ベーレ谷の旅人1
一筋の白い狼煙が天へ向けてもうもうとあがっている。人がいる。背格好からして男だ。気力の要りそうな高台の上はボコブリンなどに襲われる心配はなかろうが、かなり目立つ。
アルファが道中出会った旅人たちの多くは、見るからに戦い慣れた男で馬に乗った一人旅であった。丸腰のアルファをボコブリンから庇い、しばらく一緒に歩いて護衛をしてくれた者すらいる。饒舌に語っていた男がどうにもアルファのことを女だと勘違いしているようだったので、きっぱりと訂正すると「じゃあ、元気でな」と華麗に去っていった。下心100%の手助けであったらしい。
ボコブリンは頭の良い魔物ではないため、逃げれば追いつかれることもないのだが、以前よりもずっと魔物の数が増えているため、逃げるのさえ億劫になってきた。
夕闇に染まりつつある茜色の空と、空に紛れる狼煙を漠然と見あげながらアルファは早足に街道を歩み続ける。
(旅人が多い)
昔よりも危険な世の中になったというのに、だ。
100年も経ったなどまるで信じられないが、確かに争いの後は風化し、血で染まった大地は雪がれている。
ハイラルの全盛期、街道は整備され、魔物が跋扈する土地には王軍の討伐隊が士気高く赴き、ハイラル全土の安寧を保っていたものだった。訓練された王国軍の兵士たちは、古代武器であるガーディアンにこそ戦闘力は劣るが、下等兵とて10人も集まればライネルは無理でもヒノックスを討伐できるだけの力はあった。
話し相手に飢える老人の付き合いをよくするアルファは、嘘か真か分からぬ老人の語り部を聞く機会が多く、ハイラルの歴史はそれなりに詳しい。おそらくはその老人たちはすっかり亡くなっているのだろう。
たった100年ぽっち過ぎただけでこの国の民は赤いボコブリン程度の雑魚にさえ好き放題にやられ、追い詰められるようになった。そのさまを旅すがら見かけると、なんとも言い難い心境になる。
騎士家系の子どもが危うげなく討伐できたボコブリン如きに、だ。物心ついたころにはボコブリンの集団を撃破していた者をアルファはよく知っていたが、あれは例外としても。
(これもデクの樹サマが言ってた厄災の影響か?)
女神ハイリアは今、どんな心境であろうか。
彼女はアルファに自我を与えてくれた存在だ。かつて、好きも嫌いもなくただ日々を浪費していたアルファに、女神の神託がおりた。
彼女はアルファのことを心の底から気の毒がっていた。これほど美しいハイリアの地で、愛するハイリアの民が無為に生き、死に急ぐ姿が見ていられなかったのだという。
ごめんなさい、とも言っていた。
何に対する謝罪なのかはついぞわからなかったが、悲し気に落とされた視線から追及することはしなかった。
女神は仰った。その身に宿る聖なる力を高めなさい、と。それを為すためにも、心の成長をなさい、と。
首をかしげるアルファに、彼女は端的に申し付けた。
好きなものを見つけなさい。
快、不快こそ感じることはあっても、感情に欠けるアルファは真剣に困った。すると女神はそんなアルファを見通したようにさらに言葉を重ねた。
周囲を見なさい、変化を見つけなさい。貴方の心が動く瞬間に気づきなさい。
澄んだ鈴の音のようなその声は、命じるよりもやわらかな声色でそう告げた。
それからアルファは生真面目に周りを観察するようになったのだ。空が朝と昼と夜とで少しずつ色を変えてゆくことに気づいたのもその頃だった。
アルファは生まれたとき、泣かなかったと聞く。死産か、と乳母が何度も何度も尻を叩き、逆さ吊りにしようが泣かなかった。息があると気づいた母親が半狂乱に乳母から我が子を奪いとり、乳を与えた。乳を吸うこともなく、ぼんやりと虚空を見つめるだけのアルファは障害をもっていると認識されていたらしい。
だから、どうにも解せない。普通の人は、おぎゃあと生まれたときから泣きわめき、やれ腹が減っただの、やれ眠いだの、やれつまらないだのと、根本として欲望を芯に生きるのだ。生きていくためにぼんやりと食事を流し込み、意識が途切れるように眠っては規則正しい時間に起きるアルファとは大違いである。なにか人として大切なものが欠落しているような気がして仕方がない。騎士家系に生まれた幼馴染の少年は、アルファとは対照的に寝坊助で、幼年学校時代毎日のように彼を起こしていたものだ、と思い出す。家系的なものか、才能か、驚異の身体能力と剣技をもつ彼のことを人は、さすがは選ばれし勇者だ、と事あるごとに言っていたものだった。
たき火の前で三角座りをし、背中を丸めて夜を過ごす旅人を遠目に眺めていたアルファは、いつのまにか足を止めていたことに気づく。自分の身体は、どうにも危うげなあの旅人を放っておけないようだ。
ブーツ越しの赤岩はとても硬い。ごつごつと切り立った崖の多いベーレ谷は、ハイラル方面へ街道沿いに北上すれば森の馬宿があるし、オルディン地方へ北上すれば山麓の馬宿があったと記憶している。1時間や2時間ではたどり着かないことは間違いない。夜になればスタル系の魔物が地面から飛び出てくることを考えると、あそこで夜を過ごすほうが安全なのかもしれない。
一息ついて、アルファは崖を登り始めた。指を引っ掛けられる岩場があるくらいで、つま先のかかる足場もない直角な岩場を軽々と淀みなく登ってゆく。驚異の身体能力とバランス感覚とが垣間見えるが、これくらいなら身体能力と気力の揃った人間なら誰でもできる。
崖を汗ひとつかかずに登り切ると、たき火をかこう旅人がひゃぁっと弱々しい悲鳴をあげて身を仰け反った。まだ幼さの残る若い男の人間だ。茶髪に濃茶の瞳をした15ばかりの人間。そばかすの散った小麦色の肌が若々しい。
「ま、まさかこんなところに人が来るなんて……!」
後ろ手に地をつかみ、転倒を免れる少年。少し離れた場所で止まったのは、旅人に対する配慮だ。人間というのはある一定以上の距離を詰めると緊張するものらしい、とは経験則である。
「貴女も旅の途中ですか? 女性おひとりでの旅だなんて、珍しいですね」
「旅の途中ではあるが、俺は男だ」
「失礼! とてもお綺麗だったものですから。……おや、珍しい衣ですね。それにしても、武器のお一つも持たれていないとは、本当に珍しい」
しげしげと観察する旅人は、アルファが怜悧な美貌を崩さぬ姿に負い目を感じたように視線を惑わせた。
「不躾に眺めてしまい失礼しました。もしよかったら貴方もここで夜を過ごしませんか? 僕も一人旅ですし、不寝番くらいは任せてください」
アルファが一言も話していないにも関わらず、次から次へと言葉を発する少年は、どうやら相当会話に飢えていたらしい。
「僕はジーク。ウオトリー村出身で、行商人の真似事をしながら中央ハイラルへ向けて旅をしているんです」
「ルファと呼んでくれ」
咄嗟に愛称が口からでたのは、先ほどまで思い出していた幼馴染がアルファのことをそう呼んだからだ。
なんとなく、人からそう呼ばれたい心持ちになった。
そのなんとなく、という気持ちが大切なのだと思う。欲の薄いアルファであるから、些細な願望でも丁寧に拾うよう努めていた。己の声を無視し続けていれば、いずれ己の本心が聞こえなくなってしまうから。
「ルファさん、と言うんですね。素敵なお名前だ」
「ありがとう」
「ウオトリー村、ご存知です?」
「ああ。ハテール地方の南にある漁村だったか」
「そうです! かなり辺境だし、ハテール海にあるハテノコ島のほうが有名なくらい小さな村なんですけど、新鮮な魚は本当に美味しいんですよ。ウオトリー村で獲れる魚ほどではないですけれど、もしよかったらどうぞ」
皿に盛られた赤いカニ。全体的に赤い見た目をしており、ゴロンの香辛料が効かせてあるようでスパイシーな香りが鼻を突き刺す。
「ありがとう、しかし食事はもう済ませたんだ」
「そうなんですか。結構な自信作だったんですけど……毒なんて入っていませんよ? ほら」
そう言ってジークは皿のなかのスープをひとすくいし、自身の口にいれる。満足気に微笑み、鍋から皿に新たによそってアルファへ差し出してきた。
「ね、よかったら」
押しの強い少年である。思わず手に取ってしまったはいいが、あまり食事は好きではない。今晩分の栄養はすでにとったし。
無碍に断るのも憚られて、アルファは重い腕でスプーンをとった。
舌がピリピリと痺れる。ゴロンの香辛料が使われているらしい。鼻をカニの香りが抜けてゆく。口のなかには香辛料を和らげるまろやかなスープが広がり、喉の奥からさらに奥へ、自然とスープは嚥下された。温められたスープが身体を通っていくのがわかる。
「どうですか?」
「うん、初めて食べた」
無表情ながらも、凪いだ海のような瞳がきらきらと輝いていた。目敏くそれに気づいたジークは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「自分で言うのもなんですけれど、美味しいでしょう? 赤い月(ブラッディムーン)の夜に料理をしたんですけれど、大成功したんです」
たしかに、美味いと思った。王宮で出される騎士用のレーションとは比べものにならないほど。
「ツルギガニも食べてくださいね」
そう言われ、ハサミの部分を手づかみする。
「殻はここに放ってください」
指し示されたのは若干掘られた地面だ。
細い指先がめきょりとカニの殻に突き刺さり、豪快に殻がめくられる。ぷるんとまろびでた白い身にかじりつくと、やわらかくも弾力のある身に先ほどのスープが染み込んだ独特の風味が口のなかいっぱいに広がった。
「美味しいですか?」
ひとつ頷いたアルファを見て、ジークは嬉しそうに笑った。先ほどまで、時折警戒するような目を見せていたジークが、どうしてだろうか。すっかり心を許したように笑っている。
「遠慮しないで食べてくださいね。僕の分はまだありますから」
そう言って新しい皿に炒めガニを注ぐ。
「一人で食べるのじゃ味気なくって、ずっとケモノ肉をつまんでたんです」
なるほど、たしかに誰かとともにとる食事のほうがずっと美味い。