二人が荷造りをにぎやかにしているころ、古城のなかをさまようものがあった。ミュウである。
「どこにいるんですか……吸血鬼さん……」
ホクス・ポクス・フィディブス、ホクス・ポクス・フィディブス……呪文をつぶやきながら、壁伝いに、弱々しく歩き回る。額は赤くざらついている。瓶をぶつけられてできた傷からの血を、何度も拭った跡だ。
朽ちた木戸を押すと、草いきれの猛烈な暗い庭だった。緑の濃淡ばかりのその場所に、一箇所だけ灰色がわだかまっている。古井戸だ。釣瓶を渡していたらしい横木と柱は草のなかでキノコの足場になっており、もはや使い物にはなりそうもない。
吸い寄せられるように、ミュウはその暗い水面を覗いた。
思えば流されてばかりの人生だった。遠慮がちな性分は親も心配するほどで、直そうにも直せないままずるずると来てしまった。なにかをしたいと強く望んだことも、そういえばなかったかもしれない。したいことがないから、他人のしてほしいことをやってきたのだ。他人の喜ぶのが嬉しいと、美点のように自分に言い聞かせていたが、その実はただ顔色をうかがって怯えていただけかもしれぬ。
かつて一人で街で暮らしていたのも、村の友達に誘われて。その友達が恋人を作り、彼のもとへ行ってしまって、シェアしていた部屋に残っただけだ。
……一人の家にいるときは落ち着いていた。うかがうべき顔色がない狭くて静かな世界は、ミュウにとって居心地が良かった。真に解放された気持ちがした。だが、伝手で紹介された男と結婚したことで、その自由な時間もなくなった。愛され、求められる生活。それは不自由ではあっても悪いものではなかった。夫が乱暴になり、姑の目が険しくなるまでは……。
ひと月前、街が恋しくなって逃げるように、旧交を温めると言って出ていった。懐かしくも苦しい昼と自由な夜とを繰り返すうち、夫と姑の目が恐ろしくなってきた。お詫びのつもりで酒と菓子を買った。結婚式のときに供したものと同じものだった。
なかなかつかぬ決心を友達に後押しされて、ようやく帰ってみるとみんな静かだった。そのときは取り乱し、不気味さに逃げた。しかし通報して、検分を聞き、しだいに冷静になってきた。修道士は、あれは吸血鬼の魔力、チャームによるものだと説明していた。本能や欲望が消え失せ、意志もなくただ生きるだけになると。術をかけた吸血鬼の命令は必ず実行するのだと。ともすれば、周りの命令も、疑問を持たずこなすかもしれないと。
ミュウは羨ましいと思った。はじめて心から望んだかもしれぬ。村に戻ってその、天国のようなおだやかな世界に浸っていたいと。自警団の巡回は家々のなかまで見はしない。村に混ざるのに苦労はなかった。
この一週間あまり、ミュウは幸せだった。寡黙な夫の横顔はすてきだと思った。義母の、足腰の壮健なるは誇らしかった。もはや二人とも暴言を吐くことも、物を投げることも、打ち据えることもない。ただただ静かで穏やかな日々があった。母がくれたしあわせの呪文に、効果はあったのだ。
だが、今朝、それが崩壊してしまった。
ミュウは泣いた。叫んだ。井戸の底へ。おのれに不幸をもたらした、地の底の悪鬼を罵った。涙が頬を伝って暗い水面に落ちる。その音はだれにも聞こえない。
言葉が尽きて、ふらふらとミュウは井戸端を離れた。
「もういちど……」
もういちど、吸血鬼に魅了してもらおう。こんどは……。
「私一人、だけでも……」
井戸水がぷくぷくと泡立つ。その音は、だれにも聞こえない。
影が背の半分ほどになる時分である。ブライファイレンデ村の開墾地に、巨大なトランクを牽いた少女の姿があった。カーテローゼである。馬の死骸を前に反目し合う農夫をいさめていたところだ。
「じゃー、バケモンに突き飛ばされたのは夢じゃーなかったってことか」
片方が太い溜息をつき、つづけて身震いした。
「人狼が相手ならしょうがねえ、痩せっぽちで命拾いしたな」
もう片方は無理に自分を納得させるように、芝居がかって相方の背を叩く。バツが悪そうに照れ笑いを向け合う二人である。
「しっかし平和な村だと思っとったんだがなあ」
「吸血鬼に人狼とあっちゃー、次はなにが来るやらわからんぞ」
「じいさんに相談しようかあ」
そう言って、馬の死骸はさておいたまま、二人の農夫はその場を去った。
「あーんなに言い争っておいて平和ですかね~」
「争いがゼロとはいきませんよ。チャームされてたときよりはずっといいです」
「えぇー」
大げさな声だった。どんな顔をしているか想像して、カーテローゼはクスッとする。
「人間の営みあってこそ、ですよ」
「というと?」
「愛です」
「ほほーん」
あきらかに馬鹿にしている。カーテローゼは顔をしかめた。事情を知らずに見れば、一人で芝居の練習でもしているような、表情の変わりようである。
「……男女の仲じゃなくて、互いに慈しみあって大切にする気持ちですからね」
「そーいうことなら私やカリンのほうができてるのでは?」
「うーん……」
実践はしているつもりだが胸を張るほどの自信はなく、カンパネラにその心があるのもわかるが頷いていいほどでもなく、すっかり眉を困らせてしまった。かしいで上下の不揃いな耳に、なにか大声が飛びこんでくる。遠くで、男がだれかを呼んでいるようだ。
「ミュウちゃーん! いるならー! 出てきとくれー!」
糸杉のような立派なひげを蓄えた男だった。呼んでいるのは女性の名だ。
「どうされましたか? 娘さんですか?」
「おお、教会のかた。お隣の奥さんが朝方、家を飛び出したきり行方不明だというんです」
「手伝わせてください。まだ捜してない場所は?」
「村のなかはミュウちゃんの旦那さんとお姑さん、それに私の妻と息子が捜しております。すみませんが反対の……お城に近い村外れのほうをお願いできませんか」
荷物を糸杉ひげのおじさんの家に預けると、カーテローゼは迷い森まで飛ぶように走った。銀の弾丸のペンダントをペンデュラム代わりに掲げると、かすかに古城のほうへ反応する。
「そっか、迷い森の結界も解いちゃったから、人間がうちに来てても変じゃないか」
「行こうと思うこと自体が変ですけどね」
「フーフゲンカってやつですかね」
「うーん、たぶん……。それより、カンナ、あのおじさんですよ。ああいうかたが愛のある人なんです。きっと奥さんも息子さんも」
「はいはい、カリンちゃんは信じる人ってとこですか。当の旦那さんたちは、愛がないと」
「え?」
カーテローゼの影が揺れ、森への道の脇を指す矢印になる。まとめて転がされている丸太の一つに、年配の女と中年の男が座っているのが見えた。人相は、唇を歪めてこそいるが、糸杉ひげのおじさんから聞いたミュウの夫と姑と思われた。
村のなかを捜していると聞いていたが、こんな場所でなにをするでもなく、ぼうっとしているのだ。家人を諦めたことを見咎められたくない、という思いを感じずにはいられなかった。
「あんなののほうが多いじゃないですか」
「だ、だからこそ神さまの教えが必要で……」
揺れてもとの短い形に戻る影へ、言い訳めいたことをしようとしたときだった。遠くで激しい音がした。無数の太鼓を同時に打つような、衝撃にも似た猛烈な音である。森の鳥がざわつき、空をにわかに黒くして一斉に飛び立った。その行く手を見上げたカーテローゼは目をみはる。古城に白い柱が立ち、しだいに高さを増している。
「と、塔? ……水!?」
それは噴き上がった水の柱だ。尖塔の高さも超え、巨大な噴水となって、飛び散るしぶきはやがてカーテローゼたちのいる、森の外にも及ぶ。
「どうなっ……うっ……!」
カーテローゼが頭を押さえてうずくまる。カンパネラの心配する声をかき消して、目をつぶって叫ぶ。
「ええ、ちょっとどうしたのカリン」
手を前に振る。頭をかばう。地面を転がる。旅芸人にはこういう芸があると聞いたことがあったが、カリンがとつぜんそれをする理由はわからない。カンパネラは影のなかで眉をひそめた。
「う、うおお!!」
それならなんなのか、考えるより先に酒焼けした声と老いた声とが、同じように悲鳴を上げるのを聞いた。見ればやはり、じたばたとなにもない場所で小さく忙しく手足を動かし、あるいはうずくまって震えている。
「むむむ」
カーテローゼの影が揺れ、いくつも黒い薄い板上に伸びて持ち上がった。傘となって彼女を覆い、パラパラと雨粒の音を反響させる。
「大丈夫、カリン?」
「だ、大丈夫。幻覚……」
目を剥いて怒る男や老女が拳を振るい、棒を振り上げ、足蹴にしてくる。苛烈な罵声を浴びせる。そんな光景が、とつぜん目の前に広がったとカーテローゼは言う。
「ときどきおだやかになるのが、なんていうか……」
「たちが悪い?」
カーテローゼはあいまいに頷く。
「ミュウ、って怒鳴られてた」
「尋ね人のミュウさんですか。ひょっとして、だいぶマズイことになってます?」
「ひょっとしたら、お城にたどり着いてて、“心を移す釣瓶”を使っちゃったのかも」
「釣瓶ってこんなんなります?」
「メンテナンスしてないアーティファクトを使えばなにが起きるかわかりませんから」
二人はちらりと、ミュウの心の水を浴びてのたうつ夫と姑を見やった。親子は目をつぶろうとも、おのれの醜い姿をずっと見せつけられている。
「助けますか、あれ? 愛の使徒としては」
「……しばらくああして自分の罪を見つめてもらいましょう。たぶん、井戸水がなくなれば落ち着きます」
影の傘を差したまま、カーテローゼとカンパネラはブライファイレンデ城に急いだ。