世界が変わってしまう前日、私は夜更かしをしてしまった。
その日、目覚まし時計の音よりも先に私はサイレンの音で目を覚ました。
あの時の記憶もサイレンの音を聞いたくらいじゃもう思い出さない。そういえば昨日からやけにサイレンを鳴らしている車両が多い。
ポストに入れられていた朝刊を回収し、簡単に済ませるはずだった朝食を口にする。ただトーストを焼こうとしたはずなのに何故か目玉焼きやベーコンが乗っかっているのは気にしてはいけない。そういう気分だっただけ。
着替えを終えた頃にはもう眠気はどこかに吹き飛んで、脳は完全に覚醒をしていた。再び救急車両の音がした。
どうやらさっき通ったのが折り返してきたらしい。
出勤の時間になってもやっぱり緊急車両はよく目立った。どこかで大きな事故があったとラジオは伝えている。
きっとそれの影響だろう。最近物騒になってきたものね。あ、そういえば最近夜に不審者が出たり帰り際に襲われたという事件が発生していたから生徒の安全を危惧して早めに授業を切り上げるって言っていたっけ?
だとすれば早めに帰れるだろうか?
でも教師だと授業がなくてもやることは多い。きっと帰ることはできないだろう。
私が担当する国語の授業はこの日に限って言えば午前中しか入っていない。
だけれどなんだかんだ教員というのは忙しい。授業を終えたとしてもテストの採点だったり部活の監督だったり、それ以外にも生徒の相談なんかも。
お昼のニュースを背景音楽代わりに使っていると、一瞬気になる単語が出た気がした。だけれどその詳細を聞く前に先輩の神山先生がチャンネルを変えてしまった。
「あ…」
暴動?日本にしては珍しい言葉な気がした。
「ん?さっきのニュース見たかった?なんか結構大きい交通事故のニュースだったみたいだけど」
「いえ、大丈夫です」
そういえばさっきから両親からのメールが来ていたような…1回目も2回目も車の中だったからちょっと取れなかった。なんだったのだろう?
でも疑問を確認する前にまずは仕事を片付けないといけない。
結局今日もだけれど帰れそうにないわね……
自分の机で作業をしていると既に時間は3時を回っていた。そろそろ日が傾いてくる頃だろう。
少し巡回でもしてこよう。そう思い立ったのは偶然だった。
そういえば……1人気になる子がいるんだった。
まだ残っているならちょっとだけ勉強を教えよう。
二階の3年C組の教室に顔を覗かせてみれば、意外なことにまだ残っていた。もう教室には彼女以外残っていない。何をしていたのだろうか…
「あ、いた。まだ残っていたの?」
丈槍由紀、国語が苦手なのか毎回テストで赤点を取ってしまう子。でも元気で明るい性格だし悪い子ではない。どこか浮き気味なのはいまの時期では仕方がないことなのかもしれない。
「あ!めぐねえ」
私が入ってきたことに気づいたのか彼女が駆けてきた。人懐っこいのは良いことだけれどちょっとマイペースすぎるというか。悪い子じゃないけれどね。
「めぐねえじゃなくて先生よ。何していたの?」
「絵を描いてたの‼︎」
三年といえばもう受験勉強が本格化してきてどことなくピリピリした雰囲気が出るものだけれど、彼女からはそんな雰囲気は一切出ない。そのおかげかある程度クラスの不和を緩和しているようにも思える。それが彼女の良いところ。
まあ…国語の成績はボロボロなのだけれど。
でも英語や数学といったところはそれなりにできているから全教科がダメってわけではない。
「せっかく残ってるのだから補習しましょうか」
私はそこまで優しくはしないわよ?
「ええー‼︎今⁈」
「国語の成績が悪いと卒業できないかもしれないわよ?少しくらいいいでしょう」
実際次の中間で赤点を叩き出すと成績つけられないのよ。
「でも眠くなっちゃうんだよね」
机に突っ伏しながら彼女はそういった。そういえば授業中も結構寝ていたなあ。
「本を読むのは嫌いなの?」
「うーん…読んでてもだんだん眠くなっちゃうの」
それもそうか。だとしたら眠くならないようなものをまず探してみよう。
「これ読んでみる?ラノベだけど…」
受け取ったゆきちゃんは少し渋い顔をしたけれどそれを読み始めた。
「……めぐねえこれなんて読むの?」
「漢字の勉強もしちゃいましょうか」
そういえば母から送られてきたメールなんだったのだろう?
丁度本に熱中し始めて質問回数が減ってきたし今のうちに確認しておきましょう。
そう思いメールを開いた。
「う…嘘?」
それは動画サイトのURL。それを立ち上げてみればそこには大規模な暴動の様子が映っていた。駅やショッピングモール、さらに駅前の県道でも。いやこれは暴動なんかじゃない。フラフラとしながら動く人。そして人に襲いかかり噛みつき、食いちぎっている……これじゃまるで、あの時と同じ。
「めぐねえ?どうしたの?」
気づけばゆきちゃんが私を心配そうに見つめていた。
「え、あ!ごめんね。ちょっと、ちょっと待って……」
まだあれと決まったわけではない。まだ希望は残っている。
とりあえずここは危ないかもしれない。えっと確か……
「あ、私そろそろ帰らなきゃ」
そう言って彼女が帰り自宅を始めた。
「ちょっと待って‼︎」
自分でもちょっと強く言いすぎた。深呼吸をして一旦落ち着く。
「今電車止まってるみたいだし…そうだ。園芸部でも見学して行かない?」
この場合一応安全が確保できるのは上部階層かつ入口が一か所の場合。それに屋上なら緊急用避難の籠がある。
「園芸部かあ。もしかしてトマトとか食べれるかな?お腹すいちゃって…」
確かにもう夕方。そろそろお腹も空いてくるだろう。
「この時間だともう購買部もしまっているし…もしかしたら何か食べれるかもしれないわね」
でもそれは園芸部の許可を取ってからと付け加える。
屋上の鍵は意外にも空いていた。どうやら園芸部員が閉め忘れているらしい。鍵を使う必要がなくて助かった。
「あら、鍵閉め忘れちゃってました?ごめんなさい」
屋上にいたのは園芸部員の若狭さんだった。彼女とは前に色々とあったので結構面識がある。
私が屋上に来たのが意外だったのか少しだけ驚いていた。
「いいのよ。若狭さん」
「わあ!野菜美味しそう…園芸部の人ですか?」
ゆきちゃんが早速野菜のほうに興味を持ち始めた。若狭さんも純粋に興味を持って接してきているゆきちゃんのペースに飲まれる。あれはすぐ仲良くなるだろう。
「そうよ。貴女は……見学かしら?」
「うん‼︎」
取り敢えずまずは情報収集を……
バッグから携帯ラジオを取り出して電源を入れた。雑音。いつにも増して通信が悪いように思える。
私のスマホが鳴った。
一旦ラジオを花壇の近くに置いてスマホの通話ボタンを押した。だけれど耳に当てるときにスピーカーになってしまったらしい。
「もしもし……」
「あ、佐倉先生今どこ‼︎」
大音量で聞こえてきたのは切迫した神山先生の声だった。
「屋上ですよ。まさか……今どこに?」
「職員室‼︎ともかく屋上にいるならドアを封鎖して‼︎誰も入れちゃダっ…」
直後、ガラスの割れる甲高い音と、何かが割れる音、雪崩れ込む喧騒が聞こえて、電話が切れた。職員室は3階。ここからいけば建物の反対側になってしまうけれどそこまで遠くはないはずだ。だけれど……
そんな…そんなことって。
「先生?今のは……」
気づけば2人が心配そうに私をみていた。そうだ、彼女達を守らないといけない。
ドアが強く叩かれた。誰かが来た?
「開けて、あけて!先輩が怪我してるんだ!」
「開けなきゃ!」
咄嗟にゆきちゃんが扉に駆け寄った。
ゆきちゃんがドアを開けると恵飛須沢さんが男性を連れて飛び込んできた。
確か彼は去年卒業した……私のクラスじゃなかったから陸上部エースということくらいしか覚えていない。
そんな彼は酷く衰弱しているようだった。よくみると怪我をしているのか腕と足から血が出ていた。
「何があったの⁈」
「わからない!急に変な奴らが襲ってきて先輩が庇って……」
真っ青になって若狭に連れられ柵に腰をかける2人。
「ほ、保健室に連れて行かなきゃ!」
ゆきちゃんがドアを開けようとした。
「ダメだ!もうダメなんだ…」
ドアが強く叩かれた。さっきのとは違ううめき声のようなもの。嫌な予感がした。
「ゆきちゃん下がって!様子がおかしいわ」
しばらくすると呻き声は消えて扉も叩かれなくなった。
悲鳴が聞こえた。それは下を見ていた若狭さんのものだった。
「先生‼︎な、なんですかこれ‼︎」
つられて私も下を見る。
「嘘…」
そんな……こんなことが。どうしてこんなことが日本でも!どうして……
眼下に広がっていたのはあの時と同じ地獄だった。ヒトがヒトを襲い、群がっている。グラウンドはすでに亡者達が生者を襲い、食い殺す地獄絵図と成り果てていた。遠くで爆発が起こったのか黒煙が上がっていた。
「私に…平穏を与えないつもりなの?」
あの惨劇がフラッシュバックしてしまう。もう嫌だ。あんな光景はもう嫌だったのに‼︎
「先生どうしたの‼︎」
気づけば私はしゃがみ込んで震えていたみたいだ。身体中が変な汗で濡れている。
「なんでもないわ… ごめんなさい恵飛須沢さん」
再び強く扉がたたかれた。今度は叩く音も呻き声も大きい。
ドアの磨りガラスが破られた。そこには無数の手がこちらへ入ってこようといくつも飛び出してきていた。
「扉が!若狭さん手伝って!」
近くにあったロッカーをドアの前まで引きずり扉に立てかける。
それでもドアから出た手によってそれは押し返されそうになった。若狭さんが居なかったら多分押し返されていただろう。
扉自体が圧力に耐えきれなくなっているのか変形が始まっていた。
「あ!先輩‼︎まだ動いちゃ……」
ほとんど衰弱していたはずの彼が急に起き上がった。だけれど様子がどうもおかしい。真先に1番近くにいた恵飛須沢さんのほうに向かっている。その足取りは完全に外にいる存在と同じだった。
「待って‼︎様子が…」
「きゃ‼︎」
先輩と呼ばれたその人は、掴みかかるのを一瞬だけ躊躇したかのように彼女を突き飛ばした。その直後、雰囲気が変わった。
「あ……」
「様子が変よ!離れて!」
ダメだ。あれでは腰が引けてしまっている。助けに行こうにもここから離れることができない。何か…何か……
「せ、せん…ぱい?」
掴みかかろうとしていた彼にボールペンをぶん投げた。だけれど距離もあったせいで頭にカツンと当たっただけ。それでも一瞬気を取られたらしく動きが止まった。今のうちに早く……
「う、うわああああ‼︎」
まったくの想定外だった。
鈍い音と共に彼の首にスコップが突き刺さった。
背後から強く押し返される中、私の目線は、スコップによって叩きつけられる先輩だったものから離れなかった。
「あ……」
何度も叩きつけられたそれの頭は完全に押し潰れ、動かない完全な屍となった。だけれど彼女はスコップを叩きつけるのをやめない。まずい正気を失っている!
「ーーーっ‼︎」
みていられなくなったのかゆきちゃんが恵飛須沢さんに抱きついた。
「な、なんで…泣いてるんだよ変なやつだな……」
「ってか…あんた誰だよ…」
……生徒が生徒だったものを殺める。あの時と一緒だ。あの時と……
目の前で行われた行為、私がやってしまった行為。あんな経験をするのは私だけで良い……そう誓ったはずなのに……
「先生‼︎これからどうしたら…」
ああそうだ。後悔をしている暇はない。私にそんなことをしている暇はないのだった。
「若狭さん!先生がここ押さえておくから箒とかあったら持ってきてくれる?」
「箒ですか?ちょっと待っててください!」
ともかく安全を確保しないと……
少しして若狭さんが箒を持ってきた。
「それで、窓から伸びてる手を突いて!」
ロッカーを押そうと窓から飛び出している手をどうにかしないと私の体力がもたない。
「全然引っ込まない!」
それでも少しは効果があったのかロッカーを押す力は幾分か弱まった。
素早く斜めになっているロッカーを突き飛ばすように押し込んだ。
大きな音と共にロッカーが垂直に立ちドアを塞いだ。
「はあ……はあ……これでなんとか」
さっきより全然楽に押さえることができる。
それから数時間経った。日は完全に落ち辺りが暗くなると、市街地の方の炎が見えるようになってきた。
夕焼けに同化して見えなかったものも、今ではよく見える。町全体が停電をしているのか辺りは暗闇に包まれていた。サイレンの赤い灯や炎だけが唯一の明かりになってしまっていた。
「……静かになった?」
ロッカーを使って押さえつけていた扉も今では何の反応も返さなくなった。
「ドアの外にも気配はないわね」
足音も何かを引きずるような音ももう聞こえてこない。聞こえるのは遠くで聞こえるサイレンの音ばかりだった。防壁がわりにしていたロッカーを横にずらし割れた窓から階段の踊り場を確認してみる。そこには不思議なほど誰もおらず、ただ暗闇が広がっていた。
「もう誰も居ないみたい」
もしかしたら奥にいるのかもしれないけれど少なくとも扉を開けただけじゃやられなさそうだ。
さっきロッカーの中で見つけた刈込鋏を持ち、ドアに手をかける。
「先生何する気ですか?」
座り込んでいた若狭さんが疲れ切った表情で聞いてきた。
「生き残っている生徒を探してきます」
まだアウトブレイクからそう時間は経っていない。もしかしたらまだ生きている人がいるかもしれない。
「待って待って。流石に静かになったとはいえ危ないってば」
「そうだよめぐねえ‼︎だって電気ついていないし…」
つられるように恵飛須沢さんとゆきちゃんが私を止めようとしてきた。
「生きている子を見殺しにはできないわ」
たとえ可能性が低くても、助けられるのなら助けたいのだ。
それは私があの時そういう風にして救われたから。今度は助ける番にしたいから。
「でもそうね…1人だけじゃちょっと危ないから…恵飛須沢さん一緒に来てくれる?」
「……私?別に良いですけど…」
「それじゃあゆきちゃんと若狭さんは屋上を守ってて」
扉を開ける。激しい圧力にさらされたからか蝶番が緩んできてしまっている。
「戻ってきたときはどうやって判断すれば良いのかしら?」
「ノック3回の後に合言葉でどうかな?」
若狭さんの疑問に恵飛須沢さんが答えた。
「それじゃあ合言葉はメロンパンね」
「分かったわ。メロンパン」
「めぐねえ絶対帰ってきてね!」
「分かっているわよ」
電気が止まってしまっているのか構内は真っ暗だった。唯一消火栓の位置を表す赤色灯と非常口を表す緑色の光だけが廊下を照らしていた。
「……居ねえな」
廊下側には先輩さんのような存在はいなかった。下に転がり落ちたのだろうか?それにしても静かだ。
「トイレとかロッカーにいる可能性もあるわ。探してみましょう」
二年生の教室の扉を開けると、そこにはふらふらと動く人影が一つ。周りには誰も居ない。丁度良い。色々と試してみよう。
「なあ何しているんだ?」
屋上を出るとき持ってきたバケツから濡れ雑巾を取り出す。それを彼らの体に思いっきり投げつける。
水が跳ねる音がしたもののそれは何の反応も示さなかった。
「確認。触れた感覚には反応しないみたい。多分痛覚が機能していないんじゃないしら」
「なるほどなあ……」
奴の近くに濡らした雑巾を放り投げる。
当然床にに落ちたそれは水の弾ける大きな音を立てた。
その方向に向けて奴は首を向いた。
「音は聞こえているみたい。それに一応目も見えているようね」
ゆっくりだけれど音のした方向に向かって歩き出していく。生気のない白目を向いた瞳が雑巾に向いている。
「どうしてわかるんだ?」
「机や壁にぶつからずあの場所を目指しているからよ」
目が見えていないなら壁にぶつかって一生そっちの方向へ向かって歩き続ける。それに身体中の痛覚も機能していないとなればずっと壁にぶつかったままだったりとするはずだから。取り敢えず持ってきていたバケツを彼の頭にかぶせる。こうしておけば多少は安全だろう。気休めでしかないけれど。
「先生よくわかるな…あ、分かりますね」
「無理に敬語使わなくていいわよ。それより……少なくないかしら?」
それにしても数が少ない。この三階だけで僅か3人しか居ないなんて…いくら放課後で生徒が残っていなかったとしてもだ。あの通話では相当数が襲ってきたはずなのに。
「他の奴らどこに行っちゃったんだ?」
「外にいるか…或いは下の階に溜まっているか」
動きは上から見た感じでは遅そうだったし段差にも弱そうだ。だとしたら階段から転げ落ちて下に溜まっている?
でも階段から聞こえてくる呻き声はそう多くはなさそうだった。
三階には他に誰も居なかった。当然職員室の中も数人ふらふらとしている人影が居た。その中に神山先生の姿はなく、服装も教師というより生徒のものだった。同僚や先輩の変わり果てた姿を見なくてほっとする心と、不安が板挟みになってしまう。
どこかに生存者はいないのかと探してみたけれどやっぱり空振りだった。今は救出が優先なので彼らの始末はあまりしない。下手に物音を立ててしまうと大変な事態になりかねないし。
「……なあ佐倉先生」
普段めぐねえと言ってくる彼女が珍しく先生呼び。へんに気を張ってしまっているのね。
「どうしたの?」
「先生は……どうしてあんなことがあったのにもう気持ちを切り替えられたんですか?」
そうだろうか?そう言われて改めて考えてみると確かにもう気持ちを切り替えている自分がいたことに気づいた。つい数時間前まで生徒だった存在を私は思いっきり殺した。
「……そうしないと生き残れないから。っていうのは言い訳。怖いから…かな」
「怖いから?」
「そう、怖いものは逃げても逃げ切ることはできない。怖いものには立ち向かって乗り越えないといけないのよ。それに昔同じようなことに巻き込まれたし」
あの時もこんな感じだった。あの時の地獄とどっちがましかと言われたらどっちも嫌だと答えたいけれどまだこっちの方がましなように思えてくる。
「そっか……強いんですね」
「無理に敬語にしなくていいのよ。自然体でいいわ」
「わかった…めぐねえ。下の階へは行くのか?」
「そうするつもりよ」
比較的彼らがいない校舎端っこの階段を下に降りていく。
二階も三階も似たような惨状だった。だけれどこっちは数が多くいる。生存者救出を考えるなら何人か始末をしてしまわないといけない。
それに破損や汚れもひどい。
「数が多い…やるしかないわ」
「でも……」
流石にさっきまで話していたはずの生徒に手をあげるのは気がひけるらしい。それも無理のないことだ。私だってこんな事したくはない。だけれど…心の甘えは命取りになる。
「わかっているわ」
実際にはどうかわからない。もしかしたらワクチンが開発されれば元に戻るかもしれない。でもそんな希望的観測にすがっているような時間も余裕も残っていなかった。
「酷いことを言っているのは分かっている。生徒に手をあげるなんて先生として失格なのも…でも放っておくわけにも行かないの。万が一があったら全部私の責任。あなた達じゃないわ」
我ながら最低だ。こんな言葉が自分の口から出てくるなんて。
でも軽蔑されたって構わない。私は彼女達を守る務めがあるのだ。
「……」
「ともかく行くわよ」
園芸部のロッカーに入っていた刈込鋏を近くにいた生徒だったものの頭に突き立てる。
力一杯押し込めば例え園芸用のハサミであっても頭蓋骨を破壊する程度は役に立つ。本当はハンマーとかあれば良かったのだけれど…。
頭を潰せば彼らは動かなくなった。当たりまえだ。私が今殺したのだから。
もう1人は恵飛須沢さんがスコップで頭をかち割り、動かなくなった。
……人を殺めてしまった。でもそれはここに残っていたあの時の感覚を呼び起こした。
死に慣れてしまう感覚。人を殺す感覚が薄れていく恐怖。
「図書館と購買部…めぐねえせっかくだから購買部で何か持っていくか」
「そう…ね……」
夕方にアウトブレイクが発生してしまったためか購買部の棚には普段の半分ほどしか物がなかった。だけれど学生食堂の方の冷蔵庫にはまだ食料が残っているはずだし一階の購買部倉庫への荷物搬入は今日の午後3時に到着していたはずだ。篭城するにしてもここを出るにしても食料の確保は1番の問題だ。
ただ今回はバッグなどのものを入れるものを持ってきていない。
どこかに鞄などが落ちていれば良いのだけれど……。
「まずは鞄か何かを持ってこないと運ぶの大変ね。三年の教室に鞄残ってないかしら?」
「見てくるか?」
「別れて行動するのは危ないから一緒にいきましょう」
単独行動は時と場合による。
「それもそうだな……」
「お、いくつかあるじゃん」
恵飛須沢さんがバッグをひっくり返して空っぽにしたものを肩にかけていると、背後で何か物音がした。
「だ、誰かいるの?」
掃除道具が入っているロッカーの方から声が聞こえた。まさか…
生存者がいたの?
「教師の佐倉よ。他にも何人か屋上に避難しているの」
「い、生きてる?」
ロッカーがゆっくりと開かれた。
「ええ、生きているわよ!」
彼女は柚村貴依と言った。普段から首にチョーカーをつけているから私も印象によく残っていた子だ。
ちなみに私をめぐねえと呼び出した人の1人だったりする。もう1人はゆきちゃんだ。
「取り敢えず他にも生存者がいないか確認するんだけど…怖かったら今すぐ屋上に戻るわ。どうする?」
「そう…だね。屋上に行きたいかな…」
「分かったわ。いらっしゃい」
廊下の彼らは先に始末していたからか、1番近い真ん中の階段までのところには誰も居なかった。
先に私が行き階段の上と下の安全を確認。今のところ大丈夫そうね。
手を挙げてすぐに2人を呼ぶ。声をあげるのはもしかしたら彼らを引きつけてしまう可能性があるから暗くてもこうするしかない。流石に目が慣れてきているから合図が見えなかったってことは無かったようで2人ともすぐ階段のところまで来てくれた。
「たかちゃん‼︎」
「ゆき!無事だったんだ…」
「それじゃあ私達はまた捜索に行くわよ。彼らも少なくなっているから今のうちに集められるだけ物も集めておきたいし」
二年生の教室で残っていたカバンを拝借する事にした。
放課後遅い時間だったとはいえ全員が帰っているわけじゃなかったから二、三個はどの教室も残っていた。
中に入っていたものを一度取り出して、空っぽにする。
「まずはどうする?」
「先に一階を回ってからにしましょう」
「了解。隊長」
「隊長って…」
「だって先生っていうよりこの場合隊長の方がふさわしいだろ」
「そうかしら?」
二階で生存者がいたからもしかしたら一階にもいるかもしれないと思ったけれどその期待はあっさりと裏切られた。
トイレにも誰もおらず、廊下には最も多い10人もの彼らが居た。その上教室の方にも何人か残っているらしい。
廊下にいた彼らを素早く潰していく。どうやら暗闇ではよくこちらが見えていないようで音だけを頼りにしている節が見られる。もしかして…
確か階段の下にある小さなスペース。そこに災害時用の懐中電灯がいくつかあったはずだ。
二個ほど消えていたけれどそれでも二つほど懐中電灯を確保できた。
そのうちの一つを点灯させ、廊下の端に置いてみた。
「光に反応している?」
「みたいだな……やっぱり暗いところは怖いのかな?」
でもあれである程度はおびき寄せられる。
完全に背を向けている彼らの頭に刈込鋏を突き立て、無力化。
同時にスコップが集まってきていた彼らの足を掬い取り、廊下に転ばせた。
そいつらの頭を思いっきり踏みつけ、体重をかけて押し潰す。
あの時と同じだ…そういえばあの人達もこうして無力化していたことがあった。
その後も素早く淡々と素早く廊下にいる彼らを無力化していった。
「はあ……はあ……」
「ちょっと休憩しましょう……さすがに疲れました」
恵飛須沢さんが肩で息をしていた。そろそろ一旦休んだほうがいいかもしれない。
「だな…ちょうどそこに用務員室あるみたいだし」
一階にあるにも関わらず用務員室は彼らによる襲撃がなかったようだ。そのおかげか特に壊れたものも無く、ほとんどのものが綺麗に残っていた。
「何か武器になりそうなものないかな?こう…チェーンソーとか」
「あれば良いけれどチェーンソーって……デスマスクかぶって?」
いつか見たあるホラー映画を思い出してしまう。いやあり得なくはない。長く伸びた木などを斬り倒す時に時々使っているのをみたことがある。もしかしたらあるのかもしれない。
「いやいやそれはないって。それにチェーンソーじゃ音がうるさいかもしれない」
確かに…チェーンソーなんて音が大きいし扱いが難しそう。
「これ……釘打ち機?」
恵飛須沢さんが棚の上から工具箱を下ろしてきた。先に中を見たらしい。開けてみれば確かに釘打ち機が入っていた。
「長釘のやつね。工事現場でも申請書が必要なやつじゃなかったかしら?」
工具箱に入っていたのはガス発射型のもの。どうしてこんなもの持っていたのだろうか?
「武器になるかな?」
恵飛須沢さんが釘打ち機で銃のような真似をしていた。だけれど先が上下に揺れてしまっている。
「……安定しない。ストックが欲しいわね」
それに先端についている安全装置を外さないとちょっと使えないかも。
確かこのすぐ近くに工作室があったはず。あそこなら鋸とかの道具が揃っているはずだ。それで作れるかしら?
工作室に移動し、必要なものをかき集める。
「めぐねえどうするつもりなんだ?」
「ちょっとだけ工作」
安全装置の解除と、ストックの追加をするだけなので数分で作ることができた。1分もかかっていないのではないだろうか。
「完成」
長さを調節した定規をテープで巻き付けただけで見た目は不格好だけれどそれなりに扱い易くはなった筈だ。
「なんか一気に銃みたいになった!」
「こうするだけでも安定して持てるから意外と楽よ。まあ釘打ち機は本来ものに当ててやるものだし釘の数もないから大して使えないけれど」
予備のガス缶とか釘があれば良かったけれど無い物ねだりは意味がない。残っている釘の数しか使えない。ホームセンターに行けば予備の釘とかガス缶とかあるかしら?
「使ってみる?」
「え……うん」
なんだか釘打ち機を手に入れたなんてSE音声が聞こえてきそう。
「確かにさっきより扱いやすいかも」
「ストックで体に押さえつけて安定させることができるからね」
廊下には相変わらず彼らがうろうろとしていた。さっき廊下の半分はなんとか始末できたけれど入り口エントランスを挟んだ反対側は未だに彼らの巣窟になっていた。
恵飛須沢さんが廊下でフラフラしている彼らの1人に狙いを定めた。
カシュンと軽い音がして、近づいてきていた彼らの口元に長い釘が突き刺さった。だけれど一瞬動きを止めただけで無力化は出来なかった。
「なんか思ったより刺さらないんだな」
「まあ…釘打ち機だし…もうちょっと引きつけてからの方がいいかもしれないわね」
それにこれは撃って使うものではない。そこら辺はもうどうしようもなかった。
でも近づくとなるとスコップなどの方が取り回しが良いということになってしまい結局私が使うことになった。それもかなりの至近距離でだ。やっぱりハサミとかの方がいいかもしれない。
廊下の彼らをどうにかして片付けて、各教室や隠れられそうな場所をあたってみたものの、誰も居なかった。
「誰も居なかったな」
「居ませんね……」
生きている人はついに発見できなかった。
「……購買部で何か持って帰りましょうか。隣の冷蔵庫の物とか日持ちしそうにないものは早めに消費しないともったいないでしょうし」
落ち込む恵飛須沢さんを宥めながら二階に戻る。
釘のなくなった釘打ち機を音を立てないように静かに廊下に下ろした。
アウトブレイク発生から半日。学校は私達わずか5人を残して壊滅した。