奴隷邂逅【改訂版ver.2】   作:紙谷米英

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本作は縦読み推奨となっております。


奴隷邂逅ver.2 〈1-1〉

 

~奴隷邂逅~

 

【1】

 

 証明の落ちた書斎は、女の嗚咽に満ちていた。窓もなく、廊下から差し込む夕暮れ前の薄明かりが、唯一の光源だった。古びたオークの書斎机を背にして、女が床に尻餅をついている。その胸に、小さな子供を抱いていた。

 暗がりの中でも、こちらを見上げる瞳が恐怖に濁っているのが見て取れた。母親の並ならぬ緊張を察してか、それとも本能による現実逃避か、まだ三歳くらいと見える男の子は、無垢な眼で母親を見上げるばかりであった。ひょっとすると、自分たちへ向けられている銃の概念を知らなかったのかもしれない。

 母親の震える唇から、助けを乞う言葉が漏れた。消え入りそうな懇願で目尻に溜めた涙が零れ、崩れた化粧が頬に黒い筋を引く。ブルネットの前髪が汗に濡れ、べっとりと額に張り付いていた。汗だけではない。女の鼻から下は、すすりきれなかった鼻汁にまみれていた。持ちうる全ての生理的反応が、生への執着を主張していた。

 哀れな女に同情した。だが、現状が不都合なのは、こちらも同じである。元より、この女と鉢合わせる予定はなかった。あと少しで仕事を完遂するというタイミングで、この親子の妨害が入った。こちらの存在を知られた以上、口をつぐんでもらう必要がある。

 拳銃の照門を、女の額に重ねる。女はぎゅっと目蓋を閉じ、我が子を抱く腕に力を込めた。くそ、いやな時間だ。

 俺はサイコパスではない。今から殺す相手が悶え苦しむ姿に興奮などしないし、死体を切り刻んで保管する趣味もない。与えられた命令に従い、教え込まれた通りの作業をこなす。業務に支障が生じれば、速やかに取り除くだけだ。

 発砲に至るまで残り一ミリにも満たないところで、引き鉄に掛けた指の筋肉が強張った。母子へ向けた銃口が震え、握りしめたグリップが軋みを上げる。馬鹿野郎、さっさと撃て。指先から感覚が抜けてゆく。首筋を、おぞましく冷たい恐怖が撫ぜた。冗談じゃない。普段と同じようにやれ。たった二発だ。一秒と掛けず、女とガキの眉間にぶち込めば、それで済む。血と汚濁に染まっていても、元の安息の日々に戻れる。

 右手だけで銃を支えられなくなり、左手をグリップに添える。両手を用いても、震えは強まるばかりだった。乱れた呼吸を正そうとする内に、自分を縛る戒めが少し緩む。このまま母子を解放して、一目散に逃げ出そうか。薄闇がこちらの姿を隠しているし、パニックに陥った母親は、こちらの身体的特徴を正確に供述できないだろう。

 まったく笑えない。足下の男の子くらい無垢であれば、そんな絵空事も鵜呑みできただろうか。恐らく、無理だろう。その歳の頃には、俺の心は既に不純で塗り固められていた。欺瞞と破壊で形づくられたこの身は、殺しなしには保てない。

 人間でさえ、自らの意志すべてを自由には出来ないのだ。"それ以下"の存在が下された指示に疑問を持つのは、反逆行為というものだ。

 次第に、筋肉が脳の信号を受け入れ始める。こちとら、物事を選べる立場ではない。命令を受ける。それに従う。他に考える必要はない。

 もう、手は震えていなかった。右手で構え直した銃の先で、母親が息子を抱き寄せた。

 ――たとえ、この場で俺と遭遇していなかったとしても、この親子は遠からず殺される。頭の中で、自分の声が幾重にも反響していた。長らく嘘で塗り固めた心は、自らをも欺くことでしか保てなくなっていた。だけど、それも限界だった。

 あの時の俺は、そうするしかなかった。そうするべきだったし、実際にそうした。それが自分の責務であったし、他にすがるあてもなかったのだから。

 湿気た空気を、乾いた銃声が引き裂いた。

 

 

【2】

 

 耳元で鳴り響く不快な金属音に、目蓋が引きつった。緩慢な意識がレム睡眠の牢獄から這い出し、殴打で自傷行為に騒ぐ目覚まし時計を手探りする。カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、時計の針が七時を指していた。この安眠を阻害する雑音を救いの鐘と見なすかは、それを聞く人間で決まる。自分はこいつのおかげで、今までの光景が悪夢だと気付けたし、目覚めた先に現実を認識したことで、もっとひどい心地を味わっている。

 何処へ向ける訳もないが、悪態が漏れる。全員がそうとは限らないが、起床直後の軍人の多くが、自分と同じであることを願う。マットレスから身を起こすなり、鉛めいた倦怠感が挨拶にやってきた。いつまでも慣れない悪夢。言うなれば、拭い去れないトラウマだ。縦縞模様の寝間着に汗が染み、部屋中に男のすえた臭気と、アルコールの残り香が充満していた。およそ爽やかと呼べぬ一日の皮切りに、鈍い頭痛を覚える。すぐに寝床へ再入場して、二度寝を決め込みたいのが人の性だが、そうさせてくれないのが現実であり、人間とかいう社会的動物を縛る制約である。

 ベッド脇のスリッパをつっかけ、よどんだ空気と頭痛によろめいて寝室を脱し、階段を一段ずつ、手すりにもたれて下った。吐きそうになりながら到達したバスルームで熱いシャワーを頭から被ると、人心地ついた気がした。気がしただけで、その実、廃人と何ら変わりない。

 身体を拭いて下着を履き、剃刀を手に洗面所の鏡を覗き込むと、敵意に満ちた瞳がこちらを威嚇していた。我が身ながら、ひどい有様だ。白人らしからぬ色味の肌には、無数の古い傷跡が走っている。容貌は西とも東ともつかぬ余計な国際色に溢れ、日焼けして髭を伸ばせばアラブ系に見えないこともない。ここ数年、目元がクマの支配を逃れた日はない。とはいえ、こんなのはまだ可愛い方だ。さらに陰鬱な影が落ちる部位を、冷たいグレーの三白眼が捉えた。他とは一線を画する規模の傷跡が、顎の右から首の色素を奪っていた。物心ついた頃から、寝食を共にしてきたぎざぎざだ。こんなお洒落を、誰が好んでこしらえたのか。

 憂いに塞ぎ込み、ジェルの付いた安全剃刀も洗わず、洗面所を後にした。それから今日を過ごす服を探したが、ワードローブには寝間着しか残っていなかった。数分前の視覚情報が、脱衣カゴに形成された洗濯物の山嶺を記録していた。あいにく、うちはヌーディスト・ビーチに建っていない。こちとら、家を出ずにいられる生業《なりわい》ではないし、その仕事しかできないのも痛感している。

 再来した頭痛を抱えて家中を見渡すと、リビングのソファに、衣類一式が脱ぎ捨ててあるのが見つかった。半日前に着ていたやつだ。つまみ上げて鼻を鳴らしてみると、かすかに湿った臭いが検知される。――知ったことか。無地のTシャツに首を勢い突っ込み、生地の疲れたチノパンをベルトで締め、しわの寄ったボタンダウンのシャツと、ベトナム戦争で米軍が使用した野戦ジャケットに袖を通した。やはり臭いが少し気になったが、除菌スプレーの洗礼を吹きかけると、いくらかましになった。自堕落な行いをたしなめる視線が、ソファの座面から気取られる。首紐につながれた、イギリス陸軍の認識票。その顔写真の目には、生きることへの希望が幾ばくか残っていた。まったく愚かしい。三年後には、この体たらくだってのに。責めるべきはこの場にいる俺ではなく、そこから何も変わらなかった、てめえ自身というのが道理だろう。恨めしい認識票を座面から引ったくり、紐をまとめて胸ポケットへ放り込んだ。

 ヒルバート・クラプトン――認識票の人物は、十数年前からそう名乗っている。元の名など思い出したくもないから、とうに記憶の隅にしまい込んで忘れてしまった。幼少時に、奴隷として身を売られた。出自を抹消する理由など、それでこと足りる。無情ながら、拭い去れぬ残渣があるのもまた真実であり、ヒトの脳は一切合財を自分に都合よく作られてはいないらしい。宗派の差異はどうあれ、神の存在が確たるものであるなら、この欠陥を企図されたご意向には賛同しかねる。


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