邪神様が見ているin米花町   作:亜希羅

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 このシリーズ考えたとき、そろそろ風見さんに出番をあげたいと思った。『ゼロの執行人』でも『ゼロの日常』でもおいしいとこもっていって、本編コミックスでも登場なさったような出世頭キャラなのに、pixiv連載の某シリーズではラストにちらっと出ただけやで?あんまりじゃあないか。あんまりにも、憐れじゃあないか。(シ○ン感)
 だから、出番を考えてみた。
 ちなみに、今回安室さんは話に係わりありません。彼は話の外で風見さんを労う役回りです。
 彼は本編で邪神様と絡むので、SANを温存させなければならないので。
 今回、政略結婚からの家庭内暴力や暴行を連想させる表現があります。できるだけソフトには抑えたつもりですし、それを行っているのはモブですが、苦手な方はご注意を。



【番外編γ】風見裕也の知らぬべき世界の話

 風見裕也は警察官である。警視庁公安部所属、階級は警部補。

 

 そして、この日本を守る、誇り高い公安警察官を自負している。

 

 彼自身優秀だと自負しているが、彼の所属する部署自体、優秀な人材の巣窟である。

 

 彼らと力を合わせて日本を守ることは、風見のアイデンティティであり、誇りである。

 

 その事件までは、彼はそれを疑いもしなかった。

 

 公安というのは、清濁を併せ呑み、それでもなお日本と、そこに住まう人々を守る部署なのだと疑いもしなかった。

 

 “きれいごとで片付かないならば、手を汚しても片づける”。そのための“違法作業”なのだ。

 

 それで、他の大勢の人々の安寧が守れるならば、安いものだ。

 

 

 

 

 

 あの事件以降、風見は思うのだ。

 

 自分の仕事など、所詮は天秤の振り分けにしか過ぎないのかもしれない。どんなに頑張っても、丸々守れるものなど、ありはしないのかもしれない。

 

 それさえも無駄でしかなく、いつかは全てが失われるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 なぜなら、彼が尊敬していた人間の一人が、人間として糞のつくほど最低な人間であったと判明し、この世の裏側は聞くも語るも悍ましい化け物の温床であると知ってしまったのだから。

 

 人間など、この世というゴミ箱にたかる蛆蠅の類でしかないのだ。少なくとも、あの事件の渦中にまみえた、あのような存在からしてみれば。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 当時、風見が尊敬している上司は二人いた。

 

 一人は、潜入捜査で命がけで犯罪組織の情報を得ている、降谷零。年下の上司ながら、そのポテンシャルも能力も凄まじい。そんな緊張感に満ちた任務についている彼は、忙しい合間を縫って登庁し、時折他の業務を手伝ってくれるのだ。凄まじすぎて、嫉妬するのもバカバカしいほどだ。

 

 そして、もう一人は、同じ警視庁公安の上司に当たる。葛葉警視正は、風見が尻の青い新人であったころからの付き合いで、風見をかわいがってくれた。公安刑事としてのノウハウは、ほとんど彼からの受け売りと言ってもいいかもしれない。仕事もできるし、家族も大切にしている、理想の上司だ。

 

 少なくとも、風見はそう信じていたのだ。あの事件が、起こるまでは。

 

 

 

 

 

 事のきっかけはそう、葛葉警視正の奥方の入院だった。

 

 風見も噂程度にちらっと程度しか知らないのだが、奥方は代々警察の要職に就く家柄の血筋で、政略結婚したそうだ。

 

 しかしながら、葛葉警視はそれでも奥方を大事にしているそうなので、大したものだ。

 

 そんな奥方が、暴行にあったそうだ。ガラのよくない男たちによって、廃ビルの中に連れ込まれたらしく――。

 

 そこからは語るも悍ましいことではあるが――やっとの思いで逃げだしたのだろう、あられもない格好で道端に座り込んでいたところを通行人に発見され、救急車によって運ばれた奥方は、心神喪失状態でベッドの上で終始ぼんやりしているそうだ。

 

 葛葉に頼まれた風見も様子を見に行ったが、痛ましいものだった。

 

 元々、風見は奥方の様子を見に行ったり、葛葉からの頼まれごとで彼の家にお邪魔していたこともあったため、面識があった。

 

 公安にも理解を示してくれる上、夫を立てておとなしくしてくれる、深窓のご令嬢といった風貌の奥方が、今や心ここにあらずといった様子でベッドの住民と化しているのだ。

 

 風見も、公安の端くれである。痛ましい事件の被害者、凄惨な死体や現場を目の当たりにしたことは何度もある。だが、それでなんとも思わないわけがないのだ。被害者が、面識があり、尊敬する上司の奥方ともなれば、なおのこと。

 

 

 

 

 とにかく、風見は仕事で忙しくされる葛葉に代わり、奥方の警護をしていた。

 

 出来ることなら、奥方を傷つけたであろう、下郎をこの手でとらえ、司法の裁きを下してやりたい気分でもあった。

 

 だが、個人的に犯人捜しをするような余裕はない。風見とて公安刑事の一員なのだ。加えて、尊敬するもう一人の上司、降谷からの連絡だって受けねばならない。

 

 腹立たしいことではあるが、暴行事件として既に立件されている。きっと、早晩犯人は捕まるだろう。

 

 病室の扉の前でたたずむ風見は、“彼ら”が来るまでそう思っていたのだ。

 

 

 

 

 

 そして、恐るべき真実と、悍ましい闇が、そこに隠れているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 「ふざけるな!なぜ貴様がここにいる!!」

 

 風見は怒鳴りつけていた。

 

 病室を訪れた3人の人間。

 

 一人は白髪にサングラスをかけたライダースジャケットの男。雰囲気も相まって、堅気には見えない。

 

 もう一人は黒いワンピースを纏い、黒髪をポニーテールにした清楚な美女。一緒にいる人間の雰囲気が雰囲気なので、下手をすれば誘拐された被害者にも見える。

 

 そして、最後の一人。彼が、風見を激昂させた張本人だった。

 

 黒いコートをマントのように羽織り、ダブルブレストのスーツと深紅のアスコットタイをかっちり着込み、目深にかぶった中折れ帽から、結わえた長い黒髪をたらすその男。

 

 堅気には見えない鋭い緑の双眸。陰のある、整った顔立ち。

 

 見紛うものか。

 

 尊敬する上司が持ち帰った貴重な情報。かの犯罪組織に在籍していたこともあるその男の顔を、大事な同志を自殺に追い込んだその名を、風見が知らぬとでも思っていたのか!!

 

 「赤井秀一!FBIが何の用だ!」

 

 「は?」

 

 「え?」

 

 白髪の男と、黒服の美女が、怪訝そうに赤井を振り返る。

 

 一方の赤井はといえば、かすかに眉をしかめただけだ。

 

 「おい、大学先生。あんた、ミス何とかって大学の客員教授じゃなかったのか?名前も全然違うじゃねえか」

 

 「・・・ミスカトニック大学の客員教授は副業だ。どうも、本業の方の関係者らしいな」

 

 白髪の男のツッコミに、赤井は肩をすくめ、風見を見やる。

 

 感情を読み取れない緑の目に、負けじと風見は目に力を込める。

 

 ここをどこだと思っている。日本の警察病院だ。管轄違いどころかお国すら違うFBIが好き放題できると思ったら大間違いだ。

 

 だが、そんな風見の敵愾心は、次の瞬間打ち崩される。

 

 風見の懐にある、スマートフォンがブルブルと震え、通話に出るや、彼は凍りついた。

 

 それは、管理官直々の電話だった。

 

 葛葉の奥方の件は、HPL案件として捜査権を専門機関に移譲する。そちらの捜査官が来たら、素直に奥方に会せるように。

 

 要約すれば、そのような内容だった。

 

 HPL案件?係わったらロクな目に遭わないという、あの?

 

 指先が冷たくなるような錯覚に襲われながらも、風見は了承の意を伝えて通話を終える。

 

 同時に、進み出た白髪の男が、懐から端末を取り出して、それを操作してから、風見に画面を見せながら言った。

 

 「神話性事象安全保障組織、MSO所属。第3階級、松井陣矢だ。

 

 悪いが、被害者と面会させてもらう」

 

 MSO・・・密かに聞いたことはある。おそらく、一般の警察官は知らないだろう、HPL案件を専門に調査・処理を担う捜査機関だ。風見も、ちらと聞いたことがある程度だ。

 

 「同じく第3階級、浅井成実です」

 

 同じように端末の画面に身分証画面を表示させながら名乗る黒髪の女性に続いて、赤井が名乗る。

 

 「ウィルマース・ファウンデーションからの派遣だ。ミスカトニック大学客員教授、阿須那羽椎夜〈あすなばしいや〉だ。

 

 本業とは、今は関係ない」

 

 どこにそれを信じるバカがいる?!

 

 無言を貫き、睨み付ける風見をよそに、端末をしまった松井が茶々を入れる。

 

 「あんた、その面でFBI?」

 

 「本業とは、今は関係ない。そう言ったはずだが?」

 

 冷たく赤井はシャットアウトする。

 

 

 

 

 

 なお、風見どころかこの場にいる本人以外の誰もが知る由もないが、松井の前職を知れば、お前が言えた義理か!とツッコミを入れられるだろう。

 

 

 

 

 

 「とにかく、私たちはそちらに入院されている方の原因を調査、解決のために来ました。ぶしつけで申し訳ありませんが、どうか面会させていただけないでしょうか」

 

 ぺこりっと礼儀正しく頭を下げる成実に、しかし風見は無言のまま赤井を睨み付けたままでいる。

 

 「あんた、何したんだよ?」

 

 「さて。本業でも副業でも、やることをやっていれば、相応に身に覚えのない恨みつらみは買うものだ」

 

 肩をすくめ、赤井は言った。

 

 「俺が気に入らないのは結構だ。だが、そうしていれば解決するものも解決せん。次の犠牲者が出てもいいのか?」

 

 「脅迫する気か?!」

 

 「事実だ。解決するために、俺達はここにいる」

 

 しれっと言った赤井に、松井はため息を吐いて風見の視線を遮るように立ち、サングラスをずらして険しい視線を向けながら言った。

 

 「おい。言っておくが、被害者はそこに入院している女以外にもいるんだぜ?

 

 他に5人。全員錯乱、あるいは心神喪失でロクに話も聞けない。

 

 うち女が一人で、こっちはひどい錯乱状態で」

 

 ここで松井は言葉を切ると、声を潜め、風見にしか聞こえないように囁きかけた。

 

 「看護士が目ぇ離した直後に花瓶を割って、その破片で手前の腹ぁ掻っ捌こうとした。実際、破片が腹に刺さって大騒ぎになった。命は助かったがな。

 

 妊娠の兆候が出てたが、検査結果はガスが入ってるだけの想像妊娠と診断された直後の話だった。

 

 どこかで聞いたような話だな?」

 

 ぎくりと風見は肩を動かしてしまった。

 

 馬鹿正直すぎる。それでよく公安が務まるな、と上司の一人に怒られそうな反応を返してしまった。

 

 妊娠の兆候が出ているが、検査結果はガスが詰まっているだけの想像妊娠――。それは、この部屋に入院している葛葉の奥方も、同じだったのだ。

 

 無理もない。暴行の末のことだ。心が自分を守ろうととっさに思い込もうとしたのかもしれない。

 

 「おい――!」

 

 「大学先生が気にくわないか?だが、大学先生は、俺達より先達で凄腕らしいからな。

 

 早期解決のためと、目を瞑ってくれ」

 

 「買いかぶりだ。だがまあ、早期に診た方がいいのは確かだ。何が生まれるか、わかったものじゃない」

 

 「は?」

 

 首を振って言った赤井に、とっさに風見は聞き返していた。

 

 生まれる?想像妊娠なのに?

 

 「バカを言うな。想像妊娠だぞ?気は確かか」

 

 FBIきっての切れ者と名高い男が、何とも頓馬なことを言う。

 

 内心せせら笑うながら、風見が言うと、3人は沈黙する。

 

 ややあって、ガシガシと白髪をかき回した松井が、風見に言った。

 

 「あんたの仕事はここまでだ。後は、俺達の分野だ」

 

 押しのけられた風見はムッとしたが、彼が止めるより早く、3人は病室に踏み入った。

 

 「~・・・~~・・・~~~♪」

 

 病室の奥、白いリネンの上で、彼女はいた。下した黒髪、どこかやつれたような面持ちで、彼女はふっくらした腹を撫でていた。かすかな声は、鼻歌のようだ。

 

 何も知らなければ、確かに妊娠しているようにも見える。だが、その腹の中に新しい命はなく、虚ろしかないのだ。

 

 「成実、頼む」

 

 「産婦人科は専門外だけどね」

 

 松井の言葉にうなずいて、成実はベッドのそばに歩み寄ると、「こんにちは」と一声かけた。

 

 「ちょっと、体を見せてもらいますよ。いいですか?」

 

 成実の言葉に、奥方は答えなかった。

 

 成実は声をかけながら、そっと体を触ったり顔を窺ったりしている。

 

 「勝手に入るな!」

 

 「そっちが許可しねえんだからしょうがねえだろ。上は俺達に任せろって言ったんじゃねえのか?

 

 いいのかよ?命令違反じゃねえのか?国家の狗」

 

 入ってきながら怒鳴った風見を、フンと鼻で笑う松井。

 

 「しぃっ!」

 

 しかしながら、そんな二人を成実は静かにするようにと叱咤し、ややあって視線を伏せて「ありがとうございます。もういいですよ」と声をかけて診察を終える。

 

 「確かに、妊娠しているようにも見えるけどね。カルテも見せてもらったけど、真っ当な診断なら、想像妊娠なんだろうね」

 

 「米花中央病院で見かけたのと同じか?」

 

 「・・・恐らく」

 

 「~~~っ!くそっ!」

 

 静かにうなずいた成実に、松井は白髪をガシガシをかき混ぜた。

 

 「ちなみに、大学先生の見解としては、放っておいたら何が生まれると思う?」

 

 「端的に言うならば、落とし子だろうな」

 

 「そいつは、放っておいて大丈夫だと思うか?」

 

 「それは、俺ではなく、医師に聞くべきだろう」

 

 松井の問いに、赤井は視線を成実に向ける。

 

 成実は静かに首を振った。

 

 「入院してから3日。ガスで膨れたにしたって、初日と違って徐々に膨れてきているとカルテに記されていたんだよ?目視でわかるほどの速度でね」

 

 ここで成実は言葉を切ってから、視線を風見に向ける。

 

 「この事実を認識してしまった看護師と医師は、錯乱してしまったよ。

 

 薬などの投与もまるで意味をなさない。こんなの、あり得ないとね。

 

 だから、私たちがここにいる」

 

 そうして、成実は言葉を続ける。

 

 「全くの未知数、としか言いようがないけど、中身が何であれ、周囲への被害も鑑みれば・・・おろした方がいい、かな」

 

 視線を伏せての成実の言葉に、赤井は重々しくうなずいた。

 

 「待て。おろす?だから、それは」

 

 「想像妊娠だとして、あんたは説明がつけられんのか?たった数日で、人間の腹がガスで妊娠と勘違いしそうなほど膨れる原因を」

 

 「そんなの」

 

 医者でない自分にわかるわけがないと言いかけて、風見は言葉を飲み込む。その医者が、あり得ないとさじを投げていたのを思い出したのだ。

 

 「外科処置というわけにもいくまい。こういうケースならばなおさらだ」

 

 そう言って、赤井は一歩奥方に近寄り、茫洋としている彼女の目に視線を合わせ、口を開く。

 

 「一言訊こう。それは、あなたの望んだ結果か?」

 

 途端に、かすかなハミングが止んだ。

 

 茫洋としていた黒い眼差しに、恐怖と助けを求める光を見出した赤井は、静かにうなずいた。わかっている、というかのように。

 

 「その子を、在るべき場所に帰そう。構わないな?」

 

 奥方は答えなかった。だが、それで十分と言わんばかりに、赤井は立ち上がって一歩下がる。そうして、コートの下から革表紙にはさまれた羊皮紙の束を引っ張り出した赤井に、風見は怪訝そうに眉をしかめる。

 

 何をする気だ?

 

 「見ない方がいいぞ。俺も何度か見たが、何度見ても慣れねえよ」

 

 「慣れたらおしまいって意見もありますけどね。気分が悪くなると思いますから、見ない方がいいというのには同意しますが」

 

 松井と成実が声をかけてくるが、風見は目をそらす気にはなれなかった。

 

 尊敬する上司がいない以上、この異国の捜査官が勝手をしないように、自分が目を光らせるのだ。

 

 

 

 

 

 直後、風見は死ぬほどその判断を後悔した。

 

 

 

 

 

 

 まず、赤井はコートから取り出した容器を成実に渡し、奥方の下腹部に赤みを帯びたクリームを塗らせた。

 

 「呪文≪臓器の転移≫、その応用の使用を命ずる。対象は除去にとどめる」

 

 そうして、右手に携えていた羊皮紙の束にそう声をかける。

 

 直後、革表紙が開かれ、その中の羊皮紙の束が浮かび上がる。バラバラと紙切れが、風もないのに意志を持っているかのように赤井を中心に空中を舞い踊り、そのうち一枚が、書かれた文章を赤く光らせ、赤井の目線の先に浮かび上がる。

 

 赤井の薄い唇が、何かを口ずさむ。だが、風見の脳髄はそれを理解することを拒否した。あらゆる常識、物理法則を嘲笑い冒涜するかのようなその現象の、意味が分からない。知りたくない。わかりたくない。何が起こっているかなんて、そんな、そんな、あんなの、風見には分からない!分かりたくもない!

 

 ブツリっと、風見の中で何かが切れた。あるいは、なくてはならないものがごっそり減った。

 

 風見の喉は、奇声を張り上げていた。こんな意味の分からない状況を作るあの男を、生かしておいてはならない!無我夢中で、風見はスーツの懐から引き抜いた拳銃の安全装置を外し、赤井の頭に狙いを定め――。

 

 「だから見るんじゃないと言ったんだ!」

 

 「離せ!離せええええ!!殺してやる!悪魔め!化け物めえええ!」

 

 「クソッ!おい成実!しっかり押さえろよ!早くしてくれ大学先生!」

 

 成実と松井に抑えつけられ、拳銃を取り上げられながら、風見はもがいた。

 

 あの男を殺さねばならないのに、どうしてわからないんだ!!

 

 そんな3人を歯牙にもかけず、赤井は何事かつぶやきながらさらに動く。右手には紙束をまとめるためらしい革表紙を携えたまま、空手の左手で印を切り、そして。

 

 そのまま、彼は左手をぼんやりしている奥方の腹部に突き入れいた。

 

 肉を割いて、血が噴き出すかと思いきや、奥方の白い腹部は、水面のように波立って、赤井の黒革の手袋に覆われた左手を静かに受け入れている。

 

 だが、いよいよ理解の範疇を越えた風見はそれどころではなかった。

 

 「ああああああっ!!!葛葉さんの奥さんによくもよくもよくも!!!殺してやる殺してやる殺してやる!!」

 

 「だから落ち着けって!」

 

 「大丈夫ですからぁ!」

 

 成実と松井が必死に抑えつけようとするのに、風見はもがき抵抗しながら、目の前の光景を睨み付けた。

 

 ずるりと赤井の左手が、引き抜かれる。奥方の腹には傷一つなかった。そして、そして。

 

 赤井の左手に捕まれているそれを確かに風見は見たのだ。だが、彼は思い出せない。まるで霞がかかったかのように、その部分だけは思い出せなかった。思い出す、記憶するどころか、認識することをあらゆる感覚器官が拒否するかのように。

 

 だが、一つだけはっきりしていた。それが、奥方の腹の中に入っていたなど、絶対間違いだ。ありえない。それが、風見の抱いた感想だった。

 

 何でそんなものが。恐ろしい。悍ましい。何で何で何で!!!

 

 ただの肉塊、と言い切れればよかったのだろう。赤子の成り損ないどころか、あらゆる臓器の形、どころか生き物そのものにも該当しないそれを、赤井は無造作に床に叩きつけた。

 

 濡れそぼった雑巾のような音を立て、なおも蠢き産声にも満たない醜い悲鳴を上げるそれを、赤井は憐れむような面持ちで、そのまま革靴で踏みつぶした。

 

 途端に、その場を支配していた何かが、喪失した。ブツリっと見えない糸が切れたかのように、何かが、元に戻った。うまい言葉が見つからないながら、風見はそう感じた。

 

 赤井の黒い革靴の下で、それが空気に溶けるように姿を消した。

 

 直後、くたりっと奥方がベッドに崩れ落ちる。赤井の周囲をまとわりつくように飛び回っていた羊皮紙たちも、仕事は終わったというかのように、彼の右手の革表紙の中に一斉に飛び込み、ただの紙束と化す。同時にパムッと音を立てて革表紙も閉ざされた。

 

 「あああ!いやだ!いやだいやだいやだ!!!」

 

 風見が認識できたのはそれまでだった。もはや、何を信じて受け入れればいいのか、彼の理性は仕事放棄してしまったのだから。

 

 「いい加減大人しくしやがれ!」

 

 松井の罵声と一緒に、脳天をしたたかに殴られ、意識を飛ばしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 次に風見が気が付いたときには、病院の片隅にある喫煙所にいた。

 

 煙草臭い、硬いベンチの上に寝かされている。松井と赤井が煙草を吹かしており、成実がすぐそばに座っている。

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「あ、ああ」

 

 ホッとしたような成実に声をかけられ、あわてて風見は身を起こして、身なりを正す。

 

 FBIの前で何と情けない姿を見せてしまったのだ。これでは公安に泥を塗ってしまう。

 

 「すまない。みっともないところを見せた」

 

 「いえ・・・無理もないですよ。

 

 私も、初めての時は、信じられなくて自分で頭をかち割ろうとしましたから」

 

 微笑む成実に、改めて風見は姿勢を正して、尋ねる。

 

 「何が起こっている?あれは何だったんだ?解決させると言ったな?

 

 ということは、あれを引き起こしている犯人がいるのか?」

 

 矢継ぎ早の風見の質問に、しかし成実は困った顔をした。

 

 そうして、風見もすぐさま口を閉ざす。

 

 

 

 

 

 そうだ。この件はすでに公安の手を離れ、HPL案件の専門捜査機関に移譲されたのだ。

 

 係わっていいことなど一つもない。先ほどのように、きっと、まともでない話なのだろう。

 

 しかし、と風見は思うのだ。

 

 風見の尊敬する上司の奥方が、傷つけられた。葛葉警視正は、奥方が事件に巻き込まれたのを聞くや、苦しそうに眉を寄せながら、それでも仕事をしなければならないときっぱりと言い放ったのだ。それでも仕事を優先するとは、公安の鑑のような方だ!

 

 風見は、少しでも、そんな葛葉の力になりたかった。

 

 ただ、それだけだったのだ。

 

 

 

 

 

 しかし、意外にもそんな風見に助け舟を出したのは赤井だった。

 

 彼は、おそらく風見の所属を見抜いていたのだろう、捜査の効率化のために彼を巻き込むことにしたらしく、そのための事情説明を始めたのだ。他二人はその強引さに呆れていたが、最終的にそれに同意した辺りで同罪である。

 

 いずれにせよ、風見にすでに聞かなかったことにするという選択肢はなかった。スマートフォンで今抱え込んでいる業務のうち、どうしても必要な急務であるものを他の信頼できる人員にてきぱきと振り分け、完全にこのイレギュラー(イリーガルの可能性もある)の業務に首を突っ込むことにしたのだ。

 

 これは断じて、ボイコットではない。立派な職務だ!

 

 この時、風見は異国の捜査官である赤井を見張り、尊敬する葛葉の手助けになりたいという欲に駆られていたため、そう言い訳した。

 

 しかし後に、この時の自分の思考を思い返した風見は、まだ錯乱していたのかもしれない、と思ったそうな。

 

 ともあれ、改めて風見は自己紹介をして、この事件の捜査に本格的に身を投じることになったのだ。

 

 

 

 

 

 赤井の説明(+松井と成実による補足)によれば、こういうことである。

 

 ある魔導書が日本国内で発見され、その希少性と危険性からミスカトニック大学の図書館に所蔵されることとなり、輸送されることとなったが、何者かに襲撃を受けて本が強奪された。

 

 その本の受け取りに来ていた赤井が、襲撃者の迎撃に出るが、負傷者もたくさんおり、やむなく、取り逃がす。

 

 襲撃の際に使われた魔術の痕跡などを鑑み、襲撃者は魔術に造詣のある人間――いわゆる魔術師であると判断。

 

 そして、それと前後して、件の集団錯乱・心神喪失者の続出が発生。

 

 時間軸の一致、現場がさほど離れてないことなどから鑑み、一連の事件は同一犯のものであろうと推定された。

 

 魔導書の奪還、最悪は処分を目的とする赤井と、集団錯乱・心神喪失者続出の解決を捜査する松井と成実が行動を共にするのは、必然であるともいえた。

 

 

 

 

 

 とりあえず風見は、正気か貴様らと猛烈にツッコミを入れたくなったのは確かだ。

 

 魔導書?魔術師?

 

 だが、そんな戸惑う風見を置いて、他3人は至極真面目に話を進める。

 

 途中、ウェイトリーやら旧支配者〈グレート・オールド・ワン〉やら、外なる神〈アウターゴッド〉やら、風見にとっては意味不明の言葉が出てきたが、要約すれば今回の犯人の目論みは、おそらく。

 

 魔導書に載っていた神格(赤井曰く、ヨグ=ソトースというらしい)を招き入れ、被害者たちはそれと子作りをさせられた。女性は想像どころか本当に妊娠させられ、男性はそれを見たか、魔術か何かで頭をおかしくさせられた。

 

 どうにか、推測できる言葉の数々からそう予測できたが、正直風見はこの結論も頭がおかしいし、それを至極真面目に言い合っている彼らの頭もどうかしていると思っていた。

 

 FBIきっての切れ者と名高い赤井が、魔術だ神格だと表情一つ変えずに言ってるのもどうかしているとかしか言えなかった。

 

 直前に見た、あの常軌を逸した光景がなければ、きっと風見は彼らの話を微塵も信じる気にはなれなかっただろう。

 

 何にせよ、協力すると決めたのだ。真実は捜査していけばおのずと明らかになるだろう。

 

 

 

 

 

 そこからは一度二手に分かれて行動することになった。

 

 肝心の魔術師の潜伏先が分からないのだ。それを特定しなければ話にならない。

 

 赤井と松井が、米花中央病院に入院する他被害者の個人情報の裏取り。

 

 成実と風見で、葛葉夫人の調査である。

 

 何故葛葉夫人だけ別枠かといえば、葛葉夫人の方が圧倒的にセキュリティが高く、手が出せないからだ。何しろ、夫人の夫に当たる葛葉警視正は警視庁公安部に所属しているのだから。

 

 だが、それは同じ公安の警察官がいれば、話は違ってくる。特に、風見は葛葉の腹心の部下の一人だ。奥方の様子見のために、自宅の合鍵をも持たされているのだ。

 

 なお、組合せに関して、風見は少々意外に思った。おそらく、本来はバディを組んで行動しているだろう松井と成実が、別れる選択を取ったのだから。

 

 ・・・もっとも、それで余りものとして赤井と組まされようものなら、捜査どころではなくなっていただろうが。おそらく、その組み合わせを提案した松井はそれをも見越していたに違いない。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 まったく無関係の成実を葛葉の家に上げるのに風見が躊躇しなかったと言えば、嘘になる。

 

 しかし、事は一刻を争う。情報を探るならば、手分けした方が早い。

 そうして、風見はマンションのセキュリティを解除し、成実を葛葉の家に上げたのだ。(奥方の様子見や、葛葉の使いの関係で風見も合鍵を持たされていたのだ)

 

 内心で、葛葉のいかめしい面持ちに平謝りしながら、風見は成実とともに何か手がかりはないか探し始めたのだ。

 

 

 

 

 

 違和感は、内心あったのだ。ただ、風見が意識しないようにしていただけで。

 

 例えば、妙に殺風景なマンションの内装。例えば、風見が様子見に行くたびに、色の悪い顔に誤魔化しとわかるほどヘタな笑みを見せていた奥方。

 

 探し出した奥方の日記には、彼女の苦悩がつづられていた。

 

 結婚当初から、冷たい態度を取り続けていた夫。妻の手作りの食事はとらない、勝手に出歩くな、外で名前を呼んで接近してくるな、など夫婦とは思えないような決まり事の数々。

 

 帰宅して、せめて労おうと出迎えた妻に対する、疲れから来る八つ当たりらしい暴言の嵐。

 

 必死に歩み寄ろうとする妻の努力を、ことごとく踏みにじる夫の姿が、そこからは読み取れた。

 

 日記の文字は、時折歪み、円形に皺が寄ってにじんでいる部分がある。涙の跡だ。

 

 嘘だと風見は言いたかった。外ではあんな、おしどり夫婦であったというのに!だが、風見が見ないふりをしていたものが、それを肯定してしまう。

 

 家族を大事にしているはずの、葛葉から一度も奥方の好きな物の話や、彼女にまつわる思い出、あるいは記念日の話を一度も聞かなかったのだから。

 

 日記の記述が一変したのは、二人で奥方の方の実家へ行った際に、奥方の父からかけられた「そろそろ孫の顔が見てみたい」という遠回しな催促だった。

 

 ・・・夫婦は、政略結婚であるのだ。つまりは、実家へのご機嫌取りが不可欠なのだ。

 

 そこからごっそりと白紙のページが続いていて、ようやく書かれた日記には、その日の出来事は綴られず、短く「汚い」「逃げたい」「死にたい」「もういやだ」とだけ書かれていた。

 

 何があったかは、想像に難くない。

 

 そして白紙のページがまた続き、最近の日付になったところで、ネットに匿名のオカルト掲示板越しで友人ができたと、弾んだ字体で書かれているのが見つかる。

 

 夫に関する記述は一切なくなり、どんどんその掲示板とそこに出入りする友人たちとのやり取りやそれに関する感想が増えていく。

 

 そして、一番最後に、オフ会をする、そのついでに噂の幽霊が出るという廃屋を見に行くという記述が載っていた。

 

 日記はそこで、終わっていた。

 

 

 

 

 

 成実は嫌悪感に満ちた顔をしながらも、自身の業務を優先させる気だったのだろう、日記を読み終えるや、奥方の寝室にあるパソコンを点けようとした。

 

 だが、彼女(風見は成実を女性と思い込んでいた)は何か考え込むように軽く目を伏せると、それを風見に任せ、部屋を出て行ってしまった。

 

 何だろうか。いくら事件解決のためとはいえ、あまり好き放題してもらっては困るのだが。

 

 ともあれ、風見はてきぱきと動く。パソコンの履歴やメールをチェックし、オフ会の日程や待ち合わせ場所、件の幽霊の出るという廃屋の位置の特定を済ませる。

 

 ついで、掲示板のアドレスも控えておく。赤井はともかく、相手は異なれど同じ日本を守るMSOの二人には、有益な情報となると判断したからだ。

 

 思うところはある。だが、それはこの事件を解決させてからだ。たとえ逃げだとなじられようと、ひとまずはと風見は自身にそう言い聞かせた。

 

 そうして、奥方の自室を出たところで、風見は愕然とした。

 

 何と、成実が葛葉の方の自室に侵入していたのだ。あれほどここには入るなと言いつけておいたというのに!

 

 さすがに仕事を持ち帰るなどということをあの有能な上司がしているわけがないだろうが、それでも機密の一つや二つ転がっているかもしれないというのに!

 

 「ねえ、風見さん。おかしいと思いませんか?」

 

 パソコンを弄りながら、成実は振り向きもせずに止めようとした風見に言った。

 

 思わず、風見はそれに身動きを止めて問い返していた。

 

 「おかしい?」

 

 「奥さんの日記には“家から必要以上に出歩くなと言いつけられた”とありました。仮にこっそり出かけても、連れ戻されています。知ってますよね?」

 

 知っている。風見もその連れ戻した人間の一人だからだ。

 

 ・・・このマンションはセキュリティが厳重であり、公安の息がかかっている。出入りの際に、その記録が残されるし、ある程度の権限を持つならその記録を閲覧、どころか特定の人間が出入りしたらその通知が届くようにさえなっているのだ。

 

 「何でオフ会に出かけたとき、連れ戻されなかったんですか?」

 

 「あ・・・」

 

 指摘されて風見は息を飲んだ。

 

 「そ、そうだ!きっと、葛葉さんも申し訳なくなったんだ!だから、きっと、そのくらい許容するように」

 

 「もう一つ」

 

 わずかな風見の希望を叩き壊すように、パソコンをにらみマウスを動かす成実が言った。

 

 「阿須那羽さんが言ってたんですけどね?奪われた魔導書の輸送警護には、何人か公安の人間も回されていたそうです。

 

 襲撃者は、どこから輸送の情報を得ていたんだと思います?」

 

 「公安が漏えいしたというのか!!」

 

 「それを、確認しているだけです。もちろん、その線はないと思いたいですが」

 

 そう言いながら、成実はマウスをクリックし、画面を読み込み――ややあって、ギリッと大きく歯を鳴らし、まるで汚物を目の当たりにしたように画面から視線を引きはがした。

 

 促され、風見は半信半疑に画面を覗き込み――思考が、真っ白になった。

 

 それは、メール画面だった。日付・場所はもちろん、警備状況を子細に書き込んであり、報酬として“完全にして最高にデザインされた子供”を与えるよう念押しする文章があった。

 

 「嘘だ・・・嘘だ、嘘だ・・・!」

 

 崩れていく。風見が公安の鑑と目した人物の、最悪の裏切りの証が、そこにあった。

 

 「“完全にして最高にデザインされた子供”・・・落とし子か」

 

 苦虫をかみつぶすように唸った成実は、続いて部屋のものを物色する。日記か何かを探しているのだろうか。

 

 風見はそれどころではなく、放心状態に陥っていた。

 

 グルグルと、その脳裏を葛葉との思い出が巡っている。緊張でガチガチになっていた新米の風見の肩を叩いて笑いかけた姿。失敗を力なく報告した風見を、まずは怪我の心配をして、続けて厳しく叱責しながらもフォローに当たる頼れる上司。てきぱきと指示を出し、その大きく頼りがいのある背中を見せつけられた。結婚の報告を、現実味は薄いんだが、と困ったように笑いながらも、話してくれた姿。仕事上がりに、この店は美味いんだと飲みに連れて行ってくれた姿。それらが音を立てて壊れていく。

 

 どうして。どうして。どうして。

 

 

 

 

 

 成実が動機の発見をしたのは、風見がようやく動き出した直後だった。

 

 それは、葛葉が無精子症という、診断書だった。一度ぐしゃぐしゃに丸められたのか、皺まみれのそれは、本棚の隅の隅にファイルに挟まっておかれていた。

 

 夫人の日記と合わせて推測されたことはこうだ。

 

 政略結婚したからには、夫人の両親に媚を売らねばならない。そして、そのご両親から孫を催促された。だが、肝心の葛葉自身の関係でそれは不可能。

 

 何か手はないかと探し回った結果、接触してきた、件の魔術師。

 

 どうせ子供を孕ませるならば、そこらの凡人の血をひかせるよりも、格段に凄まじい力を持つ、神の仔を。

 

 仮にも自分の妻を、何だと思っているのだ。

 

 憤慨する成実に、風見はもはや何も言えなかった。

 

 なぜなら、風見は、そんな男の言いなりになって、この牢獄のような場所から逃げたかったであろう夫人を捕まえ、何度も連れ戻していたのだ。

 

 けして、風見は、それに同意する資格など、ありはしないのだ。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 調査を終えて合流するや、風見は少々驚いた。

 

 赤井と松井は二人ではなかった。途中で強引に同行を迫られた、拒否すれば赤井が魔術を使ったこと(どうも米花中央病院でも同様の魔術を使ったらしい)をネットに流すと脅されたと、女を一人連れていたのだ。

 

 ショートボブにした黒髪に、グレーのパンツスーツを纏った彼女は、眼鏡の奥の瞳を険しく釣り上げていた。風見は彼女を知っていた。

 

 「橘?!」

 

 「風見さん・・・」

 

 彼女は、風見の“協力者”、弁護士の橘鏡子であった。

 

 

 

 

 

 話を聞けば、どうも米花中央病院に入院している被害者たちのうち一人が、橘の友人であるというのだ。彼女の見舞いに来ていた橘は、明らかに見舞客としては異質な3人組を発見し、彼らが常軌を逸した行い(いわずもがな、赤井の魔術の行使。こちらの病院の妊娠していた女性へも同様の処置をしたのだ)をするのを隠れ見て取り乱し、その場から逃げてしまったのだ。

 

 だが、落ち着いて考えてみれば、あるいは彼らは友人に起こったことについて何か知っているのでは?と思い直した橘は、あちこち探しまわり、ついに捕まえることに成功したのだ。

 

 

 

 

 

 橘は頑なだった。

 

 どうにか風見がなだめようとしたが、絶対行く!止めても無駄だ!と言い張ったのだ。

 

 何とか他のメンバーに助力を求めようにも、赤井と松井は自己責任と突き放し、成実に至っては事情を聞くなり少し気の毒そうにして、止めても無理そうだし、それならいっそ見えるところに置いといた方がいいんじゃないかと言い出す始末である。

 

 やむなく、風見も折れる羽目になった。

 

 

 

 

 

 どうにか橘の処遇についても話がつき、改めて情報の共有・整理を行い、ようやく魔術師の居場所を特定した。東都郊外の廃屋らしい。

 

 そこで赤井が一度解散を言い出した。少々準備したいものがあるということだった。

 

 MSOの二人も経過報告と、合わせて装備を整えてくると言い、橘と風見にも、荒事になる可能性があるため、装備を整えてくるようにと伝えてきた。

 

 確かに、と風見も同意した。拳銃は所有している(病院で正気を取り戻したときに返してもらった)し、刑事であるがゆえに荒事の心得はあるが、橘はどうであるのだろうか。ないならば、やはり彼女に来てもらうのはいけない。

 

 風見の視線に気づいたか、橘は視線を一層険しくして、「私も準備してきます!言っておきますが、絶対行きますから!」と言い残して去っていった。

 

 一応、待ち合わせの時間は事前に決めておいた。現地集合である。廃墟の探索ともなるので、風見も準備をしにかかった。

 

 

 

 

 

 東都の郊外にある、2階建て庭付きの一軒家。一見するとそんな感じの廃屋が、目的地であり、集合場所である。

 

 風見は少々職権乱用して、防弾ジャケットを用意し、身に着けておいた。相手は魔術師というが、文明の利器〈銃火器〉を使わない保証はどこにもない。

 

 できるなら、他の人間の分も(最低限、民間人の橘には)用意しておきたかったが、いくら公安といえど備品を勝手に持ち出すのはよろしくない。ただでさえも、“違法捜査”で他の部署から厳しい目で見られているのだから。

 

 集合した他のメンバーはといえば・・・松井と成実、赤井は解散前とさほど変わった格好はしていない。

 

 特筆すべきは橘で、パンツスーツから一転して、動きやすそうなカジュアルな格好に、左肩に細長い布袋を担いでいる。

 

 一同の視線に気が付いたが、布袋を下して、少しだけ中身を見せてきた。赤い柄紐の、日本刀の柄らしき部分が見えた。

 

 「剣道場を開いていた祖父は、居合もしてたんです。私も手ほどきを受けました。免許皆伝してますので、腕には自信があります。この刀は祖父から譲ってもらったものです」

 

 意地でも足手まといにはならないと強い眼差しで語るが、風見は不安が隠せない。稽古や試合と、実戦はまるで別物なのだ。

 

 大体、悠長に刀を構えて切り掛かろうものなら、銃で撃たれたり、魔法をかけられる可能性があるかもしれないというのに。

 

 そんな彼女に、赤井が歩み寄り、二三、言葉を交わす。

 

 「すまないが、先に中を探索していてくれ。すぐに行く」

 

 赤井の言葉に、松井は肩をすくめ、成実はうなずいて、渋る風見を引きずるように廃屋の敷地に連れ込んだ。

 

 チラッと振り向いたとき、赤井はまたしても、あの革表紙の本を右手に持っていたようにも見えた。

 

 

 

 

 

 廃屋の埃を消すような、いくつもの足跡に、風見はもちろん、他二人もすぐに気が付いた。

 

 複数人が入り込んだらしいが、確実に女性がいたのは間違いないだろう。足跡のうち一つが、踵部分が小さく、その一点に体重がかかるため床に傷を残しやすい形状――ピンヒールのものだったからだ。このタイプの靴を履くのは、まず女性だろう。

 

 足跡をたどるように奥へ向かい、探索する。どこに魔術師がいるかわからない以上、あまりバラバラに動くのは危険だ。できるだけお互いの死角をカバーできるように固まって行動する。

 

 例のオカルト掲示板のオフ会をした連中も、あちこち見て回ったらしく、そこかしこに痕跡が見受けられた。

 

 やがて、とある一室で、地下に向かう階段を発見した。頻繁に出入りされているらしく、埃が少ないのだ。他の場所にはオフ会連中の足跡が残るくらいはあったというのに、ここには埃そのものが少ない。

 

 おそらくここだろうと当たりをつけたところで、赤井と橘が合流する。

 

 橘の顔色が微妙に悪いが、赤井はいったい何をしたのだろうか。風見は赤井を詰問したが、橘は口を閉ざし、赤井は「そのうちわかる」とはぐらかした。

 

 ともあれ、発見した地下への階段を、改めて下りていくことになった。

 

 先頭は拳銃を持っている松井が務め、その後を同じく拳銃を持つ風見が、成実と橘がその後に続き、しんがりを拳銃を持つ赤井(案の定持っていた)が続く。

 

 ちなみに、成実は応急処置セット程度で、武器は手ぶらだった。なぜ何も持ってない?!という風見に、成実は「組み技を収めてますし、拳銃は不得意なんです」と苦笑して見せただけだった。

 

 ・・・成実が細身の見た目とは裏腹に、下手な男性よりも、筋力があるというのはこの場では松井程度しかあずかり知らないことであろう。神話生物を素手で仕留めたこともある傑物でもある。

 

 

 

 

 

 暗い階段を、拳銃に付けたフラッシュライトで照らす松井に、成実のライトがさらに照らす。ちなみに、懐中電灯は他のメンバーも持っているが、とりあえず奇襲を警戒してこの二人だけが照明を担当することになったのだ。

 

 やがて、ひどい臭いが鼻につき出す。腐臭だ。饐えたような、肺自体が受け入れることを拒否したくなる、ひどい臭いだ。

 

 えずきそうになるのを堪え、一同は地下室に踏み込んだ。

 

 だだっ広いという言葉では片付かない、上の邸宅からは想像つかないほど広い地下室だ。

 

 端の方に転がる、既に腐敗してかろうじて形がわかる程度の遺体が複数。

 

 そして、部屋の中央はすり鉢状にえぐれており、それを取り囲むように、巨大な石の柱がいくつも並べられている。何も知らなければ、ストーンサークルにも見えるかもしれない。だが、これは断じてそんな生易しいものではない。

 

 なぜなら、その柱にはすべて、いくつも意味不明ながら悍ましさを感じる文字列、あるいは見ているだけで頭痛がしそうな模様が彫り込まれており、風見はそれを目の当たりにしただけで、体の震えが止まらなくなった。

 

 これは何だ。何だこれは。こんなものが何で。何で。

 

 ベチャッという重い粘液が壁に当たるような音がした。松井が体をくの字に折って、ゲーゲー吐いている。音は、吐しゃ物が床を汚す音だった。

 

 「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だってまだ何もないこんなのただの石ただの石あり得ないあり得ないあり得ない」

 

 ブツブツと脈絡のないことをひたすらつぶやくのは、青い顔をした橘だ。

 

 成実はといえば、同じく青い顔でひたすら自分の腕を掻き毟っていた。

 

 そんな中、一人赤井だけが苦虫をかみつぶした顔で平然としていた。・・・一周回って、この男が一番頭がおかしく見える光景である。

 

 「・・・落ち着いたか?」

 

 「どう、にか」

 

 「す、すみません・・・」

 

 「最初から落ち着いてますよ見ればわかるじゃないですかこんなのおかしいけど落ち着かないといけないって」

 

 とりあえず橘は落ちつけてないのはわかった。

 

 風見もまだ震えは止まらないが、ノロノロと体を動かす。

 

 「こ、れは何だ・・・?」

 

 風見の問いに、うんざりしたような赤井が答える。

 

 「神格招来のための儀式の一環、だろうな。ここから喚び出すんだ」

 

 何を?何が、こんな恐ろしいところから出てくるというのだ。

 

 そして、出てきたそれが、何をするというのだ。

 

 理解したくない。風見の、一般には優秀な部類に入る頭脳は、その事象と、先に待ち受けるものに対する想像を放棄した。考えたくもない。

 

 「予想はしていたが・・・案の定だったか。持ってきて正解だな」

 

 言って、赤井はコートの懐から取り出したものを、ひょいと松井に渡す。オフホワイトの粘土のようにも見えるが、かなりの量があるだろうそれに松井は眉をひそめる。

 

 「何だこりゃ?」

 

 「C-4だ」

 

 「おいこらFBI!」

 

 何というものを持ち歩いてるんだこの男!!風見はもちろん、思わず取り落としそうになった松井も、それが何かわかっているのだろう。

 

 「C-4?」

 

 「軍用プラスチック爆薬だ。TNT換算で約1.34倍の威力がある。粘土状だからな。仕掛けやすさは固形爆弾のそれを上回る」

 

 怪訝そうな成実に、松井が顔をひきつらせながら言う。

 

 一時解散を言い出した時に、取りに行ったに違いない。

 

 「こっちが信管だ。幾ついるかわからなかったが、とにかく必要分はあるだろう。で、この端末から起爆コードを送信すれば、起爆する」

 

 顔色一つ変えずに説明する赤井だが、風見は噛みつかざるを得なかった。

 

 「何を考えているんだ!!ここは日本だ!貴様の国のようにすぐさまドカンで済むと思ったら大間違いだ!!」

 

 「・・・では、どうするんだ?」

 

 静かに、赤井が尋ね返す。

 

 「この少人数で、あの石柱群を短時間に破壊する効率良い方法が、爆破以外にあるなら、教えてくれ」

 

 「ま、乱暴ではあるが、正解だな。重機もこんなとこには入り込めねえぞ」

 

 肩をすくめた松井に、風見は答える。

 

 「別に、ここを壊さずと、魔術師を捕えればそれで」

 

 「バカじゃないですか別の人間が利用したり何かの弾みで呼び出されたらあなた責任取れるんですかああそこまで考えてなかったから言ったんですよねすみません私でも考えつくことなのに」

 

 いまだに落ちつけてないもの橘の言った正論(嫌味付)に、うっと風見は言葉に詰まる。

 

 「幸い、ここは郊外の廃屋だ。多少ドンパチしても問題ない。どうせ、“広報”の連中がどうとでもするだろう」

 

 そう言ったところで、松井が舌打ちする。

 

 「・・・どうやら、入れ違いになっていたようだな」

 

 上が騒がしい。魔術師が戻ってきたのだ。おそらく、新たな犠牲者を携えて。

 

 「二手、いや、三手に分かれるぞ。

 

 魔術師の気を引き、かなうならその打倒を狙うもの。

 

 被害者の救出を担当するもの。

 

 石柱に爆薬を仕掛けるもの。

 

 俺は面が割れているから、魔術師を担当する。

 

 浅井、君は医術の心得があるな?救出班へ行ってくれ。

 

 松井は爆発物に対する知識もあると聞いた。そのまま爆薬の方を。

 

 残り二人は自分で決めろ」

 

 言うや、赤井は踵を返し、階段の前に仁王立ちになる。

 

 「了解」

 

 「しょうがねえな。まさか俺が爆弾仕掛ける羽目になるとはな・・・」

 

 短くうなずいて赤井の隣に並ぶ成実に、松井は信管と起爆端末を受け取って踵を返す。

 

 橘はといえば、刀を抜いて、浅井の隣に並ぶ。

 

 「私は魔術云々はわかりませんが人質の救出くらいはできますだから手を貸します足手まといにはなりません」

 

 風見はといえば、不本意だが、赤井の隣、成実の反対、斜め後ろにつく。

 

 必要に応じて、人質救出、あるいは赤井のフォローにつく。それが風見の決断だった。風見の爆発物に対する知識はさほど高くない。専門と比べれば、いわずもがな。ゆえに、そちらは松井に任せることにしたのだ。

 

 

 

 

 

 階段を下りてきたのは、やせ気味の男と、妙に太った巨漢だった。

 

 やせ気味の男は、浮浪者と見紛う小汚い格好をしていたが、目つきが違った。とっさに風見が連想したのは、数年前に逮捕した連続殺人鬼だった。汚い手で触ってきたから殺したという、理解しがたい――サイコパスらしい動機を語った、あの男の目と同じだと、そう思ってしまったのだ。

 

 そして、妙に太った巨漢を見た瞬間、風見はやっとおさまってた震えがぶり返したのを悟った。

 

 ダラダラボトボトと、顔面についている穴という穴から、黒い粘液をたらしながら、その男はゆらゆらと歩いていたのだ。どす黒い顔色は、既に男が死人であることの証左だった。

 

 肩に担いだ気絶している女をドスンと下す大男をよそに、痩せた男が赤井を見やり、鼻で笑う。

 

 嫌悪に満ちた顔をする赤井の反応から見ても、おそらくこの男こそが探していた魔術師なのだろう。

 

 風見は歯の根が合わないほどの震えを押さえつけようとするかのように拳銃を強く握りしめる。できるなら、これに頼るなんて、本当に最終手段であってほしい。

 

 

 

 

 

 風見のそんな些細な懇願は、あっさりと踏みにじられた。

 

 

 

 

 

 魔術師の戦力は黒い粘液を顔から垂らす大男だけではなかった。

 

 戦闘開始と同時に赤井に脳幹を撃ち抜かれた大男に憐みや気遣いの一つすら見せず、魔術師が指を鳴らすや、部屋の隅がうごめいた。

 

 ゴミか何かのように打ち捨てられていた死体が、動き出した。B級ホラー映画に出てくる生ける屍〈ゾンビ〉さながらに。それもいくつもいくつも。

 

 悲鳴を上げながらも、一同は応戦した。

 

 赤井と風見は拳銃で。橘は刀でゾンビに切り掛かる。成実はどうにか気絶している女性に近寄ろうとしていたが、ゾンビに邪魔されて思うようにできないらしく、片っ端から投げ飛ばしている。

 

 途中、橘は何度か攻撃を仕掛けられたが、薄い光の膜のようなものに邪魔されて、ダメージが軽減されている。

 

 ひょっとしたら、赤井の使った魔術か何かで、橘だけは見えない装甲のようなものを纏っている状態なのかもしれない。

 

 松井の罵声に気が付いた風見は、途中で赤井たちのフォローから、松井のフォローに自身の役目を切り替えた。

 

 爆薬を仕掛ける松井に代わり、ゾンビを撃ち殺す。

 

 風見とて、拳銃を扱ったことは初めてではない。だが、人一人の命を軽々と奪えるものが、今自分の手の中にあると思ったら、ただの鉄の塊であるはずのそれが妙に重く感じたものだ。

 

 今、重いはずのそれは奇妙な軽さをもって、風見の手によって鉛弾を吐き出し続けている。

 

 途中弾切れしかけたが(警察で支給される拳銃だ。必要以上に弾丸の予備があるはずがない)、それに気が付いたらしい松井が自分の拳銃を貸してくれた。松井自身はどうするかと思いきや、懐から折り畳み式の特殊警棒を取り出している。

 

 「よしっ!こいつでラストだ!」

 

 松井はそう叫んで石柱から離れるので、風見もそれに追随する。あえて大声で言ったのは、他のメンバーに爆破の準備が完了したのを知らせるためだろう。

 

 「全部には足りなかったんでな!まあ、それでも十分なはずだ!」

 

 十分距離を取って、松井は携帯電話を改造したらしい端末から起爆コードを打ちこむ。

 

 同時に赤みがかったオレンジ色の閃光と轟音を放って、何本かの石柱の根元が爆発する。

 

 さすがは軍用爆薬である。とんでもない爆発力だ。

 

 「儀式は失敗した。詠唱は無意味だ。もうよせ!」

 

 赤井の怒声が、崩れゆく瓦礫に負けじと響き渡る。

 

 風見が見やると、そんな赤井を無視して魔術師は何事かつぶやきながら、両手で印を切っている。

 

 「いあ!いあ!よぐ=そとーす!ふたぐん!」

 

 そうして、詠唱が完了した。同時に、すり鉢状にえぐれていた部屋の中央の空気が震える。空間が歪み、あらぬ方向へめり込んでいる。

 

 とっさに、風見はそう思った。

 

 そして、そこから吐き出されたものに、今度こそ風見は絶叫していた。

 

 

 

 

 

 現れたのは、奇妙な物体だった。形がないというのではないが、その形はあまりにも複雑に入り組んでいる。いくつもの半球体と輝く金属とが長い可塑性の棒で連結されている。棒は全面同じ灰色をしているので、どれもが近くにあってどれが遠くにあるのかわからない。

 

 半球も金属も棒も、一緒になってただ平板な塊のように見えた。その塊から筒が何本も突き出している。それを見ているとき、棒の間から輝く目がこちらを見ているような、異様な気配を感じた。しかし、よく見つめてみると、棒の間にあるのはただ空間だけだった。

 

 

 

 

 

 3次元構造を嘲笑い冒涜し、あるいは破壊しようとするそれに、真っ先に叫び声をあげたのは魔術師自身だった。

 

 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 理性が瞬時に焼き切れた彼は、絶叫を上げながらそれ目がけて飛び込んだ。

 

 そして、その指先がそれに触れるや、彼に異常な変化が起こる。折りたたまれていく。折り紙――いや、いらない書類を手慰みにそうするように。紙切れのように、生きた人間の体躯が折りたたまれていく。

 

 「何あれ何なのあれ何なの何が何があれあれあれが何あれ何なのあれ何なの何が何があれあれあれが何あれ何なのあれ何なの何が何があれあれあれが」

 

 絶叫とともに腰を抜かして座り込んだ橘を強引に立たせ、赤井が怒声を張り上げる。

 

 「ダオロスか!≪招来≫の失敗だ!よりにもよって、他のものを呼びこんだな?!

 

 逃げろ!こいつは膨張して周囲のものを片っ端から取り込むぞ!」

 

 青ざめていた松井と女性を担いでいた成実は赤井に指摘されるまでもなく駆け出した。

 

 のろのろとしているゾンビたちは、不規則に半球と金属と棒を軋ませ蠢かせ煌めかせながら風船にも似たように膨らみ始めたそれに触れるや、同じように折りたたまれながら、その中に取り込まれていく。

 

 風見はといえば、半ば呆然としていたが、赤井の叫びに反射的に駆け出していた。何が起こっているのかわからない。理解したくない。何であんなものが。

 

 どうしてこんなことに。どうしてどうして。

 

 だが、その走りは十分な速度ではなく――全力疾走のそれではなく、気の抜けたような走りであった。

 

 当然、赤井たちはとうにたどり着けている地下室の脱出口となる階段にたどり着いたのも一番最後だった。

 

 その時には膨張し続けるそれは、地下室そのものを侵食して飲み込み始めていた。

 

 風見が階段に足をかけるより早く、その足元が崩れ落ち、彼の体は空中に投げ出される。膨らみ続ける灰色の平板にして複雑なる幾何学構造が、彼をも飲みこまんと迫っている。

 

 

 

 

 

 もういいか。

 

 刹那にも満たない時間で、風見は思った。

 

 もう、嫌だ。こんな悍ましいこと、考えたくない。これ以上知りたくない。認識したくない。

 

 ここで死ねば、きっとそんなことから解放される。楽になれる。

 

 

 

 

 

 この時、風見は何もかもをかなぐり捨てて、捨て鉢になっていた。

 

 たった一日で、彼の信じていたものは打ち崩され、意識が変革され過ぎた。

 

 急激な変化は、毒でしかない。

 

 

 

 

 

 そんな風見の腕をつかんだものがいた。

 

 赤井だった。

 

 「な、なぜ」

 

 「知るか。さっさと立って走れ」

 

 目を丸くする風見に言い捨て、赤井はその身体を引きずり上げるや、腕を放すことなく引きずるように走り出した。

 

 呆然としながら、風見はつられるように走る。その背中に、かつて憧憬を見出した、年下の上司を重ねながら。似ている、とぼんやりと彼は思った。思ってしまった。

 

 

 

 

 

 廃屋を転がり出るように出たのは、赤井たちが最後だった。

 

 まだ、膨張を続けているのだろうか。廃屋の基礎まで侵食し始めたらしく、建物そのものが不吉な音を立てて軋むのが外まで伝わってくる。

 

 「放っておいていいのかよ?」

 

 息を切らしながら尋ねてきた松井に、赤井は息を弾ませながら答える。

 

 「招来手順はともかく、≪ダオロスの招来/退散≫の呪文は知らん。ただ、放っておけばある程度で元の次元に帰るらしい」

 

 「ある程度?」

 

 「奴の気まぐれ次第だろうな」

 

 目を伏せて言った赤井の言葉に答えるように、ついに廃屋が崩れた。柱が折れ、壁が崩れ、屋根をひしゃげさせ、轟音と共に崩れて冒涜的な地下空間ごと埋もれさせていく。

 

 そして、地下から感じていた異様な空気が、消失した。建物の崩壊も、同時に止まった。

 

 「どうやら、還ったらしいな。

 

 本来の招来手順は無視して、事故のような形での招来だからな。あまり長く顕現できなかったんだろうな」

 

 ポツリと赤井が言った。

 

 どこへ、とは誰も聞かなかった。聞きたくもない。少なくとも、風見はそうだった。

 

 女性の容体を確認していた成実が、顔を上げてほほ笑んで頷いて見せる。

 

 気を失っているだけらしい。現状では唯一の慰めだった。

 

 「あー。もしもし、松井です。任務は終了です。

 

 ちょっと動けないんで、回収をお願いします。・・・どっちかっていうと、精根尽き果てたに近いんで」

 

 取り出したスマホ片手にどこかへ連絡を取り始める松井をよそに、赤井が煙草を咥えてマッチを擦って火を点ける。

 

 「俺にも一本くれ。大学先生。地下のドサクサで落としちまったらしい」

 

 スマホをしまって、しばらくジャケットをゴソゴソしていた松井の言葉に、赤井はうなずいてパックを差し出した。

 

 そこから一本ぬきとった松井は、遠慮なく吹かし始める。

 

 「この仕事やってると、煙草怒られないんだよな。前のとこ、眉しかめられたのに」

 

 「魔術や神話生物は臭うからな。その臭いが他者に影響を与えることも少なくない。精神安定剤のみならず、臭い消しにもなるからだろうな」

 

 「あー。なるほど。確かに連中は臭い」

 

 苦笑する松井に、赤井はかすかに笑みを浮かべてみせる。そうだなというかのようだ。

 

 「な・・・んで・・・」

 

 やっと、風見は喉から声を絞り出した。

 

 何で、こいつらは。

 

 「何で、あんなことがあった後に普通にしてられるんだ!!あんたらは!!」

 

 あんな悍ましいものを前にして、真っ先に逃げることを考えつけるんだ。どうせ逃げたって結果は同じだったかもしれないのに。

 

 風見が思ってしまったように。

 

 「何で自分何か助けたんだ!足手まといは見捨てたらどうなんだFBI!諸伏をそうしたように!!」

 

 「あ?」

 

 松井が怪訝そうに訊き返したのを、興奮していた風見は無視した。

 

 いい年をした大人、国民の矢面に立つべき公安警察官にあるまじき、錯乱ぶりだった。感情がグチャグチャでまるでコントロールが効かなかった。

 

 「貴様に自分の気持ちがわかるのか!

 

 尊敬していた上司が、妻を虐げ化物の生贄に捧げる、警察どころか人間の風上にも置けない最低の屑だった!!

 

 あんな化け物が神様で、人間なんか塵芥にも満たないと思い知らされた!!

 

 仲間を売った最低な人間であるはずの貴様は、自分なんかを助けた!

 

 自分は、自分は」

 

 風見は喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。

 

 

 

 

 

 「自分はこれから何を信じていけばいいんだ!!!!」

 

 

 

 

 

 そんな風見の頬に、鋭い痛みが走る。

 

 眉を釣り上げた橘の、鋭い眼差しと振り抜かれた拳。殴られたのだ。

 

 拍子で外れた眼鏡が、足元でカシャンと硬い音を立てる。

 

 「甘ったれるな!!人間なら自分で考えろ!

 

 私たちは!!人間なんです!!ちっぽけで、愚かで、あんなものの足元にも及ばない!だとしても、それが何ですか!

 

 私たちは、生きて、考えることができるんです!!

 

 そして、決めて、選択することだってできるんです!!私はもう!決めました!」

 

 埃と汚れ、擦り傷でボロボロながらも凛としている橘は、赤井に向き直った。

 

 「あの!お願いが」

 

 「弟子は取らないことにしている」

 

 「何でわかったんですか!!」

 

 「こういうことは少なくない」

 

 うんざりしているような声で言って赤井は視線を松井たちにスライドする。

 

 ちなみに、松井は左手を成実に抱え込まれ、「先輩先輩!無事でよかった!今回も助かりました!」と猫のようにすり寄られ、「わかったわかった」と辟易した顔をしている。

 

 見た目には女性に甘えられ、二人の関係性が誤解を受けそうなシーンであるが、先の出来事でショックにより精神的な支えを求める成実(列記とした男)が、松井にすり寄っているだけだ。

 

 「日本で、あれらに対抗する知識や力を求めるなら、彼らのところへ行くといい。

 

 俺は所属する組織どころか国も違う。そもそもこれは副業でもあるのでな」

 

 「ミスカトニック大学はアメリカのウィルマース・ファウンデーションの傘下だったな」

 

 茶々を入れる松井を、余計なことを言うなとばかりに赤井はじろりとにらむ。

 

 「ミスカトニック大学・・・覚えておきます。今はダメでも、そのうち気を変えて見せます」

 

 大きくうなずく橘は、もはや風見を一顧だにしない。

 

 

 

 

 

 何故と風見は言いたかった。

 

 形と手段は違えど、同じ日本を守る同志のはずなのに。

 

 “協力者”に見捨てられた。風見には、そう思えてならなかった。

 

 実際、この一月後、橘は風見と手を切って弁護士稼業も畳むや、MSOに籍を移すことになる。

 

 

 

 

 

 こうして、この事件は、一応の決着を見せた。

 

 風見の精神に、巨大な爪痕を抉り刻み込んで。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 目の下にごっそりと大きな隈をつけて、風見は登庁した。実に1ヵ月ぶりになる。

 

 

 

 

 

 あの後のことを語るならば、MSOに回収され、手当てを受けた風見の行動は当然問題視され、自宅謹慎と相成った。

 

 加えて言うならば、デスクの前に立った風見に失望したと言いたげに沙汰を言い渡す葛葉警視正を、風見は勘弁ならず激昂して殴ってしまったせいでもある。

 

 何を他人面しているのだ。お前も元凶の一端なんだろうが。こっちは知っているんだぞ。全部。お前が何をしでかしたのかすら。

 

 だが、当然風見のそんな行動の真意は他者に通じることはなく、風見は警察を辞めることさえ、視野に入れながら、自宅で茫洋と過ごしていた。

 

 風見は、橘のように思い切りは強くない。

 

 だから、知ってしまった、ならば連中と戦おうという気は微塵も起きない。かなうならば、忘れたいとすら思っている。

 

 だが、目を閉じれば、悪夢として蘇るのだ。魔導書を片手に何かを引きずり出す赤井と、死人の群れ、悍ましい石柱群と、そこから吐き出された“あれ”を。

 

 悪夢は、風見から安眠を奪い去った。自宅謹慎であったのが不幸中の幸いか。仕事であれば、おそらく集中を欠いてミスを連発していたに違いない。

 

 

 

 

 

 マスメディアでは、件の廃屋の倒壊事件と、集団錯乱・心神喪失者続出を結びつけた者はいない。そもそも廃屋倒壊の方は、地方紙の小さな記事で済まされている。

 

 これも、彼らの“広報”・・・情報操作のおかげだろうか。

 

 まあ、風見自身、あの場に居合わせなければ、この二つの事件を結びつけて考えはしなかったであろう。

 

 

 

 

 

 「・・・なぜHPL案件を禁忌としているか、少しは分かったか?」

 

 「はい・・・」

 

 管理官のデスクの前に立つなり、彼は少し驚きと憐れみをないまぜにしたような表情を風見に向けてきたが、多くは語らずそれだけを言った。

 

 風見は今、猛烈に後悔している。赤井など放置しておけばよかった。知らなければよかったと。

 

 ちなみに、MSOで手当てを受けた際、あまり悩むようであれば、記憶を消すこともできると向こうで言われたが、風見はそれを断った。絶対ロクな方法でないと感じたからだ。それに、これは自分の心の問題でもある。乗り越えられなくて、何が公安だと、その時は思ったのだ。

 

 結果はこのザマだ。

 

 「お前を呼んだのは、他でもない。お前が当事者であるから、事後報告とはなるが、いくつか話しておくことがあるからだ」

 

 そう言って、書類を片手に、管理官は語りだした。

 

 

 

 

 

 彼の話を簡単にまとめるなら、以下の通りになる。

 

 

 

 

 

 まずは、葛葉の処遇。

 

 奥方に対する扱いは、どこから漏れたか奥方の実家がそれを知り、離婚にこぎつけたらしい。加えて、夫婦間でも暴行は成立するということで、そちらでの容疑もかかっている。

 

 メインはもちろん、公安も係わっていた“機密文書〈魔導書〉”の輸送任務における、情報漏えい。こちらも、どこから漏れたか葛葉の仕業と判明し、家宅捜査が入り、証拠が見つかったそうだ。

 

 その他余罪も大量にあり、何でこんな奴が公安の要職についてるんだと、管理官は頭痛を覚えたらしい。

 

 ・・・さすがに奥方を化け物に生贄同然に差し出したことはカウントされなかった(常識的にありえない!)が、それでも十分すぎる末路だろう。

 

 最初こそ、必死にしらを切って無罪を主張していた葛葉は、証拠が見つかるや、日本のために仕方なかったと“公安の常套句”を発動させた。・・・反省の色は、一切見られないらしい。

 

 彼は、これから日の当たる場所では、真っ当に生きていくことはできないだろう。きっと、一生。

 

 

 

 

 

 そして、風見の処遇。

 

 減俸3か月。それが風見に言い渡された沙汰だった。

 

 それだけか、と最初は拍子抜けしたが、次に言い渡された辞令に風見は顔が引きつりそうになった。

 

 “連絡係”である。

 

 もちろん、これは隠語だ。

 

 ざっくりいえば、この役職は冷や飯ぐらいもいいところで、HPL案件の専任捜査官ということになる。もちろん、HPL案件は、専任捜査機関(日本であればMSO)があり、基本的にそちらに捜査権限を委譲することになるが、警察にも一応捜査官が置かれている。

 

 基本的に警察で分かったことや、こちらで把握できた情報を、専任捜査機関に連絡し、必要ならば捜査に加わり、連携する役回り。

 

 それが、“連絡係”なのだ。

 

 ちなみに、この部署におけることは基本的にマニュアルになっており、引継ぎなどはない。前任者は拳銃で頭を撃ち抜いて自殺、さらにその前の人間は資料室で首吊りしていたという曰くつきの役回りである。

 

 

 

 

 

 風見の悪夢は、当分終わりそうにない。

 

 

 

 

 

 ただ、管理官が一言言い残した言葉だけが、風見の救いとなった。

 

 「お前の復帰に関しては、“ゼロ”から文句を言われているのだ。

 

 “いい加減俺の右腕を返してくれ”とな。

 

 ・・・いい上司を持ったな」

 

 少し表情を緩めて言った管理官の言葉に、風見は年下の上司を思い浮かべた。

 

 潜入捜査で大変だろうに、自分とくれば勝手な捜査でいきなり連絡できなくなってしまった。さぞ迷惑をかけたことだろう。

 

 にもかかわらず、そんな温かな言葉をかけてくれた。

 

 風見は、眼鏡の奥で思わず目を潤ませた。

 

 「それから、これは私個人の言葉だ」

 

 椅子を立って、管理官はデスクを回り、風見の隣に立つと、その肩を叩く。

 

 「よく戻ってきてくれた。ありがとう」

 

 万感の思いが込められているだろう言葉に、ついに風見の涙は決壊した。

 

 管理官は、おそらくわかっているのだろう。

 

 風見が、尊敬していた上司の一人に裏切られ、失望して傷つき迷っているということを。そのまま警察を辞めさせられても仕方ないと諦観しきっていることを。

 

 それでも、風見がこの場に姿を現し、職責を全うしようという姿勢を見せてくれたことを。

 

 「本来は、“連絡係”など空席にしておきたかったのだが・・・体裁というものがあるのだ。すまない」

 

 「いえ・・・いえ・・・!」

 

 まだ、風見には信じて進むべき道がある。追うに値する背中がある。

 

 尽くすべき“忠”が、まだある。

 

 風見は、背筋を伸ばして、敬礼した。

 

 

 

 

 

 

ドチャクソ長くなったので、いつものはなしです。

こんなに長くなるなんて、想定外です。

これだから勢いだけで書き始めるやつは!

なお、後編に続きます。

 




ドチャクソ長くなったので、一旦切ります。いつものもなしです。
 次回、“事件解決後の風見さんの後日談”。ちょっと語りきれなかった部分があるので、補完ということで。
 なお、赤井さんの出番は、次回はありません。
 邪神様のご尊顔も、次回拝見できますよ!
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