アカネイア暦538年 モスティン9歳(g)
ワーレンはアカネイア大陸でもっとも栄える港町であり、大陸の外からも多くの貿易船がやってくる。彼らの情報を元に作成された海図には、国ひとつともいわれるほどの大金が動くという。ワーレンに生きる大商家は、誰よりも先んじて多くの海図を確保し、未知なる航路へと漕ぎ出すのだ。
ガルダ海の地図はあるのかと聞くと、微妙との答え。まず、ドルーア戦争前から頻繁に海賊が行き来していたため、ろくな航海ルートが確立されなかった。さらには戦争によって失業者や逃亡兵の海賊が激増したことで、近隣の治安が最悪まで落ち込み、正規の測量士を派遣する余裕はなかったらしい。出どころの怪しい地図ならあるが、村や港の位置が不明瞭で信用ならないのだと。
つまり、この船上にはガルダ海の渡航経験者はひとりもおらず、正式な海図もない。ほとんど未知の航海に、腕利きの船員達も不安そうだった。
周囲が小難しいことで悩むのをよそに、俺はひたすら喜んでいた。漁で見慣れた景色のさらに先へ、飛ぶように突き進む大型船の楽しさよ。片腕が使えないために任された見張り役で一日中ずっと海を眺めたり、爺様と並んで釣竿を振ったり、休憩中には銛を片手に海へと沈んでいった。
朝焼けの光をほのかに受けたサンゴの輝く姿。
何千という群れをなすホタルイカが遠洋に繰り出す様。
ちっぽけな人間など気にも留めず、盛大に潮を噴き上げる巨大クジラ。
村では見たことのない魚や生き物が、海の向こうにはごまんといた。なんて素敵なんだろう。あの戦いが無ければ、商船が迷い込んでこなければ、こうして新しい景色を見ることもなかったのだ。生き残れた以上に嬉しくて、潜るたびに泣いてしまう。
「君は大人物か大馬鹿のどちらかですね」
「お前も人のこといえないだろう」
昼の休憩中、俺と並んで釣竿を垂らすロレンスと軽口を叩き合っていると、それは突然こだました。
爆音。
船上の全員が武器をとる。村を出て三日目、現在位置は島の南東。内陸を挟んで村の反対のあたり。ガルダ海からペラティ海へと抜けつつ、ペラティ王国を右に見ながらワーレンへ一直線に進むのだと説明された。そろそろ海賊の襲撃があるかも、と危惧していたので、ついに来たかと構えたのだが。
「どこから聞こえた!?」
「船影無し! はぐれ飛竜も見えない!」
「……上じゃ! 島の崖を見るんじゃ!」
いち早く発見した爺様の指差す先では、無数の人影が入り混じっての乱戦が繰り広げられていた。
一方は民族衣装に身を包んだ、反りの深い山刀と弓を駆使する部族。戦闘慣れしているのか、身のこなしがうちの村、南の部族とは明らかに違う。刃物を扱うことに何のためらいもない。陸地であれだけの動きをされたら、俺などあっという間に殺されてしまうだろう。
そんな集団と戦う相手は、何者なのか。
「……なんだありゃ」
黒い集団だった。
服も。
フードも。
手に持った杖も。
陽に照らされることのない、影に隠された顔も。
恐らくは―――下着さえも。
「前に話したじゃろう。あの山刀の連中が首狩り族。集落に伝わる神への捧げ物として、敵の首を斬り落とす風習をいまだに続けておる。そして、やつらの戦う相手こそが、長年敵対する別の神の信者どもよ」
黒一色に染め上げた男女が、斬りかかる敵から一定の距離を保ちつつモゴモゴと口を動かす。何かをしようと企んでいるのだろうが、間に合わずにひとりが切り刻まれる。トドメをさした男が離れかけた瞬間、
人体が爆炎に包まれた。
「はあ!?」
あまりにも非現実的な光景だった。周囲には火の気もなかったし、ガスの臭いで苦しむ様子もなかった。あの場で炎が発生するような条件はいっさい存在しない。にもかかわらず、突如として炎が現れ、ひとりの戦士が絶叫をあげながら焼け死んでいった。
あそこで何が起こった!?
「ファイアーですか。こんな辺境で魔道とは、大したものですね」
「ロレンス?」
天才児にしては、珍しく感心した様子だった。
「剣でも槍でも斧でもなく、かといって弓でもない。かつて人智を超える力を行使していた竜族が人間にもたらした、新しい術理です」
「あの炎が?」
「火だけではありません。風や雷、光と闇、どんな傷もたちどころに癒す聖なる力、相手を呪い殺す邪なる力。才ある者が用いれば、とてつもない驚異になるでしょう。たとえばそう、魔道の使い手で構成された部隊を作ってしまうとか」
こんにゃろう、自分が作りたいっていってるのと同じじゃねぇか。
俺が生まれ落ちたこの世界は、竜だの魔獣だのとファンタジーに片足どころか全身漬かり切っていると頭では理解していた、そのつもりだった。だが、目の前で現実に見てしまった魔道は、とんでもない衝撃をもたらした。いや、もっとショックなのは、
そんなトンデモの使い手が同じ島にいるということだ。
この島には様々な部族が根付いていると爺様から聞いていた。つまり、あの民族衣装に山刀の部族も、黒一色の集団も、ひとつの島の住民なのだ。同じ島で暮らす以上、あの連中と接触する可能性はゼロではない。いつか衝突するかもしれない、明確に危険な力を備えた相手の存在を、俺はいま知ったのだ。
考える。もし、俺の村が戦になったとして、目の前の連中が相手だったら? 恐ろしく強い山刀の戦士達か、魔道を使いこなす集団か、あるいは両方ともか。
勝てない。
俺の村の戦力では、片方でも全滅する。
あの海戦は運が全てだった。真っ向からのぶつかり合いでは絶対に勝ち目がなかったからこその奇襲。全てが俺達に都合良く味方した、奇跡の勝利だった。その現実を忘れたら、俺達はあっという間に殺される。
「……あの連中をいま見られたのは、幸運かもしれない」
目の前の驚異から目を逸らさないために。村が越えなくてはならないハードルを設定するのに、あれは最適な基準になるだろう。いま、この目に焼き付けてやる。
食い入るように見つめる俺の視線に気づいたのか。いよいよ佳境を迎えつつある戦闘の中で、二刀の山刀を振るう黒髪の少女がピタリと動きを止める。
こちらを見下ろす視線が、はっきりと俺を捉えたのがわかった。
「…! ……!?」
「!」
乱戦の最中である。周囲の男達に促されるように、少女がくるりと背を向けるや、再び黒装束の集団へと斬り込んでいく。あの恐ろしい魔道が発動するよりも早く飛び込んでいき、一瞬たりとも止まらない。動き続けることが対魔道戦の肝要なのだと、俺に教えるような戦いぶりだった。
「モスティン?」
声をかけてきたロレンスが、たちまち眉間に皺を寄せた。手拭いがわりの布を渡してくる。
「これは?」
「使ってください。ひどい汗ですよ」
自分が足元を濡らすほど汗をかいていることに、初めて気がついた。
「見られた」
「あの距離で? 魔道相手の戦闘中に?」
「一瞬。その一瞬で、俺の何もかも見られたような寒気がした。あれはなんだ? あれも魔道か何かか?」
口にしながら、違う、と本能で理解する。
あれは別の力だ。魔道とも錯覚とも違う。もっと別の、人間本来が持つような感覚。よくわからない、言葉にしにくいもの。なんといえばいいのか―――ほとんど覚えていない前世の言葉。
霊感。
それに近いものだと思う。あの少女は霊能力でもって俺に気づき、同じようにその力で俺を観察した。確かにされたのだという体感が、極度の緊張から解放されたショックで冷や汗として流れている。そうとしか思えなかった。
自分で整理するためにブツブツ呟いていたのを、興味深げに聞いていたロレンスがなるほど、とうなずいて、
「あなたといい、その少女といい、この島は退屈しませんね」
感謝しているとばかりに笑いやがった。思わず頭をはたいた俺を許してほしい、ものすごくイラッと来た。向こうも本心ですから、とまったく懲りてないのでチャラにしてもらえないかね、ずっと睨んでくるトワイスさん。
部族同士の争いに関わる余裕はない。満場一致の意見のもと、俺達は全力でその場から離れたのだった。
アカネイア暦538年 モスティン9歳(h)
島の南東部での争いから一週間。ペラティ海賊を警戒しつつ南下していき、目標の経緯度に到達したところで、商船は一直線にワーレンへと突き進んだ。
「思ったより海賊がいないな?」
俺の呟きに、船員達も首をかしげている。遠洋に向かって開かれたペラティ海では、ガルダ海以上に海賊船が出没すると聞いていたのだ。にもかかわらず、俺達はほとんど遭遇していない。いったい何が起こっているのか。
「おそらく、ペラティの海賊もガルダ海賊と結託したのでしょう。ガルダ海賊だけでは戦力が足りずに申し出たのか、あるいはペラティ海賊が嗅ぎ付けて勝手に参戦したのか。どちらにせよ、このあたりの船のほぼすべてが離れたとみていい。絶好の機会です」
それだけ北の港が激戦区になったわけだ。おかげで俺達は無事にワーレンへと向かえるので、ある意味では助かったことになる。その後の面倒は考えたくない。
十分な警戒を払いながら、さらに二日。俺達の乗った商船は、とうとうワーレンの船着き場へと到着した。
「錨を下ろせ! お前達、宴の前に最後のひと仕事だ!」
「へい! 全員、積荷に急げ! 今日は飲めるぞ!!」
大歓声の中、船員達が積み下ろしにかかる。どんなに負傷していても、全員が自らの役割に従事する。ロレンスにトワイス、ふたりの教育が行き届いた証拠である。なにかマニュアルがあるならぜひ欲しい。いっそ粘土板に日本語でメモしてやろうか。
片腕の使えない俺では力仕事の邪魔になる。船から降りるのは最後にしようと決めて、人通りの絶えないワーレンの街並みを気持ちよく眺める。村人達もキョロキョロとあたりを見回して、おのぼりさんだとひと目でわかる有様だった。
「すげぇ……すげぇ数の人だ! 人だらけだ!」
「当たり前のこというなよ! もっと他にあるだろ!」
「それしか浮かばねぇって……うわぁ、いいなぁ。可愛い子がいっぱいだぁ」
「あそこにずらっと並んでるの、屋台っていうんだろ? 金ってのが無くちゃ買えないってマジか? どうすりゃ手に入るんだ?」
村人達が興奮を抑えきれずにはしゃぐのも無理はなかった。物心ついてからずっと、爺様から戒めのように聞かされた話。絶対にたどり着くことができないと、村の誰もが諦めた憧れの大都会。俺達はいま、そのワーレンに着いたのだ。
「へへっ」
嬉しかった。あの海の一戦まで、俺の人生はきっかけすらないまま終わるのではないかと、心が折れかけていた。無力感に押しつぶされそうになる胸の苦しさを、海にすべてぶつけることで耐えてきた。耐えて、耐えて、耐え続けて、ついにこの地へやってきたのだ。涙がこぼれそうだった。
う、
う、
小さな声が響いた。無意識に顔を向ける。
「……爺様?」
爺様は泣いていた。膝をついて、顔を覆いながら。こみあげてくる嗚咽にもがき、苦しんでいた。
二度と目にすることはなかったはずの、都会の喧騒。もはや記憶にも残ってはいない光景を目の当たりにした瞬間、祖父の心の堰はぶつりと切れてしまったのだ。言葉にはできない感情が次から次へと現れては爆発し、行き場を失った熱が涙となってあふれ出てくる。涙も、鼻水も、よだれも、どれだけ流しても止まらない。それは祖父が理不尽に奪われた数十年の人生そのものだった。
事情を知る村人達は、老人を守るように囲んで、その背を黙って見つめていた。気の荒い船員達も何かを察したのか、誰ひとり近づこうとはしない。トワイスとロレンスは船首に立ち、祖父を静かに見つめていた。
足が自然に動いた。かたわらに座って、骨の浮いた背をさする。
「爺ちゃん」
いまだけは、そう呼ぶのが正しいと思った。
「爺ちゃん、良かったな。アカネイアに帰ってこれたんだ」
「うう」
「無駄じゃない。無駄じゃなかったんだよ、爺ちゃん。あの島での暮らしは、何一つ無駄なんかじゃなかった。誰にも馬鹿になんてさせない。爺ちゃんの人生は、無駄なんかじゃなかった。だって、これからも続くんだから」
「うう」
「ここからなんだよ。俺とやろう。一緒にやっていこう。できなかったことを、やりたかったことを、ひとつずつ取り戻していこう。俺も手伝うから。まだガキだけど、絶対力になるから。だから、頼むよ。頼むよ、爺ちゃん」
「ううううう」
か細く、皺にまみれた腕が二本、俺の背に回された。沸騰しそうなほど熱くて、重い。祖父の顔が俺のすぐ横にある。皺くちゃになりながら、うん、うん、と何度も頷いていた。
港町の西日は、どこまでも暖かかった。
この話を思いついて一番書きたかったシーンでした。
ストックが全て切れたため、毎日更新から週二・三になります。