伝奇公演 しあわせの呪文   作:久聖

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 村はススキ色だった。畑も人家も、小川も水車も、西に散らばるアルプスの端切れから流れてきた霧と斜陽とにことごとく沈んでいる。

 村につづく道の上で、一人の女が鋭く黒いものを踏んだ。村を抱く丘の上の古城から、はるばる伸びてきた尖塔の影である。亜麻色の髪はつやがなく、重いものを抱えるように頼りなくうつむき、村へと歩く。手には杏の酒、いくらかの菓子。荷物らしい荷物はない。乾いた唇は引きつりながら、おなじ言葉をくりかえしている。

「ホクス・ポクス・フィディブス、ホクス・ポクス・フィディブス……」

 村の柵を過ぎた。吹きはじめた夜風が霧を薄くする。溜息だけ先へやって女は立ち止まった。顔を上げる。四角い畑と、それを見張る質素な家々。水車の遠い音。女は眉をひそめた。どの家の窓にも灯りがない。見めぐらそうとして、あやうく叫ぶところだった。真横に男が立っていたのだ。

 両手で口を覆い、あとずさる。しかし彼女の心配とは裏腹に、その男はなにもしなかった。振り向きもしない。歩いて行きもしない。ただそこに立っている。

 いぶかり、顔を覗いた。男は反応しない。

「お隣の……」

 女には見憶えがあった。隣家の主人である。酒好きで、笑う声が三〇〇メートル離れた彼女の家まで聞こえるほどの豪快な人物だ。その彼がただ茫然と立っている。糸杉のような自慢のひげがヤマアラシのごとく膨れ、毛羽立っている。目は半開きで、規則的にゆっくり瞬くのみ。

「だれか……!」

 ざわつく胸を抑え、振り仰いで助けを求めた。その声が詰まる。霧の晴れた薄暮の村にあったのは、おなじく立ち尽くす人、人、人。老いも若きも、男も女も、意思も生気も感じられぬ顔で、やがて灯りもない家にもどっていった。取り乱して、彼女は来た道を逃げた。

 

 一〇日が過ぎた。村のようすは変わらぬ。村人は天気によらず日が昇れば起き、不器用に食事をし、牛馬をそぞろに働かせて、日が落ちれば眠る。雨や汗で服が濡れれば脱いで乾かすのが、唯一人間らしい動きであったかもしれぬ。

 その村に、いまひとたびの来訪者があった。青い服の、それは少女である。村外れに馬を留め、高い太陽の光をサファイア色に反射しながら、毅然として村へその細い脚を進ませた。

「ここがブライファイレンデ(ドルフ)……」

 村を囲う柵の、朽ちた看板はかろうじてBreifeilendeと読める。銀のペンダントを強く握り、少女は木戸を押す。

「行きます、……おじいちゃん、お母さん」

 

 彼女がはじめてその村の名を聞いたのは二日前、ローマ市にある聖堂でのことだった。老齢ながら熊のような体格の司教に喚ばれ、大理石の天使たちが見下ろす赤い絨毯に膝をついていた。

 老司教は分厚い胸板を膨らせ、威厳のある声を響かせた。

「カーテローゼよ、オーストリアの農村に吸血鬼が現れた」

 少女、カーテローゼが老人を見上げた。深い赤色の瞳が使命に燃えて輝く。

「あまり気負わずに、現場は遠いぞ」

 なだめる手つきで老人はほほほと笑う。白く豊かなひげがサンタクロースのようであり、現に、聖誕祭にあっては黄色の装束を着こんで子供たちに菓子を配る、このローマではよく親しまれている司教である。説教台に手招きされ、カーテローゼはそこに広げられた地図を覗いた。しわの深い、いかつい指が地図の上を迷う。

「オーストリア帝国南部、西寄りの……アルプス山脈が終わるあたり……ああここだ、ブライファイレンデ村。かつてはこの地域の中心だったが、一五〇年ほど前の動乱と再編でさびれた村だそうな」

 もう片方の指がイタリア半島の中ほど……二人のいまいるローマを指す。

「あすの夕刻の汽車を手配してある。向こうの駅には馬もある。急ぎ、支度をせよ」

「はい、司教さま」

 二人は声と視線を硬質にして頷きあう。綿のひげの顔が苦笑に歪んだ。

「すまんな、カリン。あちらのハンターは手が足りぬでな」

 このころのイタリア半島諸国家とオーストリア帝国との仲は良いとは言えなかった。それでもおなじカトリックを奉ずる民同士であり、東欧各地で吸血鬼が力をつけ、数を増やしていることは看過できない。ブライファイレンデ近隣のヴァンパイアハンターはこの冬に吸血鬼と相討ちになったばかりである。ハンターたちは息もつけず、そしてじわじわと数を減らしつつあった。

「平気です、おじいちゃん。わたしの力が役に立つなら」

「すまんな、いや、ありがとう……」

 寂しげな声音で、大きい手が頭をそっと撫でる。一礼すると、青い服を翻して若きヴァンパイアハンター・カーテローゼ、通称カリンは聖堂を大股に出ていった。義足の老人は、閉まった扉をじっと見つめていた……。

 

 ローマからは一〇〇〇キロの長旅である。車中では資料を読む時間がじゅうぶんにあった。修道士の調査によれば、村人はいずれも吸血鬼の魅了(チャーム)を受けて自我を喪失している。しかしいずれも血を吸われた形跡はなく、死者は出ていない。ただし“いまのところは”と強調されている。意識の働かぬがゆえ、腐ったものさえ食べ、調理にあっては火事のおそれ、牛馬に踏まれるやもしれず、獣や妖魔に抗するはもちろん、逃げることあたわぬべし、と。

 村の場所、規模に地形。熟読し、よく眠り、カーテローゼは汽車を降りた。未明のことである。もらった食事を馬上で済ませ、いま昼の太陽のもと、吸血鬼が支配する村に踏み入ったのだった。

 

 オーストリアの夏の風は涼やかだが、太陽は等しくじりじりと地表を灼く。表で呆然と佇む人々も、本能的にか、みな日陰にはいっていた。

 吸血鬼が潜むのは西の丘に立つ古城だ。象徴的な一本の尖塔を目指し、しぜんと大股になる。人家を一つ過ぎたところで、カーテローゼは眉をひそめた。血の臭いがする。不快な臭気の濃くなるほうへ、カーテローゼは走った。

 そこは真新しい柵に囲われた土の広場だった。地図には“開墾中の畑”とあった場所だ。村人は意識を奪われても、開墾をやめていなかったようである。だが土の起こしかたまで考える力はなく、農耕馬をいたずらに歩かせては厩舎にもどすばかりだったようだ。土の起こしかたが乱雑に極まることは、農業を知らぬカーテローゼにもわかった。

 臭気のもとは畑の中央にあった。馬が横たわり、まわりの土が赤黒く変色している。ときおりその痩せた胴体が動く。何者か、それこそ“獣か妖魔か”が農耕馬を殺し、食べている最中だ。

 銃を構えるが、死骸に隠れて相手は見えぬ。食餌の終わりか、息継ぎを待つ代わり、カーテローゼは周囲に視線を転じた。畑の開墾者はどうなった? それは疑問文を脳裏に読み上げるより早く見つけられた。柵の横木の上で海老反りになっている。腹が上下するのは、こちらは呼吸の証であろう。

「あん?」

 粗い金やすりのような声。血の臭いが増す。馬の死骸の影から、二本の脚で立ち上がったものがいる。互いに姿を認め、馬殺しの下卑た笑い声に、ヴァンパイアハンターは銃口を向けて応えた。

「馬くらいっきゃ食うもんがないと思ったが、ツイてるぜ。遊んで、食って、一週間は持ちそうだ」

「人狼!」

 逆立った髪、顔まで灰色の毛に覆われた痩せぎすの体躯。両目の端まで裂けた口には釘のような牙が並び、血と涎の混合物を滴らせる。瞬発力に長け、言葉で竦ませて獲物を襲いやすくするのが彼らの常套手段である。

 一度ならず人狼と対峙してきたカーテローゼはその言葉にかぶせて怒鳴り、同時に引き金を引いた。

 長い銃身から飛び出した弾丸はまっすぐに人狼の胸へ飛びこむ。赤や黄色の粘着質のものが飛び散った。

「あーあー悪いんだ。仲間の頭を割っちゃった」

 カーテローゼは返事をしない。臨戦態勢にあって、妖魔の問答につきあってはならない。それは彼らと闘う者たちの不文律である。

「こいつ、街で見たことあるぜ。揃いの制服で仲良く散歩してんだよなぁ~」

 人狼はにやにやと人間の手足を誇示する。街から、せめて獣の対策にと派遣されてきた人だろう。もがれた手足に加えてなかごろを握りつぶされた猟銃や水筒を、人狼はお手玉のように弄んでみせた。

「こいつはオレに銃を向けてから五秒だけ生きてた。女だったらオレは殺さなかったのになぁ。あ、けど、オマエに撃たれてどっちみち死んでたか」

 口は哄笑を吐き出しながら、ぎらついた目はカーテローゼの表情と銃口とをうかがう。死体を使って防がれるのを見越してか、引き金にかけた指は動かない。

「オマエは服がちがうな。いい服だなぁ、うまそうな足がチラチラ見えてよ」

 馬の死体を踏み、人狼は一歩進み出た。中身の大半を喪った馬は、骨の踏み砕かれる音だけを発する。

「どこから来たのか当ててやろうか?」

 黒い鼻が膨らみ、しぼんだ。余裕ぶった顔が藪睨みに変わる。猟銃と片脚を棍棒のように持ち替えた。

「オマエ……ダンピールかぁ……」

 忌々しげだが、値踏みするような、余裕ぶった声音は欠かさぬのが彼らである。弾丸に対応することはたやすい。撃つのを見てから防ぐも避けるも自在なことはすでにやってみせたとおり。リボルバーの残り五発を無為に帰さしめる自信が、十二分にあった。気丈な少女をどう弄ぶか、考えれば牙と牙に粘つく橋がかかる。

「どっちが人間でどっちが吸血鬼か知らねぇが、ゲテモノ好きの血が流れてんのは確かだなぁ。もっとすげぇゲテモノ見たくねぇか? 人狼とダンピールの混血ってのをよぉ」

 身の竦むような哄笑と顔つきは、しかし、カーテローゼには通じなかった。無言のまま二射目を放つ。四つ足で飛び出し、人狼は頭上に弾丸をやり過ごす。牙を乱杭のごとくして、ブーツの細い脚を狙う。カーテローゼもまた仰向けに倒れるように姿勢を低くし、三度目の引き金を引いた。

 身をひねって人狼はそれをも避けた。ひねった勢いが余り、小石の混じる土の上を五回、六回と転げた。両の手をつきこの意図せぬ横転から回復しようとして、人狼は失態のわけを知る。

「腕がねぇ!!」

 左の腕が肩口からすべて喪われていたのだ。それはカーテローゼの銃弾の威力である。かの好々爺の司祭に清められた鉛の弾丸は、妖魔を灰燼に帰しめる力を持っている。そしてまた、命中はまぐれではない。弾速に緩急をつけられる特別製のリボルバーは、はじめの二つは遅く、そしてこの一射は速く、破魔の弾丸を撃ち出していた。おのれの俊敏なるを鼻にかける人狼には、よく通じる戦法だった。

 ……どちらの事実も知ることはなく、人狼は頭を四度目の射撃に穿たれ、弾のめりこむ端から薄紙の燃え尽きるようにして消滅した。

 

 

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