巨大な甲冑はその歩みを止めた。鏡のなかではミュウが光のない目で石畳に倒れている。カンナが得意げに、カリンが安堵して、いっしょに息をついた。
「おおー、効いた効いた」
「あとはあの甲冑が、せめてあのまま置物でいてくれれば……」
埃と粉塵の靄越しに、うなだれて両膝をつく甲冑の黒い姿を見上げる。アルプスの端から吹き下ろす風が少しずつ、靄を薄らげていく。巨大な剣の、重みに耐えかねて取り落とされた音も塵埃とともに流れて、森の向こう、村じゅうに聞こえたという。
音もなく風に揺れるその巨体が二人に奇妙な哀愁を誘う。横柄な領主一家の怨念、とは革命をした者たちの言い分である。彼らの心を知るものはこの地上にはいないのだ。
「……ん?」
カンナが眉をひそめた。その視線をたどって、カリンは息を呑む。甲冑が動いている。人間的な動作ではない。金属とも革ともつかぬ甲冑の表面が粟立ち、うごめく。腕も、兜も、胸、腹、脚にも。横たわる剣さえも。二人は思わず半歩足を引く。ぶつかった肩も離れず、震える手を取り合う。
カリンとカンナの眼前に広がる光景はおぞましいものだった。巨人の、張り詰めてヌラリとした皮膚を内側から破り、蜘蛛が涌き出してくる。丸く太った腹は大人の腰ほどの高さがある。シュロの葉のような毛が胴体からまばらに伸びる。せわしなく歩き回る脚の、数にして半分ばかりが蜘蛛のそれである。残る半数は爬虫類か、両生類か、あるいは人間の指に似ていた。
異形の蜘蛛たちは石をこすり合わせるような音を発しながらあたりへ散る。数匹が二人のいる噴水の広場に、不恰好な動きで走ってきた。その蜘蛛の、頻繁に開いては閉じる口に白い歯の並んでいるのを認めて、二人は揃って嫌悪感を声にした。
「なんで!? なんで蜘蛛!?」
「あら、ニガテですか、蜘蛛」
「とっ、トクイじゃないだけです、足が多いのは」
笑いながらカリンの頭を撫で、ずれたベレー帽をなおしてやって、カンナは大雑把な推測をした。怨念の甲冑が古城のどこかにしまわれていたあいだ、蜘蛛やヤモリがうっかり近づいては取りこまれていたのだろう、と。カリンはそれに異を唱えなかった。というよりも、経緯を想像したくなかったので、目の前の怪物退治にすべての気持ちを向けることにしたのだ。
「鎧ってないなら銃で倒せる!」
自らを鼓舞して放った銃弾は、そのとおり蜘蛛の頭を貫いた。気味の悪い身体が紙片のごとく焼かれ、塵の仲間にもならずこの世から消える。
「退治するのはだいぶ楽になりましたね」
「気持ち悪いし、多すぎますけど」
蜘蛛に思考する力があるのかは怪しかった。カリンやカンナに襲いかかる個体もいる。どちらにも目もくれず、噴水を破壊する個体もいる。花壇を荒らす、建物を壊す。その歯が折れても城壁を噛み、爪が割れても石畳を削る。破壊衝動だけが彼らの、身体に対し大きい割合を占める脳を支配しているようだった。
「ほっとくと実家がなくなっちゃいそう」
あたりの影がざわつく。おびただしい蜘蛛それぞれの眼前に、不敵な笑みのカンナが現れた。
「こんなに増えられるの!?」
「我ながらビックリです」
こりゃいいやとカリンの隣のカンナは笑う。ほかのカンナたちは鋭い赤い爪をほとばしらせ、影を槍衾のように噴出させ、各々の相対する異形の蜘蛛を黒い土くれに変えていく。
「吸血鬼がみんな血を飲みたがるわけですね」
「でも、もうダメですよ。もう飲ませませんからね」
「怒んなくても飲みませんから。私、ケンカとか嫌いですしね。怖い顔しないでカリン」
「あっと」
おどけて甘えるカンナの背後にまた蜘蛛の影を見つけ、カーテローゼは引き金を引いた。粉塵の靄を越えて聖なる銃弾は、無防備な大蜘蛛の腹を穿ち、灰も残さず灼き尽くす。
「分身だけじゃ手が足りませんね」
紫の外套を翻し、魔力みなぎる吸血鬼は蜘蛛退治に飛び出した。もはや古城“跡”というべき白い瓦礫のなかで、黒い影の槍衾が大蜘蛛の息の根を止めていく。宙空から作り出す不可視の尖った礫がまるまると太った胴体を抉り抜く。蜘蛛たちも知性によってかただの偶発的な衝動か、数体がかりでカンナの分身に飛びかかり、引き裂いて消滅させる。拘束せんと吐き出された糸を外套で切り裂き、弾指ののちに蜘蛛自体も山からの風に散らして、カンナはかろうじて残る胸壁上から蜘蛛と影の戦場を見晴るかした。
「うーん、あんまり腹持ちがいいわけじゃないなあ」
分身の数もその力も、数分前に較べて大きく減っている。育ちの家たる古城をさっぱりと諦め、カリンに怒られないように、蜘蛛を逃さぬ包囲陣を敷くことにした。“カリンのこともこうして見捨てるときが来るのかな?”などと、胸に一つ疑問のあぶくが湧いた。
「ないない」
近寄る蜘蛛を影で切断しつつ、カンナはおのれの疑問を一笑に付した。
カリンにとって幸いなのは、塵と埃の霧であった。尋常であってもニガテな蜘蛛の、異常な姿をはっきり見ずに済むからだ。ミュウを隠した鏡を守りながら、白い霧に浮かぶ扁平で丸いシルエットを二本の人差し指で消滅させていく。
巨大でのろまな的を射抜くだけ。見逃された蜘蛛はいなかった。両側を三匹、四匹とまとまって駈け抜けんとするものも、一瞬動きを止めてしまえば殲滅できる。
「ホクス・ポクス・フィディブス!」
ミュウが唱えていた呪文である。甲冑はミュウがこの呪文を唱えるたび、わずかに動きを鈍らせていた。それから生まれた蜘蛛たちも、歯ぎしりのような音をさせて身体を硬直させるのだ。なにがしか、聖なる呪文なのかもしれない。だがカリンの知っている言葉に、それと当てはまりそうなものはなかった。おそらくは民間に伝わる、なにかが転訛した呪文なのだろう。効果があるならそれでいい。
弾倉を何度目か、銃弾で満たす。そして何十匹目かの影へ向けて銃口を向ける。おぞましい巨体は塵未満になって消える……はずだった。金属質の音がし、蜘蛛のシルエットがカリンに向き直る。
「鎧ってる蜘蛛がいる……?」
山からの風が塵埃のヴェールを一枚、また一枚と剥がす。注ぐ陽光が鎧った蜘蛛の姿を、薄い乳白色のスクリーンに描き出した。
それまでに見た蜘蛛よりも大きい。頭の位置がカリンよりも高い。胴体から伸びるのは、人間の腕が四本、脚が四本。顔にうごめく鋏角と触肢さえも人間の手足で、目は恨みがましく濁った人間のそれが三対。
「ほ……ホクス・ポクス・フィディブス!!」
悲鳴を押し隠すように、呪文をカリンは叫んだ。手が震え、弾丸は蜘蛛の脚のうち、人間の右脚部に似たものに当たる。隣の脚……人間の右腕に似たものが、吹き飛んだ脚を根本からちぎり、身体の消滅を防いだ。おのれで作った傷口をかばう。痛みを感じるのか、二〇本の指のうごめく口許から、粘液が滴る。
青くなりながらもカリンは、妙な違和感を覚えていた。
「ホクス・ポクス・フィディブス!」
蜘蛛は石をすり合わせるような音を発し、歩きづらそうにカリンに迫る。
「呪文が効かない!?」
訛った聖句では力不足。カリンはローマで教わったほかの聖句を試す。それは一定の効果をもたらした。蜘蛛に憎々しげな鳴き声を上げさせる、というだけの……。
蜘蛛の体の多くは怨念の鎧で覆われている。装甲のない顔を狙っても腹を狙っても、鎧った
「ホクス・ポクス……」
なにが訛った呪文? 低い壁に飛び退り、糸を倒木で防ぎ、カリンは考える。
「ホク……ホク・エスト・コルプス・メウム!」
聖餐におけるキリストの言葉。それに鎧蜘蛛は明らかにたじろいだ。銃弾が腹を撃ち抜き、黒く灼いていく。胴をちぎるわけにはいかぬ。これで大物は討ったと、カリンは安堵の息を吐こうとして失敗した。
ほかの蜘蛛がその胴にもぐりこみ、傷を塞いで消滅を免れたのである。もいだ脚にも蜘蛛が食らいつき、傾ぐ胴体を支える。いびつになった身体で、鎧蜘蛛は怒りの声を撒き散らす。蜘蛛たちの動きが変わった。外壁跡に並ぶカンナの前に進み出てはボロボロと崩れ去るばかりだったそれらは、一様に城門前の噴水を目指し、行進をはじめる。
「せ、正解は近い……。ちゃんとした聖句なら、妖魔を石や塩にも変えられる……!」
吐き気をこらえながら、カリンは自分を鼓舞する。“コルプス・メウム”では“ポクス”に訛らないはず。もっとちがうなにかだ。クス、クスとは……?
紅玉の瞳を円く見開き、カリンは意を決してペンダントの銀弾を込めた。
「ホク・エスト・コルプス・クリスティ!」
鎧の大蜘蛛はその動きを止めた。身体から、まとった鎧からさえ、白く粉を吹いている。全身が耳である蜘蛛は聖句によって体表が塩のようになったのだ。六つの人間の目が、涙を浮かべて歪む。
「……領民が咎めたというあなたたちの行いを、わたしは知りません。唯一それを知る神の御下で、せめて正しい裁きを受けてください!」
銀の弾丸が頭を撃ち抜く。薄紙の燃え尽きるように、おぞましい姿の蜘蛛は爪の先まで塵と崩れ、この世から消えてなくなった。同時に無数にいた大蜘蛛たちも、その場に倒れ伏し、灰の山のごとく消え去っていく。
アルプスの山からひときわ強く風が吹いた。塵埃の朝靄はすっかり晴れ、廃墟同然の銀灰色の古城に陽光がさんざめく。
ミュウの鏡の無事なことを確かめて、カリンは胸を撫で下ろした。この地に来てからほぼ丸一日、一睡もない長い戦いが終わったのである。
「……あっ! カンナ! カンナ、どこ!?」
半日前には仇敵であった友の名をカリンは叫んだ。靴一つぶんの長さの影もない、夏の真昼。吸血鬼のカンナは、思えばずっと外にいた。
「カンナ! カンナ! どこ!? どこの影にいるの!? わたしの影に戻ってきて、早く!!」
取り乱し、友の跳んでいった城壁内へ走る。破壊しつくされた古城に、陽光を遮るものはない。
「お言葉に甘えたいけど、ずいぶん狭くなっちゃいましたね、影」
捜していた友は背後から現れた。城内を見回って戻ったら入れ違いになったとからから笑う。
「だ、大丈夫なの、日光」
「うーん、肌がチクチクしてやっぱニガテですね」
「……え、なにそれ」
肩をすくめて身体を撫でるだけの吸血鬼に、ヴァイパイアハンターは目を点にした。
「あのね、吸血鬼が太陽の光で死んでたら、地上で生きていけませんよ。土に埋まりでもしなきゃどうしたって届くじゃないですか」
「もう……」
言葉の上では呆れてみせても、紅玉の瞳には嬉し涙が浮かぶ。それが不思議に心地よく、琥珀の目もそっと細くなるのであった。
……だが、まだ仕事は残っている。森のほうから、ミュウの名を呼ぶ声が二つ、近づいてくる。酒焼けした声と老いた声。情けなく上ずって震えて、すまなかった、出てきてくれ、そう呼びかけている。
「あ、奥さんを鏡から出さなきゃ」
「やりかた、読めませんでしたけど」
「うーん、逆さにして振れば出てくるかも」
はたしてそのとおりであった。チャームのかかったままミュウは鏡の外へ転げ出て、力なく横たわった。
「ええ、なにそれ……」
納得がいかぬ面持ちのカリンの影に、カンナは飛びこむ。ミュウの家族に姿を見られては吸血鬼退治の話がめちゃくちゃになることは、カンナもわきまえていた。
「あの人たち……! カンナ、チャームはまだ解除しないで」
「え? いいんですか?」
「あんまりよくはないですけど、あの二人の反省を促しみゃ……ます」
カリンの気持ちのゆるんだことを聞き取って、カンナは口のなかで笑った。背筋を丸め、顔色をうかがうように、ミュウの夫と姑が崩れた壁から顔を出す。ぐったりと座りこんでいるミュウに気づき、バネじかけのようにその足許にすがりついた。
「ミュウ!」
捜した妻の目に光のないことを見て取り、夫の顔は絶望に歪んだ。その母が顔のしわに涙を伝わせる。
「ミュウ、俺が悪かった! あの雨が教えてくれた。身に覚えのある仕打ちばかりだ。神さまが反省しろとおっしゃったんだ! お前に償わなけりゃ生きてはいけん、こっちを見てくれミュウ!」
「この包み紙、あんたあたしの好きな菓子憶えてたんだね。ばかなことに夢だと思ってた。すまなかったよ、あんたはあたしたちをずっと気にかけてたってのに……」
「わたしが祈ります。お二人もどうか、奥さまへの愛を神の前に示してください」
……そう言って懺悔を促すつもりだったカリンは、猛烈に恥ずかしくなった。涙ながらに謝る二人に聞こえぬよう、カンナにチャームの解除を頼む。こんどの頼みは二つ返事で引き受けられた。
「あたしたちはひどい人間だった、あの黒い巨人のようにおぞましい心だったよ。ああはなりたくない……。おまえの慈愛ぶかさであたしたちをみちびいておくれ……」
「いままでの埋め合わせをきっとする。お前のために尽くす。お前が自分を押し込めなくていいようにするよ、なあミュウ!」
二人のすがる、だらりと垂れ下がっていた腕が、にわかに丸みを増した。かさついた指が二人の手の甲に重なる。しわの顔と赤ら顔が天を仰ぐ。亜麻色の前髪の奥に両目が震えて、陽の光に滲んだ。
「聞こえていました、あなた、お義母さん。やりなおせるんですね、私たち……」
ひしと抱き合う三人を、カリンとカンナは複雑な思いで見守っていた。
「そううまくいくんですかね?」
「きっとうまくいきます!」
カンナのニヒルを己が至らなさごと吹き飛ばすように、カリンは胸を張った。一家が頷いて、青い服の使徒を見上げる。
「神さまは人間の愛を嘉したまいますから!」
はるか高みから風が吹く。緑の香りを乗せた、爽やかな西風だった。
(了)