石の床と壁を金属音が揺るがす。それは漆黒の鎧である。燭台の灯りをテラテラと反射しながら、鋼のような、革のような、材質不明の身体をじつに重たそうに、ブライファイレンデ城内を徘徊する。
「あんな人いたかな?」
「いたでしょう。ほら、あの目録にあった怨念の甲冑ですよ」
「夜な夜な動き回るのは嘘って書いてあったの、嘘なんですかねえ」
「昼間だけ動き回って夜はじっとしてるとか」
「まさか」
などと物陰でふざけあっていたのもつかの間、甲冑はカーテローゼを見つけ、腰の剣を抜き放ったのである。その動きは緩慢で、剣を躱すことは簡単だった。刃は本体とおなじように、灯りを不気味に反射しながら空中を撫でていく。
「……クス…………ブス……」
剣先を震わせ、鎧はなにかつぶやいている。
「カリンちゃんはかわいいですよ」
「ぜったいそんな文脈じゃなかったでしょ!」
カーテローゼも右のリボルバーを抜いて応じる。しかし、渋い顔をして引き金を引かない。
「弾切れですか?」
「撃って効きそうな場所がちょっと……」
尋常の甲冑であれば、関節部分が狙い目である。そうした動く部分には鉄板は使えず、細かい鎖や丈夫な皮革を用いる。銃弾も剣も槍も、その威力を削がれはするが肉まで届く。しかしこの黒橙色のアーティファクトは、伸び縮みする鋼でそこを守っていた。
「目は?」
「驚かせるのが限度でしょうね」
カーテローゼの
まだ賭ける望みがないではなかった。鋼に見える質感の、あの甲冑の素材が、じつはすべて皮革である可能性だ。脇腹を狙って放った銃弾は、しかし、硬質な断末魔を上げて石壁へはじかれてしまった。意にも介さず甲冑はカーテローゼに歩み寄り、剣を大きく振る。落ち着きをもってカーテローゼはそれを避ける。避けながら、やっと見た甲冑の横顔、目のスリットへ銃弾を撃ちこんだ。通りはせねど、穴の空いて強度に欠ける部分である。覗き穴の周りは凹んだ。うずくまる甲冑はまた、なにかをつぶやく。
「…………スポ…………ヒジ……」
「大した脅威じゃないけど、銃が効かないんじゃ退治しづらいし、でも放っておくと危ないし……」
「投石機でどっかに吹き飛ばします?」
「ダメ! 逃げられたら大変!」
「えぇー。なら縛りますか? 二人で縄持って、周りを走って」
「なるほど。じゃあまず剣を取り上げないと」
カンパネラが影から出てくると、甲冑は背を見せて逃げ出した。けたたましく不規則な足音は二人の顔をしかめさせる。だがそれ以上に怪訝さが、二つの若々しい顔に浮かんでいた。甲冑はときおり、半秒ほど停止するのである。
「……ク……ポクス……ディブ……」
「変な動きするくせに足速いですね。こーいうとき、あのゴミ短剣が役に立つのかな」
「悪い言葉使わないでください。それより、なにか言ってますよ、あの甲冑」
「恨み言とか悪口のたぐいじゃないんですか?」
「言うたびに動きが止まるんです」
カンパネラが生返事をして、廊下のサイドテーブルから花瓶を取り上げた。トルコ製であろう、切子の花瓶である。すでに朽ちた花の残りが、底で埃と絡まっている。勢いよく転がされた花瓶は低く跳ねながら、甲冑の足のあいだに挟まった。剣を放り出して、黒い甲冑が廊下に倒れ伏す。
「……ス・ポクス・フィディ……、ホクス・ポクス…………」
「呪文ですかね。なんか感じの悪い響き」
「ホクス・ポクス・フィディブス? ……さっき聞いたような。それにこの声も」
「いつのさっきです? 私知らない」
「あの雨のときですよ。まさか、ミュウさん?」
まさに、怨念の甲冑のなかにいるのはミュウであった。ミュウは吸血鬼を捜して古城を歩き回り、暗室に置かれた鎧をそれと間違えてすがりついた。一世紀以上放置されていたアーティファクトが、三人分のいわれなき恨みが、どう作用したのかはわからぬ。この隙間のない鎧のなかに取りこまれ、ミュウは古城の外を目指して、おのれの意志ならず歩いていたのだった。
……言い当てられ、重い鎧の胴体がビクンと跳ねた。兜を脱がそうとカーテローゼが伸ばした手の下を、なにかが高速で横切った。
「糸!?」
カンパネラが見たままを口にする。横切ったものは糸である。何本も束ねた、白く太い綱のような糸だ。それが甲冑の右手から飛び出し、剣の柄を巻き取った。
「むっ、うう……」
くぐもった、苦しそうな声を洩らして甲冑は立ち上がる。すでに剣はその右手にある。空いた左の手がなにかつかもうと宙空にもがく。
「あう、え、え……」
「違う呪文?」
「“助けて”じゃないんですか? ミュウさん、その甲冑すぐ脱がせてさしあげます!」
甲冑から、安堵したような吐息が聞こえた。しかし二人はむしろ、気を引き締めねばならなかった。剣撃の速度が、鋭さが、格段に増したのである。床を踏み鳴らす突きを躱し、カーテローゼは見た。覗き穴の奥、ミュウの顔を。白い糸で口を封じられ、泣きそうな目をしているのを。
「ミュウさん、鎧に捕まってる!?」
「はー、人間を動力にして動くってことですか」
形勢は逆転した。なかにミュウが囚われているとわかったいま、怨念の甲冑を下手に攻撃するわけにはいかなかった。甲冑を破壊せしめる攻撃は、内部の人間にそれ以上の外傷を与えてしまう。
「なんとかして、動きを止めて……」
牽制に銃を放っても、こんどは怯みすらせず甲冑は向かってくる。
「どうにかして脱がせる、と」
足許へガラクタを放ることだけが一定の成果をあげている。すなわち、歩幅を乱させ剣を振るわせぬという成果である。
「どうしたもんでしょうね」
振り向き振り向き、ダンピールと吸血鬼が長い廊下を走る。もはや振り向いている時間のほうが長い。ちらりと見た前方は四つ辻になっている。投げられそうなものはない。甲冑の脚がヤマネコのようにしなやかに、猛烈に床を蹴る。黒い半月がカーテローゼとカンパネラのあいだを割った。切り返して突き上げる剣先をカーテローゼはすんでのところで避ける。
「カリン!」
カンパネラが叫んだ。甲冑が二本の腕で、カーテローゼの長い服の裾を掴んだのだ。二本の腕である。どちらも左腕だった。いつの間にか、甲冑の腕が倍に増えていたのだ。カーテローゼもそれを斜めに見上げ、目を丸くする。
「うちに来る人みんなずるい技術持ってる」
「わたしはずるくないです!!」
四臂の甲冑は空いた第二の右腕でカンパネラを牽制しつつ、カーテローゼを床に引き倒して剣を構える。ふたたびの突き。その瞬間、カンパネラが影の槍でカーテローゼの裾を切り裂き、拘束を解いた。左腕の力みによって甲冑はその身を回転させ、黒死の剣は虚しく啼いた。
逃れた二人はふたたび走り、だが数秒で追いつかれる。二人は見えない壁に行き当たっていた。
「結界も作れるんですか? なんでもできすぎってむしろ迷惑では」
「待って、これは」
このがらんどうの廊下で三度目の突きがカーテローゼの言葉を遮る。黒い剣はカンパネラの頭のあった空間を貫き、静止した。宙空にヒビが入っている。
「はい……?」
飛び退ったカンパネラが頬を引きつらせる。理解の難しい光景だった。剣は切っ先を喪って虚空にヒビを入れ、甲冑が(おそらく)睨むのは、力なく苦しそうに身をよじる女の姿。
「鏡です! これ、あの本にあった曇らない大鏡!」
「……ああ!」
吸血鬼もダンピールも鏡に姿が映らない。この怨念の甲冑も剣も、同じ特性を具えていることが、いま明らかになった。ただそのなかに囚われた人間・ミュウのみが鏡に映って見えているのだ。
それをまだ理解せぬ甲冑は、カーテローゼが背後に回っても、剣を引き抜かんと四本の腕で躍起になっている。兜だけでも外せないかと、カーテローゼが頭を掴む。首だけでの抵抗は御しきれるものであった。だが。
「あっつ!」
「あれ、どうしました?」
顔を苦痛に歪めてカーテローゼはあとずさる。音もなく近づいたカンパネラに、黒くなった両手を示した。
「強力な呪詛で表面が覆われてるみたいです……」
「思ったより深刻?」
「動かない……」
脂汗と冷や汗を揃って流す二人の前で、こんどは鏡が黒く染まった。黒い甲冑が鏡のアーティファクトに籠められていた魔力を吸い取ったのだ。何世紀ぶんもの劣化をいちどに受けたガラスは曇って砕け、銀は酸化して黒くボロボロと崩れる。そして甲冑はその身を膨れ上がらせた。床が踏み抜かれ、天井は衝き崩される。足場を喪って落ちるカーテローゼとカンパネラは、遥かな青空に頭を尖塔と並べる黒い甲冑を見上げた。
「ホク・エスト・サングィス・クリスティ」
“これはキリストの血である”……聖なる宣言のもと、カーテローゼは赤ワインに両手を浸した。黒く焼きついた呪詛が、煙のようになって消えていく。
二人の落ちた先は、古城の地下、ワインカーヴであった。潤沢にはあるがカンパネラには飲めず、人間の飲用にもはたして堪えるかわからぬ赤ワインをもって、カーテローゼは甲冑から受けた呪いを解いている。
カンパネラはというと、かの巨大甲冑退治に使えそうな品を探しに出た。聖なる言葉を聞きたくないからである。蝋燭の灯りに手を透かし、指の股まで解呪の済んだことを確かめていると、カンパネラが帰ってくる。
「カリン、また鏡がありましたよ」
「鏡?」
「映った生き物を閉じこめる鏡」
先ごろ読んだアーティファクト目録にあったものだ。カーテローゼは独りで頷く。
「これであの甲冑から、ミュウさんだけ取り出しちゃいましょう」
「できますか?」
「私たちもあの甲冑も、鏡に映りませんからね」
動力であろう、内部に囚えた人間を失えば、甲冑は活動できなくなるはず。二人はさっそく、崩れた天井からひとつ上の床へ、また天井へと、人間ならざる運動能力を使って跳んでいった。
三〇メートルを超える巨体のなかに一メートル半程度の人間を見つけるのは、さして難題ではなかった。鏡を甲冑に向けて、むやみに振ればいいのである。“無駄に現実的に”人間一人ぶんの重さを受け止めた鏡のなかで、ミュウがうろたえている。
「ここは……?」
「お怪我はありませんか、ミュウさん」
「えっ……? だ、だれ? だれかいるんですか?」
ミュウは怯えてあたりを見回す。鏡に映らぬ二人の姿は、鏡のなかのミュウからは見えない。そう気づき肩をすくめて笑う二人の背後で、地響きにも似た音がした。巨大な甲冑が四本の腕と、これもまた増えた四本の脚とを、幼い子供の駄々のように振り回し、踏み鳴らしはじめたのだ。
「どうして!」
「人間いなくてもいいんですか、甲冑って?」
「やめて……! もういや、怖い……!」
頭を抱えてミュウはうめく。中庭の花壇が踏み潰され、西の棟が二本の腕で半壊する。
「ミュウさん、ミュウさん、落ち着いてください。大丈夫です、わたしたちはあなたを助けに来たんです」
「そうですよ。もうじきお家に帰れますから」
「家!?」
ミュウが叫ぶ。甲冑が駄々をやめ、すうと姿勢よく立つ。
「家はいや……!」
黒く尖った円錐の顔が見回し、東向きに止まる。
「帰りたいのはあんな家じゃない……!」
四本の腕が銀灰色の石壁をかきわけ、四本の脚が黒土と繁茂した草木を呪いの黒で灼く。
「放っておいてください、私のことなんて……」
「ちょ、ちょっと、あの甲冑、村を踏み潰す気じゃ?」
カーテローゼは色を喪った。自分にもカンパネラにも、あの巨人を制する、いや、一歩を止める力すらないのに。
「そーいうわけにはいきませんよ。私たち、あなたを連れて帰ってくれって頼まれてるんですから」
「えっ……」
「ちょっとカンナ!?」
ミュウの声に怯えの色が濃くなる。カンパネラはウインクを一つ、カーテローゼに耳打ちする。
「たぶん、あの甲冑はミュウさんの精神と繋がってるんですよ。ミュウさんがお家を拒否してるから、壊しに行こうとしてるんです」
罵声と暴力の待つ家へ引き戻さんとするなにものかに、すでにミュウの意識は向いていた。黒い巨人が、黒く枯死せしめたばかりの木々の上を引き返してくる。
「なら……そのつながりを切ればこんどこそ、もとの鎧にもどる?」
「おそらく。でも」
「やりかた、が……」
唸る二人に、巨人は迫る。
「眠らせるとか、気絶させるとかですかねぇ……」
カーテローゼは意を決した顔をカンパネラに向けた。
「ミュウさんをチャームしてください! ミュウさんの精神をカンナが乗っ取れば、甲冑との繋がりは切れる!」
「ほほー」
にわかにあたりが翳った。それが振り上げられた巨人の腕によるものだと気づくのと、巨大な黒鋼が落下してくるのと、二人がその場を逃れるのとはほとんど同時だった。巨腕は横薙ぎに、唐竹割りに、ブライファイレンデ城の東の区画を破壊していく。半分踏み砕かれた噴水の影に二人は転げ出る。
「カンナ、早く!」
「やりました、やったんですよ。さっきから逃げながら五回試したんです。でもダメでした。鏡のなかまでは私の魔力が及ばないみたいです」
「そんな……」
「ふだんから血をちゃんと飲んでればよかったなあ。でもそれじゃ、カリンちゃんに生かしてもらえてないかあ」
“いっそ鏡に村人全員詰めこんで逃げますか”と冗談めかして苦笑いをする。カーテローゼはカンパネラの苦笑いを、力強い目でしっかりを見据えた。
「……血を飲めばできる?」
「ええ、でもだれの?」
飲みたくなる人間などいないという顔で、カンパネラは眉尻を下げる。その鼻先で、カーテローゼがこう言った。
「……わたしの。わたしの血をあげる」
カンパネラは心から驚いた。そして、たしかにカリンの血なら飲むことに忌避感がないと思った。ただ、いざ飲むとなると、牙を立てねばならぬ。吸血痕はいずれは消えるが、ローマにもどるまでのあいだに、とはいくまい。肌に吸血痕を見られれば、この偏食の吸血鬼の無害を主張しても容れられず、むしろ血を吸われ下僕となったのではないかと疑われかねない。服で見えなくなる二の腕を提案されたが、カンナの奇妙な真面目さか欲目かがそれを拒絶した。
「カリン、口開けて」
「な、なんで」
「ベロからだったら、まずバレないと思わない?」
なにを言い出すのか。言葉にならず、カリンは眉をひそめる。
「口のなかの怪我は治りが早いっていうし」
「まあいうけど」
「自分でよく噛んでるから私に噛まれても平気でしょ?」
「そりゃ噛むけど……」
提案を後悔したが、思い返してもほかに打つ手はなかった。噴水の影で二人は向かい合い、カリンの腰にまたがってカンナが座る。
「はいはい、ちゃんと掴まって。痛かったら爪立ててもいいですからね」
「うう……。カンナ、もうちょっとべつなところってない?」
「ないない」
破砕された古城の、埃と粉塵が霧のようにあたりを包みはじめている。黒い巨人の姿が、ぼんやりとした空気の奥から近づいてくる。二人に残された時間も少ない。
「や、やさしくやってください」
「私もこれはじめてですけど……努力しまーす」
震える舌を白い牙がなぞる。荒い息を口腔に感じながら、カンナは深く呼吸をした。牙にも震えが伝染る。
「はうっ」
二人にしか聞こえぬ、ぶつりという小さい音。カリンが両目を絞るように閉じ、紫の外套を強く握りしめた。山の涼気に冷やされぬよう、二人は口を小さくした。カンナが喉を二、三度鳴らし、涙か汗かわからぬものがカリンの顎から滴る。二人の唇が離れ、赤い糸が白い靄に伸びて、切れた。
「もう……」
カンナの首許に顔を半分うずめ、カリンがうなる。その頭を、赤い爪が丸く撫でた。
「やっぱり痛かった?」
「痛い。さっきから助けてくれてたの、これでぜんぶチャラですからね」
「そんなに?」
巨人の姿は近い。地面が揺れる。カンナはいまふたたび鏡のミュウへ、吸血鬼の魅了術を送った。