人間として帰ってきたマルチは、あかりと結ばれ、自分の理想を求めて開いた喫茶店で働く浩之の側にいた。バレンタインデーが近づき、マルチは浩之のためにチョコレートを渡そうと四苦八苦する。そんなときに感じてしまうマルチの想いとは?
実りの季節シリーズ バレンタインデー特別編「実りの季節が苦すぎて」となります。この話は「実りの季節を待ちながら」の後、帰ってきたマルチの物語となります。
こちらの作品はPixivとのマルチ投稿となります。
* 序 *
「もしもし。藤田ですけど」
『あぁ、藤田君。長瀬です。長瀬源五郎です』
「どうも。えぇっと、お元気ですか?」
『なにを緊張してるんです?』
「それは、まぁ、その……。わ、笑わなくたっていいじゃないですか」
『――いや、すみませんね。それよりも、藤田君。例の件、決まりましたよ』
「ってぇと、もしかして、マルチの――」
『そうです。彼女が行くことになる中学が決まりました。今日はその件で電話したわけです』
「良かったぁー。あいつ、どうなるのか心配だったんですよ。ホントに良かった」
『いろいろと手を回さねばならないところがありましたけどね、彼女は海外から戸籍が移ってきて、養女ということになっていますから、さほど面倒はありませんでした』
「帰国子女っつうわりにゃぁ、あいつ、なんか外国語喋れるのか?」
『メイドロボの頃には言語を外国語に切り替えれば喋れたはずですが……。基本的に試作型のため日本語を使うことを前提にしていましたからね、機能を引き継いでることはありません。それでも記憶の移植はしていますから――、さて、訊いてみないとわかりませんねぇ』
「流暢に英語を話すマルチってのも……想像できねぇなぁ。それはともかく、マルチの行くっていう中学はどこにあるんです?」
『あの娘がいつもあなたの店に行くときに使ってる駅の近くの私立中学をご存じですか?』
「あぁっと、店に一番近いのは公立だったから……、あっ、あそこか。わかりますけど、なんでそっちの家から遠い場所なんです? 電車でふた駅もあるじゃないですか」
『来栖川がバックにあるということもありますが、それについてはマルチのたっての希望でしてね。できる限りあなたの店に近い中学、ということで』
「ったく、あいつは――」
『あぁそれと、別件ですが、ついにマルチの娘たちを生み出す計画が発動することになりそうです』
「マルチの娘たち……、みのりちゃんの、それから長瀬さんの夢が叶うんですね」
『会議をいくつか通さねばなりませんし、それが通っても試作型の完成までに一年はかかりますけどね』
「でも、一歩ですよね」
『えぇ。マルチの娘たちが、みのりの夢を実現していくようになるまで、もうしばらくです。藤田君も一歩踏み出しました。私もようやく一歩を踏み出すところです』
「オレも長瀬さんも、それからマルチも――」
『……』
「……」
『藤田君――』
「わかってます。あいつ自身はまだ気づいてないみたいだけど、あいつの様子を見てればわかります。いつか必ず、気づいちまう。そのとき、オレがあいつにしてやれることはなんにもない」
『しかし――』
「いえ、大丈夫です。オレ、あいつのこと信じてるから、ほんの少しの手伝いしかできねぇけど、マルチは、大丈夫です」
『……そうですね。私もあの娘のことを信じてますよ。どんなことが起ころうと、大丈夫だと言い切れるくらいに、ね』
「オレの立場じゃなにもできなくても、マルチは乗り越えていけます。あいつはそれくらいの奴だって、オレは信じてますから」
『えぇ』
* 1 *
「――はい。キリマンジャロとディンブラ、ホットハムチーズサンドに、それと杏の焼きケーキは食後でよろしいですね?」
伝票に書きつけた注文を読み上げて、わたしは顔を上げた。
「うん。それでお願いね、マルチちゃん」
「わかりましたぁ~」
よく来てくださるお客さんに笑顔でメニューを手渡されて、わたしも笑みを返した。
「キリマンジャロとディンブラ、ホットハムチーズサンド、三番テーブルですー。それから杏の焼きケーキが食後でーす」
テーブル席からカウンターの方に寄っていって、その奥で一所懸命仕事をしているあの人に声をかける。「了解」という言葉とともに、あの人は優しい目を向けてきてくれた。
ここは、喫茶「マルチ」。あの人というのはつまりご主人――じゃなくって、浩之さん。もうメイドロボじゃなくなったからそう呼ぶように言われてて、近頃やっと慣れてきた。
浩之さんのもとに帰ってきてもうすぐ四ヶ月が経つ。わたしが人間になってから、五ヶ月以上が経っていた。
浩之さんともあかりさんとも、お父さん――長瀬主任とも、それからみのりさんとも……、本当にいろいろあったけど、無事に乗り越えることができた。そしてメイドロボだったわたし、HMX―12マルチは、お父さんが来栖川HMを出て参加していたっていう研究の成果によって、人間になって帰ってくることができた。
でもぜんぶ以前のままってわけにはいかなかった。
メイドロボだったわたしの身体をそのまま人間の身体にはできなくて、いまのこの身体は、お父さんが研究の中で再生したみのりさんのもの。それも高校に通っていたのに、技術の限界ということで年齢は若返っちゃって、十二歳ということになってる。それから名前も「マルチ」っていうのは人間には不自然ということで、「長瀬みのり」になっていた。
戸籍ではその名前でも、浩之さんにもお父さんにも、わたしは『マルチ』と呼ばれてる。それはわたしがマルチだってこともあるけど、やっぱり、みのりさんのこともあるんだと思う。
そっと、浩之さんの顔を盗み見てみる。
コーヒーと紅茶の準備をひと通り終えて、食べ物の方をつくり始めている浩之さん。その顔から漏れてる笑みは輝いていて、見てるわたしの頬も緩んできてしまう。
見ているうちに顔に熱さが上がってきた。それ以上見ているのが恥ずかしくなって、わたしは浩之さんから視線を外していつまでも胸に抱えていたメニューをそれを入れるかごに戻した。
とにかく、わたしは浩之さんのもとに帰って来ることができた。それもメイドロボじゃなくてもうわたしは人間だから、これからはずっと浩之さんと一緒に過ごすことができる。
「はぁ~」
胸にいっぱいに溜まった気持ちは、深い息になって現れていた。
「マルチちゃん、お水お願ぁい」
「あっ、はいですー」
常連のお客さん――たいてい毎日来る人は、浩之さんが呼ぶのを聞いてわたしのことを「マルチ」と呼んでいる――に言われて、思いに耽っていたわたしはカウンターにあるお水が入ったポットを取った。声をかけられた人のコップに注いだところで、後ろから浩之さんの言葉が飛んでくる。
「マルチ。すまねぇがそれが終わったらこっちに来て洗い物してくれ。手が離せねぇんだ」
「わかりましたぁ~」
他にコップのお水が少なくなっている人がいないかお店を見回した。
そろそろ夕食の時間が近づいてるお店の中には、たくさんのお客さんがいる。食事をしたりお話をしているその人たちは、みんな楽しそうだった。
「みのるぅ!」
「ぅうっ」
カウンターの内側にある、のれんがかかった通路の奥から小さく聞こえてきたのは、あかりさんの声。それと浩之さんとあかりさんのとの間に生まれた男の子、みのりさんから名前を取ってつけられた藤田みのるくんの声。
「あのやんちゃ坊主は、まぁ~たあかりのこと困らせてんな。まったく、誰に似たんだか――」
サンドイッチをオーブンに入れながら浩之さんは苦笑いを漏らす。
「えぇっと、マスター」
そんな浩之さんに、カウンター席に座っていた学生服の男の子がおずおずと声をかけてきた。
その人は近頃「マルチ」に来るようになった人だった。控えめの人であまり積極的には喋らない人だったけど、毎日夕食はここで摂ってるらしい。
「んぁ?」
「マスターには、子供時代はなかったんですか?」
「……そりゃどーゆー意味だ?」
浩之さんが意地悪そうな視線を向けると、その人は顔を真っ赤にして下を向いた。
その瞬間、店の中にわき起こる笑いの渦。
さらに顔を赤くして、でも嬉しそうな顔をしている男の子のことを見ながら、わたしも笑っていた。
穏やかで、どこかのどかで、ホッと安心できるような雰囲気。この店にはいつもそんな居心地の良さがあふれてる。
――お店のこんな雰囲気は、浩之さんの人柄の現れなんですね。
もうお水を入れる必要がある人がいなくなったのを確かめ、ポットをカウンターに戻してカウンターの内側に入った。あかりさんはみのるくんにかかりきりで、いまは浩之さんひとりで切り盛りしている状態だから、流しは洗い物でいっぱいだった。
「よしっ」
浩之さんと初めて会った頃とは違って炊事洗濯はひと通りできるようになってる。気合いの声をかけてから、わたしは仕事用のエプロンドレスの袖をまくった。
「よろしくな」
「はいー」
浩之さんがそう言って笑みを見せてくれる。
それに笑みで応えたとき、ポーンと壁に掛けてある時計が音を立てた。
時間は五時半。
――もうすぐ終わりだ。
わたしのお仕事は六時までと決められてる。いつもなら時間が終わった後でもお店に残ったりしてるけど、今日はあと三十分が待ち遠しい。
二月十三日。
今日はお仕事が終わった後、お父さんが待ってる家に真っ直ぐ帰らずに、寄り道をしていく予定だった。そこは六時半には閉まっちゃうお店で、急いで行かないと間に合わなくなってしまう。
洗い終えたお皿を水切りに並べてもう一度時計を見る。まだ十分と経ってない。できるだけきれいにしようと丁寧に洗うけど、わたしの目はいつの間にか時計に向けられてる。
「イタッ」
注意が逸れて時計を見たまま流しに手を突っ込んでしまった。なにかが人差し指の先に触れて、そこに痛みが走る。
おずおずと指を上げてみると、少しだけど血が出てる。流しの中に見える包丁で指先を切ってしまったみたいだ。
「どうした? マルチ」
ちょうど注文のものをつくり終えた浩之さんがわたしの様子に気がついて近づいてくる。指先から少しずつ流れ出してる血を見て、険しい顔になった。
「指、口ん中でなめてろ。すぐ救急箱持ってくる」
そう言って浩之さんは、わたしのことを心配そうに見てくれるお客さんにさっと料理を出しに行った。それからカウンターの裏に戻って奥の通路に入っていく。
顔の前に持ってきた人差し指から流れている血の色は、紅。
言われた通り口の中に入れてなめてみると、なんて表現したらいいかわからないけど、舌に味が広がっていった。
――本当にわたし、人間になったんですね……。
傷口にちょっと染みて、味もあんまり良くないけど、そんなことでわたしは人間になったことを実感してる。
――これからはずっと、浩之さんの側にいることもできるんですよね。
こみ上げてくる嬉しさで、指をくわえてる口が笑みの形になっていくのがわかる。
「もういいぞ。消毒するからこっちに手ぇ出しな」
「あっ、はい」
救急箱を片手に帰ってきた浩之さんの前に手を差し出す。消毒液の容器を右手にして、左手でわたしの手をつかんだ。
――浩之さんの手、大きくて、暖かい……。
「たいした怪我じゃないな。ちょっと染みるからな、いいか?」
「……」
「おいっ、マルチ」
「は、はい。我慢しますぅ」
流しの上で消毒液をかけて、怪我したところに手早く絆創膏を貼る。出したものを救急箱にしまった浩之さんは息をついた。
「よし、これでオッケーだな」
「ありがとうございますぅー」
「今度からは気をつけろよ。……って、もうこんな時間か」
言いながら時計を見た浩之さんと同じく、わたしもそちらに目を向ける。いつの間にか五時四十五分を過ぎていた。
「まっ、いいだろ。今日は上がりな、マルチ」
「え、ですけど――」
「いいよ。もう何分も変わらねぇさ。上がっていいぜ」
ウインクしながら言う浩之さん。
「ひゅーひゅー。女の子には優しいんだなぁ、マスターは」
なぜか一日中いることが多い……なにをしているのかわからない常連のお客さんのひとりが声をかけてくる。
「うっせぇ! んなとこで茶々入れんじゃねぇよ。それともお前、オレに優しくして欲しいのか?」
「……マスター、それだけは遠慮するよ」
心から嫌そうな顔をしているその人を見て、わたしと浩之さんは笑い声を立てた。
「あの、それではお言葉に甘えて、今日はこれで上がらせていただきます」
「おぅ。また明日、頼むぜ」
「はい!」
ポンポンッと頭の上に置かれた手の心地よい重さに元気で応えて、服を着替えるために奥に入っていった。
「それではまた明日、よろしくお願いします」
「あぁ」
着替え終えて店の方に戻り、浩之さんに一礼してから正面の扉に手をかける。
「マルチちゃん、また明日ねぇ~」
「お疲れさまぁー」
「はいぃ~」
常連の人たちに笑みを残しつつ、駆け足気味に店を出た。
いまが五時五十分過ぎ。ここから五分くらいの駅から電車でひと駅、それから降りたところの商店街の外れにある目的のお店まで十分くらいかかる。
遅れるわけにはいかなかった。
――だって、今日は二月十三日なんですから!
抑えきれない微笑みを感じながら、わたしはさらに足を早めて駅に向かっていった。
季節はまだ冬。
陽の光は残っておらず、寒気が張り出してきてここ数日ずっと曇り空の店の外は、数少ない街灯だけが街並みを照らしていた。
その中を背の半ばまである髪を揺らしながら駆けていくマルチが、だんだんと小さくなっていく。
「……」
オレは無言のまま、その背中を眺めていた。
見た目こそ変わったが、人間になって戻ってきた彼女。
店が軌道に乗ってきて、だがあかりがみのるの世話でたいへんになってるなんていう時期、マルチが言ってきた手伝いたいという言葉をふたつ返事で受け入れた。もとからそのつもりだった長瀬さんと話をして仕事の時間を決めて、あいつはアルバイト、ということではなく、知り合いの店の手伝い、という名目で「マルチ」で仕事をするようになった。
メイドロボの頃と変わらずよく働いてくれるし、周りへの気遣いもしっかりしてる。マルチのときも充分思ったが、みのりちゃんの姿をしていても可愛いあいつは、仕事を始めてからの三ヶ月ですっかり「マルチ」の看板娘として定着していた。
なにかあるごとにオレといられることが幸せだと口にするマルチ。人間になれて良かったと微笑むあいつ。
――あいつにとってそれは本当に――。
「どうしたの? 浩之ちゃん」
「んぁ? いや、なんでもねぇよ」
奥から出てきたあかりの声に、オレは止まっていた仕事を再開した。
「マルチちゃん、帰ったんだ」
「なんか用事があるみたいだったからな、仕事終わってすぐに帰ってったよ」
「……」
扉のガラス越しに見える外の風景。暖房が効いてる店の中まで寒さが感じられそうなそこには、もうマルチの姿は見えない。
「浩之ちゃん……」
「あぁ」
あかりの顔がオレのことを心配したものになってるのは、見なくてもわかる。
だがオレは、もう見えないマルチの背中に、ずっと視線を向け続けている。
*
「ただいまぁ~」
声と一緒に三和土から上がって、まず靴を揃えると息つく暇もなくリビングへ続く扉を開けたわたしは、たぶんそこにいるはずのお父さんにもう一度「ただいま」と声をかけた。
「お帰り、マルチ。今日はずいぶん遅かったですね」
ソファに座って新聞を読んでいたお父さんが顔を上げる。
「あの、今日はちょっと帰りに寄りたい場所があったので……」
「いいんですよ。まださほど遅くはありませんから。でももし、あと三十分以上遅くなるようでしたら電話の一本でも入れるんですよ」
「はい! わかりましたぁ~」
穏やかな笑みでそう言ってくれたお父さんに、わたしは笑みで応えた。
「……お父さん。お夕食はすぐに準備しますか?」
「ん? 今日は七時半には……あと十分くらいですか、それくらいには音山から連絡が入るはずですから、その後にお願いします。――そうですね、八時頃食べられるようにお願いできますか?」
「はいっ、準備しておきますね」
今日の夕食は冷蔵庫の中の残り物で野菜炒めをするだけだから、すぐにできる。リビングを抜けキッチンに入って、とりあえず炊飯器だけは仕掛けておいた。その後わたしは仕事の帰りに買ってきたものをキッチンテーブルの上に取りだして、他にも使うことになる道具や前から用意しておいた材料を同じように並べた。
「これでぜんぶでしたよね」
おとといからキッチンに置いたままにしてある本の付箋を挟んだページを開いて、足りないものはないか確認していく。
「――小麦粉。砂糖。バター。あのお店で買ってきたチョコレートに……。うん、ぜんぶ揃ってる」
確認してからエプロンをして、長袖の腕をまくる。
「よしっ!」
本の手順通りに、まずは下ごしらえから開始した。
「あれれ、これは……。あ、あっ!」
キッチンからマルチの悪戦苦闘の声が聞こえていた。
カレンダーを見てみれば二月十三日。明日の準備をしているのだろう。
「ふふふっ」
新聞の文字を眼鏡越しに追いながら、笑みが漏れてくる。
三年前、マルチを連れて瑞恵の研究に参加した私は成体クローンの技術開発に従事することになった。しかし瑞恵が参加交渉の際言っていた通り、私は研究に使われる施設、資金を利用し、自分の求める知識と技術の開発にも励んでいた。
それによって生まれたもののひとつが、みのりの身体を持って人間となったマルチ。
みのりの身体を使い、マルチの記録データを組み込んで行われた最初の実験だったが、それまでの蓄積により完成と判断することができた。そして次に私が起こした行動は、研究所の存在を滞在の間に繋いだツテを通じて世界中のメディアに知らしめることであり、残っているみのりの身体と記憶、実験データの消去だった。
それらの行動は成功し、研究所は摘発された。みのりの身体も記憶もなくなったいま、彼女をもう一度復活させることも不可能だ。ただ研究所の中枢部の人間ともに、瑞恵が捕まっていないらしいのが気がかりだったが、あの人はあの人だ、またどこかで新しい課題でも見つけて「研究」を続けていることだろう。
また、人間になってから五ヶ月が経ったマルチの身体にも問題が起こっていたりはしない。
身体的な問題と同時に、記憶を構成する要素としてみのりの記憶も移植してあることも気にはしている。けれどみのりと私は別れを終えた。もう二度とマルチを困らせることはないだろうと信じている。
すべてが丸く解決した、……そう、思いたかった。
視界の隅で赤いものが点滅しているのに気づき、そちらに目を向ける。
壁にはめ込んであるホームオートメーションシステムの端末のメッセージランプのひとつが点灯し、音山から連絡が入ったことを告げていた。
新聞を畳みソファから立ち上がって、私はリビングを出た。二階の自室ではなく、実験室などがある地下に降り、部屋のひとつに入る。
そこにはソファやテーブルなどの最低限のリビングセット、それにはめ込み式の大画面モニターがあった。
部屋の灯りをつけ、テーブルの上に置いてあったリモコンでモニターの電源ボタンを押す。それと一緒にもうひとつのボタンを押した。
『おせぇぞ、長瀬。いつまで待たせんだ』
そんな声とともにモニターに映し出されたのは、直接足を運んだことは数回しかないため見慣れていない来栖川HMの社長室と、こちらは見飽きるほど知っている音山の姿だった。
「すみませんね。リビングの方にいたので」
そう言ってごまかしの笑みを浮かべながらソファに座る。
この部屋に置いてあるのは、来栖川HMの親会社である来栖川エレクトロニクスが製造している、主に遠距離にある会場同士でリアルタイムに会議を行うための通称「テレモニタ」と呼ばれるシステムだった。
専用通信回線ばかりでなく、一般通信回線でも使用することができ、三つ以上の会場を使用して大規模なプレゼンテーションなども行える多機能テレモニタシステム。そんなものが我が家に設置されている理由のひとつは、私と音山の趣味である。もうひとつある導入の理由は、一度来栖川HMを正当な理由なく抜けた私は元の立場で復帰することができないため、研究開発部の技術顧問という立場で復帰し、在宅仕事が多くなったからだ。
カメラはモニタの中に巧妙に組み込んであるため、音山の視線は私の視線とずれることなく合っている。また旧式のもののように数秒ごとに映像を入れ替えるものではなく、本当にリアルタイムで映像が送られてくるため、タイムラグのない動作で音山は言葉を発し始めた。
『んで、今日の会議の報告だが……。通ったぜ、お前の提案がほぼそのままな』
「通りましたか。これで――」
私と音山は、にやりと笑いあう。
私が出した提案とは、成体クローン研究の成果を使用して設計したメイドロボ――つまりそれは、マルチの娘たち――と、それを開発するための来栖川HM内での環境整備だった。具体的には現在三班構成で行っているメイドロボの開発を、もう一班増やして四班構成にするというものだ。
来栖川HM内の研究開発部会議、及び社長である音山が主導権を握る社長会議ではすんなりと通ったが、班を増やすほどのものとなると予算の都合上、会長を含む来栖川グループの役員会を通す必要があった。それが今日、その役員会議で通ったのだった。
これで本格的に、マルチの娘たちの開発が始動となる。
「ありがとう、音山」
『よせよ。てめぇに礼なんて言われたら照れちまうぜ。俺に礼を言うくらいなら、三津木に言うんだな。信じられるか? あの三津木の野郎が役員に向かってゲキを飛ばしたんだぜ』
「三津木君が?」
昔はともかくマルチに会って以来丸くなったらしく、穏やかな性格の彼がそんなことをしたなどとはにわかに信じがたい。しかし、音山の唇の片端をつり上げた笑みが、それを真実と告げていた。
確かにマルチのようなメイドロボを生み出すために来栖川HMに入り、あまり表にすべきではない目的から運用方針から書かれている企画案まで見せてやった三津木君のことだ、そこまで情熱を燃やしていても当たり前のような気もしてくる。
それに彼は、各班に秘密裏に伝えた、と言うより、伝わった四班の新設話に一番に名乗りを上げいた。加えて古参の人間が多数――そのほとんどはマルチ制作に関わっていた一班の研究員たち――いたにも関わらず、名乗りを上げた人間たち全員によって四班の主任に推薦されてもいたのだ。
私もスピード出世と言われた口だが、主任となったのは三十半ば。対して三津木君はまだ三十にもならない年齢にして主任の座を射止めそうな勢いだった。
――それだけ彼は慕われる人間に成長したのでしょうね。
「彼ならば、四班も、そしてマルチの妹たちも任せられます」
『それは俺も思うぜ。まぁ、さすがに経験不足は仕方ねぇからな、最初は主任補かも知れないが……。だがあいつのメイドロボへの熱意はてめぇ以上だ。俺やお前ほどは頭は良くねぇみたいだが、それをあいつは努力でカバーする。ちょっと話が変わるけどよ、三津木のタイムカードを見たんだ。けっこう奇妙だったぜ。どんなんだったと思う?』
そう切り出した音山は、意地悪な笑みを浮かべる。
昔は私も使っていたタイムカードだが、毎日出勤と退勤の記録をつける以外で使うことはなかった。そんなものが奇妙と言われても、なにも思いつかない。
「さて、わかりませんね」
『記録のほとんどがな、一日に一回しかねぇんだ。ないときは二日に一回なんてこともある』
「ぅん?」
『しばらく使ってなくてもタイムカードってのがどんなのかくらい憶えてるだろう。あれってなぁ一日に二回、出勤と退勤で記録をつけるもんだ。だが三津木の野郎のはな、たいてい出勤と退社が一日おきに押されてんだよ』
「まさか、彼は一日おきにしか自宅に帰ってないと?」
『そういうことだ』
仕事が追い込みの時期になれば所員たちは研究所で夜を過ごすことになる。それができるように、時間によって研究所が閉められることはなく、それに対応した設備が設置されていた。
眠たければ仮眠室もあるし、自動販売機で最低限の食事も摂れる。確かに研究所に頻繁に泊まることは可能であるが、実際やるとなると……。
『莫迦だぜ、奴は。自分の経験不足を補うためだって許可してる範囲内で見れる資料の全部を漁って、可能な実験の全部をやってやがった。仮眠室を自分の巣みたいにしてまでな。奴には力技にしろ人をまとめちまう勢いもある。若いし関わったメイドロボの企画の数も少ないが、主任をやるにゃぁ充分の資格を持ってるよ』
「えぇ」
三津木君のことを思う私の頬が緩み、音山も顔をほころばせた。
みのりに始まった夢は、私が引き継ぎ、そしていま、三津木君に引き継がれようとしている。そして彼率いる研究開発課第四班が打ち出すメイドロボによって、世界中に広まっていくことになるはずだ。
「これで、すべてが収まるところに収まりましたね」
『――本当にそうなのか?』
「ん?」
大きく息を吐いたところで、音山に突っ込まれる。
『マルチは、どうなんだ?』
突然険しい顔になった彼はそう問うてきた。
「マルチは……、藤田君のところで元気に仕事を手伝っているようですし、中学進学も決定しましたし、なにも問題は――」
『マルチ自身は、どうなってるんだ?』
「それは……」
答えるべき言葉はない。
音山の険しい視線に見据えられ、私はただ、視線を落とすしかなかった。
*
「藤田浩之様へ
いつもお世話いただき、本当にありがと
うございます。その感謝を込めてこちらを
お送りします。
わたしではあまり浩之さんのお力になれ
ないと思いますが、せいいっぱいがんばっ
ていくつもりです。これからもどうぞよろ
しくお願いします。
マルチより」
メッセージカードに前々からつくっておいた文章を、できるだけきれいな文字で書き込んだ。
「これで、いいかな?」
ペンを置いてカードを手に取る。目に近づけて見てみて、次に目から離して眺めてみるけど、「ん~」とわたしはうなり声を上げてしまった。
――少し、物足りないような気がしますね……。
明日の二月十四日、バレンタインデーの日には、浩之さんに手作りのチョコレートを渡して、それにメッセージカードをつけるつもりだった。お仕事の後にどうにか目的のお店に行って材料を買ってきて、……ちょっと、不安は残っているけど、無事手作りチョコレートを作ることはできた。あとはメッセージカードを書いて、チョコレートを包んだ箱に添えるだけなのに――。
「やっぱり、どこか足りないですよね」
もう一度カードを見て、わたしは溜め息を漏らしていた。
一週間も前からメッセージを考えていたのに、どうしても自分の気持ちを伝えきれてないような気がしてしまう。メイドロボの頃、浩之さんの励ましの声に物語を書こうと思ったくらいだったけど、読んでいるのと書いてみるのではずいぶん違っていた。
「ふぅ~」
また溜め息が漏れてきてしまう。
メッセージカードに取りかかってどれくらいが経ったんだろう。
チョコレートは箱に入れて深い紅の包装紙で包んで、それに緑色のリボンをかけてあった。寝る準備も終わっていて、部屋の中は机のライトしかつけてない。
――みのりさんは、お父さんにチョコレートをあげること、あったのでしょうか……。
ふと、そんなことが頭の中に思い浮かべたわたしは、部屋の中を見回した。
古い勉強机の他は、ベッドと洋服ダンス、それに「マルチ」のお手伝いをしてもらったお金でまた集め始めた童話の本などを立ててある本棚くらいしかないわたしの部屋。メイドロボの頃は自分の部屋を持っていてもメンテナンスベッドで充電をするくらいで、人間になったわたしは部屋というものに他になにを置くものなのか知らない。
そんな殺風景なこの部屋は、大改造をしたから見た目は違うけど、その前はみのりさんの部屋だった場所だ。
大きく息を吸って、みのりさんが呼吸していたのと同じ空気を感じようとしてみる。でも新しく入れたタンスや本棚の木の香りがするばかりで、他に感じられるものはなかった。
――浩之さんになにを伝えたいんだろう。
チョコレートだけでも、浩之さんは喜んでくれると思う。そのときの顔を見るだけでも良さそうなのに、わたしは一緒にメッセージカードを渡そうとしてる。それはわたしの中に、チョコレートを渡すだけでは伝わらないものをメッセージカードで伝えようという気持ちがあるからだと思う。
それを考えるために身体を戻してメッセージカードに向かった。
浩之さんには感謝している。そのくらいの言葉では伝わらないほどの幸せを、あの人からもらった。人間になったわたしのことも受け入れてくれて、仕事の手伝いもさせてくれる。
――浩之さんの側にいるだけでも、わたしは幸せなんですよね……。
そんな気持ちを伝えたい。だから、メッセージカードを書いている。
「あっ」
書き加える言葉を思いついて、わたしはペンを取った。
新しいカードを使おうかと思ったけど、そのままのカードに少しだけ書き加えることにする。
「藤田浩之様へ
いつもお世話いただき、本当にありがと
うございます。その感謝を込めてこちらを
お送りします。
わたしではあまり浩之さんのお力になれ
ないと思いますが、せいいっぱいがんばっ
ていくつもりです。これからもどうぞよろ
しくお願いします。
あなたと一緒にいられるだけで幸せな
マルチより」
「よしっ! できた」
たった一文書き加えただけなのに、ずいぶん違って見える。これであれば浩之さんにわたしの想いが伝わると思えてくる。
メッセージカードをふたつに折り畳んでチョコレートの箱のリボンの間に挟んだ。いつもお仕事に行くとき持っていく鞄にリボンが崩れたりしないよう慎重に箱を収めて、ベッドに入った。
「ふふふっ」
布団の中に潜り込みながら、漏れてくる笑み。
――浩之さん、どんな顔で受け取ってくれるだろう。
抑えられず顔をにやけさせながら想像を巡らせているうちに、わたしは眠りに落ちていった。
* 2 *
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
駅から歩いて五分くらいの距離を今日は走って行く。息が切れてたいへんだけど、それも嬉しく感じる。
二月十四日。バレンタインデー当日。
足を思いっきり動かして、右手は鞄の中のチョコレートがあまり揺れないようにできるだけ動かさないでいて、左手はスカートをちょっと押さえてる。
こんなに激しい運動はメイドロボの頃はできなかった。わたしはもうメイドロボじゃないから、人間だから、疲れるけど、思いっきり走ることもできる。
「マルチ」までもうすぐ。
微笑む浩之さんの顔を想像しながら笑みを漏らすわたしは、いままで以上に足を動かした。
開店にはまだずいぶん早い八時半前。この時間、浩之さんはいつもお店の前の掃除をしてる。そのときはいつもひとりのはずだから、掃除が終わるまでにお店に着いて渡そうと思っていた。
角を曲がったところで見えてきたお店。近づくにつれて「喫茶マルチ」の文字がはっきりとしてきて、お店の前にいる浩之さんの姿も見えてくる。
「あっ……」
お店の少し前で、わたしは走るのをやめてしまった。
止めきれない勢いで歩き続けて、箒を片手にしてる浩之さんのもとに寄っていく。
「マスター、これ、あたしから!」
「わたしもぉー」
「アタシのはこれねっ」
浩之さんの側にはお店で見たことがある中学校や高校の女の子がたくさんいて、バレンタインのプレゼントを渡していた。
「ありがとう。おぅ。嬉しいねぇ~」
そんなことを言いながら笑顔でプレゼントを受け取ってる浩之さん。
なんとなく、近寄ってくことができなくて、わたしは浩之さんから何歩か離れたところで立ち止まっていた。
「おいっ。おめぇら学校だろ。そろそろいかねぇと遅刻するぞ」
「えぇ~。マスターだって昔は遅刻ばっかりしてたって話してたじゃないですかぁ」
「オレを見習ってどうする! んな文句垂れてねぇで、せっかく今日は時間が早いんだ。たまには遅刻せずに行きな」
「ちぇ~」
少しの間みんな名残惜しそうにしていたけど、だんだんと浩之さんの側を離れてそれぞれの学校に向かっていった。
やっと、と思ったのに、みんながいなくなった後にひとりだけ、確か近くの公立高校だったと思う制服の女の子が残っていた。
「あの、マスター」
「んぁ」
プレゼントを手にお店に入ろうとした浩之さんに、その人は身体がくっつきそうなほど近づいていって――。
ズキリ、と胸に痛みが走ったような気がした。
頬にだけど、キスをされて、浩之さんが目を丸くする。
「おっ、おい」
「わたし、不器用で手づくりとかできないから、その代わりですっ」
顔を真っ赤にしたその人は、その顔を隠しながら走っていってしまった。わたしは小さくなっていくその背中を、ずっと目で追っていた。
「おりょ? マルチ、どうしたんだ?」
「あっ、いえ、その……」
いきなり浩之さんに声をかけられて、わたしは思いっきり慌ててしまった。
「えと、今日は早起きしすぎちゃって、それで……。あっ、お掃除かわりますー」
「そうか? わりぃな」
箒を左手に、手づくりチョコレートの入った鞄を右手に、わたしはプレゼントを抱えてお店の中に向かう浩之さんの姿をじっと眺めている。
――渡しそびれてしまいましたね……。
一緒に渡してしまえば良かったのに、胸に残っている痛みに、わたしはチョコレートを渡せなかった。
でも今日はまだ始まったばかり。渡すことはいつでもできる。
浩之さんがひとりのときに渡そうと考えながら、鞄を植え込みのところに置いて箒を両手に構えた。
*
「ふんふんふふぅ~ん。ふんふふぅ~ん」
カウンターの内側で浩之さんが鼻歌を歌いながら食器棚の整理を続けていた。
朝、チョコレートを渡せず、お店の準備をしていたら開店時間を迎えていた。でももう準備の方はひと息ついて、開店直後だからお客さんはひとりもいない。あかりさんも朝の買い出しから帰ってきていなかった。
――いまが、チャンスですね。
緩んでいくのを抑えきれない頬に手を添えながら、わたしはお店の奥に行ってチョコレートを入れてある鞄を取りに行こうとした、その瞬間――。
「朝飯食いに来たぜぇ~」
「おれ、モーニングぅー」
「マスター。あたし、ピラフとココアね」
扉についてるカウベルが鳴って、団体でお客さんが入ってきた。
「おぅ。いらっしゃい。――マルチ、オーダー取ってきてくれ」
「はっ、はい……」
浩之さんに言われて、わたしは仕方なく奥から戻ってきてオーダーを取りに行った。
「……マ、マルチちゃん? あの、今日はどうしたの?」
「わたしがどうかしましたか?」
「あ、いや……。とりあえず、モーニングセットお願い」
「わかりましたっ」
できるだけ抑えていても、チャンスをつぶされた気持ちが表に出てるみたいだ。常連のお客さんに変な顔をされてしまった。
ひと通りオーダーを取ってそれを浩之さんに伝え終わる。
いまいる朝いつも来るお客さんが出ていったら、またお昼近くまで静かになるはずだった。その時まで待って、チョコレートを渡せばいい。
と、思っていたのに。
「腹減ったぁ~。マスター、飯ぃ~」
「あったしもぉ~」
「マスター。モーニングセットとチョコレートの焼きケーキ」
「ミックスサンドとアールグレイをお願いします」
次々とお客さんが入ってくる。
「オーダー上がった。マルチ、持ってってくれ」
「はいですぅ~」
増えてきたお客さんでてんてこ舞いで、チョコレートを渡すどころじゃなくなってしまった。
――まだチャンスは来るはずですっ!
心の中で自分を励ましつつ、わたしは仕事に専念していた。
「ふぅ」
溜め息をつきながら時計を見てみる。いつの間に二時を過ぎていた。
モーニングの時間が終わったと思ったら、すぐにお昼ご飯のお客さんが来て、今日はちっとも人が切れることがなかった。だからいまも、浩之さんにチョコレートを渡せてない。
「マスター、また来るぜ」
「おぅ。ありがとよ」
最後のお客さんが帰っていって、お店はわたしと浩之さんだけになった。
――チャンスですっ。
そう思ったわたしはすぐに店の奥に向かう。
「浩之さん、ちょっと奥に行ってきますね!」
「ん。あぁ」
急いで行かないと、またお客さんが来てしまうかも知れない。そうなってしまう前に、浩之さんにチョコレートを渡す!
扉を開け着替え用のロッカーや大きな冷蔵庫なんかが置いてある控え室兼、倉庫に入って、そこのテーブルに置いておいた鞄を手に取……。
「あっ、マルチちゃん」
「はいぃ~」
「これから買い物いくからみのるのこと見て、って、どうしたの?」
これでもう三度目。
泣きたい気持ちで、心配そうな顔をしているあかりさんの顔を見返していた。
「わかりましたぁ~。みのるくんと遊んでますぅ~」
「えと、お願いね」
言い残して、あかりさんは裏口から出ていった。
――どうしてこんなに……。
歯を食いしばりながら、思わずこぼれそうになる涙をこらえる。
「まるちぃ~」
奥から聞こえてきた声に、ぐすっ、っと鼻をすすりながら、わたしはみのるくんが待つ部屋に入っていった。
*
七時半過ぎ。
なんでか今日に限ってぜんぜん暇がなかった。
結局、お仕事の時間中にはチョコレートを渡すチャンスがなくて、もうわたしは帰る準備までして控え室にいる。
「まるちぃ。まるちぃ~。ぶっぶぅ~」
「うん。車だね」
ミニカーを手に遊んでいるみのるくんと一緒にいて、お店に続く閉めたままの扉を眺め続けてるわたし。
時々浩之さんの声が聞こえてくる。でもお店の様子まではわからない。あんまり遅い時間になったらお父さんに電話を入れないといけないけど、チョコレートを渡すまでは家に帰るつもりはなかった。
――そろそろ、お客さんもいなくなってる時間でしょうか……。
「みのるくん、ちょっとゴメンね」
「う?」
椅子にみのるくんを残したまま席を立って、テーブルに置いてあるコートをどかして、チョコレートを入れてある鞄を手に取った。それからそっと、お店への扉を少しだけ開ける。
「んんんん~~ん。んんんん~ん」
鼻歌を歌いながら、浩之さんがお店のキッチンの片づけをしてるみたいだ。洗ったお皿を食器棚に戻しに行ったり、明日の仕込みでものを取りに歩くたびに、通路の前を通って背中が見える。
そういうことをしてるときは、たいていお客さんがいないときだった。
――最後のチャンスですね。
思い切って扉を開け放ってお店に向かって一歩――。
「浩之ちゃん」
踏み出したときだった。
ちょうど通路の前で、あかりさんが浩之さんに声をかけた。
それを見て、わたしはまた扉の影に戻ってしまう。……そんな必要、なかったのに。
「おぅ。お疲れさん。客もいねぇし、奥で休んでていいぜ」
笑顔であかりさんに声をかける浩之さん。あかりさんも微笑みを浮かべて、背中の方に手をやりながら浩之さんに近づいていく。
「うん。わかった。でもその前に……これ」
「んぁ?」
そう言って差し出されたのは、きれいな包装をして、かわいいリボンがかけられた箱だった。
「今日、バレンタイン、だったでしょ?」
「……そうだったな。朝は覚えてたんだが、すっかり忘れてたぜ。ありがとよ」
「うん」
――わたしのチョコレートより、うまくできてるんだろうな……。
お店の飲み物と食べ物は浩之さんがつくってるけど、ケーキなんかは、お菓子の専門学校に行って免許も持ってるあかりさんがつくってる。たまに食べさせてもらってるあかりさんのお菓子は、いつも美味しかった。
「……あの、浩之ちゃん」
「ったく、お前は――」
浩之さんとあかりさんがさらに近づいていく。身体を寄せ合って、それから――。
――イヤ!
半分無意識のうちに目を背けて、裏口に駆け寄っていた。
「まるちぃ?」
みのるくんの声も耳に入らなくて、そのまま外に走り出していった。
* 3 *
「ん?」
「どうしたの?」
キスする寸前、オレはあかりから身体を離した。
「いや、物音がしたような気がしたんだが」
「そぉ?」
確かに店の奥から物音を聞いた。なんではっきりそうと言えるのかわからないが、確かにオレは聞いた。
「思えばみのるはどうした?」
「みのる? マルチちゃんに任してあるけど。寝たらベッドに入れて帰っていいよ、って言って」
「マルチはいつ帰った?」
「わたしはずっとお店にいたから……」
気になる。
今頃になって思い出すが、今日はバレンタインデーだった。
別に貰えるっていう自信があるわけじゃないが、オレはマルチからまだチョコをもらってない。あいつのことだからなにかひと言くらいはありそうなもんだが……。
「ちょっと奥、見てくる」
そう言ってオレは奥に続く通路に入っていく。見てみると、いつもは閉めてるはずの扉が少し開いていた。
「みのる? お前ひとりか?」
控え室にはみのるがひとり、椅子に座ってミニカーを手に放心したように裏口の扉を見ていた。
「マルチはどうした? 帰ったのか?」
「まるちぃ~」
みのるは言いながら裏口を指差す。裏口もまた、開けっ放しになっていた。
「これは……」
テーブルの上には、マルチがいつも着て来てるコートが置いてある。だが彼女の鞄は見当たらない。
――もしかしてあいつ、さっきのあかりとのことを……。
状況から考えて、マルチの奴は店を飛び出していった可能性が高い。もしオレとあかりのさっきの様子を見ていたのだとしたら、その理由も思いつく。
気づいたのかも知れない。
自分の心の中にある、気持ちの正体に。
オレなんかじゃマルチになにもできないのはわかってる。この問題は、マルチ自身が乗り越えないといけない問題なんだから。
だが、いまは放っておくことはできない。
「浩之ちゃん」
あかりもやってきて、心配そうな声をかけてくる。
「オレ、ちょっと出てくる。もう今日は店は終わりだ。そっちの方、頼む」
「うん。わかった」
返答の声を聞いてロッカーから自分の上着を取り出したオレは、マルチのコートを手に裏口から飛び出した。
――マルチの行きそうな場所は?
店の前の道路まで出て、見える場所にはあいつの姿がないのを確認して考える。
二月も十四日となればそろそろ日は長くなってきてる。とは言ってももうすぐ夜の八時だ。日はすっかり沈み、コートでも着てないと寒くていられない。
思い当たる場所は一カ所。
長瀬さんが来栖川HMを出て少し経った頃、音山さんに聞いたことがある。寿命が尽きようとしていたとき、音山さんとマルチがふたりきりで話したときのことを、その場所を。ここからでも行けない場所じゃなかった。
「マルチ!」
この寒い中飛び出したあいつの名を呼びながら、オレは走り始めた。
*
今頃になって気がついていた。
自分がなにを望んでて、なにを求めてるかに。
気づかなければ良かったと、そう思うけど、でもわたしは気づいてしまった。
――うぅん。もしかしたら、気づいて良かったのかも知れませんね。
わたしの本当の想い。
いま気づかなくても、いつか必ず気づいてしまうものだから、いまで良かったのかも知れない。
「寒い……」
冷たい空気が頭の中まで伝わってきて、だんだんと考え事すらできなくなってきてるのがわかる。
この場所に来るのは二度目だった。
ここは寿命が尽きそうになってたわたしが、音山主任とふたりで話をしていた丘、みのりさんと音山主任の想い出の場所。
あのときと違って空は曇っていて、あのときと違って辺りには少し前に降った雪が残っていて、ただあのときと同じで、畑と林と山が続いてる広い景色。
わたしはそこで、あのときと同じように涙を流している。
浩之さんとあかりさんが幸せになられたことには、わたし自身が望んでいたことだから、嬉しく思っていた。みのるくんも生まれて、「マルチ」も盛況で、浩之さんは二度目の別れ際にわたしが託した夢を実現していってる。
ぜんぶ丸く収まって、これからはみんなで微笑みを増やしていけると思っていたのに……。
あふれてきては頬を濡らして、胸に抱えた鞄に降り注いでる熱い雫。
それはいまのわたしの想いの現れ。わかっていても断ち切ることができない浩之さんへの愛の現れ。
浩之さんの側にいられるだけで幸せだと思っていた。人間になって浩之さんのもとに帰ってこれて、これで幸せになれるんだと信じていた。
――でもそれは違ったんですね。
わたしの想いは、あかりさんが抱いていたのに似てるのを知ってる。
嫉妬。
誰に対して向けているものじゃない。ただ浩之さんに、わたしが愛しているあの人に自分だけを見て欲しくて、自分だけに微笑みを向けて欲しくて、なにかあるごとに胸が詰まってしまう。
この想いは断ち切らないといけない。そうでないと、浩之さんの側にいることはできないから。
寒さで身体に力が入らなくなって、丘の上に一本だけ立っている木に寄りかかった。でも空気と同じように冷え切っているその木は、身体から体温を奪っていく。
この街に住んでいて、凍死した人がいるという話は聞いたことがない。でもこのままいたら死んでしまうかも知れない。
――それでもいいかも知れませんよね……。
浩之さんを振り向かせることはできない。浩之さんへの想いを断ち切ることもできない。これまでは大丈夫だったけど、これからは、その想いが抑えられなくなって、なにをしてしまうか想像もできない。
だったら、ここで死んでしまうのもいいかも知れないと思ってしまう。
「はぁー」
大きく息を吐いて、白く伸びていく息に笑って、それでもチョコレートを入れた鞄だけは抱え続けていた。
――もうダメです、わたし。
目をつむって、身体の力が抜けていくのにまかせる。
「どうしたんだ? マルチ。こんなところでコートも着ずに」
ふわりと肩にかけられた暖かさとともに聞こえてきた声。
「浩之さん?」
振り返ってみると、そこにいたのはやっぱり浩之さんだった。
「ったぁ~く。店を飛び出したかと思ったら、こんなとこにいやがって。心配したぜ」
微笑みを浮かべながら、浩之さんはわたしのことを抱き寄せてくれた。
メイドロボだったときにも感じていた浩之さんの胸。でもあの頃とは少し違うその感覚に、わたしの目からはまたも涙が流れ始める。
「人間になったんだ。このままいたら死んじまってたぜ。二度とこんなことするなよ、せっかく帰ってきたのに、また別れるなんて、オレは堪えられねぇよ」
そう言ってさらに強く腕に力を込める浩之さん。
「……はい」
ここに来た理由を訊いたりはしない。わたしの想いを知っているのかどうかはわからないけど、それが浩之さんの思いやりだと言うことは伝わってくる。
わたしの想いは、わたし自身が乗り越えていかないといけない。だから、わたしも話したりはしない。
広い胸に顔を埋めて、いまは浩之さんの想いに包まれているだけにする。
「そう思えばマルチよ。今日はバレンタインデーだったろ? 自分で言うのもなんだが、お前はチョコレート、くれないのか?」
「……えぇっと、あの、渡そうと思ってたんですけど、ずっと渡せなくて」
浩之さんの腕の中から出て、鞄の中に手を入れた。チョコレートの箱を取り出そうと思って少し考える。
「はい。その、あんまり自信ないんですけど、手作りのです」
顔を伏せながら差し出した。
「嬉しいねぇ~」
にんまりと笑いながら浩之さんは受け取った。
深い紅の包装紙に包まれ、鮮やかな緑のリボンをかけてあるそれには、メッセージカードは挟まれていない。
浩之さんへの想いに気づいてしまったいま、メッセージカードを渡すことは苦しいだけだから。
「早速開けてみていいか?」
「あっ、はい。どうぞです」
「よしよし――」
にやけ笑いの浩之さんがリボンをほどいて、丁寧に包装紙をはがしていく。
「おっと、これは結構うまくできてるじゃねぇか」
箱を開けてひと言。味の方はみていないからわからないけど、手焼きの大きなクッキーにチョコレートを厚くかけたその姿にはちょっとだけど自信があった。
手が伸びてきてチョコレートをつかみ、それからゆっくりと口に運ばれていく。
ごくりと、食べる瞬間息を飲んでいた。
「……」
「……」
「……あのさ、マルチ。このチョコの材料、どこで買った?」
しかめた顔で浩之さんが問う。
「な、なにかヘンでしたか?」
「ヘンつうわけじゃないが、このチョコの材料、店から電車でひと駅のところの、商店街の外れにあるコーヒー豆とかを直輸入してる店で買わなかったか?」
「そっ、そうですけど……」
そのお店は店長の人が直接コーヒー豆や紅茶の茶葉を直接現地に買いつけに行くので、美味しいということでそこそこ知られているらしかった。そしてココアなどの輸入と一緒に、チョコレートの材料なども置いている。
でも浩之さんがどうしてそのお店で買ったと言えるのかわからない。チョコレートの材料を売ってるお店なんて、「マルチ」から歩いて行ける場所にもあるのに。
「あそこはコーヒーとか紅茶の仕入れで行くし、あかりもケーキの材料なんかを買いに行くから知ってんだ。お前がこのチョコに使った材料は、その店にあったハードビターって奴だったろう?」
「……はい」
わたしの返事に大きく息をついて、浩之さんはもうひと口チョコレートを口にする。
「ん~。ちとバランスがなぁ。あの店のハードビターっつうのはほとんどココアなんだ。普通のチョコはカカオマスとカカオバター、他に砂糖とかが入ってるわけだが、ハードビターはカカオマスとチョコとして固めるための最小限のカカオバターしか入ってねぇ。プロでもねぇのにあんな扱いにくいもんでつくれたってのもすげぇと思うが、ともかくあれはそのままで使うんじゃなくて、味を調整しながら使うもんなんだよ。クッキーの方も甘さは控えめだし、ちとバランスがきついぜ」
「わ、わたし――」
謝ろうとしたとき、ポンと浩之さんの手が頭に乗せられた。
「もうちっと調べないといけなかったな、マルチ。ったくよ、料理も洗濯も一人前くらいにはできるようになったってのに、そのおっちょこちょいだけは治ってねぇよなぁ」
微笑みつつさらにひと口。
「苦みはきついが、まずいわけじゃねぇよ。これだったらクッキーの方はもう少し甘くつくってもよかったな」
「はい……」
もう浩之さんの顔を見ていられなくて、わたしは下を向いてしまった。
「いいさ、マルチ。少しずつ変わっていこうぜ。少しずつ、それでいいと思うよ」
「浩之さん?」
顔を上げてみると、優しさのこもった目がわたしを見つめていた。チョコレートを食べ終わってしまうと、箱を持っていない右手でまた抱き締めてくれる。
「少しずつ、身近なところから変えていけばいい。お前はあのときそう言った。その通りじゃねぇか。だろ?」
「そうですね。そうですよね」
目にも、腕にも、声にも、込められている優しさ。
また涙が出てきそうになって、わたしは浩之さんの胸に身を預けた。
――変わっていこう、少しずつ。
いつまでもこの暖かさを感じていられるように、わたしは心の中で誓っていた。
「実りの季節が苦すぎて」 了