「──沙希ちゃん、まだ名前で呼んだことないの? もう付き合って半年でしょ?」
「う、うん、まぁ、そだけど。でも今日は作戦があるから」
何やら頭上で声が聞こえる。
寝起きの頭で内容までは聞き取れないが、何となく誰が話しているのかは理解できた。
「……んぁ、川崎か」
ゆっくりと頭を持ち上げる。
目に入ってきたのは一ヶ月前から入り浸っている研究室と、予想通りの顔。
川崎だ。
俺が所属している研究室の同期と仲睦まじげに話している。
艶のある長い黒髪に鋭い目つき。
妙に赤く染まった頬は照れだろうか。
こんな容姿ではあるが、彼女が世話焼きであることはこのゼミで世話になってる連中ならほとんど知っているだろう。
何故かと言われれば、まぁ、その、そう言うことである。
偶然同じ大学に入った俺と川崎は、色々あって付き合うことになっていた。
具体的に説明しろ?
色々は色々だ。
大学の知人どころか、かつての奉仕部メンバーを引っ張り出しての大騒ぎは正直思い出したくない黒歴史である。
もう一生からかわれるんじゃないだろうか。
そんなこんなで彼氏彼女となったわけだが、俺たちの間には一つの日課が生まれていた。
今日もその誘いに来たのだろう。
川崎は俺が起きたのに気づくと、心配そうに眉をひそめた。
「比企谷、昨日寝れてないの?」
「教授がいきなり課題押しつけてきやがったんだよ。俺ならできるだろって」
「信用されてるんだね」
「信用……信用か、あれ?」
体よく面倒ごとを押し付けられているだけのような気もするが。
というかさっきから同期の視線が痛い。
こっちを見るなと睨めば、ヘラヘラした様子で彼女は自分のパソコンに向き直る。。
「あんまり無理しない方がいいよ。あと一年やらないといけないんだし」
「む……」
川崎と付き合いだしてからは川崎の弟とも妙に結託しているようだし、どんどん外堀が埋められているような気がしないでもない。
「ほら、立って。もたもたしてたら次の講義始まるし」
「おう」
「二人とも行ってらっしゃーい」
ニコニコ笑顔の同期に見送られ、俺と川崎は廊下に出る。
「いや、すまん。迎えにいけなくて」
「ホント、あたしだって恥ずかしいんだから」
ツンと顔を背けた拍子にポニーテールが揺れる。
その頬は恥ずかしいのか朱に染まっている。
あぁ、今日も可愛いな。
ひねくれ者の俺でも素直にそう思うのだ、世の男どもが見たら見惚れるに違いない。
いや、だからと言って見惚れてほしくはないわけだが。
そんなことを思いつつ、俺たちはいつもの場所へと足を進めたのだった。
秋の空は天高く。
雲一つない秋晴れの下、やってきたのは大学の裏庭にあるベンチだった。
「ほら、これ」
「サンキュ」
慣れた手つきで弁当を渡される。
巻かれたバンダナを解いて箱を開ける。
と、そこで違和感を覚えた。
「ん?」
「ど、どうしたの?」
「……川崎、あんまり無理しなくてもいいぞ。そりゃ作ってくれるのは嬉しいが」
いつもはバランスが良いというか、雑誌の中身のはずなんだが、今回のは違う。
全体的に茶色くて統一感が無いというか、川崎らしくないと言うか……。
「別に疲れてるわけじゃない」
いや、作ってもらっておいて文句を言うのはお門違いか。
「いただきます」
「うん、どうぞ」
手を合わせ、箸を持つ。
まず最初に手をつけるのは里芋の煮っ転がし。
川崎が自分の得意料理だと豪語するだけあって、その味は格別だ。
「ん、うまい」
「でしょ、今回のは特に上手にできたんだよね」
自然と漏れる感想に彼女の口も弧を描く。
次はと口の中に放り投げる。
「からあげ? いや、ザンギか」
「よ、よく知ってるね」
「……どうした、大丈夫か?」
「全然?」
どうにもさっきから様子がおかしい。
箸の進みも遅いし、何かソワソワして落ち着きがないように見えるのは勘違いじゃないだろう。
と、そこで見慣れない物体を発見する。
弁当の隅にこっそりと入っていたのは……。
「サキイカ?」
「っ」
びくんと隣に座る身体が跳ねる。
そちらに目を向けると、川崎の顔がトマトみたいに真っ赤になっていた。
不審に思って、もう一度食べ物の名前を口にする。
「……『サキ』イカ」
「な、何?」
「……」
「……」
色々と理解した。
これは名前を呼んでほしいとかそう言うやつではなかろうか。
川崎の照れが落ち着いたところで、事情を聞くことに。
「あ、あのさ、私たちずっと苗字で呼び合ってたじゃん」
「そうだな」
高校の時からずっとだ。
そう呼び続けていた理由は特にない。
強いて言えば納まりが良かったというのが正しいだろうか。
「でもさ、そのうち呼び方も変わるわけ、じゃん?」
「……そうだな」
いずれ未来にはそうなるのだろう。
考えなかったと言えば嘘になるが、大学生としての今に忙殺されていた。
いや、言い訳か。
彼女を悩ませていたのは事実なんだから。
「だから、そろそろ名前で呼んで欲しいなとか思ったんだけど、ちょっと遠回りすぎたね。わたしらしくない」
「あー、そのだな。気づいてやれなくてすまん、沙希」
「……っ」
名前は驚くほど自分でもあっさりと出てきた。
瞬間、沙希の顔の赤さが最高潮に達する。
その姿を見て、自分の中で少しばかり嗜虐心が首をもたげる。
「沙希、サキサキ、さーちゃん。
「ちょ、比企谷やめ──」
「比企谷?」
「ぁ……」
あわあわと目を動かす沙希だったが、やがて観念したように息を吸い込む。
潤んだ瞳が交差した。
「はち、まん……」
「……………………おう」
っべー、マジっべー。
俺の彼女マジっぺー。
あまりの可愛さに戸部が憑依していた。
「無理っ!」
耐えきれなくなったのか、弁当をハンドバッグの中にしまって飛び出していく。
後ろで結んだ髪がぱたぱたと揺れる。
「沙希」
その背中に呼びかける。
ぴたりと彼女の足が止まった。
「なに」
真っ赤な耳を青みがかった黒髪の間から覗いている。
そんな川崎沙希という少女がとても愛おしい。
ただ、何度言ってもこの言葉を言うのは慣れないな。
でも、必ず伝えないといけない言葉だと言うのは分かっているから、俺は言葉を口にする。
「あー、そのだな。弁当、美味かった。ありがとう」
「……」
沈黙。
かと思えば、くるりと半回転。
「こっちこそ食べてくれてありがと、は、八幡」
つぼみが割れほころぶような笑みを浮かべ、そう告げるのだった。
ただ、大学のど真ん中でそんなことをやっていれば注目されないわけがなく。
その後一ヶ月ぐらいからかわれ続けるのはまた別の話である。