな微妙な位置で止まるんだよ」
私はあと数歩で川を渡り切れる位置で止まった。理由は単純。この妖怪が本当に川を渡れないのか確かめるためである。
妖怪の性質として渡れないのであれば、一歩川に入れば届くこの位置でさえ安全圏だろう。しかし、ただ苦手なだけなら多少の無理を通して捕まえに来るだろう。
別にこんなことをわざわざする必要はない。たいそうな理由も別にない。ただ単にやってみたかったからやっただけだ。
「本当に渡れないんですね。変なの」
「うるせぇ! おい、この、水を掛けるんじゃねぇ、マジで殺すぞ!」
私は観察結果を端的に述べた。ついでに川の水を手で掬って妖怪に掛けてみたりもした。が、ただ嫌がるだけであった。どうやら苦手なのは川であって水ではないらしい。私はその結果に満足して、川岸まで戻り、そのまま歩いて去っていく。
後ろから妖怪の罵詈雑言が聞こえてくるが、妖怪の語彙が尽きたあたりで私は思わず吹き出してしまった。
私は多少背後に警戒はしつつも、それなりの安心感を持って歩いていた。しかし、イベントは次から次へと起こるというのが世の常なようだ。
「いやー、面白いものを見させていただきました! 最近の人間は見ていて飽きないですね」
唐突に上空から聞こえてきた声に、私は肩をびくつかせて驚いてしまった。声の方を見ようとした瞬間、目の前に一人の女性が着地した。
肩にかかる程度のきれいな黒髪に、赤い瞳、そして頭には山伏風の小さな帽子がちょこんと乗っていた。
新たな妖怪の出現に少し身構えるが、敵意が感じられないので、とりあえず逃げずにその場にとどまることにする。もちろん、すぐさま走り出せるように腰だけは少し落としておく。
「ふむ、一目散に逃げないのも好印象ですね。おっと、申し遅れました。私、しがないブン屋をしております射命丸文というものです。気軽に文と呼んでください。あなたの立ち回り拝見させていただきましたよ! よもや川を利用しておちょくるなんて、見ていて腹を抱えて笑ってしまいました! 抱腹絶倒です!」
「はぁ」
文の勢いある気迫に思わず曖昧な返事をしてしまったが、どうやら争うつもりはないようだ。まだ油断はできないが、妖怪の山にも友好的なやつがいることに少し驚いた。
「それでですね。せっかくですから、少し取材させていただけないでしょうか? なに、一言二言で大丈夫ですよ。怖くないですよ。あ、そろそろいい時間ですし、一杯やりながらにしましょうか。この辺にいい屋台あるんですよ。それじゃいきましょうか」
さとりさんとはまた違った意味で人の話を聞かない妖怪だな。それに呑みながらだったら絶対に一言二言で終わらないだろう。
だが、妖怪と酒を交わすなんて、そうそうできない体験だ。妖怪の山を探索するという目的はまだ達せていないが、これもその一環といえるだろう。せっかくだし同行させていただくことにしようか。
了承の言葉を出そうとしたときに、私はあることに気が付いた
「そういえば、ブン屋って言ってましたよね?」
「ええ、文々。新聞という個人新聞を発行してますが、それが何か?」
「ちょっと会いたい人がいまして。いえ、それでしたら仕事柄結構顔も広く、いろんな人のことを知っているかと思いまして」
「確かに幻想郷に住む人妖の中で私ほど顔の広い人はいないでしょう。お話聞かせていただけましたら、お礼代わりに最大限協力させていただきましょう。ちなみになんて方ですか?」
「古明地こいしさんです」