「聴いてくれる人達がいる 聴かせたい人達がいる 大好きな人達がいる だから ここにいたい それではいけないの? 弾く理由なんて 今は それでいいじゃん」
一か月前。
ピンポーン
ヒトの家にお邪魔するときはなんだかいつもそわそわする。
なんでなんだろう。
「あら、いらっしゃい。今日はどうしたの?凪」
ドアから顔を覗かせたのは、瀬戸先生。
スラっと背が高くて、綺麗で、思わずため息が出るくらいの美人だ。
このスタイルで子持ち、ほんとはいくつなんだろう。
「なーによ。惚けちゃって。私の顔に何かついてる?」
「い、いえ!え、えーと練習をみてほしくて。」
「ん?あー、あの時期か。てっきり、私があんまりにも若くて綺麗だから歳がいくつか気になったのかと思ったわ」
頬に手を当てながら微笑みを浮かべる瀬戸先生。
「うぅ」
こういうところも底知れないのよね。この人。
「――ふふ、いいわよ。上がりなさい」
言われて、開けられた玄関口に入ろうと前に出ようとすると、足が重くなった。
どうしたの。私。
緊張。
いやいや、そんなはずは。
だって、もう何十回とお邪魔してるのに、今更緊張なんて。
これはむしろ―――
「ちなみに公正も来て練習してるわ」
流し目で後ろをからかう顔で見つめる瀬戸先生。
「そうなんですか」
思ったより、フラットな、何の感情ものってないかのような声が出た。
別に期待してたわけじゃないけど。
そっか。いるのか。
するとなぜか、止まっていた足は前に進んだ。
「あら、痴話喧嘩でもしたの?」
「そ、そんなんじゃないですよ~」
顔が熱い。
私って、まるで、その、有馬先生の恋人のように見られていたのかな。
あ、ありえないわ。
だって、あの有馬公正よ。
そりゃ、ピアノは人より上手かもしれないけど、
頼りなさそーで、メガネで、話も上手くないし。
よっぽど私のお兄ちゃんのほうが、イケメンだし、かっこいい。
まぁ、多少は優しいかなと思わないこともないけどさ。
家に上げてもらうと、玄関には靴が2足。
娘さんの分かな。
廊下の先。
かすかに音が運ばれてくる。
ショパン
“アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”
明るく華やかなピアノ独奏曲。
元々はピアノ協奏曲だったものを後にピアノの独奏に編曲したらしい。
なんでもオーケストラパートがあんまりないため、原曲と印象が変わらないのだそうだ。
ショパンでも苦手があるってことをこの曲は教えてくれている。
協奏曲を創ろうとした当時のショパンは、ピアノほどの自信が管弦楽にはなかったのだろう。
協奏曲とは名ばかりのなんちゃって協奏曲。
ショパンはこの曲にどんな感情を込めた?
その演奏は一音も乱れず、軽やかに廊下を通り過ぎていく。
「やっぱりすごいなぁ」
『あれ、なんか、』
うるさい。
『調子悪いのかな』
全力だよ。
『今のもすごかったけど、有馬公正と連弾してた時のほうが』
知ってる。
『前の演奏はすごかったね』
――――今は?
「あっ来てたんだ」
ピアノに置いてある楽譜越しに手を止めた有馬先生と目が合う。
いつの間にか、ピアノの置いてある部屋に入っていたみたいだ。
いかん、いかん。
最近、ネガティブになりすぎだぞ。凪。
「こんにちは!有馬せんせ!」
「うん、こんにちは。今日はどうしたの?」
「ふふふ、わかりませんか?」
「え?ピアノの練習か、遊びにきてるかのどっちかじゃないの?」
いつもそうだし、まぁ、今回もそうなんだけど。
言われるとなんだか腹が立ちますよ。有馬先生。
自分だって、音楽ばかりのくせに。
まるで私が音楽以外はつまらない女みたいじゃない。
「そうですけど。今日はいつもと違うことがあります!」
「ヒントは今日が私と有馬先生が出会って1年目ってことです」
「一年、となると――」
有馬先生が思いついた答えはきっと正解。
「「くる学祭」」
あの忘れられない日がもう一度やってくる。
―――☆
――胡桃ヶ丘中学校の音楽ホール
―――すごかったね。三池先輩たちの演奏!
好敵手の存在。
―――次は相座先輩よ!どんな演奏になるのかなぁ
重なる期待。
―――さっき、有馬公正がいたらしいよ?
勝手に増えるプレッシャー。
「あーもう、昨年はもっと気軽に、気軽には弾けてないか」
せっかく綺麗にセットしてもらった髪を崩したくなくて、頭を抱えたりこそしないけど。
本当は逃げ出したい。
走って家に帰りたい。
また瀬戸先生の家で有馬先生とピアノを、って何考えてるの私は。
「相座先輩!出番です!」
進行係の私を呼ぶ声。
意識を切り替えるって難しい。
まだ、逃げたまま。
それでも私は行かなきゃいけない。
足は、もう動き始めた。
舞台に出るとピアノまでが酷く遠く感じた。
足は進み、ゆっくりと確実に近づく距離。
観客席に体を向ける。
何かを誰かを探すように見渡して、
―――見覚えのありすぎる男が隣の席の子と楽しそうにしている光景が視界に飛び込んできた。
「おのれぇ、ありまこうせいぃぃぃ」
お辞儀をしながらつぶやく。
そんなに私の演奏より、女の子としゃべるほうが楽しいか!
覚えてなさいよぉ。
ざわざわ。
――相座さん、すごい気迫ね。
――本気だ。
――まるで狩人のような眼光。
――何を獲る気なの?くる学祭にMVP賞とかあるっけ?
乾いた空気。
指を鍵盤に乗せるこの瞬間にすべての観客の意識が集まるのを感じる。
エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。
いくよ。私。
覚悟しろ。有馬公正。
後悔させてやる。
私だけをみてなかったことを。
――――――
ベートーヴェン
バガテル第25番 イ短調 WoO 59
“エリーゼのために”
「どうなることかと思ったけど」
熱く―――
想いを、ピアノに込めるのではない。
奏でられた音色に、想いがのる。
熱く。さぁ、もっと熱く――――
――この曲知って、る?
――あれ?でも、なんか。
――なんだか、怖い。
――音が、重くて、こんな曲だったっけ?
「こりゃ、なんというか―――」
瀬戸紘子は肘掛に体重をかけながら、苦笑いをする。
「公正も苦労するわ」
「すごいな」
私は先週初めて『くる学祭のコンサート』を知った。
私自身が音楽の教師で、優秀だと言われている胡桃ヶ丘中学校の実力に興味が出たこともあり、一観客として初めて参加したのだ。
“エリーゼのために“という曲は小学生でも練習すればある程度弾ける。
弾けてしまうほど、難易度自体は低い曲だ。
誰でも知っているし、誰でも“ある程度“弾ける。
だからこそ、難しい。
「相座武士の妹、か」
思わず腕を組み、背もたれに寄り掛かる。
相座武士はこの界隈では有名だ。
高校2年生にしてすでに海外進出をして活躍している。
この世代のホープといっていい。
「まさか、妹もここまで、なんてな」
“エリーゼのために”は間違えれば目立つのはもちろん。
間違えることを恐れ、機械的になりやすい。
慎重に弾くことが大事な時もある、がこの曲は違う。
この曲はあくまでエリーゼという女性に向けた想いを綴った曲なのだ。
中途半端になってはいけない。
「違うな。それじゃあの子に失礼だ。あれが、相座凪」
でもあの子は、
何より難しいはずの観客が持つ『有名な曲』への印象を変えた。
“エリーゼのために“は後半に曲調が切り替わる。
この曲だったからこそ、観客の心は一つの感情を抱き始める。
――来る。
――来るぞ。
――後半はどんな音になるんだ。
「期待させるかよ。中学生がこの曲で」
気づけば私は組んだ腕をほどき、わずかに身を乗り出していた。
――――――☆
「ど、どうですか?」
練習した通りに弾けていた。
譜面に忠実に。
ミスらしいミスもなく。
「うん。よく練習してるね。とても上手だったよ」
「で?」
「え?」
「それだけですか?もっとあるでしょう?あれが悪かった。あそこはこうしたほうがいいって」
有馬先生は顎に手を当て悩むそぶりを見せた。
「うーん、リズムも完璧だし、強弱もついていて聴きやすいし」
「特にないかな」
この、
「もっと指導しろ―!先生でしょー!?」
頼りない指導者に威嚇する。
「わぁ、ご、ごめんごめん。でもほんとに良かったんだ」
「――そんなの嘘です」
「嘘なんてつかないよ。なんで信じてくれないのかな」
困ったように笑うこの人は何を考えているのか。
「有馬先生と―――」
「ん?」
「い、いや、あ、有馬先生は何が足りないと思いますか?」
今、私は、何を言おうとした?
『有馬先生と弾けばもっと上手くなれる』
プライドも何もあったもんじゃないわ。
こんなの私自身が一番認められないはずなのに。
「そうだなぁ――」
有馬先生はこちらの動揺も知らずに能天気に考え始める。
イラ。
こっちは悩んでるのに。
もう一度中学校で乙女心の何たるかを学び直せばいいんじゃないかしら。
「じゃあ出掛けよう」
「はい?」
こちらの戸惑いを置いてきぼりに鍵盤に蓋をして、楽譜をしまう。
「外に行くよ」
行動力があるのかないのか。
そこからすぐに準備を整え、一緒に瀬戸先生の家を出た。
―――――
「ちょ、ちょっと。どこ行くんですか?」
「うーん。“適当”、“行き当たりばったり”、“なるようになるさ”」
「そんな感じ」
すごい笑顔で何を言ってるのこの人。
さすがにちょっと引く。
返事を求めてないのか。
先に歩いて行ってしまう。
「れ、練習は?」
「これも必要なことだよ」
「ただ歩くことが?」
「そう。演奏家には必要らしい」
よかった、晴れて。と日差しに手をかざして呟く姿にいつも以上に距離を感じた。
時々この人のことをとても遠くに感じる時がある。
あなたは何を言っているの?
――何をみてるの?
「演奏家にとって必要なことはたくさんあるんだ」
「才能とかって話ですか?」
「そうかもしれない」
「へぇー、ごまかさないんですね」
「ごまかす?」
「学校では、よく“足りない”って言葉でごまかすんですよ」
努力が足りなかった。
練習が足りなかった。
時間が足りなかった。
「陳腐です」
だって、本当に足りないのは―――
「相座さんらしいね」
それじゃあ、と問いかけてくる。
「音楽の才能って何だと思う?」
私に足りないもの。
一音もミスのない技術力。
本番で魅せる集中力。
記憶に残る演奏。
感動させてしまう力。
私は抑え込むように手を握りしめる。
「僕はね、音楽に身を捧げられることだと思ってる」
「音楽の才能がある人は、我慢できなくなるんだ。自分を曝け出さずにはいられなくなる。君も僕も演奏家だ。だから心配しなくていいよ」
「“上手“っていうのは、そういう意味だから」
その言葉は、何だか認められているみたいで。
私も、あなたたちと同じ演奏家になれると言われたみたいで。
ピアノを続けて、苦しくても続けて、憎んで、一度の演奏で報われて、今度はその演奏でまた悩んで。
結局、それでも弾き続けた。
ああ、私も演奏家だったんだ。
「これは受け売りの言葉だけど」
「演奏家は空を見る時間が必要なんだって」
青く澄んだ空。
川沿いの道。
暑さが和らぎ、秋の気配を感じる。
いつの間にか俯いていた顔を上げ、見た景色。
ただの、いつもの、普通の景色だったのに。
握りしめた手はどこにもなかった。
世界は思っていたよりもカラフルだった。
私は演奏家だった。
それを気づかせてくれたのは、同じ演奏家の男の子。
今すぐ、ピアノを弾きたくなった。
続いた
あと前書きのセリフが超好き