双夜譚 月姫   作:ナスの森

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上弦

 とある山奥の地。

 人里から離れ、世俗からは隔絶された空間の中で、二人の少年少女が見つめ合っていた。

 黒い外套を身に纏った銀髪の少女と、紅い着流しを着こなす黒髪の少年。

 このような辺境の国の山奥において、こんなにも出で立ちの違う者同士が出会うという光景は見る者によっては摩訶不思議に映る。

 だがそれは些細な事。

 今こうして二人は出会い、言葉を交わしている事こそが純然たる事実であった。

 

「……シキ?」

「うん! 僕の名前! 君の名前はなんて言うの?」

 

 突然名乗られて戸惑う少女に、少年は笑顔で少女に名前を聞く。

 

「……■■よ。それが私の名前……」

 

 戸惑いながら、少女は自分の名前を名乗った。

 対して好きでもない名前だった。ただ己を指し示すだけの記号に過ぎないものの筈だった。

 

「ふーん……何か綺麗な名前だね!」

「ッ!! そ、そう……あ、ありがとう……」

 

 初めてそんな事を言われた少女は頬を赤らめ、顔を俯かせた。

 ……この気持ちは、一体何なのだろうか?

 ……この子に、もっと私の名前を呼んで欲しいと、そう思えてくるのは何故だろうか?

 それは少女には未だに理解できない感情。幼き無垢な少女には決して理解しえない感情だった。

 

「……どうしたの? 何処か具合でも悪いの?」

「な、何でもない! それで、で、貴方の名前はなんて言うの!?」

 

 心配して此方の顔を覗き込んでくる少年。

 自分と少年の顔の距離が近くなっている事に気付いた少女は恥ずかしくなって慌てつつも、名前を聞き返した。

 名前そのものは、もう聞いている。

 それでも、少女は少年の名前を頭に刻みつけたかった。

 自分で聞いて、自分で呼びたかった。

 

「う、うん。僕の名前は……」

 

 少年の瞳が、少女の顔を真っ直ぐと見つめる。

 蒼い瞳だった。透き通るような、蒼い虹彩の眼だった。冷たい光すらも通さない暗い森の中において、その煌めきは一層引き立っていた。

 ――――キレイ……。

 知らずの内に、少女はそう呟いていた。

 

 一巡してから、少年は少女に名乗った。

 

「七夜……七夜志貴……」

 

 懐かしい夢だった。

 それは幼い頃、■■という少女が七夜志貴という少年が出会い、短い時間を共に過ごしただけの、暖かい思い出だった。

 

 パチリ、と視界がいつもの日常に戻った。

 紅い吸血鬼の館である紅魔館のメイド長こと十六夜咲夜は、自分が椅子に座ったまま眠っていた事に気が付く。ここの所働き詰めだったのか、暇の時間を見てホールに設置されたソファーにて疲れを癒やしていたのだ。

 眠気ではっきりしない意識の中で、咲夜は背もたれに預けた上体をゆっくりと起こし、館の窓の外を見つめる。

 窓の外には上弦になる一歩手前の月が浮かび上がっていた。

 

「……懐かしい夢を見たものね」

 

 あの少年、七夜志貴と出会ったときもあのような月が浮かんでいた事を思い出し、咲夜は独りごちた。

 十六夜咲夜という人間はあまり夢を見ない。というより、昔を思い出すこと自体彼女にとっては稀である。十六夜咲夜という人間の時間は、十六夜咲夜という名前を持った瞬間に始まっており、それ以前の記憶など彼女にとっては忘れ去られるべき過去に等しい。

 それでも、一つだけ、忘れられない事があった。

 ずっと思い出の中にしまっていた記憶、それをあろう事か十六夜咲夜になってから見ることになるとは、彼女自身も思いもしなかった。

 

「……これのせいかしら?」

 

 言って、咲夜はメイド服の胸ポケットから棒状のナニカを取り出す。

 頑丈な鉄で出来ているであろう平べったいソレには、彫刻で『七夜』と掘られていた。

 咲夜はその鉄の棒を暫し見つめた後、指でその鉄の棒を弄る。その途端。

 パチン、という音を立てて、鉄の棒から片刃の刀身が飛び出してきた。鉄の棒は、飛び出し式ナイフと呼ばれるものだった。

 月明かりに照らされた刀身はその鏡面に咲夜の顔を映し出す。

 

「……何て、未練がましい顔」

 

 柄に『七夜』と掘られた飛び出し式ナイフ――咲夜は七つ夜と呼んでいる――の刀身に映った己の顔を見つめ、自虐の言葉を捻り出す咲夜。

 あの日、少年から形見として貰った七つ夜。

 自室のタンスの奥に大事に保管してあった筈なのだが、寝ぼけて持ち歩いてしまったか。

 

「志貴の方は、大切にしてくれているかしら?」

 

 咲夜は七つ夜とはまた別のナイフを思い浮かべる。

 七つ夜と同じ大きさくらいの飛び出し式ナイフ。

 あの日、形見としてこの七つ夜を咲夜がもらったように、咲夜もまた自分のナイフをあの少年に形見として預けた。

 渡したナイフそのものに愛着はなかったのだが、七つ夜を渡された時、自分もなにか彼に渡したいと思い、自分が持っていた中でかなり上物のナイフを渡した記憶がある。

 

 お互い、また会える事を信じての物々交換だったわけなのだが、未だに約束は果たされていない。というよりも。

 

「あれから10年以上も立った。お互い死んでいるか生きているかも分からないし、そもそも私はお嬢様たちと共に幻想となった。

 約束が果たされる事はもうないのでしょうね、志貴」

 

 刀身が飛び出た七つ夜を暫く片手で弄りつつ、まあ所詮子供同士の約束だと思い直して咲夜は立ち上がる。

 久々に懐かしい夢が見られた事だ。今宵くらいはこれを持ち歩いて仕事をするのもいいだろう。そう考えた咲夜は七つ夜の刃をしまい、懐に忍ばせて敬愛する自らの主の下へ向かうのであった。

 

「……それにしても、お互い初めて相手に贈った物がそろって刃物だなんて、我ながらズレた子供時代だったわね。私も、志貴も」

 

 途中、紅い廊下を歩きながら呟く咲夜。

 せめてお互いもう少しましな贈り物を考えられなかったのかしら、と内心でため息を吐くのであった。

 

 

     ◇

 

 

 紅魔館の門の前には一人の少女がいる。

 華人服とチャイナドレスが合わさったかのような淡い緑色の衣装を身に纏い、紅く腰まで髪を伸ばした少女の名前は(ほん) 美鈴(めいりん)と言った。

 一見、ただの人間にしか見えない彼女の種族は妖怪である。……この幻想郷において人の形をした妖怪はさして珍しくはないのだが。

 この屋敷の門番を任されている身である美鈴であるが、実は他の仕事も任されている。詳細は省くが、この紅魔館の門前と庭の掃除が花の世話に関すること諸々は全て彼女の管轄である。

 庭の花壇に咲いた花の世話などを終えた美鈴は門前に戻りたち、一息つく。

 

「白黒魔法使いも、今日は来なさそうね」

 

 久しぶりに平和な夜が過ごせですね、と体の力を抜く美鈴。

 閑散とした空気が広がる夜の紅魔館の門前であるが、美鈴はこの空気は嫌いではなかった。咲夜ほど忙しい訳ではないが、こうした空間に身を落ち着けるというのはいいものだ。

 茶を飲むのもよし。素振りをするのもよし。瞑想するのもよし。

 さて、今宵はどのように過ごそうかと思っていたその瞬間、美鈴は異様な雰囲気を察知した。

 

「……この気配は?」

 

 確実に、()()()()()()()()()()()()

 人間ではない、しかし妖怪でもない。

 そんな気配だった。

 しばらく周囲を警戒する美鈴の前に、一つの人影が姿を現した。

 服装は、少なくともこの幻想郷でよく見られるようなものではない。

 

「……何方かは存じませんが、手合わせの申し込みは、今は受け付けていませんよ?」

 

 念のため、形式として目の前の来客に遠回しな断りを入れる。

 こう見えても、美鈴は人里の人間ともある程度の交友を得ている。妖怪でありながらも人当たりのいい性格をしていることと、自身の能力の低さを補うために武術を嗜む面は非常に人間に近く、その手の人間からの共感を得やすいというのが起因している。

 わざわざ、紅魔館の門前まで来て彼女に手合わせを申し込む物好きもいるくらいだ。

 ……勿論、どう見ても目の前にいるヒトガタはその手の輩でないことは美鈴は分かっている。

 

「……」

 

 ヒトガタはぎこちない動きで美鈴へと襲いかかった。

 そして、その牙を美鈴の首へ突き立てようとして――ヒトガタの体が吹き飛んだ。

 美鈴が振るった掌底がヒトガタを完膚なきまでに粉砕したのだ。

 

「まあ、どう見てもその手の輩ではありませんよね……」

 

 煙の立つ掌底をもう一方の手で払いながら、美鈴は苦笑する。

 ――――せっかく静かな夜を過ごせると思ったのに……。

 結局はこうなってしまうのか、と美鈴は己の不運を嘆いた。

 

 顔を見上げた美鈴の視界には、先ほどと同じような気配を放つヒトガタが複数、それも十数や数十では済まさない数だ。

 見た目はどれも人間に見えるが、『気を操る程度の能力』を持つ美鈴にはソレが人間でない事はひと目でわかった。

 

死者(グール)ですか……」

 

 動く屍、ゾンビ、リビングデット……言い方はいろいろある。

 だが、少なくとも幻想卿ではあまりに見ない類の敵であった。

 はて、と美鈴は顎に手を当てて考える。

 死者たちの格好からして人里のモノたちでない事は確か……となると外来人の死者が流れ込んできたか、それとも人里にたどり着けずに無残に妖怪に食われていった外来人たちのなれの果てか、はたまた誰かの悪戯か。

 

「お嬢様の仕業でしょうか……って、冗談ですよ、冗談!」

 

 今の一言が咲夜や彼女の主人である吸血鬼にでも聞かれたら即自分の首が飛んでしまうと思った美鈴は、途端に血相を変えて誰に向けてでも無い言い訳を付け加える。

 現実逃避を終えた美鈴はため息を一つ吐き、襲いかかる死者達と対峙する。

 

「何処の何方の仕業かは存じませんが、ここは通しませんよっと!」

 

 所詮は知性も理性もない死に損ない共、どれだけ数を束ねようと、美鈴の敵ではない。

 拳を構えて美鈴は、飛びかかってくる死者たちを迎え撃った。

 

 

 

「今日の月も悪くないわね」

 

 従者である咲夜から淹れられた紅茶の入ったティーカップを口から離し、この館の主たるレミリア・スカーレットは窓を見上げて呟いた。

 満月とはほど遠い、未だ弦月にも満たない欠けた月であるが、なんのこともない。十分に眺められる輝きだ、とレミリアは思った。

 

「満月に満たぬ月を物足りぬと感じないのは、お前の淹れてくれた紅茶のおかげだろうな、咲夜」

「お褒めにお預かり光栄です、お嬢様」

 

 咲夜にお嬢様と呼ばれる、この館の主ことレミリア・スカーレットは吸血鬼である。人間でいえば十歳にも満たないような見た目の少女であるが、こう見えて齢500年以上を生きる正真正銘の魔性であった。

 レミリアは吸血鬼の紅い眼で弦月に満たぬ欠けた月を見つめる。

 

「今日は、新月から七日ばかり立っているな」

「満月を拝めるのは、もう少し先になりそうですね」

「なに、吸血鬼にとっては秒にも満たない時間さ」

 

 紅茶はまた一口啜るレミリア。

 再び月を見上げようとして――そしたら、異様な光景が目に映った。

 一瞬、その光景の意味が分からなくなり、レミリアは思わず蝙蝠の翼を広げ、立ち上がった。

 

「お嬢様、如何かなさいましたか?」

「……いや、……」

 

 訝しげに聞く咲夜の言葉に、レミリアは言い淀むだけだった。傍にいる咲夜が動揺していない様子から、この光景はレミリアのみに見えているものらしかった。

 ――――そこには、月が二つあった。

 一つは先ほどまでレミリアと咲夜が一緒に見ていた月。その隣にはレミリアが一番好きな満月が浮かんでいたのだ。

 二つの月は輝いていた。

 まるで最初からそこにあったかのように、共にそこで存在してあるべきかのように、二つの月は寄り添わず、しかし決してお互い離れる事も無く浮かび、夜の闇を照らしていた。

 やがて、レミリアの視界は現実に引き戻される。

 

「……今見えた“運命”は一体……」

 

 レミリア・スカーレットは『運命を操る程度の能力』を持っている。具体的な詳細は知られていないが、とにかくその能力を持つレミリアには、レミリアだけにしか見えないものが見えたのだ。

 ――――先ほどあの月の隣に現れた満月……。

 レミリアは思い出す。

 ――――咲夜がここに来た時の満月に、そっくりだ。

 いやそっくりではない。まさにあの日見た満月そのものだったとレミリアは思い返す。

 

 ならば、自分に今見えているあの月は何だ?

 

 あの日の満月があの月の隣に並ぶ意味とは、一体……?

 

「ふふふ……」

「……お嬢様?」

「咲夜、来客を出迎える準備をしなさい」

「ッ! 畏まりました」

 

 レミリアの意図を図りかねた咲夜であったが、それでも『時を操る程度の能力』を用いてレミリアの傍から姿を消した。

 主の命令は絶対。例えその意図が自分に分からなくとも、それが主の命とあれば実行するのが従者の役目というもの。

 

「……面白くなりそうね。さあ、来なさい。何処の誰だか知らないけれど、来るのでしょう? あの満月の日にここに現れた咲夜のように!」

 

 弦月に満たぬ月を再び見上げ、レミリアは上機嫌そうに笑った。

 何処の誰が来るなどレミリアには分からない。そもそもナニカが来るかどうかも怪しい。

 それでもレミリアは半ば確信めいた笑みで、期待の想いをあの月に乗せた。

 

 

 

 場所は変わって再び紅魔館門前。

 門前には多くの屍が倒れ、砂状の煙となって霧散していく。

 美鈴が放たれる拳、蹴り、虹色の色彩を持つ気の弾幕が死者を瞬く間に殲滅していく。

 

「せぇいっ!」

 

 拳が死者の腹に突き刺さる。その途端、死者の体の内部から爆発にも似た破裂が起こり、内蔵がまき散らされる。

 生理的に嫌悪を抱かせる厭なモノが美鈴の体に付着するが、どの道塵となって消えていくので美鈴にとっては関係なかった。

 とにかく残りの夜を平和に過ごすために美鈴は死者を早めに殲滅せんとしていた。

 

「まったく、数だけは多いですねっと……!」

 

 余裕の表情を浮かべながらも、少しうんざりした様子を見せる美鈴。

 元々人間に対して友好的な妖怪である美鈴は、例え死者といえど人のカタチをした化け物共を蹴散らす事には少々思う所があった。

 それでも美鈴は手を緩めない。

 拳、肘、膝、足。四肢のあらゆる凶器を用いて死者たちをなぎ倒していく。

 

 やがて死者の数も残り僅かとなった。

 最初にここに現れた時の数など最早見る影もない。

 だが死者にそれを知覚する知性はない。故に多くの仲間が屠られても何の躊躇もなく美鈴へ向かっていく。

 しかしその動きは非常にぎこちなく緩慢。美鈴の脅威とはならない。

 

「残り後少し……っ!」

 

 もう少しで終わる、と気合いを入れて残りの死者を迎え撃とうとしたその時。美鈴は思わずその手を止めた。

 止めてしまった。

 

 ――――蠢く死者達の群れに混ざるかのように、ソレはいた。

 

 残り少ない死者の群れの隙間に見えたその影は、まるでそこに存在しているかも疑わしい幽鬼のように佇んでいた。

 

「……あれは……?」

 

 影の正体はよく見えない。

 見たところは黒髪の男に見えたが、それしか分からなかった。

 この幻想卿ではあまり見ない衣類らきしものを着用しており、片手をポケットに入れたまま、もう片方の手を力なくぶら下げて、美鈴の方を見ていた。

 

 死者、ではない。だからと言って妖怪でもない、その気配は紛れもなく――。

 弦月に満たぬ月と、影絵の風景をバックに、その影は亡霊のごとく佇んでいた。

 もし、死者という表現を用いるのであれば、今自分肉薄しかかっている死者達よりも、あの影の方が余程相応しいのでは無いかと、美鈴はそう思った。

 

 そして、影の姿が消えた。

 

「えっ?」

 

 まるで最初からそこにいなかったかのように、突如として消えた。

 一瞬、ただの幻かと思った美鈴であったが、その直後。

 突如として、美鈴の目の前に肉薄していた筈の死者たちの体がバラバラニナッタ。

 

「っ!?」

 

 何分割にも、十何分割にも。

 まるで積み木が崩れ始めるかのように。

 バラバラになった死者の体から、美鈴の視界を塞ぐ程の肉のカーテンが広がる。

 あまりにも突然の事態に頭が追いつかない美鈴は思わず、血しぶきが目に掛からぬように腕で視界を塞いだ。

 その直後。

 

 一瞬、幻視した。

 自分の脳天が串刺しにされてそのまま息絶える。……そんなイメージが、美鈴の脳裏に鮮明と浮かび上がった。

 

「――――っ!!」

 

 それは無意識の反応だった。

 立ち止まる暇など無い、思考する時間など許されない。

 フリムカナケレバシヌ……そんな本能の警告に従うまま、美鈴は背後を向いて腕を振るった。

 まず最初に感じたのは、金属の凶器を弾く感触。

 そこでようやく第三の敵の存在を認めた美鈴は、先に反応した腕に続いて視線を振り向かせるが、下手人の姿は既にない。

 

 瞬間、弧を描いて己の首筋を狙う刃物の軌跡。

 美鈴は死角からの攻撃を受け流し、美鈴は刃物が飛んできた方向に向けて、カウンターの回し蹴りを見舞うが、無駄。

 影は既にそこにはいない。

 空振る己の蹴撃の最中、自分の膝の下ほどまでに重心を低くして躱す影の存在を、美鈴はようやく間近で視認した。

 

 ―――好機!

 

 あまりにも無謀な体勢。美鈴は無様に四肢を地面に落としている影に向けてその頭蓋を踏み砕かんと踵落としを見舞う。

 直後に舞う粉塵。

 人体を潰す手応えは無く、地面を煉瓦を叩き砕いた感触だけが残る。

 

「――――っ!」

 

 美鈴は口を歪める。斧のごとくたたき落とされた踵は標的を見失っていた。奴は、四肢を地面につけたまま状態のまま奇怪な足さばき真横へと移動していた。

 ――――コイツ、あの体勢のまま躱した!?

 先の回し蹴りのカウンターも、影は躱した訳ではない。

 低重心のまま移動してきたのだから、最初から当たる訳がなかったのだと美鈴は悟る。

 奇怪な動き、まるで蜘蛛のようだった。

 

「ならば!」

 

 低重心で移動すると分かったのなら、その上で畳みかけるまで!

 自らも腰を下ろして重心を低くし、地を高速で這いずる影に決死の正拳突きを飛ばす。

 だが、当たらない。影の重心は更に低くなり、頭と胴体が地面とほぼ並行に、ほぼ仰向けの状態の影がある。

 それでも、影のスピードは緩まない。

 

 ――――奇怪な!

 

 そう思うや刹那、影はいきなりその体勢のまま跳び上がり、背面跳びの容量で美鈴の上背後に回り込み、首筋を狙う。

 月明かりを反射する凶器。首筋一カ所に向けて三撃が飛んできた。

 

 ――――早い!?

 

 まるで斬撃が分身でもしたかのような錯覚に陥ってしまうほどの、華麗なナイフ裁き。

 その全てを美鈴は重心をずらすような体裁きで躱す。

 影――美鈴は蜘蛛と呼ぶことにした――は再び美鈴の死角に回り込む。再び極限の前傾姿勢を持って美鈴の膝の下から弾丸のように突き出されるナイフの牙。蜘蛛ほどではないにせよ、同じく低重心を保っていた美鈴の顎と迫るナイフの刃先の距離は、既に首元に到達する一歩手前だった。

 続けざまに避けた後の体勢では、首を逸らして回避する事を難しかった。

 ――――これは避けられない、ならば!

 

 伸ばした腕を咄嗟に差しだす。

 

「っ!」

 

 出血と共に腕に鈍い痛みが襲いかかるが、妖怪であるが故の長い年月と日頃の鍛錬からこの程度の痛みは慣れている。

 美鈴はひるむこと無く、ナイフが迫ると同時にカウンターの拳を蜘蛛に突き出す。否、突き降ろす。

 蜘蛛も仕留められなかった己の不手際を悟ったのか、ナイフを美鈴の腕から即座に引き抜く。そのおかげで美鈴の腕の皮膚に刺さったナイフはこれ以上細胞を食い荒らすことなく、蜘蛛の体ごと、後退していく。

 

 体を美鈴の方へ向けたまま、四肢を付いた状態で速度を落とすこと無く、滑るように元の位置へ後退していく。

 音も立てずにざざざっと滑り込んで後退していく様はまさに蜘蛛そのもの。

 後ろに守るべき門がなければ、美鈴は思わず己が地面ごと後ろに下がったかのような錯覚に陥る所であった。

 

 瞬く間に元の位置に戻り、再び影絵をバックに佇む蜘蛛。

 美鈴は後退していった蜘蛛を見つめる。

 蜘蛛の口元は歪められていた。

 楽しそうに、愉しそうに、この刹那の殺り取りで幾度も己が仕留め損なった美鈴の事を見て嗤っていた。

 

「初めまして、かな?」

 

 その嗤いは、同じ口元から発せられた優しげな声音と、決定的に釣り合っていなかった。

 

どんな結末をお望み?

  • 諸々あった末くっつくルート
  • 諸々あった末殺し愛ルート
  • 直死で幻想郷から出て七夜の誇り清算ルート
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