夜明け前の空は、青い空と夜の闇が混じって紫色になることがある。
そんな、朝でも夜でもない時間の海沿いを一人で歩いていた。
高校時代を共にした雪ノ下雪乃の姉であり、数々の問題を俺たちに突きつけていた雪ノ下陽乃。大学、社会人になり大人になるための階段を登って行ってる最中だった、あの人との再会。
俺は千葉が好きだ。それはもう昔から変わっていない。だからこそ、会社も千葉から通えるところを探したし、私生活の行動範囲も自然の流れのままに千葉を中心としていた。
そんな時だ、偶然飲み屋であの人と会ったのは。
行きたくもない会社の飲み会に付き合いで参加し、楽しくもない場で無理して作り笑いして誰かに気を遣っていた。それが悪いことではないと思うけれど、自分には向いていないようにも思う。昔、自分が一番なりたくないような大人になっていっている気がする。
居酒屋を出て、二軒目に行くという流れの時の道すがら、雪ノ下陽乃と再開した。陽乃さんは少しの言葉だけ交わすと、俺の上司に向かって驚きの言葉を投げた。
「すみません、彼を迎えに来たんですけど、今日はこの辺りで連れて帰ってもよろしいですか? 彼ったら全然約束守ってくれなくて」
それを聞いた俺の上司も、比企谷ちゃんと彼女の言うこと聞けよ〜なんて言いながら俺を解放し、数名を連れて二軒目へと向かって行った。
全く展開に頭が追いついていないし、意味もわからない。なんでいきなりこの人こんなこと言ってるんですかね……。しかも恋人じゃないし。
「ごめん、君が退屈そうだったから、つい」
「……いや、すんません俺のために」
「比企谷くんも大人になったんだね〜」
「もうあれから何年経ってると思ってるんですか」
数年ぶりに再会した陽乃さんは、前に見た時よりも当然だが歳を重ねている。それなのに変わらぬ美貌とスタイル、それと気品を持ち合わせていた。
雪ノ下陽乃に作ってもらった時間。それをどう使えばいいのかわからない。けれど、作ってもらった人のために使おうと、それくらいを考えるくらいには俺も歳を重ねてきた。
「この後、時間ありますか? よかったらお礼させてください」
「……驚いた。比企谷くんもそういうこと言えるんだね」
「まぁ、ほどほどには」
「いいよ。付き合ってあげる」
週末の大人が帰るにはまだ早い。そう自分に言い聞かせながら、夜の街を二人で歩く。
アルコールを含んだ身体は熱く、どこか熱に浮かされているみたいだ。
駅から近いのに、どこか薄暗い路地。そんな場所にある隠れ家的なBARへと足を進めて行った。
往々にして夜の街は喧騒に包まれているものなのに、この場所だけは静かで、世界から隔離されているようだった。
安酒しか飲んで来なかった俺に、お洒落なカクテルなんてわかるはずもなく、陽乃さんが頼んだものを真似して頼んだ。
「乾杯」
「どうも」
小さなグラスに入った透明感のある赤い酒をちびりと口に含んだ後、陽乃さんは小さくクスリと笑った。
その訳はわからなかったが、わからなくてもいい。なんだか、俺も楽しくなってきて笑いが出そうだったから。
久々に会ったからなのか、雪ノ下陽乃の持つポテンシャルの高さのおかげなのかはわからないが、意外にも話しは尽きなかった。
いつもは長い夜も、時間を忘れるほどに短い。それは、会話が楽しいということに他ならない。この人と会話をしていて楽しいと感じるのは、俺が大人になったからなのか、それとも合わせてくれているのか。でも、そんなのはどっちでもよかった、楽しいのは本当なのだから。
カクテルはその可愛らしい見た目から、嘘のように度数が高いのも存在する。まるで、どこかの誰かのようだ。古来より、綺麗なものには棘があると言われてるしな。
「あれれー? 比企谷くん顔赤いけど、酔っ払っちゃった?」
「……まさか、暖房が効きすぎてるだけです」
嘘である。真っ赤な嘘で、偽りで、出まかせだ。顔は熱いし、頭も痛いし、少し気持ち悪いまである。けど、弱みを見せたくなくて、酔っていると言われたくなくて嘘を吐いた。きっとバレているだろうけど。
酔っている時だけは煙草を吸いたくなる。普段はそうでもないのに、酒の肴代わりに吸う煙草は上手いと思える。恩師と同じ銘柄の煙草を選んだのは、きっとあの人に憧れてるから。今なら、あの人にも大人になったなと言ってもらえるだろうか。
雪ノ下陽乃の隣で酒を飲みながらそんなことを考えていた。
「比企谷くんはさ、理想の大人になれた?」
「なれてませんね。なんなら理想としては働きたくないまでありますし」
「ふふ、やっぱりそんなもんだよね」
魅惑的で、魅力的で、蠱惑的な笑みを浮かべながら俺にそう言ったこの人の心情はよくわからないが、わからないなりに予想は立てられる。きっと、誰しもがそうなのだ。自分の理想通りに、夢を叶えた人なんて一握りだろう。それは雪ノ下陽乃でさえもそうなのかもしれない。
俺が知っている雪ノ下陽乃は、完璧超人で何でも出来て、何でも知っている。そんなものは幻想でしかないのに、この人ならと思えていた。でも違った。雪ノ下陽乃も、ただの一人の女性なのだ。俺の隣に居る人はただの綺麗なお姉さんだ。
そう意識をしたらなんだか急に恥ずかしくなってきたんですけど! やだ、なんだか恥ずかしい!
「比企谷くん、顔赤いけど大丈夫?」
「え、ええ、まぁ。気にしないでください」
「……さては、お姉さんの魅力にやられたな〜?」
「……」
「え? 本当に?」
顔から火が出るような羞恥心と、 なんとも言えない気恥ずかしさに耐えきれなくなって、まだ半分も減っていないグラスの中身を一気に煽った。
味を感じる暇もなくゴクゴクと喉を鳴らして飲み込む。その後に残ったのは、ただただ焼けるような喉の熱さだけ。
それから程なくして世界は回りだし、店内に流れていた音楽も俺には聞こえなくなり、視界は徐々に暗くなっていった。
身体を揺さぶられるような振動を感じる。名前を呼ばれているような気がする。その声は優しくて、落ち着く。けれど、その声とは裏腹に身体の揺さぶりは強くなっている。
目を覚ますと、そこは知らない部屋。こういう時に言うことは一つだ。
「知らない天井だ……」
「かっこつけてるところ悪いんだけど、早く起きてよ」
声がする方を向けば、陽乃さんがいる。
察するに、ここは陽乃さんの家なのだろう。まだ酒が残る頭で、寝ぼけた頭でそんな的外れなことを考えていた。
何故俺が陽乃さんの家に上がっているのかはわからないが、大方俺が酔い潰れたから連れて帰ってきてくれたのだろう。やだ、八幡初めてのお持ち帰りですわ……!
身体を起こしてみれば、俺はソファに寝ていたらしく、俺の側に座りながら陽乃さんは呆れたような顔をしていた。
陽乃さんは昔、雪ノ下雪乃と住んでいた時期があった。それは俺も知っているが、今のこの家はあの家とは違う。きっと、あれから紆余曲折あったのだろうということは予想がついた。俺が想像する以上に色々あったんだろうな。
ここの場所はよくわからないが帰るとするか……。
「あっ、帰るの?」
「いやまぁ、はい」
「別に寝ていってもいいけど」
「大丈夫ですよ」
善意で言ってくれたのだろうが、俺も男で陽乃さんは女である。男女が一晩一つ屋根の下で過ごしたとなれば陽乃さんもマズいだろう。それがなにも起きなくても。
「比企谷くん、ちゃんと酔えるんだ」
「初めてです、こんなに酔ったのは」
「へぇ、じゃあ次は酔わないでね」
「次……?」
「連絡先、交換しようよ」
流れのままに連絡先を交換した。仕事の連絡先を含めなければ、数えるくらいの知り合いしか入っていない俺の電話帳に新しい名前が増えた。雪ノ下陽乃、予想だにもしなかった名前が。
水を一杯貰い、飲み干してから立ち上がる。
陽乃さんと「またね」という別れの言葉を交わして外に出ると、俺の家から一時間圏内の場所だった。
冷たい空気の中を白い息を吐きながら海沿いの道を歩いていく。
空を見上げれば、空は紫色に染まっていた。
「またね」という言葉と電話帳に刻まれた雪ノ下陽乃の名前。
俺の灰色だった日常に、少しだけ色が付いた。でもその色にまだ名前はない。それはきっと、後から名前が付くのだから。
了