=責任の外在化
何かの音が耳に届き、それをきっかけに私は目を覚ました。
最初は脳が覚醒しておらず、音の正体やそもそも何か聞こえているということさえ認識できていなかったが、時間経過とともにそれが小鳥の鳴き声であることがわかった。
私は異様に重たい体をゆっくりと起こし、胡坐をかいて頭を抑えた。夏にしては涼し気な風が髪を撫で付け、さわやかな日の光が私を照らした。
徐々に状況を把握してきた私の口から思わず言葉が漏れ出た。
「飲みすぎた……」
ゆっくり辺りを見回す。そこは依然妖怪の山で、これと言った建物も何もない。昨日の屋台さえ既にきれいさっぱり消えていた。周りにあるものと言えば、大量の酒瓶と打ち捨てられたように眠る文だけだった。
徐々に思い出してきた。昨日、文と出会った後、こいしちゃんの情報という餌に釣られ、そのまま飲みに行ったのだった。自分のことを根掘り葉掘り聞かれたのち、こいしちゃんのことを尋ねると、
「すみませぇん、こいしさんは根無し草に近いので、連れていくのは難しいです。あ、でもでも、昨日妖怪の山で見かけて、家に帰るって言ってましたよ。まだそのあたりにいるかもですねー」
その言葉を聞いて私は探しに行こうとしたが、「もう夜遅いから」だとか「私の酒は飲めないのか」だとか色々と丸め込まれてしまい、結局つぶれるまで飲まされてしまったのだ。
にしても、酒瓶の量が尋常じゃないな。20本以上ないか?
文が店主に「このお酒は私のものですよ! いくら空き瓶と言えど下げさせません!」とか意味の分からないことを言って、空けた瓶を片っ端から抱えていたのは覚えている。
そして私も柄にもなく飲みすぎてしまったのも、なんとなく覚えている。勇儀にしろ、文にしろ、昨日妖怪たちに気に入ってもらえたのが大きいだろう。それで舞い上がってしまったに違いない。飲みすぎたといっても、ここに散らばっているほとんど文は空けたのだろう。流石は天狗。人間の酒豪なんて比にならないくらい飲むのだな。
でも、ここまで飲んでたかな? もう一人くらいいないとありえない量だろ。
「ん~、むにゃむにゃ……」
文が瓶を抱えながら寝言を話している。本当にむにゃむにゃという人を私は初めて見て、それが少しばかりおかしかった。人ではなく妖怪だが。
昨日はあまり意識していなかったが、眠っている文はなんというか、とても艶めかしいように思える。すらりと細い脚に、出るところは出た女性らしい体つき、きめ細かな肌など、今まで見たどの女性よりも素敵に思えた。
少し近づいていたずらでもしようか、などと魔のさした思考をしている私は、あることを思い出し、全身から血の気が引いていくのを感じた
「狂気は一日限り……。夜が明けたら元の状態に戻っている……」
昨日のさとりさんの言葉が頭の中で反響している。
空は突き抜けたように明るく、そして青い。夜が明けているのは明白だった。
一度意識したら、止まらなかった。冷汗は止まらず、呼吸も浅く早くなっていった。
今私がいるのは、多くの危険が潜む妖怪の山。すぐそばには大妖怪である天狗。そして昨日、もう一人の大妖怪である鬼の勇儀に対して嘘をついたこと。そのすべてが頭の中を駆け巡った。
とにかく、早いことここを去らないと。私は震える足を殴りつけ、ゆっくりと立ち上がり、妖怪の山を後にした。
ゆっくり、時間をかけて妖怪の山を抜けた私が向かったのは再びの地霊殿だった。地底に入る頃にはすでに空も赤みがかっており、今ではおそらく夜になっているだろう。ひどく時間をかけてしまったことを後悔した。
なぜ普通の状態に戻った私がここまで戻ってきたかというと、それはこいしちゃんに会うためだ。文が言うには昨日の時点で妖怪の山を立ち、地霊殿に戻ったらしい。
何度も行き違いを重ね、ようやくこいしちゃんに近づいたのだ。ここを逃せば二度と会うことは叶わないだろう。さとりさんは私はこいしちゃんに会うことはできないと言っていたが、それはまだわからない。彼女の記憶が大人になっても残り続けている私なら、彼女を認識し、会うこともできるかもしれない。
勇儀や昨日の店主始め、危険な妖怪に合わないよう必要以上に注意を払ってようやく地霊殿にたどり着いた私は、ノックもせずに足を踏み入れた。
玄関のすぐ正面には私が来るのを待ち構えていたかのようにさとりさんがいた。最初に来たときにはなかった安楽椅子に座り、何やら分厚い本を読んでいた。私の存在に気が付くと、本を閉じ、ちょこちょこと私のほうに近づいてきた。
「遅かったですね。もっと早く戻ってくるかと思っていたのですが」
相変わらず感情の読みにくい平坦な声色で話すさとりさん。その発言から察するに私がここに戻ってくることは読めていたようだ。心だけでなく未来でも見えるのだろうか。
「私にそんなたいそうな能力はありませんよ。あなたが戻ってくると思ったのは、そうですね、ただ、何となくです。今日来なかったら今後一生来ないだろうとは思っていましたが」
さとりさんはそういうと、私の頭からつま先に向けてまで一通り目を動かした。そんなけったいな格好はしていないと思うのだが。
「最初にここへ来た時とも、そしてここを出たとき時ともずいぶんと様が変わりましたね。狂気を得た感想はいかがでしょうか」
「……ひどい目にあいましたよ。文字通り、見たらわかるでしょう」
「ひどいと自覚しているのですね。それは僥倖です」
私の嫌味に対してなんてことないように嫌味で返すさとりさん。心のプロフェッショナルにこんなものは通用しないようだ。
思わず口をついたものはさておき、私にはまず聞かなくてはいけないことがあった。
「こいしちゃんは、どこにいますか?」
「さぁ、私にはわかりません。それに、今質問しているのは私です」
絶望。私は思わず膝から崩れ落ちてしまった。命からがらここまでやってきたのに、これでは全くの無駄足ではないか。結局、私はもう二度と、あの子に会うことは叶わないのだろうか。
こいしちゃんに憧れて、こいしちゃんのようになりたくて、少しでも気持ちをわかりたくて、そんな気持ちで今まで生きてきたが、それがすべて否定されたかのようだった。
私の頭の中に、こいしちゃんとの思い出がフラッシュバックした。もしかしたら、私もあの子のことを忘れてしまうかもしれない。最後にせめて、一目だけでも逢いたかった。あの子の狂気の片鱗に触れて、共感したかった。
「……狂気に身を任せている間は、いい気分でした。とても活力にあふれ、なんでも楽しめました。鬼や天狗にさえ気に入ってもらえる、とても魅力的な存在になっていたと思います」
私はその時のことを思い出し、今の気持ちを素直に告げた。
「ですが、同時にとても恐ろしい状態でした。いつ死んでもおかしくなかった。死のすぐそばで、ギリギリの綱渡りをしてしました。利己的で、危険を進んで冒し、普段なら目を覆いたくなるような悲惨な出来事に人ごとのように笑い、そして、ひどく衝動的でした」
「なるほど。貴重な意見ありがとうございます。それで、当初の目的は達成できましたか?」
当初の目的。こいしちゃんに対する理解と共感、そして自分自身がそうなりたいという欲求の解消。
正直に言うと、サイコパスでいる間、これらのことはほとんど忘れていたと言っていい。ただ単に、その時自分がしてみたかったことを純粋にしていただけだ。正気の時の願望など、狂気の前では全くの無意味だったのだ。
正気である自分が心にいる以上、狂気は重荷でしかない。そしておそらく狂気にとっても正気であることはひどくストレスのかかることである。
結局、私はどこまで行っても普通の人間なのだ。私が正気の人間である限り、そこから抜け出すことは一生叶わないだろう。
そして、そのどちらがいいのかなんてことは、今の私にとっては簡単すぎる問だった。
「そうですか。あなたの願いをかなえてあげられなくて残念です。では今度こそさようならでしょうか。二度とあなたと会うことはないでしょう」
「はい、ありがとうございました。私には行くところがありますので、これで失礼します。それではさようなら」