つんざくような鬱陶しい雨に打たれながら、霊夢の意識は徐々に目覚めようとしていた。ぐちゃぐちゃの泥に沈みかけていた身体を起こさんと四肢が――否、三肢が無意識に藻掻く。
起きたのならば、次にすべきは目を開く事だった。霊夢の双眸が見開かれ、その殺風景な風景が目に移った途端、その視界はぐらついた。
重い身体は重力に耐えきれず、霊夢は再び顔面から地面の泥に沈み込んだ。
「――ッ、――ッ」
声にならない悲鳴を上げながら、ようやく顔を上げた霊夢は勢いよく上体を起こして仰向けになる。顔に付着した泥が鬱陶しくなり――左腕の袖で拭おうとして、ある違和感に気付いた。
拭おうとする筈の左腕の感覚が、ないのだ。
袖の白を赤く染めるための左腕の感覚が、ない。
痛みすらもない、だが、その面はどこか熱を帯びて熱い。
恐る恐る、それを覗き込んで――ようやく、左肩の口から先がないという事実を受け入れた。
「あ――あぁ……ッ」
だが、その事実を受け入れたのは世界のみ。霊夢自身はソレを受け入れる事など到底できなかった。だが受け入れずとも、その危険信号を認識した脳が、霊夢に痛覚という名の警告を促した。
辛味というものは、口の中を火傷するような感覚で例えられる事がある。それは味覚ではなく痛覚からくるものだ。その熱の正体を知ってしまったのならば、後に襲いかかってくるのは明確な痛みに他ならなかった。
「――――――ッッッッ!!!!!!」
声の挙がらない悲鳴。磨いた鏡のような、異様なまでの切断面は一種の芸術だと評すこともできよう。だが、それが己に降りかかれば話は違う。
いっそ絶叫でも上げる事ができればどれだけ楽なのか、不幸な事に霊夢の身体にはそんな余力すら残されていない。
……否、訂正しよう。余力は僅かにだが残されていた。
その余力を悲鳴に割かなかったのは、偏に霊夢の才能ともいえよう。身体ごと泥に沈みかけていたせいか、切断面の中に泥が入り込み、それが幸運な事に夥しい出血を抑えていた。ならば――と霊夢は血が出すぎない内に、切断面に手を当てて、結界で塞ごうとして――できなかった。
「な――」
狼狽える霊夢。いつもなら呼吸するように張れる筈の結界が、貼れない。
「どうして……」
再び結界を張ろうと霊力を込めるが、結界を貼れない。霊力がなくなった訳では無い、ならばこの血の流れをせき止める結界一枚を貼る事くらい、霊夢にとっては造作もない筈だった。
しかし、貼れない。
息をして当然の如く貼れていた、博麗の術が行使できないのだ。
「く、ア――アアアアァァッッ!!!!??」
霊力はある。お世辞にも大量に弾幕を行使できる程の量は残っていないが、それでも結界を一枚貼る事くらいには残っている筈なのに、ソレすらも行使できない。
――どうして、どうしてよ!?
結界に割かれないと分かった余力で絶叫を上げ、霊夢は頭の中でその言葉を繰り返す。こんな事、今まで一度もなかった。思い通りになる筈の事柄が、思い通りにならない。世界が、霊夢の思惑に応えてくれない。
応えてくれないのならば――自分自身がどうにかするしかない。絶叫の最中でその思考に至った霊夢は、断面を押さえていた右腕を離し、泥をすくい上げる。
そして――その泥を、断面に塗り付けた。否、塗りつけたというよりは、詰め込んだと言った方が正しいだろうか。
泥を構成する成分――砂や土を血管や細胞の断面に詰め込み、流血をせき止めようとしていた。
「痛――イタイッ」
砂利と土が肉と血管を食い潰す。だが、こうでもししなければ出血で霊夢は死んでしまう。如何な才能を持とうと、霊夢の器はあくまで人間。吸血鬼や鬼を再生する間も与えずに叩き潰す事はできても、自身がその生命力を持ち合わせている訳でも無かった。
だが、同時に生命の危機を訴える霊夢の身体は、痛みとは相反するかのように、次々とその行為を求めた。
ジャリ――泥をすくい上げる。
グチョリ――それを断面に詰める。
「――――――ッッッ!!!!」
詰めて、水分を絞り取り、固める。巫女服の一部を切り取り、水分で泥が落ちないように包み、結ぶ。応急処置を終えた霊夢は、今度こそ身体を起こそうとして――再び重力とは別の重さに沈んだ。
身体の内から――ナニカがこみ上げ来る。例えるのならば、噴火寸前の火山、破裂寸前の風船、出産寸前の妊婦。内からこみ上げてきた赤いソレは、霊夢の口から遠慮なく吐き出された。
「ゴ、ホォッ?」
右手で手を押さえる。
ナニカ暖かい感触がするソレを、恐る恐る覗き込んだ。
真っ赤なモノがこびり付いていた。口から吐き出されたソレはまさしく生命を循環させる源。ちょっぴり鉄の味が残るその液体は、まちがいなく――
「アぁ――ゲホッ、ゲホッ、ア、ゲッ、ゴボォッッッ!!!!!」
それが、ようやく己の血液であると自覚した途端、心臓から逆流して大量にソレは吐き出される。身体という内界から、現実という外界へと吐き出される赤い液体は間違いなく、霊夢の生命の危機を訴える。
本来ならば干渉される筈などない存在だった。だが、腕を切られた以上、干渉された以上、その矛盾を受け入れた霊夢の身体には能力のリバウンドが躊躇なくのし掛かる。霊夢の存在の根底に干渉され、ソレが殺されたのだ。これで済んでいるのはむしろ奇跡と言えよう。
霊夢も、ソレは理解していた。
ならば、それをなくすための方法は。
この生き地獄の矛盾を吐き出すための方法は――。
「……腕、を」
この不快感をなくすためには、失った
「……何を……?」
思わず、自分の脳裏に浮かんだ思考に真っ白になる霊夢。
――これほどまでに、生きていると、思える時間はあったか?
「そんなこと……」
――戻るのか? また、虚無な自分に?
虚無なんかじゃない。
――本当に?
本当よ。
――これほど生きていると。
ええ、これ程厭な時間はないわ。だから……。
「何処なの……何処」
口中の鉄の味を噛みしめながら、霊夢は立ち上がり、辺りを見回す。アレほど綺麗に磨かれた鏡面のような光沢を放っていた肉の断面は、泥に汚れその醜い
その汚点を洗い流し、矛盾を辻褄合わせに変えるためには、失った
死に体同然となった身体を無理矢理引きずり、霊夢は泥と瓦礫の如く散乱し倒壊している巨木が広がる荒野を彷徨い歩いた。
見つけなければ。
見つけなければ。
見つけなければ。
見つけなければ。
見つけなければ。
「うで、どこ?」
フラつく視界は、逆に言えば意図的に周囲を見渡す必要性を排除させ、それでも観察眼だけは集中させ、霊夢はひたすら彷徨い歩く。
その行為は、確実に自らの寿命を縮めるだけのものであったとしても、霊夢はこの虚無を埋めることを最優先とした。
だが、その行為すら叶わないという現実を、霊夢は突きつけられた。
つんざく雨の音の向こう側。水滴のカーテンを浴びながら、さながら幽鬼のごとく、その男は佇んでいた。
その男の在り方は、最初に見た時とまったく変わらない。
明らかに死の境界の淵に立っているようなその男は、あたかも陽炎のよう。生も死も同一と嘲笑う皮肉な薄ら笑いを能面に張り付かせている。
今こうして彷徨っている霊夢が、生を求めて彷徨うヒトであるのならば。
向こうに佇んでいる男は差し詰め、死を求めて這いずるケモノだ。
男の格好は霊夢よりも悲惨だった。
元々霊夢が直接受けた傷は左腕が欠損した程度のモノ。残りのダメージの半分以上は能力が破られたことによるリバウンドが原因である。
だが、男はその限りではない、死を理解しすぎた事に対する代償はとうに霊夢の受けた代償を遙かに上回っている。それに加え、今まで受けてきた弾幕の掠り傷は肉という肉を、骨という骨を削り取られ、土手っ腹には黒ずんだ円状の傷が開けられている。その上、霊夢とは対照となる右腕を失っている。
とても満足に動けたものではない。半分以下の負傷で済んでいる霊夢ですらこの有様だというのに、その男は知ったことかと言わんばかりに悠然と佇んでいる。
「あ――」
ここで、声を出してしまったのは失策と言えよう。
だが、無理もない。霊夢にとってその男は最早、絶対的な死のイメージとして出来上がってしまっていた。
これだけ無惨な状態なりながらも、否、これだけ死に瀕しているからこそ、その領域に引きずり込まんと言わんばかりに、その存在はあったのだ。
幸運な事にも、能力を解かれた事によって死の概念に埋もれた霊夢を、七夜は見失っていた。死の落書きに埋もれた世界の中で、尚も死に支配されずに輝いていたヒトガタを七夜は見失っていた。
そのヒトガタに僅かに走っていた死の線を断った事によって、そのヒトガタの光すらもが死の世界に紛れ込み、ようやく霊夢は七夜の認識から逃れる事ができていた。
「あ、ああ、ああッ!」
だが、ソレを知らぬ霊夢は掠れ声を上げて自らの首を絞める事となる。
その掠れ声を聴覚で捉えた男の眼が、霊夢の方へと向けられる。
ギギギっと、ブリキの人形のように顔だけを霊夢に向けて、光を失い、凍えきった蒼い双眸が向けられた。
ブリキの人形は、その能面に張り付かせた笑みを、更に歪めた。
まるでようやく愛しの恋人に会えたかのような感情が乗ったソレは、霊夢からすれば不気味以外の何物でも無い。
恐怖は霊夢の身体を鞭打ち、逃げろと訴えてきた。
今のままではあの死者に、否、あの卓越しすぎた殺人鬼に到底太刀打ちできない。
だが、身体を引きずる霊夢に対し、ソレはあまりにも速すぎた。
ブリキは、一瞬にしてケモノへと変貌した。
背を向ける霊夢に向けて、一気に肉薄する。
ケモノ――七夜は、霊夢の背を押し倒し、その上にのし掛かった。
闇雲にナイフが振るわれる。
ざしゅく、と五寸ほどの刃が霊夢の左足の関節を切り刻む。骨の髄まで食い込んだ一閃は、その絶技は一瞬にして霊夢の足を不能に追いやった。
見えずとも、切った感触により左足を見抜いた七夜は、今度は右足の関節に向けてその兇刃を振るう。
ザクリ、と右足の意識も刈り取られる。
残った右腕を動かす力は霊夢には残ってはいない。
つんざく雨に打たれ、此方を見下ろす死神に怯え、寒気に震える霊夢。うつ伏せに倒され、上手く直視できない。
その瞬間、ペロリと背筋を
「ひぃッ!?」
既にナイフを持った手で霊夢の右腕を押さえている七夜。
しかし、死に埋もれた霊夢を視覚する事は困難……ならば触覚で霊夢の形を把握するしかない。だが、肝心のもう片方の腕は使い物にならぬと自分で切り捨ててしまった……ならば舌を伸ばして、形を把握するしかない。
「い、いやッ!?」
生理的嫌悪よりも先立つ圧倒的な恐怖。
死に瀕して敏感になった霊夢の肌を、七夜の舌は滑らかになぞっていく。そして、把握する。
やがて、その舌は、霊夢の首筋にたどり着き、把握した。
ニヤリ、と無邪気そうに嗤った殺人鬼は左手に持ったナイフを掲げ、その凍えた蒼色に煌めく眼を霊夢の首筋へと向けた。見えてはいないが、確実にその命を刈り取れる箇所にその眼は向けられていた。
「私を――殺すの?」
気がつけば、口はそんな風に震えた。
天界に住む天人たちはお迎えの死神たちを追い返して自らの寿命を無視して生き続けてきた者が多いと聞いているが、それでも霊夢は思う。
如何な死神を追い返すことはできれど、この死神の手にかかれば、そんな強靱たる意志は一振りの元に瓦解するだろう、と
故に、この死神を説得することでしか、自らの死を回避する方法な、ない。
「いいの? そんな事をして――。私を殺したりしたら、幻想郷を囲む博麗大結界が崩壊して、この世界も、私も、貴方も、みんな消えてしまうのよ?
それでも、いいの――」
――なんて、醜い。
そんな口が零れていた己自身を霊夢は蔑ました。
そんな命乞いをしてみた所で、結果なんて、分かりきっているのに。
「知らないよ」
あっけらかんと、七夜は即答する。
「誰かが残るとか消えるとか、そういうのは俺の知った事じゃない」
「――ッ」
ああ、分かりきっていた事じゃないか。この殺人鬼の在り方なんて、霊夢はもう散々思い知っている。生も死も同一と看做す死神。自らの存在の消滅すら厭わず、ただひたすらに霊夢のみを殺すためだけに自らを捨て鉢にする。そんな七夜のとち狂った行為を、霊夢はこの短い時間で腐る程見てきたではないか。
そんな男が、今更周囲や自らの消滅に構うわけがないじゃないか。どうでもよさそうに笑った七夜は、そのナイフを霊夢の首筋向けて振り下ろした。
狙うは死ではなく、肉の筋そのもの。
死を与えるだけでは足りない、せめて、この
「―――――ッ!!!」
目を思い切り瞑る霊夢。
閉じた瞼の下から、涙が絞り出てくる。
――いやだ。
その涙に込められた懇願は、頬を走り、地に吸われるだけ。天に届きなどはしない。
――死にたくない!
その死の刃は霊夢の首筋を切り裂――
「――――?」
未だ、痛みがある。
痛みがあるという事は、生きているという事実に他ならなかった。
違和感を覚えた霊夢は、重い瞼を持ち上げ、ぱちくりと開いた。うつ伏せになった身体を何とか転がせ、その覚えのある気配の主を視界に入れた。
「……ゆか、り?」
目に入ったのは、この雨には似合わぬ日傘から覗かれるように見えた見覚えのある長い金髪だった。
視界に入れたその光景を最後に、霊夢は世界の重力に逆らえず、そのまま意識を落とした。
◇
火の点る暖炉に温められた部屋。その隅に設置されたベッドの上に寝込んでいる母親。
それが君の知る世界の全てだった。
君の母は病弱だった。立とうとすれば倒れ込み、言葉を紡ごうとすれば咳き込む。頑強な古巣から一人抜け出したと聞くかつての姿からは想像し難く、日に日に彼女は弱っていく。
それでも、彼女は笑っていた。嬉しそうに、けれど申し訳なさそうに。
子供の君はその笑顔の意味を理解する事はなかったけれど、やはり、根底の部分では悟っていた。
もう、自分の母は
ずっと古巣で暮らしていれば朽ちる事も、老いることもなかったのに、彼女は穢れに満ちたこの星で朽ちることを善しとした。
その細やかにも満たない幸福そうな笑顔を、君は遠くから眺めていた。
その笑顔の意味を君は理解できない。
けれど、やっぱり理解できてしまっていて、君は彼女の前だけでは自分すらも騙して、気付かない自分を演じて、彼女との時間を過ごした。
そうして、日に日に弱っていく彼女の寝息を聞いては、影でしくしくと君は泣くのであった。
君は世界を広く識っているわけではない。それでも、一人で生きているだけの技量は既に持ち合わせていた。
彼女を失えば、君は孤独に生きることとなる。この不可解な能力を有効活用する世界に浸り、やがて彼女に顔向けもできなくなるだろう。そう悟っていたからこそ君は、彼女の前でこれからのことを考えようとしなかった。
君は彼女との
君は隠しているつもりであったが、やはり彼女はソレに気付いていた
夜な夜な君の泣き声を聞く度に、彼女もまた布団の中で隠れて泣いていたということに、君は気付かなかった。
けれど、それは仕方のない事だった。なぜなら、彼女も君と同じだった。君の前で泣き顔を見せようとなんてしなかった。
最後に、笑って君を見送れるように、彼女もまた影で精一杯泣いた。
君たちは、互いに泣き顔を見せようとはしなかったんだ。
それでも、彼女が泣けたのは、君がいたからこそだ。君が泣いていると知ったからこそ、彼女も釣られて泣くことができたんだ。
君も、彼女も、ただ不器用なだけだったんだ。
◇
つんざくような鬱陶しい雨に打たれながら、咲夜は倒壊した木々が散乱する泥の荒野を歩いていた。
見上げてみれば、空がいつもよりも遠く見えた。比喩ではない、本当に空が遠いのだ。
まるで壺の中に落とされたかのように、周囲は暗く、見える曇りの空だけが僅かに明るい。
咲夜は目線を空から己の手元に移す。そこには、布きれに包まれた“なにか”があった。赤い液体が内側から染みこんだそれは、七夜の腕だった。
霊夢との戦いで負傷した七夜は自らの腕を咲夜の前で切り落とし、一瞥もせずに立ち去ってしまった。
その直後に先の崩落が起こり、咲夜はそれに巻き込まれて地の底に落とされた。洗練された身のこなしで着地できたのはいいものの、おかげで七夜の腕を見失ってしまい、こうして何とか見つけて持ち歩いているのだった。
泥に埋もれていたソレを拾い上げた咲夜は自らのメイド服の一部を切り取り、毛布代わりにして包み込み、こうして腕の主を探しているのだが……。
「何で……こう、なるの、でしょうか……」
ため息を吐く咲夜。
本当に、七夜が来てからの咲夜は散々だった。一回は首をへし折られて殺されるわ、地面に叩き付けられて気絶させられるわ、やっと追いつけたと思ったら今度は当の本人が自分の事をさっぱり忘れているわ……とにかく咲夜にとっては信じられないことのオンパレードである。
いっそ、咲夜は泣きたくなってきた。……というよりも、泣いていいだろう。
ああ、そうだ。これも全てあのひねくれ者のせいなのだ。
そもそもあの捻くれ者が紅魔館にやってこなければ自分は頭を脊髄ごと引き抜かれるという無惨な殺され方をせずに済んだのだ。いや、そもそもの話あの殺人鬼があの日七つ夜と引き換えに渡したあのナイフを持ってさえいなければ、それに気を取られず首をへし折られることもなく、こんなに彼に執着する事も無かったのだ。
彼が来てからの何もかもは彼のせいなのだ。
「見つけたら……覚悟しなさい……フフッ」
自分でも、信じられないくらいの腹黒い笑いを浮かべ、咲夜は再び歩き出す。
辺り一面は、死地だった。もし星が死んだ直後の光景があるとするのであれば、まさしくこれが当てはまるのではないかと咲夜は思う。
足を速めて咲夜は七夜を探す。
この鬱憤をどうにかしてもらうためにも、この異常な事態の説明のためにも、とにかく今は彼に生きて貰わなければ困るのだ。勿論、霊夢にも何故七夜を退治しようとしたのかを問いたださなければならない。
七夜があの知性の欠片もない死者どもと同じ存在であると、なにより彼女の勘がそう告げているのであれば、七夜も少なからずこの死者たちが出現する異変に関係していない訳ではないのだろう。霊夢が動いているのだから、少なくとも異変という程度の事態には発展していると見ていい。もしかしたら、彼の正体も分かるかも知れない。――そうなれば、この胸のモヤモヤにも片が付くかもしれないのだ。
だから、あの殺人鬼を探さなければ。
そう思っていたら――異様な光景が見えてきた。
最初に目に映ったのは、見覚えのある後ろ姿だった。
「貴女は……」
花弁を開いた花のような形状をした日傘。大凡この雨と泥の荒野の光景には似つかわしくない。
その主が、此方を振り向くと同時、動いた傘の奥に見えたソレに、咲夜は目を奪われた。
「ッ!?」
全身に傷を負い、地を流して倒れている燕尾服の男――それを見かけた途端、咲夜は何故ここにスキマ妖怪がいるのかという疑問を吹き飛ばした。
「七夜ッ!」
名前を呼び、スキマ妖怪――八雲紫の傍を通り過ぎ、咲夜はうつ伏せに倒れている咲夜へと駆け寄る。
「……“ななや”?」
叫ばれたその名を聞いた紫は、二人を一瞥する。
殺されそうになった霊夢は、既に救出した。
後は、その霊夢の命を奪いかけた不届き者を排除するだけ……なのだが。
「……」
倒れて息をしない男に必死に呼びかける咲夜。
まるでもう二度と手放すかと言わんばかりに、あの悪魔の犬と謳われていた少女が、一人の死にかけの男に必死に呼びかけていたのだ。
「……いいわ。今回、半分はこの子の自業自得だし、見逃してあげる。それに――少し、
そんな言葉を残して、妖怪の賢者、八雲紫は無数の目玉が覗く空間へと消えていった。
◇
「七夜、しっかりして下さい!」
うつ伏せになった七夜の身体を転がし、呼びかける。
七夜の怪我は、最悪だった。
何故こんな身体で今まで動き回れていたのかが不思議な位だ。身体中が弾幕に抉られ、右腕は切り落とされ、その他、様々な傷が残されている。
明らかに常人が助かるような傷ではなかった。
それでも、私は彼がまだ生きていると信じて、呼びかけた。ついさっきまでいた妖怪の賢者の気配は既にない。七夜を放置して去って行った以上、彼女に七夜を助ける気などないなど毛頭ないのだろう。
応急処置の道具も今は手元にはない。
だから、私は呼びかけることしかできなかった。
「目を、覚まして、くださいっ!」
お願いだから。目を覚まして。
見えてなくてもいいから、私のことなんて忘れていてもいいから。どうか、命だけは無事でいて。
そうでなければ、私は今度こそ、耐えられそうにない。
「お願いだから、もう、置いて逝かないで……志貴っ!」
無意識に、そう叫んでいた。
私は、最悪な女だ。もし七夜が志貴でなかったら、私は彼に志貴のことを押しつけているだけの未練がましい女に過ぎない。
もし、彼が七夜志貴であったとして、その後どうするかのなど考えていないというのに。
だが、今は考えている暇などない。
私の時の力はそんなに万能なものではない。意識体の時間を止める事はできないし、時を止めて七夜を運ぼうにも、物を動かすためならばその対象の時間だけは動かさなければならない。
時を止めて七夜から美鈴を救った時も、七夜のトドメから救っただけで、屋敷に運ぶまでに刻一刻と美鈴の命の灯火は弱っていていた。
ならば、どうすればいい。
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
今考えられる最善の手は、時を止めて紅魔館まで移動して美鈴に助けを求めることだろう。だが、そもそも七夜を治療できる所まで、七夜の命が持つか。
いや、そもそも、七夜は今生きているのか?
「っ!!」
片方になった七夜の手首に指を当てる。生死を確認するのであれば、呼びかけるよりも此方の方がよほど実用的だろう。
だが、神様とは、此方の希望をこうも簡単に砕いてしまえるものなのだろうか。
「……脈が、動いて、ない……」
頭が、真っ白になる。
どうしていいのか分からない。生きているという確実な保証すらもが消えてしまっている。
「どう、すれば……ッ」
その時だった。
頭どころか、急に目の前の光景も真っ白になった。この感覚は、あの時と同じだ。さっき気絶していた七夜に触れた時と、同じような感覚だ。
一体、どうなっているのだろう?
そう思うや刹那、白い光景の中心に靄が出現した。靄は徐々に大きくなっていき、やがて映像としてソレは映し出される。
まただ。今度は一体、何を見せられる?
映し出されたのは、日が差し込む緑の庭。そこに根付いた一本の木の下。
倒れている割烹着の少女、それを支えている一人の少年。
割烹着の少女の胸には――丁度心臓が位置しているその箇所には、一振りの短刀が突き刺さっていた。
少女の命は風前の灯火、それを支える少年の腕は悲しみに震えている。
自身を人形だと騙る少女の目からは、灯火が消えようとしている。
――……何だか、みんな悲しいことばっかりでした。だから。痛みを感じない、人形になろうと、思ったんだっけ。
出血は止まらず、目は閉ざされる。
事切れていく己を感じながら、その少年の腕の中で、少女は懐かしんでいた。
――痛いのはイヤなんです。だから、人形になってしまえばいいと。
だから、と少女は続ける。
――■■さんは、気にしなくていいん、です。人形、ですから、痛くも、怖くも、ないんです。もう、こんな、人形、一つに、■■家に、踊らされる、必要、なんてないんです……どうか、■■さんの、大切な人のところへ、行って……あげて、下さい。
最後に、少女は、一滴だけ涙を流しながら、目を閉じて笑った。
偽りの笑顔ではなく、細やかな、だけど本心からの微笑みだった。
――ありがとう、■■さん。少し、遅かった、ですけど、約束、守って……くれて……。
少女は、それきり動かなくなった。
「――――あ」
そうして、私の意識はまた、現実へと戻された。
何故なのかは分からないが、頬を伝うナニカが目から流れるのを感じた。だが、そんな事はどうでもよかった。
なぜならば。
どくん、どくん、どくん。
七夜の手首に当てた指に、微かな、鼓動が蘇っていた。
「七夜ッ……!」
先の疑問なんて吹き飛ぶ。
ああ、生きてる!
七夜は、ちゃんと生きている。それだけが、今は嬉しかった。
だが、安心できるわけではない。このまま行けば七夜は確実に死ぬ。辛うじて感じ取れた脈も事切れる寸前だ。現時点で生きているだけなのだ、事は一刻を争う。
ならば、取る行動は一つ。
「絶対に、死なせませんから……!」
時を止めると同時、私を中心に灰色の世界が広がる。
目指すは、迷いの竹林。その中に位置する永遠亭という屋敷。
かつて永夜異変と呼ばれる異変を起こした者達の集う場所へと、私は急いだ。
◇
幻想の郷からは離れ、舞台は外の世界へと移る。
とある場所。とある空間。時は進み、ある場面を映し出す。
そこはある木造屋敷の中の一室だった。
四本の木造の柱と、その柱の間を埋めるように掛けられた簾に四方を囲まれ、更に正面に向く簾には白紙の掛け軸が掛けられている――そんな囲いが列を成して設置されていた。
その列を成して設置された囲いの中の一つ一つに、余す事無く薄暗い人影が見えていた。
和式作りの部屋には天井につるされた行灯がこの空間を薄く照らし、強い光では生み出せない陽炎のごとき煌めきを生み出し、この緊張に包まれた空間を和らげる所か、むしろ闇を助長させているようにも感じた。
「……さて」
その緊張感の中で、一番奥の囲いの中に居座っていた老人が、重い口を開く。
「今回、我らがこうして集った理由は他でもない」
『……………………』
切り出した老人の声音に、周りは答えない。
だが、沈黙というにはほど遠く、誰もが言うまでも無く今回の集会の意図を理解していた。
「欧州の地において起きた騒動、諸君らはどう捉える?」
老人の質問に、各人たちは続けるようにして意見を発し始めた。
「聖堂教会。魔術協会。血を吸う鬼ども」
「我らは蚊帳の外。議論の必要性はないのではないか?」
「否、それは早計よ。二年前にも、27祖の名を連ねる死徒共がやってきたと聞く」
「前触れと捉えてもおかしくはなかろう」
「場所は三咲町。かの鬼種との混ざり者が統治する地よ」
「遠野、か……」
遠野――古くからの鬼種の一族の名を聞いた各人は密かにざわめき立った。
魔という物が存在する。自然の流れにありながら、正当な流れにあるものからは邪な輩に映り、彼らは総じて人間社会の驚異として敵対した。
遠野は、その中でも鬼と呼ばれる種の魔の血を引く一族である。そういった魔との混ざり物の者達は“混血”と称され、純粋な魔とはまた別枠の存在としてカテゴライズされるのだ。
「遠野。吸血鬼。双方にどのような繋がりが?」
「10年前、反転した遠野の長男が当時の当主であった遠野槙久に処分されかかるも、反転が収まり表に復帰したと聞く」
「事実かは怪しいものよ」
「然り、二年前の吸血鬼の来訪を契機に、遠野の長男は欧州へ旅立ったと聞く。『遠野家の長男』が生きていたという事実は確かにあるのだろう。その長男が本当に遠野一族の人間なのかは置いておくとして」
「事実はどうあれ、その件においては遠野は来訪した吸血鬼を教会の犬どもと協力して処分したという。斎木の件でも、奴らは反転した斎木を売った協力者。潰すに足る理由はあるまい」
混血と呼ばれる魔との混ざり者たちは、何も全員が人間から受け入れられていない訳ではない。人の血も持っている以上、人の社会の中にうまく溶け込む存在もいる。中にはその魔としての能力の有用性を示すことで、退魔側に協力する混血の一族も存在するのだ。先ほど彼らが挙げた遠野一族もまたその側に属している。
現に、今こうして集まった者達の中にも、何人かは魔の血を宿している者が存在している。
今回の総会は、そういった退魔の代表者たちが集う者達の話し合いである。
「結局。我らの今後の身の振り方は変わらん、という結論か?」
「然り。だが、今回の騒動を機に外の者どもが
『………………………』
全員が押し黙り、熟考する。
今回の騒動で、外来の魔の者達とソレに敵対する教会、および魔術協会の情勢は大きく揺らいだ。
それ以前から、彼ら極東の退魔組織は、多くの魔、処分対象となった混血、彼らの許可もなくこの地に根ざした魔術師共を狩ってきた。
彼らに共通している事は、皆総じて彼ら退魔組織のテリトリーを侵したという罪状を持っているということだった。逆に、それさえ侵さない者に対しては閉鎖的な彼らも寛容になる。聖堂教会や魔術師たちが少ないながらもこの地に根ざすことを彼らが黙認しているのもソレが理由だ。
だが、ここ数年、あまりにも強大な外来の魔がこの地に出入りしすぎている。
混沌、転生者、真祖、タタリ、その他諸々。
その直後に、今回の欧州の騒動だ。彼らの侵入を許してしまった矢先、此方にも悪影響が出ないとは限らない。
今後の身の振り方、及び対策――議題としては単純であるが、同時に重要な事柄であるのが、今回、彼らの代表者たちがこうして集ったことからも読み取れる。
「既に、流れ込んでいる可能性がありますわ」
突如として、男達の集う重い空気の中に、若い女性の声が響いた。
熟考の沈黙は、突如としてざめめきへと変わる。
何処からとなく響いた女性の声。老練した術理を備えた男が集まる集会において、その存在は明らかに異質だった。
囲いが立ち並ぶ空間のその真ん中に、空間の裂け目が、開いた。
覗かれるは無数の目。妖力の気が充満し、まるで世の醜さを体現するかのような無数の目が覗かれる裂け目より、一人の女性が姿を現した。
「……これは、これは……」
囲いの中にいた各代表者達が一斉に構え出し、警戒する中で、奥にいた老人だけが、慌てることもなく、口を歪めた。
警戒、恐怖、煩悶――多くの感情が交差するなかで、この集まりの中でも一番の老練であった男は、彼女の名を呼ぶ。
「妖怪の賢者が、よもやこのような場所にどのような用件か。のう――八雲紫殿」
八雲紫――老人がその名を口にした途端、周囲に代表者達は目に見えて動揺した。
曰く、妖怪の賢者。曰く、境界を操る化け物。曰く、幻想を体現する魔そのもの。
実際に目の当たりにするのが初めての者もいるのか、彼らのざわめきは止まらない。彼らと敵対関係にある魔の代表者の一人が、こうして退魔の代表者たちが集う集会の中に現れるなど、異常事態、という言葉では済まされない。
明らかに、協定違反とも取れる行動だ。
各代表者たちは、その中でも特に混血の者達は、その格の違いを明確に感じ取り、恐怖した。
だが、それ以上に困惑した。
彼らは、鬼と呼ばれる強力な魔すらも完封する陰陽の術理を有する退魔のスペシャリストである。ましてやその代表者たちの集う場だ。
いくら妖怪の賢者といえど、そのような場に姿を現すことは自殺行為以外の何物でもなかろう。
「会合への突然の乱入、心からお詫び致します。ですが、それを偲んで私の頼みを聞いてはくれませんか、外の退魔組織の皆様?」
そんな彼らの困惑を察した八雲紫は、彼らに向け詫びの会釈を入れ、囲いの中の代表者地に頼みを入れる。
「……よかろう。此奴の席を用意してやれ」
老人は、彼女の頼みをあっさりと受け入れた。
傍にいた老人の従者は困惑しつつも、丁寧に彼女に新しい簾の囲いと席を用意する。
感謝の意を込めて頭を下げた紫は用意された囲いの中に入り、席に座った。
「――して、既に外の者が流れ込んでいる、と申したが。それは真か、妖怪の賢者?」
「はい、その可能性が。……ですが、その前にあなた方に確認したい事があるのです。よろしいですか?」
「申してみよ」
では、と紫は一息軽く吸った後、彼らに問うた。
「
七夜――その単語に、一連の面々が戦慄したのは、言うまでもなかった。
どんな結末をお望み?
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諸々あった末くっつくルート
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諸々あった末殺し愛ルート
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直死で幻想郷から出て七夜の誇り清算ルート