どこかとても暗い場所。光源となるあのどでかい装置はなんだ? 見覚えがあるような気もするけれど。
それよりも気になるのは、淡い光を帯びた液体に包まれた幼馴染が眠っていることだ。
ああ、そうだ。淡く明滅する装置はたしか、回生の祠のなかにあったアレか。埃っぽい空気はとても乾燥していて、軽い咳払いで喉の違和感をやわらげる。その液体はどうやら、揮発性の代物ではないらしい。
ひんやりとした指先。ぐーぱーと握って開いてを繰り返し、手の感覚を確かめる。
(よくできた夢だ)
外の光が一切差さぬ密閉した暗闇のなか、装置だけが光を帯びている。青い光がぼんやりと浮かび上がっては消え、と明滅を繰り返している。今にも消えそうな儚い光だ。そして、最後に見かけたときと、まるで変わらない幼馴染。
「ほんとうによく眠るんだな」
夢なんてみるの、どれほどぶりだろうか。これは夢だ。そうわかっているのに、懐かしい青年の姿を前にすると、思わず語り掛けてしまう。
「単身でライネルの群れをかすり傷ひとつ負わずに討伐するお前が……らしくもない」
液体のなかで固く目をつむり、眠る彼は少しも動かない。身体に刻まれた無数の傷跡が痛々しい。焼け焦げたような傷跡や、鋭い切っ先で断ち切られたような傷跡、赤黒い打撲痕も見れば数重はくだらない傷だ。どれもこれも治りかけのようだが。血液こそあふれないが、赤い肉の見える部分もある。
「死んでないよな?」
一歩踏み出すと、狭い空間にブーツの靴音が反響する。装置に手を触れると、マスターソードのときと同じ感覚がした。自身のなかにある力がごっそりともっていかれる。装置の光が目を開けていられないほどに強まり、液体の光もまた強くなる。
貧血に似た感覚を覚え、前後左右、天と地さえわからなくなったアルファは、平衡感覚を失って地に片膝をついた。嘔吐感を唾液とともに飲み下し、荒い息を短く繰り返す。しばらくすると淡く霞んだ視界が徐々に戻ってきて、喉元に鉄錆のような粘っこい唾液が絡む。痰が絡んで息が詰まり、アルファは激しく咳をした。口元にあてていた手にべっとりと痰がつく生暖かい感触。見ると、赤黒い血が絡んだ痰が付着していて余計に気分が悪くなった。
光を強めた装置が、未だ生傷絶えなかった幼馴染の身体を早送りでもするように治癒していく。もしかして、マスターソードのときよりもずっと酷いが、これも女神ハイリアの力を分け与えたことになるのだろうか。
これは、夢か? 夢だ。自分は湿原の馬宿のベッドで眠りについたのだから。
「なんだって、いいや」
呟いた己の声は生気も乏しく、酷く掠れていた。
お前の助けになれるなら、本望だ。
「起きろよ、相棒。時間がないぞ」
何の時間がないのだったっけ。ああ、そうだ。100年ものあいだ厄災ガノンを封じ続けているゼルダ姫の力が、限界に近いのだったっけ。
どうして俺はそれを知っているのだろうか。まあ、いいや。考えるのが面倒だ。
「おい、起きろ。寝坊助」
焦燥感がして、アルファは傍らで眠る幼馴染に声をかける。立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、うまく立てない。仕方なく装置に背を預けて語り掛ける。
「リンク、目を覚ませ」
――リンク、目を覚まして
凛とした女性の声と、重なった。
装置の光が消え、水が引いてゆく。後ろ目にそれを見ていたアルファは、珍しく小さく微笑んだ。
「おはよう、寝坊助」
澄んだサファイアの瞳が真っすぐにアルファを射抜く。
その瞬間、アルファは馬宿のベッドで目を覚ました。
何の変哲もない馬宿の天井である。皆寝静まり、寝ずの番の男が焚火の前で手をこすり合わせているのが見えた。
嫌にリアルな夢を見た。
起き上がると、夜の冷気が吹き込む入り口で馬宿の男が首をこちらへ向ける。
「大丈夫かァ? 随分と酷い咳をしていたが」
思わず手を見ると、夢のなかだけでなく、現実でも手にべっとりと血がこびりついていた。ぞくりと背筋に悪寒が走る。
「ああ、問題ない。騒がしくてすまなかった」
ひどい頭痛がした。未だ眠りを必要とする身体に鞭打ち、立ち上がる。
くらりと視界が揺れるものの、昨夜は夜通し火の守りをしていたのだから仕方がないかと無理やり理由づける。一晩程度の徹夜が身体に響くことなどないと、分かっていながら。
「おや、もう行くのかい?」
朝陽はまだ差していない。荷というほどのものをもたないアルファであるが、血糊を手拭きでぬぐい、軽くベッドを整えて出入口へと歩き出す。隣のベッドでは深夜に訪れたらしい見知らぬ旅人が眠っていて、健やかな寝息を立てている。
「世話になった。アミヴィが起きたら、発ったと伝えてくれ」
「おうよ。また来てくれや。次もサービスするから」
気の良い男はにかりと笑って手を振った。
「気をつけてな」
「ありがとう」
湿原の近くということが関係するのだろうか。オルディン地方も近いはずなのに、朝方は冷え込んだ。防寒着に着替えようか悩んだが、歩いているうちに暖かくなるだろうと思いなおし、早足に街道を歩き続ける。
次第に血の気が末端まで回りだして、酷い頭痛が緩和される。酒を飲みすぎた翌日のような不快感だけは残るが、問題なかろう。
空はわずかに、赤く染まっていた。赤く染まった月がオルディン峡谷へと沈んでいく。濃密な瘴気が空気中に垂れ込み、そのせいで気分が悪いのかもしれないと思考する。
姫巫女により封印されながらもハイラル全土へ干渉する悪しき力。それほどの力をもつ強敵と戦う運命に生まれたリンクやゼルダは、なるほど非才の身であるアルファには手の届かぬ存在だったわけだと納得する。
英傑たちは呆気なく死んだ。ハイラル全土で高名なあの英傑たちが、ガノンによって滅ぼされたのだ。
いかな勇者といえど、単身でガノンを討伐する力などあるはずもない。当時姫巫女の力は目覚めていなかったし。そんななかで味方であるガーディアンすら敵にまわったのだ。
リンクが倒れる瞬間は、アルファは見たことがなかった。子どもの頃から大人を打ち負かし、とびぬけた才気をもった青年だったから。剣一本で逞しくも戦い続ける姿が、アルファの見た彼の最後の姿だ。
ゼルダが力に目覚めたのは、いつなのだろうか。
ああ、思考がまとまらぬ。
大厄災の訪れた日、我が身は死んだはずだった。受け身も迎撃もできぬ、見事なまでの攻撃の直撃に即死であったと思う。だが、なぜ死んだ身であるアルファが、生きているのだろうか。もとより未練などなく生きていたから、霊魂として留まることはまずない。死の間際、自分はなにを思ったのだったか。
精神世界(サイレン)で過ごした期間があまりにも長すぎて、野生の息吹あふれるこのハイリアの地を、まるで初めて感じるものであるかのような心境になった。
世界はこんなにも美しいのだ、と認識させられた。サイレンで心の成長を果たしたからこそ気づけるようになったのかもしれない。
昔、上官騎士から言われたことがあった。ハイラル国を愛さぬお前など、騎士に相応しくないと。
言葉では否定したものの、真実ハイラルの地を愛しているとは言えなかった。なにせ、この美しい大地になにも思うことがなかったのだから。
今ならば素直に思える。
俺は、このハイラルを、愛していると。
静まり返った湿原を細い体躯の青年がふらふらと進んでいく。
静まり返る大地に濡れた咳の音を響かせながら、弱弱しい足取りで青年は歩いていった。