ド・ボン山脈からゾーラの里へ向けて道なき道を進む。切り立った崖には氷で足場を作り、軽い跳躍で登りぬける。止まない雨と雷鳴を耳にしながら、アルファはゾーラの里へと進んだ。頭のなかにある程度の地図とコンパスは備わっており、道に迷うことは滅多にない。アルファの少ない特技の一つであった。
日は落ちかけて、シノビダケがうっすらと光りだす。じめじめとした気候であることから、多種多様なキノコが岩陰に生える。ゾーラの里周辺は夜行石もまたよく採掘されるため、それらの岩石もぼんやりと幻光を放ちだした。
ぴたりと張り付いた一筋の前髪を指先で弾き、睫毛に乗っかる水滴を乱雑に拭う。絶え間なく動き続けているアルファは今のところ寒さを感じていないが、普段であれば暖を取って休むなりの処置をしていた頃だ。しかし、疲労はない。そろそろ体調に異変が出てもおかしくない頃なのに、アルファの身体は性質を変えたかのように疲労の一切を覚えなくなった。そのことに背筋がぞくりと凍える。
西日でぬらりと光る岩肌は余すところなく雨に濡れている。この地域は比較的雨の多い印象である。だからこそ東の貯水湖やダムの存在が重要になってくる。ゾーラの里近くに建立されたダムがもし崩れたら、ゾーラの里だけでなくその川下にあたる地域もまた多大な被害が出ることは間違いない。厄災ガノンにより機能を奪われたヴァ・ルッタによる大雨により、貯水湖が飽和し、ダムが決壊するのも時間の問題だ。
神獣は古代のシーカー族が作った機械(カラクリ)であるヴァ・ルッタは水の神獣だ。雷の攻撃が最も効果的であるが、種族的にゾーラは雷に弱い。普通のハイラル人ならぴりりと痺れるくらいで済む静電気でも、ゾーラ族は全身に雷が通り抜けて手足の力が抜けてしまうほどだ。それゆえ、ゾーラ族よりも電気に強いハイラル人を探して、ゾーラ族はハイラル全土に散っているのだという。
水辺でぷかぷかと頭だけを出したゾーラ族の一人に話しかけられ、それらの情報を聞いた時アルファは金髪のハイリア人を見なかったか、と訪ねた。「シド王子がそのようなハイリア人にお声をかけたそうです」と答えを貰えて、アルファはようやくリンクの同行が掴めた。なにせ、ハイラルは広い。次にリンクが行く場所など知ろうはずもない。やっと掴めた手がかりに、アルファは迷うことなく次の行き先をゾーラの里に決めた。
次にリンクが向かうのは、ゾーラの里に間違いなかろう。
かつて4人の英傑が操っていた神獣は、ガノンに乗っ取られ、それぞれの地域で猛威を奮っているとインパから聞いた。魂さえも囚われた英傑たちを想うと、アルファはやるせない気持ちでいっぱいになる。彼らの魂の救助を願わずにはいられない。
ラルート大橋手前、一際明るく輝くのは碧い燭台だ。夜行石を用いて作られた細身の優美な燭台は、それ自体が光を放つ代物である。ゾーラの里はハイラルでも指折りの観光名所であったはずなのに、ラルート大橋を通る旅人はいない。
ぼんやりと待ちぼうけるアルファは、リンクがゾーラの里へ向けてダルブル橋から発ったということを、道中のゾーラ族から確認していた。
眼下に広がる湖は、たしかルト湖。ゾーラ族のかつての姫君の名前をいただいたという話だ。神獣であるヴァ・ルッタもまた、その姫君から命名したと聞く。これから長い年月を経て、ミファーもまたハイラルの地に名前を付けられることになるのかもしれない。ミファーは綺麗な深紅のゾーラ族であった。
ちょうど、あんな。
水辺に浮かぶ赤に目が移る。その赤いなにかもまた、こちらを見ている。ゾーラ族のようだ。
「おーい! そこのキミ! 今目が合ってるだろう、キミだ! キミ!」
思わず背後を振り向いたアルファであるが、激しい主張にすぐにもとに戻る。
「こんなところからすまないな! もしや、各地に散らばる我らの仲間から話を聞いて来てくれたハイリア人かい?」
そういうわけではないのだが、そうとは言い辛いこの空気は何だろうか。ああ、これが空気を読むということか。よくプルア様に空気を読めと怒られた……なんて考えの後、何とも言えない角度に首を振ったアルファに、目がいいらしい赤いゾーラ族が声を張り上げる。
「うん?! 違うのか! 我らゾーラ族は強いハイリア人を求めているんだ! 君の助けが必要だゾ!」
かなり遠い位置での対話であるが、よく通る声だ。しみじみとそんなことを考えるアルファは、赤いゾーラ族の歯がキラリと光るのが見えた。
一歩後ろへ退いたアルファに、水の中を素早く移動し真下へとやってきたゾーラが言う。凄い速さで泳ぐのだな、と今更ながらゾーラ族の遊泳能力に感嘆する。
「なななな、なんで逃げる?! その身のこなし、先ほど見させてもらったが君はハイリアの戦士だろう?!」
「……ちがいます」
思わず敬語になったのは、彼から一線を置きたいアルファの気持ちの表れであった。そんなことは露とも気にせず、ゾーラは笑う。
「ハハハ! 謙遜しなくてもいい! 君の名前はなんというんだ? おっと失礼! オレはシド! ゾーラ族の王子(プリンス)だ!」
キラリと歯を見せながら親指を突き出し水の中でポーズを決める。シド? まさか。
英傑の一人、ゾーラ族のミファーとそっくりの赤い鱗。記憶の中のシドもまた赤い鱗のゾーラ族であった。だが、記憶の中のシドはもっと小さくてかわいらしい感じだった。はにかんだような笑顔でミファーの後ろに隠れていた記憶が浮かぶ。ゾーラの里に来ると、いつもミファーの後ろをカルガモのようについてまわっていた。女性陣が黄色い悲鳴をあげていたのを思い出す。あまりのかわいらしさにゼルダが話しかけると、ミファーの後ろに隠れて出てこなかったシャイボーイというやつであった、はずだ。
こんなハイテンションでぐいぐいくるような性格ではなかったはずだ。遠目で見ても、かなり体格がいい。記憶が欠けているだけでなく、捏造されている可能性もあるのだろうか。こうなると何もかもが信じられなくなってくる。ああでも、100年も経っているのだからシドとて成長はするか。ドレファン王の大きさを考えると、まだかわいらしいと言えないこともない。脳内が混乱したまま思考していたアルファにシドが再度声をあげる。
「名前を! 教えてくれ!」
「……アルファだ」
「アルファ? 良い名だゾ! ……どこかで聞いた事がある気もするが……。というか先ほどもこのようなやり取りをしたような……。
とにかく良い名だゾ! ゾーラの里は水の神獣ヴァ・ルッタによる大雨のせいで存続の危機なんだ。アルファ、君の助けが必要だゾ!」
あれ、リンクには声をかけなかったのか?
そうアルファが疑問を覚えたとき、シドは指を立ててゾーラの里の方向を指し示す。
「もうすぐゾーラの里につくゾ! オレは人を待っているから一緒には行けないが、後でまた会おう!」
強制的にここから移動をせねばならない状況が作られ、アルファはなんとも言えない気持ちでラルート大橋を渡り始めた。流されやすい性格は未だに変わらない。
シドの待ち人は、リンクであろうか。そうであってほしい、そう願いながら待ち伏せする場所をいそいそと変更する。何をしているのか、自分は。徒労感に思わずため息を吐く。
旅人用に作られた道は、ルト山を南下し、ぐるりと迂回をしてから北へと抜けるものであったが、ルファは橋から北へと道なき道を進んだ。シドのあまりの変容っぷりに動揺し、道中何度か岩肌で足を滑らせかけた。
神殿にも似た荘厳な、青い光を湛えるゾーラの里。その入り口からおおよそ南方向へと伸びる直線の長い橋がゾーラ大橋だ。
水面下で赤い塊が凄まじい速さでゾーラの里へと戻っていくのを視界の端に捉え、アルファは訳もなく燭台に身を隠した。が。細い燭台に身体が隠れきるはずもなく、水面に顔を出しつつ泳いでいたシドにしっかりと見つかった。
「おお! 君は先ほどの! さすがはオレの見込んだハイリア人だ! もうこんなところまで進んでいたのか! もうすぐリンクというハイリア人が来る! 二人とも王(キング)に会ってもらうつもりだ。ゾーラの里でまた会おう! ではな!」
今度は顔まで水の中に沈め、先ほどよりもずっと速い速度で泳いでいく。
妙に爽やかなゾーラ族の青年へと成長を遂げたシドをアルファは遠い目で見送った。元気だな……と覇気のない感想を抱きながら。
とりあえず、シドの待ち人はリンクだと確定した。このままここで待っていれば、リンクはハイラル人用に作られたルト山のう回路を通ってここにたどり着くはずだ。
背に帯びた騎士の両手剣を抜く。欠けたところはまったくなく、打ち直された痕すらわからない。激戦の末に酷い状態になっていたはずなのに、よく手入れをしてくれたものだ。プルアには本当に頭が上がらない。
だがこの剣は使えない。許しを得ることはきっともう2度と叶わないが、自分のなかで踏ん切りをつけるためにも、騎士たちの弔いをせねば使ってはいけない気がする。
アルファは両手剣を鞘へと大切に仕舞い、無心の大剣を持ち直す。
じりじりと昇りだした朝陽が湿った岩肌をつやつやと輝かせる。遠くを眺めると細い小雨が陽光に輝き幾筋もの糸のようだ。ヴァ・ルッタに雨を降らせる能力はない。だが、水を生み出し続ける能力がある。無尽蔵に空へと水を吹き出し続けているがゆえの、止まない雨なのだろう。前回リンクから逃げるときに使ったチュチュゼリーもこの雨で鎮火されてしまうこと間違いなしだ。
どうやって姿をくらませようか。ぼんやりと辺りの景色を眺めつつ考えていると、背後から人の気配がした。
振り返ると、金髪の青年が剣を構えてこちらを睨みつけている。衣服や武器が変わっただけで、随分と勇者らしくなった。
「貴方は……! アルファ、だったな。以前から問いたかった。なぜ俺を狙うんだ」
「いずれわかる」
「貴方は……イーガ団なのか?」
口布にシーカー族の紋様が描かれていることからそう検討づけたのだろうか。アルファの目以外をすっかりと覆うそれは、プルア特性の口布だ。
「いや、違う」
「なら、なぜ敵対する必要がある」
「いずれわかる。……無駄なおしゃべりする気はない。来ないのなら、こちらから行く」
初手は素早く距離を詰めたアルファの蹴りであった。避ける動作に入る前にまともに胴体に蹴りを食らったリンクがごろごろと地面を転がる。
「剣を向けておきながらなぜ迷う。お前は味方に武器を向けるのか? 向けないだろう。刃を向けたのならば、覚悟しろ」
ぐ、と息を吐きつつ起き上がるリンクはどこか悲しそうに視線を落とす。
「……違いない。俺は態度を誤ったようだ。忠告感謝する」
ゆるりと持ち上げられた視線は、今度こそ闘志の乗ったものであった。リンクは低姿勢で距離を詰め、アルファの腹部へ横切りをする。バク転で避け、ゆっくりと動く視界のなかリンクの背後へとまわる。
「ラッシュを忘れたか?」
剣の柄で背を突く。それなりに力を込めたため、リンクが一歩前へとつんのめる。体勢を立て直さぬまま繰り出された回転切りに、アルファは一瞬回避が遅れる。剣の切っ先を寸のところで避けるが、重心が後ろに偏り慌てて片手をついた。その隙を見逃すリンクではなく、怒涛の勢いで鋭い斬撃を加えてくる。崩れた体勢のまま右へ左へと繰り出される斬撃を弾いていくうちに、大きく振りかぶるリンクに隙を見つけた。
アルファは脇を締め、体幹に力を込めて大剣を左へと薙ぐ。盾で防御するリンクのブーツががりがりと砂を掘っていく。歯を食いしばり、アルファを鋭く射抜くリンクは背後へバク転をしてアルファと距離を取った。つい先ほどアルファがしてみせた回避とそっくり似たものであった。
やはり、アルファの動きをしっかりと自分のものにしている。相変わらず戦闘には天性の才能が備わっているようだ。
おもむろにリンクが取り出したのはシーカーストーンだ。
ぐっと剣が引き寄せられる。その強烈な力に、思わず手を離してしまった。
「なんだ……?」
アルファの手から離れた大剣が宙に浮かんでいる。もしかしなくても、シーカーストーンの力なのだろう。あのシーカーストーンから光が飛び出し、大剣にあたったかと思えば凄まじい力で飛ばされた。その周囲にあった鉄製のくずを巻き添えにして宙に浮き続けているところを見ると、磁力が働いているのだろう。ならば。
「面白い道具だな。だが、武器など新しく作ればいいだけだ」
アルファは手の中に氷で作った大剣を作り出した。目を瞠るリンクは、再び剣と盾を構える。
リンクのジャンプ斬りを横跳びで避ける。回転切りをバク転で避ける。斬りを剣でのガードジャストではじく。
アルファから攻撃はせぬままに回避に徹し続けていると、それらの動きを目で見て、それを吸収していくかのようにリンクの回避能力もまた凄まじい速度で上がってくる。時折アルファが攻撃しても、無駄なく避け、それどころか攻撃のラッシュを繰り出してきた。目にもとまらぬ速さで繰り出される数々の斬撃に、アルファの身体に傷がついてゆく。武器の攻撃力が高いものであれば、危うかったかもしれない。
リンクは戦い方を確実に思い出してきている。先ほどの攻撃がその証拠だ。始まりの台地で出会ったときからは考えられないほどに斬撃が速く、鋭くなっている。
唐突に、上から剣が落ちてくる。アルファの脳天を目掛けて落ちてきた剣をバク転で避けた。冷や汗をかきつつ、アルファは片膝をつく。空中でとどまっていた大剣のことを、完全に意識の外へと出していなかったからこそ避けることができた。かなり危うかった。
肩で息をするリンクが未だ闘志を燃やしつつアルファを見据えている。
「憎くはないか? なぜ何も覚えていないお前の背に世界の命運が乗っているのか。のうのうと暮らす人間のために命を賭して戦わねばならないのか。不条理だと思わないか」
「そんなこと……!」
何合も剣を合わせ、リンクの荒い息遣いと鉄がこすれる音が響く。アルファの作り出した大剣が高い音を立てて弾け消え、そろそろ頃合いかと右手に力を込める。
「不条理なことだ。何も覚えていないのに勇者という役割を果たそうとするお前が心底哀れだと思うよ。
……ヴァ・ルッタを解放し、オルディン地方へ向かえ。次に会えたらお前の疑問に1つだけ、答えるよ」
降り続く雨をすべて氷に変え、リンクとの間に大きな氷の壁を作る。背を向けたアルファは悠々とゾーラ大橋を後にした。
残されたリンクは、分厚い氷の壁の奥にいるであろうアルファを、酷く困惑気な眼差しでしばらくの間ずっと見つめ続けていた。
「――――――?」
返ってこない問いかけを口にし、リンクは返事を待った。
雨の音に川の流れる音、それに己の息遣いだけが聞こえる。答えなど、返ってくるはずがない。
踵を返し、リンクはゾーラ大橋を走った。本当に戦わねばならないのか。彼は本当に敵なのか、実のところ味方なのではないか。
戦闘には邪魔になる己のなかの迷いを打ち消すため、ただ走ることに集中した。