随分と長い夢を見ていたような気がする。
微睡みから覚醒までが、とても長い。だけど、すごく心地よい。
アルファ・グラディウスとしてリンクとともに生きてきた。
ルーファウス・ドゥンケルハイトとして厄災に備え、国を支えて生きてきた。
そのどちらの人生も己のものであったと思い出し、アルファの精神は時の狭間へと送られた。
立場も人柄もまるで違うが、そのどちらも間違いなくルファであった。
ここは、そうか。
そうか。俺はどちらも選べるんだ。
真っ白い空間で胎児のように身体を丸めてアルファは目をつむっていた。ほんのりと燐光を帯びた青年の姿は、今にも消えてしまいそうなほどに儚い。実際、身体の輪郭は燐光に包まれて半ば消えかけている。
ああ、だからリンクは寝坊助なんだな。この感覚ならば確かに、ずっと感じていたい。
誰にも邪魔されず、温かくて気持ちの良いこの微睡みのなかでずっと揺蕩っていたい。
――起きて下さい、ルファ様
聞いた事のある声だ。女神ハイリアにもよく似た、だが決定的に違うそれ。女神の声よりもずっと、人間の情が感じられる温かなものだ。さて、どこで聞いたのだったか。思考を巡らせようとすると、眠気が襲ってきて考えることがままならない。もう一度心地よく眠りにつけそうな気がする。このまま意識を手放してしまってもいいだろうか。
長い青色の髪先がわずかに透明かかり、先端から空に溶けるように消えていく。
――起きてください、ルファ様
声に呼び止められるように、漂う燐光が減り、消えかけていた髪先、指先が形を取り戻す。
ああ、またあの声だ。どこで聞いたのだったか。そうだ。黒いローブの長身の女性だ。確か占い師、とか言っていただろうか。
せっかく良い眠りに就けそうな気持ちだというのに。どうしてこの声の主は切羽詰まったような声でアルファを起こそうとしてくるのだろうか。
何をそんなに焦っているのだろうか。
――眠ってはなりません、ルファ様。わたしとの繋がりが切れれば、もう二度と戻れなくなりますよ
尋常ならざる焦りが声を通してビリビリとアルファの精神に訴えかける。
――アルファ・グラディウスとしての生も、ルーファウス・ドゥンケルハイトとしての生も、そのどちらもが無に帰してしまっても、よいのですか……!
アルファはゆっくりと瞼を持ち上げた。白く滲んだ視界は、どこまでも果て無く続く白い空間しか映さない。地面は感じられないが、身体を起こす。上も下も、右も左もない。ただあるのは白だけで、方向感覚がまるで働かなくなる。
「ここは……?」
先ほどまではわかっていたはずなのに。この真っ白な空間が一体どういう場所なのか。
――時の狭間です。人助けもほどほどになさってください、とお伝え申し上げたでしょう?
そうだ、狭間だ。
「お前は……何者なんだ?」
――占い師です。ただの……ね
――わたしはルファ様をよく知っています。ルファ様がすべてを思い出し、ここに来られることが分かっておりました。……ずっと、ずっとお待ちしておりました
「……そのようだ」
アルファの脳裏に浮かぶのは、金髪の女性。あのフードの下に隠されていた彼女の素顔は、きっとアルファの、否、ルーファウスの知るリヒト家の令嬢なのだろう。
――お選びください、ルファ様。狭間に長らくあれば、消えてしまいます。わたしがこうしてルファ様の精神をつなぎとめておけるのも時間の問題です
そうだ、俺は選べるのだ。どちらの人生でも、どちらの世界軸でも。そのはずだ。だが、どうすればよいのだろうか。辺り一面真っ白で、どこにも出口なんてない。
アルファは辺りをぐるりと見回すが、どこもかしこも白で塗りつぶされたなにもない空間が広がっているだけだ。
足を動かせど、動かせど、なにも景色は変わらない。
――思い浮かべるのです。貴方を現世に留める存在を。それが、
話の途中で、バチバチと黒紫色の電気が唐突に現れた。無機質な鞭上の白い足に、黄色い関節がいくつも備え付けられた――これは、ガーディアンの足だ。
なぜこんなところに、こんなものが?
考える間もなく、しなるガーディアンの足がアルファの身体に巻き付く。
――いけない! ルファ様、早く!!
拘束されたアルファが激しくもがくも、幾重にも巻き付けられた足はアルファを離そうとしない。
体内で練り上げた魔力をまき散らし、ガーディアンの足を凍らせども、黒紫色の妖し気な空間へとずるずると引きずられてゆく。
そのゲートに入る間際、アルファの髪色が根元から徐々に金へと変じてゆく。
――ルファ様! 今の貴方はとても無防備な状態です。早く、器へ!
アルファは、最後まで抵抗を続けたが、黒紫の空間へと引きずり込まれていった。
現れたときと同じく、唐突に消えゆくその空間。
残された真っ白い空間で、震えた女性の声が響く。
――ルファ様……?
――探さないと
時の狭間は、平生と変わらず静かに真白く染まっている。
まるで何事もなかったかのように。
***
渓谷を渡す綱にかけられた鳴子がカラカラと風の訪れを伝える。鳥のさえずり、虫やコッコの鳴き声に、客引きをする女性の明るい声。よくよく耳をすませば、滝から流れ落ちる水音や川のせせらぎも聞こえてくる。
辺り一面緑に覆われ、自然と共存する穏やかなカカリコ村を、まるで村の穏やかさと似つかわしくない早足で黒いローブをはためかせながら細身の女性が歩いている。わき目も振らず、一直線に目指すのは村の最奥に位置するインパの屋敷だ。
薄暮れてきた空に呼応するかのように、屋敷前の提灯に火がともされる。
門番たちは尋常ならざる様子で迫ってくるローブの女性に一瞬身構えるも、すこし前に彼女がカカリコ村に滞在していたことに思い当たる。評判も悪くない、どころか彼女を悪く言う人間はいなかった。穏やかな印象の女性であったと記憶していたが、どうしたことだろうか。
長らく門番を勤めるドゥランとボガードは人を見る目をそれなりに養ってきたと自負している。100年前の厄災を生き延びたインパの知恵を借りようと、カカリコ村を訪れる者は少なくない。彼女もまた、尋常ならざる出来事に遭遇し、インパの助けを求めてきたのだろう。
「通ります」
毅然とした物言い。足早に階段を昇ってゆく女性の背中を眺めつつ、門番たちは顔を見合わせて頷いた。随行する必要も、質問する必要もないとお互いが判断したことを確認しあい、普段通りの職務に戻る。
女性は観音開きの扉を押し開き、滑るようにインパの前に膝をついた。小柄な体躯に不釣り合いなほど大きな笠で覆い隠されたインパの瞳を目深いフード越しに真っすぐに見あげる。
「前触れもなく訪れるご無礼をお許しください。お初にお目にかかります。わたしは、ミーア・エルーヅァ・リヒトと申します。
訳あって王家と貴族について記された歴史書を探しております。対価は望むものをお支払いいたします。どうかお見せいただけないでしょうか?」
「そう畏まらずともよい。わしはインパじゃ。其方はどうやら……高貴な身分のようじゃの」
上質な黒地のローブの背には、弓に隠れてはいるもののトライフォースがあしらわれている。金糸で首元に丁寧な模様が刺繍されたその一品は、間違いなく常人には手の届かない高級品であった。身に着けた衣服だけでなく、女性のたたずまいからもインパはたやすくそのことを察した。
「ハイラルの王族、貴族はみな100年前の厄災で死んでしもうた。わしが史書を見せられるのは、その限られた存在にのみじゃ。どれだけ金子を積まれようとも、それは変わらぬ」
高貴な出自ということは察せられる。だが、リヒトという家柄は長く生きたインパでも知らないものであった。家名すら持たない平民が多いなか、ミドルネームまで持つ者はほとんどいない。もしや、ハイラルの貴族ではないだけで、他国の高貴な身分の者なのだろうか。
目深く被られたフードの下には、日焼けしていない白い肌が垣間見える。通った鼻筋といい、口角の上がった口元といい、何故だか、誰かを想わせる。
まじまじとミーアを見つめるインパの視線を感じながら、ミーアはそっとフードを下ろした。
「なっ……! 其方……」
「どうか、歴史書をお見せいただけないでしょうか?」
「……なにかわしの知り得ぬ事情があるようじゃ。パーヤ!」
駆け付けてきたパーヤに視線を向けた後、ミーアは再度インパへと身体を向けて深々と頭を下げた。
「ご協力痛み入ります。パーヤ、よろしく頼みます」
「は、はい……!」
下げていたフードを戻したミーアは、見る者に優雅ささえ感じさせる動作で立ち上がる。妙にギクシャクとした動きのパーヤに続いてミーアは2階へと昇ってゆく。ミーアの手は固く握りしめられていた。血の気が引くほどに固く固く握りしめられたその白い拳を、傘の下から盗み見ていたインパは、二人が2階へ昇る足音も聞こえなくなった静かな空間で呟く。
「長く生きておると不思議なことがあるわい……」
***
古ぼけた古書を一枚ずつ丁寧に捲るミーアの表情は真剣そのものであった。一晩中集中力を切らすことなく歴史書を読みふけるミーアに、パーヤは静かに付き添っていた。彼女のお腹は小さく空腹を主張していたが、傍に控えるパーヤの視線は少しも気にならないとばかりに、ミーアは一心不乱に文章を追っている。
(探さないと……なにか、ルファ様の糸を手繰れるものを)
常に追い続けてきたアルファの糸を手放してしまったミーアは、今アルファがどこにいるのかまるでわからなくなっていた。
時の狭間にガーディアンが現れるなど、尋常なことではない。それに巻き込まれたアルファが無事でいる保証はない。アルファが無事であれば、それだけでよい。ただそれだけを、今すぐに確認したい。
ミーアは、自分と同じ世界軸にアルファが戻ってくれることを望んでいた。だが、アルファがこの世界を選ぶのならば、それはそれでよかった。彼が選んだ人生を尊重し、元の世界へと再び一人で渡る心づもりであった。
(まさか、目の前で掻っ攫われてしまうだなんて)
ミーアは深く息を吐き、文字の羅列に目を向ける。探さないと。
歴史書には王族のこと、貴族のこと、大きな反乱やハイラルの歩んできた歴史が記されていた。
二大公爵家であるリヒト公爵とドゥンケルハイト公爵については、存在もしていないかのように触れられていない。ミーアの想像が正しければ、この世界軸では両家は存在していないのだろう。
ミーアは一応とばかりに力を行使し、ドゥンケルハイト公爵について占った。だが、案の定その存在を掴むことはできなかった。存在していないものを占ったのだから、そうなることは必然だ。
今のアルファが、ドゥンケルハイト公爵の末裔ではないかと推測したのだが、その仮説は間違っていたと証明された。そもそもドゥンケルハイト公爵家が存在していないのだから、末裔もなにもありはしないということだ。
一家代々騎士を勤めるナイト家と同じ家格のグラディウス家についての記述を見つけた。
(お願い、手繰らせて……!)
願いを込めて占ったが、グラディウス家の末裔であるアルファは100年前に死しており、その糸はぷつりと切れており、手繰れなかった。
占う度に青白い光がミーアを中心に巻き起こり、ぎょっとした様子を見せていたパーヤだが、何も言葉を発しない。ミーアに話しかけられる雰囲気ではなかったのだ。
1万年前に起きたカカリコ族の分裂についてもまた、別の本ではあったが、インパの蔵書内に記されていた。恐るべきカラクリ技術が己に向くことを忌避した王族に命ぜられ、機械力を手放してこのカカリコ村へと移り住んだという。不満を持った者たちはイーガ団なる組織を結成した。
ドゥンケルハイト公爵がカカリコ族の後ろ盾となっていたことは、公然の秘密であった。そのドゥンケルハイト公爵が存在していた、ミーアが生きていた世界軸ではイーガ団は結成されていなかった。
ドゥンケルハイト公爵の存在せぬ、言い換えればカカリコ族が後ろ盾を失ったこの世界軸ではイーガ団が結成されている。
カカリコ族を護るドゥンケルハイト公爵がいたからこそ、イーガ団は結成されなかったと考えるのが正しかろう。後ろ盾のないカカリコ族がなにかしらの迫害を受けて王家への恨みを強め、イーガ団を結成したのが本世界軸なのだ。その迫害については、きっと口伝えで一族の長には伝わっているだろうが、ミーアが知りたい情報ではない。
さて、どうしたものだろうか。
ミーアは歴史書を閉じ、途方に暮れた。
アルファを探す方法が見つからないのだ。絶えず追ってきたアルファの糸は、一度切れてしまえばその根源がわからず手繰ることができない。
本当に彼は、数奇な運命を辿っていることだ。アルファ・グラディウスはこの世界の認識としても間違いなく没していた。ならば、アルファ・グラディウスだと名乗っていた、ルーファウスの魂を持つ彼の方はどうやって存在していたのだろうか。
本来魂は器なくして存在することができない。したとしても、万人から視認されるものではなく、一部の力ある者にのみ姿を、声を伝えられるだけの儚い存在だ。
ミーアは女神の神託さえも聞き得る強い力の持ち主である。そのミーアにアルファの姿が見えることは道理であるが、ハイリアに住まう皆々からアルファは認識されていた。だから、何か魂の依り代があったはずなのだ。
女神ハイリアならばすべてを知っているだろうが、女神ハイリアからの信託は一方的なもので、ミーアの質問に答えてはくれない。神託とはそのようなものである。
何度か女神ハイリアに交信を試みたが、下りてきた信託は勇者リンクを導き、剣となるアルファを手助けし、ガノンを封印するゼルダを解放せよとのものだった。
100年の眠りの末に力を失くしたリンク。その剣とアルファはしっかりとなり得ていた。二人はゼルダを解放するために懸命に力を尽くしていたと言える。女神の神託通りに世界は時を進めている。
(それにしても……間違ってはいなかったということですね)
本世界軸のゼルダが見事封印の力に目覚めたところを見ると、ルーファウスを転生させた女神の判断は間違ったものではなかったと言える。だが、その歪(ひずみ)からイーガ団が結成されてしまった。果たして、カカリコ族にとってそれはよいことなのか、悪いことなのか。
イーガ団が存在しない世界を知るのはミーアとルーファウスだけだ。この途方もない疲労感を持つのは、今となってはミーアだけ。
「ルファ様……」
どこへ行ってしまわれたのですか。
時の狭間で消えゆく彼の姿を思い出し、ミーアは唇を噛んだ。まさかガノンがアルファの存在に気づいており、さらには妨害してくるまでの力を残していたとは思いもしなかった。
100年ものあいだ封印を続けてきたゼルダだが、それはもう風前の灯火なのだろう。
前の世界軸ではただただ忌み嫌う存在であったゼルダ姫を、ミーアは初めて尊敬した。あれほどまでに邪悪な強い力を100年ものあいだ抑え込むのは並大抵の気力と使命感では果たし得ないことだ。
「あの……お姫さま」
ためらいがちに声をかけられ、ミーアは分厚い表紙へと落としていた視線をあげた。
「それはわたしのこと……かしら」
「はい。少しお休みになられたほうが……」
おずおずと進言され、どれほどの間古書に集中し、またパーヤが付き添ってくれていたのかに思い至った。大切な書物を閲覧させるのだから、立会は必要なことだろう。申し訳ないことをしてしまった、とミーアは深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありません。そして、ありがとうございました」
「い、いえ! とんでもないことでございます。あの、ルファ様……と仰っていましたが、アルファ様とお知り合いなのですか?」
紅潮した頬、きらきらと光る瞳。真っすぐにパーヤに見つめられたミーアは、彼女もまたアルファに心を奪われた乙女なのだと確信した。
「はい。……長い付き合いになります」
「そ、そうなのですね……」
しゅんと視線を落としたパーヤの姿がとても可愛らしく思えて、ミーアは温かな眼差しでパーヤを見つめた。
「わたしも、ルファ様をお慕い申し上げているのですよ」
「はっ……えっ……あのっ! パーヤは、そんな……! おし、お慕いなど……!」
耳まで真っ赤に染め上げて、わたわたと首を振るパーヤに、ミーアは声をあげて笑った。
「あら、パーヤもルファ様をお慕いしていると言ったつもりではありませんでしたが」
ミーアは、わたしも、と言っただけだ。
「あっ……」
あまりいじめてもかわいそうかしら、とミーアは早々にパーヤをからかうことをやめた。
「ふふ……報われぬ恋なれど、想うことは自由です。わたしは、ルファ様をお慕い申し上げている自分が嫌いではありません。パーヤもでしょう?」
「はい。パーヤも、そうでございます」
大切な想いを包み込むように、そっと胸に手を当てたパーヤが深く頷く。
過去重圧に耐えかねて腐りかけていた自分を助けてくれたことを、ミーアはきっと永遠に忘れない。
彼を助けることができるのならば、どんな苦労も厭わない。そして、どんな憎しみを向けられることになっても構わない。
嫌な予感がする。それは、よく当たる部類のもので、近々ミーアは誰かから憎しみの感情を向けられることを悟った。もしかしたら、パーヤからも。
(それが、ルファ様が元の世界へお戻りになるから……だといいのですが)