部室に二人きり。
そんな状況になることが、三年になってからは暫くなかった。いや、二年の頃もさほど頻繁にあったわけではないが、由比ヶ浜が三浦と遊びに行ったり、サブレのなにがしかでいなかったことは何度かあったのだ。
しかし、新体制となった奉仕部において、昨日までは毎日フルメンバーが揃っていた。
そもそも放課後にやることなんぞない俺と雪ノ下は言わずもがな、まるで先日までの空白を埋めるかのごとく、部室に来ては雪ノ下にくっ付いて、というか抱きついていた由比ヶ浜も。新部長である小町も、一色も。毎日のように全員が揃っていた。
いやだから、なんで一色は毎日いるんだよ。君の仕事場、ここじゃないよ?
ともあれ、五人全員揃うのが当たり前の日常と成りかけていた、四月の下旬。もうそろそろゴールデンウィークも始まろうかと言う頃合いに、なぜか。
なぜか、である。
部室には、俺と雪ノ下の二人きり。
騒がしいのが一人もいなければ、室内は穏やかな静寂で満たされていた。時折ページを捲る音がするだけで、会話の一つも生まれない。丁度一年前も、大体こんな感じだったか、と懐かしくなるような。
ただあの頃と違うのは、この沈黙の理由。
特に話すことがないから、というのは共通しているけれど、その中に断絶のようなものはない。互いが互いの殻に閉じこもり、必要以上に関わりあうことを避けていたあの時とは、明らかに違っている。
彼女らがいないのは少し物足りないような、寂しいような気もするけれど。俺は元来、静謐な空気を好むタチだ。それは向かいに座る雪ノ下も同じだろう。
湯呑みに入っている紅茶を一口含み、ほうっと息を吐けば、同じ音があちらからも聞こえた。つい目をやると、雪ノ下も俺を見ていて。
なんだかそれが照れ臭く視線を逸らせば、今度はクスリと笑みが一つ。
「紅茶、そろそろ熱くなってきたかしら?」
「もうちょいで五月だもんな。猫舌の俺にはちと厳しい」
「あなたのそれは冬でも同じじゃない」
「まあな。なんなら年中無休で猫の気持ちを味わえるまである。俺は猫背でもあるから、実質猫みたいなもんだし」
「は?」
「ごめんなさい……」
割とガチギレトーンの一音が返ってきたので、すぐに謝っておく。前にサウナに入るって言った時よりもガチトーンだった。つまり超怖い。
最近せっかく丸くなって来たというか、随分と柔らかい印象に様変わりしてしまったというのに。今の雪ノ下には、出会った頃の触れるもの皆傷つけるギザギザハートの雪ノ下が垣間見えた。
でもほら、寒い時はコタツから出ないとことか、そもそも家から出ないとことか、割と猫っぽくありません? 比企谷八幡猫説、ありだと思うんだけどなあ。
分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのかい……。
けぷんけぷんと咳払いをして、なんとか話を逸らす。
「つか、今日は他の奴らどうしたんだよ。小町は? あいつ部長でしょ?」
「由比ヶ浜さんはサブレの用事にどうしても行かなければダメと言っていたわね。一色さんは、溜まっていた仕事のツケが回って来たそうよ。小町さんは……どうしたのかしら?」
「俺に聞かれても……」
「あなたが一番詳しいのではなくて?」
こてん、と小首を傾げる雪ノ下。可愛い。
しかし、さてはゆきのん、俺のことを妹の動向を常に把握している変態シスコン野郎だと思ってるな?
さすがの俺もそこまでではない。小町の周囲の人間関係を川崎大志協力のもと調査しているが、現在進行形でどこで何をしているのか、まで把握してしまうと、嫌われること請け負いだ。
俺は小町に嫌われれば死んでしまう恐れがあるので、おいそれとそこまでの手出しは出来ない。本当はしたいんだけどね。
と、このまま伝えれば雪ノ下からゴミを見るような目を向けられて嫌われ、やっぱり俺が死んじゃう。なので少しだけ婉曲に伝えれば、小さな口からは呆れたようなため息が。
「部長としての自覚はあるのかしら……」
「ほんとな。そのうちどこの下誰乃さんみたいに、勝手に突っ走って痛い目見そうで心配だわ」
「そうね。どこ谷誰幡と同じ血を引いてるものね」
はははうふふと笑い合い、互いに交わすのは軽いジャブ。そんなやり取りが心地よく、気持ちよく感じちゃったら多分シャブ。
まあ、猫のじゃれ合いのようなものだ。やはり俺は猫だった……?
しかし小町は、本当にどこでなにをしてるのやら。部室に来てあいつの姿を確認出来なかった時にラインは送ったのだが、返信は未だ来ず。放課後が始まってしばらく経っているから、この時間に来ないということは望み薄っぽい。
別にいいんですけどね。どうせ来ても暇だし。ガハマさんもいはすもいないし。本読んで紅茶飲んでるだけだし。
「しかし、前にも増して依頼者来なくなったなぁ」
「去年は平塚先生の斡旋もあったから。それに、奉仕部の存在を知っている人たちは殆どが三年生でしょう」
その名前が出て、少しの寂しさが胸に浮かび上がった。俺たちの恩師は、もうここにいない。連絡を取れば喜んで来てくれるだろうが、あんな派手な別れ方をした以上、すぐに連絡を取るというのも中々に小っ恥ずかしいものがある。
思わず黙り込んでしまった俺を訝しく思ったのか、雪ノ下が不思議そうにこちらを見ている。それになんでもないとかぶりを振って、胸の中の寂しさを紛らわすように言葉を吐いた。
「仕事がないって最高だわ」
「本当にね……」
哀愁漂う横顔でフッと笑ってみせた雪ノ下は、おそらくこの前のプロムを思い出しているのだろう。じゃないとこいつがこんな発言、素面でするわけない。
あの時は、まあ、たしかに働かせすぎちゃったよなーという罪悪感があるけれど。マジであんな企画を考えたやつぶっ殺したいレベルで忙しかったけれど。その分の対価はちゃんと支払うと約束してる。主に俺の一生で。
丁度一年前の俺が聞いたら、奴隷にでもされてるんじゃないかと心配することだろう。未来の俺ではなく、そんな未来が待ち受けている自分自身を。そのあたりはさすが比企谷八幡って感じだが。
もし一年前の俺に一言かけられるとしたら、言ってやりたいものだ。
存外、悪くないぞ、と。
疲れ切って苦みばし走った顔の雪ノ下に微苦笑を向けていれば、長机の上に置いてあったスマホが震えた。
「おっ」
噂をすればなんとやら。小町からのラインだ。俺の様子で雪ノ下も誰からのラインか気づいたのだろう。小町さんから? という問いに首肯を返す。
はてさて、我らが新部長様は一体全体どのような理由で欠席しているのか。理由によっては、先代部長様から沙汰が降る恐れもある。
『今日は結衣さんもいろは先輩も来ないみたいだし、二人の間に挟まれるのもなんかアレだし、先に帰ってるよ』
「えぇ……」
思わず声が出てしまった。こいつ、なんて勝手な理由で……これがもし旧奉仕部なら許されざる行いだぞ……。
これを俺の口から直接雪ノ下に伝えるのもなんかアレなので、ちょいちょいと雪ノ下を手招きする。
てくてくとこちらに歩み寄って来た雪ノ下。どうでもいいけどてくてくって可愛いな。可愛い。その雪ノ下にスマホの画面を見せてやれば、困ったように眉をハの字にした。
ほんの少しだけ、頬が赤くなっているようにも見える。
「あの子は、全く……」
ただ、口元は微かに緩んでいて、まるで喜色を隠せていない。そんな表情を思いの外近い距離で見てしまったからか、俺の頬まで勝手に熱を持つ。
あーもう……相変わらず顔面偏差値高すぎるだろこいつ……なんでこんなに可愛い顔してんの……?
俺の心情を知ってか知らずか、雪ノ下ははにかんだ笑顔を浮かべて、一言。
「なら今日は、二人きり、ね……」
そそくさと自分の席へ戻っていった彼女は、そこに腰を下ろしてからも頬が緩んでいて。いつもの大人っぽい雰囲気からは想像できない、酷く幼い笑顔が。
いや、いやいやいや。
は? 可愛すぎるんだが……? 可愛いの言葉じゃ足りなさすぎるんだが……? この薄汚れた現世に降臨した天使なんだが?
という言葉を紅茶と一緒に喉の奥へと流し込み、至って平静を装って、別の言葉を吐き出した。
「まっ、まあっ? 前にも何回かあったことだしな」
思いっきり声が裏返った。
クスクスと、今度は声を上げて、先程とは別種の笑みを浮かべる雪ノ下。
「声、裏返ってるわよ?」
「うっせ」
お前だって顔赤いだろ、と返したいところだったけど、それを言えば収拾がつかなくなってしまいそうでやめた。
雪ノ下から視線を外し、再びスマホへと落とす。もしかしたら、拗ねたように見えたかもしれない。強ち間違いでもないけれど。
小町に適当な返事を送り、スマホを長机の上に置けば、向かいからジッと視線を感じた。
いや、正確に言えば俺に対するものではなく、俺のスマホに対するものなのだが。
「どうした?」
「いえ、その……」
今度は雪ノ下がサッと視線を逸らす。さて、どうしたのかしらこの子は。
と、そう考えるまでもなく、視線の意味に気づいた。
んー、やっぱり面倒くさいなあこいつ……これくらい普通に言えばいいのに。まあ、そこがめちゃくちゃに可愛いんだけど。
「雪ノ下」
「な、なにかしら……?」
「連絡先、まだ交換してなかったよな」
苦笑を漏らしながら言えば、雪ノ下の瞳の奥がパァッと輝く。そこまでの表情の変化は自覚があったのか、コホンと咳払いを一つして、スマホを取り出した。
「そう、ね。ええ。その、あなたの、パートナーとして、知っておかなければ不便があるものね」
言い訳のように紡がれる言葉。けれど、パートナーというその言葉には、たしかな親愛の情が込められていて。
ほんの少しの擽ったさを感じながらも、立ち上がった俺は雪ノ下の方へと歩み寄った。
「ほれ」
「ええ」
そうして、俺のアドレス帳にひとつ、新しい名前が追加される。電話番号を登録したので、同時にラインの方にも。
見れば、彼女のラインのアイコンはどこか見覚えのあるもので。
「お前これ……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
不思議そうに見上げてくる雪ノ下だが、俺はそれ以上なにも言わない。ただ、これが最近はやりの匂わせ女子ってやつか、と思っただけである。
自分の席に戻り、改めて向かいを見てみると。自分から近づいたせいだろうか。対面のこの距離は、やはりどうしてか少しだけ遠く感じる。
いつも騒がしいやつらがいないのも、その一因なのだろう。
でも、それだけじゃなくて。
きっと、見えないなにかが、前よりも近づいたから。
長机の反対側で固定されたままの距離が、以前よりもぐっと近くなったらから。
連絡先を交換したことで、その実感が増してきたから。
深く息を吸って、秒針の音を五回聞いてから吐き出す。
席を立ってもう一度雪ノ下の方へと足を向ければ、当然彼女はそれを訝しんで。
「……どうしたの?」
「いや、まあ、なんだ……」
突然隣に椅子を置いて座った俺に、心底困惑している顔を向けた。まあ、そうなるよな。
顔が熱くなるのを自覚する。それを片手で隠そうとしてしまうのを必死に耐え、けれど結局雪ノ下の目は見れなくて。
酷く掠れた声で、告げた。
「二人しかいないんだし、な……」
あー、クソ、めっちゃ恥ずかしい。なにこれ、なんでこんな恥ずかしいの? ただ事実を口にしただけじゃん……。
真横にいる雪ノ下から、返事の声はない。もしかして余計なことしちゃっただろうか。はっはーん、八幡くんもしかして浮かれてるな? 海浜公園の時と言い今と言い、ちょっと調子に乗って浮かれすぎでは? やっぱりそろそろ死んだ方が良くない? ここから飛び降りたら死ねるかな……。
が、しかし。雪ノ下の沈黙は、どうやら俺が思っていたものとは違っていて。
チラと視線をやると、雪ノ下は両手で顔を隠して俯いていた。それでも、その紅は隠せていないが。
「あなたのそれ、卑怯だと思う……」
「えぇ……」
お前がそれを言うのか……。
広い部室の中、長い机の端っこで。並んで座るのは、顔を真っ赤に染め上げた二人。
そんな奇妙な光景が、チャイムが鳴るまで続いていた。