身体の自由はきかない。影での攻撃も分身もできない。ただ天井のフレスコ画を遠目にしながら、埃の臭いを吸っている。青い服のヴァンパイアハンターがフリルの汚れた胸に膝を乗せ、ペンダントから鋭く輝くトップを外した。あらゆる妖魔を亡ぼす、銀の弾丸。それをバレルの長いリボルバーに、慎重に装填する。銃口が鼻先に突きつけられる。鋼の焼けた臭いがする。
「村にかけたチャームを解除して」
息を整えきれぬまま、ヴァンパイアハンターはそう言った。
「やだって言ったら?」
「解除したら、……わたしは撃ちません」
「撃たれて死ぬか、人間の不和と喧騒に耐えて生きるか、……」
吸血鬼の目ははるか遠くを、漠然と映していた。手の届かぬどこかへの憧れと、いま身体のあるここへの絶望のないまぜになった色を、ハンターは覗いている。吸血鬼の肩と喉が震えた。
「なにを笑ってるの。答えて」
「あなたに討たれるならいいかな」
「話し合おうとかわかりあえるとか、言ってたのは嘘だったの!?」
「そっちこそ、絶対殺すって息巻いてたのに」
追い詰めて、動きを封じて、あとは指を一本動かすだけ。それができない。カーテローゼの指が震える。紫の外套の少女の言葉が、その瞳が、それをさせない。否、させまいとしているのはカーテローゼ自身の心であった。
「……あなたからは血の臭いがしないから」
「飲んだことがないわけじゃないんですけどね。人間を見ちゃってからは、飲めなくなったなあ」
「どうして」
口のなかが乾くのを感じた。妖術でもなんでもない。この少女の存在がか自分のなかで膨れていくのを、カーテローゼは感じていた。そのうしろに、微笑む母の姿があった。
「狭い村のなかで罵りあって、仲良くしてると思ったら陰口を言って、男は女を、女は子供を、いつも虐げていて……。そんなのの血は、飲みたくなくなっちゃった」
「チャームをしたのは、それをさせないため?」
「そう、飲まなくても死なないけど、せっかくの力が錆びつくのも本当。だから、人間が平和に生きるようになれば、飲みたくなるかなーと思って」
「……どうだったの」
「あはは、ぜんぜん」
笑っているのは声だけだ。その瞳はあのときの母とおなじ光をたたえている。
「……“人間を見てからは”って言ったけど、吸血鬼だってもともとは人間でしょう」
「お母さんはそうだったみたいですね。お父さんはわからないけど」
「まさか、吸血鬼同士の子供……?」
「はい」
視線がカーテローゼへ、ようやく向いた。彼女が驚いたのを楽しむような、色彩のある目になっていた。
「……またあの騒々しく憎み合う人間たちのそばで暮らしていくのはイヤ。かといって出ていく場所もなし。だから撃っていいですよ、ヴァンパイアハンターさん」
「……」
金属の音が礼拝堂にこだまする。カーテローゼは振り出した弾倉から銀弾を抜き、ペンダントに戻した。銃を収める。
「あれ?」
「チャームを解いて。そうしたら、あなたが静かに暮らせる場所は、わたしが探してあげます」
膝をボロボロの絨毯に下ろす。自分の腹に座りこむハンターの少女を、吸血鬼の少女は目を丸くして見ている。
「どうして?」
「あなたを撃ったら大切なものを喪うような気がしたから」
心中量りかねる顔で、吸血鬼は応えた。
「それに、人間と吸血鬼が本当に歩み寄れるのか、わたしは知りたいんです」
「私のほうはともかく、人間が本当に歩み寄ってくれます?」
「……ダンピールのわたしが受け容れられているんです。吸血鬼だって、ぎゃいっ……害がなくて、気持ちがちゅう……じるってわかれば」
こんどこそ吸血鬼は声を上げて笑った。顔を赤くして、舌足らずのハンターが睨む。
「ごめん、あはは、かわいい……あはははは」
「撃ちますよ!!」
「まあまあ、それより気になってたんだけど」
赤い爪が、青い服の長い裾に触れる。
「この下なに穿いてるの?」
「ちょっと!!」
腹にのしかかる少女の内股を覗きこむ。持ち上げた布はひったくられ、すぐに両脚の間を隠した。
「おおー、ショートパンツ。一緒一緒」
真っ赤な顔で怒鳴りつけんとするカーテローゼの鼻先で、吸血鬼は指を一つ鳴らした。
「チャームは解除しました。……あの村には期待しないけど、まずは、あなたの紹介する人間と仲良くしてみましょうか」
低く唸ってへらへら笑いの顔を睨み、カーテローゼは立ち上がった。顔の赤みはすっかり落ち着いている。かがんで伸ばした手に、赤い爪の手が乗せられる。
「ありがとう。わたしはカーテローゼ。あらためてよろしく」
「私はカンパネラ。よろしく、カーテローゼ」
並び立って握手を交わした二人に、きらきらと眩しいものが注ぐ。正面に伸びる自分の影の濃くなるのを見て、カーテローゼは体ごと振り返った。きらめくステンドグラス。青ざめた埃の礼拝堂に、とりどりの光が、やがて白一色に混ざって、まっすぐに注がれる。
「朝……」
美しい光景だった。吸血鬼のことを数秒、忘れてしまうほどに。
「あっ、ど、どうするの? 吸血鬼は陽の光の許にはいられない!」
話に聞いていた吸血鬼の弱点。ニンニクの臭いを嫌い、十字架と聖書の言葉にすくむ。不死だが、蘇らせない方法は三つある。首を切り離して足の間に置き、胸に白木の杭を打つ。銀の弾丸で灰にする。そして太陽の光に当てて塵にする……。
「あれっ!? いない、まさかもう日光で……」
「ご心配ありがとう」
カンパネラの飄々とした声が礼拝堂に響く。出処はカーテローゼの足許だ。
「かっ、かんにゃにぇ……かんなねな?」
カンパネラの噴き出す声。ひとしきり笑い終えると、吸血鬼は姿を現す。カーテローゼの影のなかから、煙のように立ち上る。
「いいですね、それ、かわいいな。カンナ、いいね。それで呼んでください」
「やめて、もう……。なんでわたしの影にいるんですか、カンパネラ」
「……」
「カンパネラ?」
「……」
影のなかの吸血鬼は“答えてあげない”という小憎たらしい顔芸をしている。
「……カンナ」
「日除け、日除け」
「知ってます。わたしのじゃなくてもいいでしょ」
「カーテローゼの……ああ、私だけ渾名なのも変な距離感ですね。あなたの渾名は?」
「……」
こんどはカーテローゼが顔で答える。つまり、渋面を作ってみせた。
「ねえねえ、いいじゃない。教えてよ」
「……カリン」
「そう、カリン。かわいい!」
いっそう増す苦々しさを、カンパネラはまるで気にしていなかった。
「カリンの影にはいってればさ、よそ見しててもちょっと寝てても、はぐれたりしないじゃない」
「便利ですね。はぐれたくなりましたけど」
静寂の村に朝が来た。小鳥のさえずりを鶏がかき消し、それが落ち着くと小川と風の音ばかりがする。それが一週間以上つづいていた。この朝も、そうなるはずだった。
「どうなってんだ!!」
酒焼けした怒鳴り声で、亜麻色の髪の女は跳ね起きた。目を白黒させてツギハギの掛け布団と軋むベッドから這い出すと、全身に怒気をみなぎらせた夫と、猜疑に背筋を曲げた姑とが、台所をひっくり返していた。
「なんでこんなに肉がなくなってる!」
「麦もえらく減ってるよ」
女の脚が震え、よろめき、半歩踏み出す。こめかみをくすぐるような、木の床の軋む音。荒れる二人はゆっくりと振り返った。
「ミュウ!! いつ戻ったんだい! これアンタがやったのかい!!」
姑の甲高い声に、その女、ミュウは目をつぶった。
「勝手に出ていって勝手に帰ってきて勝手に大飯を食ってたのか!!」
夫のガラガラ声に、ミュウは胸を抱いて縮こまった。
出ていくときも帰る時期も、きちんと伝えていた。罵声のほかに持たされたものは、なにもなかったが。食料が減っているのは、二人分の備蓄を三人で食べていたからである。まともな料理のできぬ二人に、ミュウは少ない食料をやりくりしていた。
「ホクス・ポクス・フィディブス、ホクス・ポクス・フィディブス……」
二人の怒りを買っているとき、彼女は決まって身を折り、頭を低くして、この呪文を唱える。母から教わったしあわせの呪文。のしかかる理不尽に耐える心の杖だった。
「ブツブツブツブツ気色悪いんだよ! 出て行け! 無駄飯喰らい!!」
「どうせ街で男をひっかけてたんだろう。そいつから金でも貰ってくるならまだよかったのに」
たしかに、戻るまいと思っていた。だが戻ってきた。逗留していた街で杏のお酒も買ってきた。義母には甘いお菓子も。吸血鬼の魔力に当てられてみな夢遊病のようになっていたこの一週間で、どちらも費いきっていた。感情の起伏さえない静かな時間のなかで、それを口にした二人の口許には、かすかだが笑みがあったように、ミュウには見えていた。
頭に硬いものが当たった。床に重く転がったのは、杏の酒の瓶だった。……もはやたまらず、ミュウは家を飛び出していた。