~奴隷邂逅~
【1】
照明の落ちた書斎は、女の嗚咽に満ちていた。窓もなく、廊下から差し込む夕暮れ前の薄明かりが、唯一の光源だった。古びたオークの書斎机を背にして、女が床に尻餅をついている。その胸に、小さな子供を抱いていた。
暗がりの中でも、こちらを見上げる瞳が恐怖に濁っているのが見て取れた。母親の並ならぬ緊張を察してか、それとも本能による現実逃避か、まだ三歳くらいと見える男の子は、無垢な眼で母親を見上げるばかりであった。ひょっとすると、自分たちへ向けられている銃の概念を知らなかったのかもしれない。
母親の震える唇から、助けを乞う言葉が漏れた。消え入りそうな懇願から目尻に溜めた涙が零れ、崩れた化粧が頬に黒い筋を曳く。ブルネットの前髪が汗に濡れ、べっとりと額に張り付いていた。汗だけではない。女の鼻から下は、すすりきれなかった鼻汁にまみれていた。持ちうる全ての生理的反応が、生への執着を主張していた。
哀れな女に同情した。だが、この状況が不都合なのは、こちらとて同じである。元より、この女と鉢合わせる予定はなかった。あと少しで仕事を完遂するというタイミングで、この親子の妨害が入った。こちらの存在を知られた以上、口をつぐんでもらう必要がある。
拳銃の照門を、女の額に重ねる。女はぎゅっと目蓋を閉じ、我が子を抱く腕に力を込めた。くそ、いやな時間だ。
俺はサイコパスではない。今から殺す相手が悶え苦しむ姿に興奮などしないし、死体を切り刻んで保管する趣味もない。与えられた命令に従い、教え込まれた通りの作業をこなす。業務に支障が生じれば、速やかに取り除くだけだ。
発砲に至るまで残り一ミリにも満たないところで、引き鉄に掛けた指の筋肉が強張った。母子へ向けた銃口が震え、握りしめたグリップが軋みを上げる。馬鹿野郎、さっさと撃て。指先から感覚が抜けてゆく。首筋を、おぞましく冷たい恐怖が撫ぜた。冗談じゃない。普段と同じようにやれ。たった二発だ。一秒と掛けず、女とガキの眉間にぶち込めば、それで済む。血と汚濁に染まっていても、元の安息の日々に戻れる。
右手だけで銃を支えられなくなり、左手をグリップに添える。両手を用いても、震えは強まるばかりだった。乱れた呼吸を正そうとする内に、自分を縛る戒めが少し緩む。このまま母子を解放して、一目散に逃げ出そうか。薄闇がこちらの姿を隠しているし、パニックに陥った母親は、こちらの身体的特徴を正確に供述できないだろう。
まったく笑えない。足下の男の子くらい無垢であれば、そんな絵空事も鵜呑みできただろうか。恐らく、無理だろう。その歳の頃には、俺の心は既に不純で塗り固められていた。欺瞞と破壊で形づくられたこの身は、殺しなしには保てない。
人間でさえ、自らの意志すべてを自由には出来ないのだ。"それ以下"の存在が下された指示に疑問を持つのは、反逆行為というものだ。
次第に、筋肉が脳の信号を受け入れ始める。こちとら、物事を選べる立場ではない。命令を受ける。それに従う。他に考える必要はない。今の暮らしを失う訳にはいかない。目の前の厄介事を片付けろ――。
もう、手は震えていなかった。右手で構え直した銃の先で、母親が息子を抱き寄せた。
――たとえ、この場で俺と遭遇していなかったとしても、この親子は遠からず殺される。頭の中で、自分の声が幾重にも反響していた。長らく嘘で塗り固めた心は、自らをも欺くことでしか保てなくなっていた。だけど、それもとうに限界だった。
あの時の俺は、そうするしかなかった。そうするべきだったし、実際にそうした。それが自分の責務であったし、唯一の自己肯定の術だったから。
湿気た空気を、乾いた銃声が引き裂いた。
【2】
耳元で鳴り響く不快な金属音に、目蓋が引きつった。緩慢な意識がレム睡眠の牢獄から這い出し、殴打で自傷行為に騒ぐ目覚まし時計を手探りする。カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、時計の針が七時を指していた。この安眠を阻害する雑音を救いの鐘と見なすかは、それを聞く人間で決まる。自分はこいつのおかげで、今までの光景が悪夢だと気付けたし、目覚めた先に現実を認識したことで、もっとひどい心地を味わえている。
何処へ向ける訳もない悪態が漏れる。全員がそうとは限らないが、起床直後の軍人の多くが、自分と同じであることを願う。マットレスから身を起こすなり、鉛めいた倦怠感がやってきた。いつまでも慣れない悪夢。言うなれば、拭い去れないトラウマのご挨拶だ。色褪せた縦縞模様の寝間着に汗が染み、部屋中には男特有のすえた臭気と、胃から逃げ出したアルコールだったものの残り香が充満していた。およそ爽やかと呼べぬ一日の皮切りに、鈍い頭痛を覚える。すぐに寝床へ再入場して二度寝を決め込みたいのが人の性だが、そうさせてくれないのが現実であり、人間とかいう社会的動物を縛る制約である。
ベッド脇のスリッパをつっかけ、よどんだ空気と頭痛によろめいて寝室を脱し、階段を一段ずつ手すりにもたれて下った。吐きそうになりながら到達したバスルームで熱いシャワーを頭から被ると、人心地ついた気がした。気がしただけで、その実は廃人と何ら変わりない。
身体を拭いて下着を履き、剃刀を手に洗面所の鏡を覗き込むと、敵意に満ちた瞳がこちらを威嚇していた。我が身ながら、ひどい有様だ。白人と評するには血色の悪すぎる肌には、無数の古い傷跡が走っている。容貌は西とも東ともつかぬ余計な国際色に溢れ、日焼けして髭を伸ばせばアラブ系に見えないこともない。ここ数年、目元がクマの支配を逃れた日はない。とはいえ、こんなのはまだ可愛い方だ。さらに陰鬱な影が落ちる部位を、冷たいグレーの三白眼が捉えた。他とは一線を画する規模の傷跡が、顎の右から首の色素を奪っていた。物心ついた頃から、寝食を共にしてきたぎざぎざだ。こんなお洒落を、誰が好んでこしらえたのか。
憂いに塞ぎ込み、ジェルの付いた安全剃刀も洗わず、洗面所を後にした。それから今日を過ごす服を探したが、ワードローブには寝間着しか残っていなかった。数分前の視覚情報が、脱衣カゴに形成された洗濯物の山嶺を記録していた。あいにく、我が家はヌーディスト・ビーチには建っていない。家を出ずにいられる生業《なりわい》ではないし、その仕事しかできないのも痛感している。
再来した頭痛を抱えて家中を見渡すと、リビングのソファに、衣類一式が脱ぎ捨ててあるのが見つかった。多分、半日前に着ていたやつだ。記憶が正しければ、一昨日ではない。つまみ上げて鼻を鳴らしてみると、かすかに湿った臭いが検知された。――知ったことか。無地のTシャツに首を突っ込み、生地の疲れたチノパンをベルトで締め、しわの寄ったボタンダウンのシャツと、ベトナム戦争で米軍が使用した野戦ジャケットに袖を通した。やはり臭いが少し気になったが、除菌スプレーの洗礼を吹きかけると、いくらかましになった。
そんな自堕落をたしなめる視線が、ソファの座面から気取られる。気配を辿ると、首紐につながれたイギリス陸軍の認識票があった。プリントされた顔写真の目には、生きることへの希望が幾ばくか残っていた。まったく愚かしい。三年後には、この体たらくだってのに。責めるべきはこの場にいる俺ではなく、そこから何も変わらなかった、てめえ自身というのが道理だろう。恨めしい認識票を座面から引ったくり、紐をまとめて胸ポケットへ放り込んだ。
ヒルバート・クラプトン――認識票の人物は、十数年前からそう名乗っている。元の名など思い出したくもないから、とうに記憶の隅にしまい込んで忘れてしまった。幼少時に、奴隷として身を売られた。出自を抹消する理由など、それで事足りる。無情ながら、拭い去れぬ残渣があるのもまた真実であり、ヒトの脳は一切合財を自分に都合よく作られてはいないらしい。宗派の差異はどうあれ、神の存在が確たるものであるなら、この欠陥を企図されたご意向には賛同しかねる。
脳の不都合に輪を掛けて不快なのが、燃料の必要性だ。この世に生きとし生けるものである以上、食糧の継続的な摂取は免れないから、この身は二十四時間ごとにダイニングで朝食の準備に掛からねばならない。本日のコースは――毎度変わらないのだが――トースト二枚と卵二つの目玉焼き、かりかりに焼きたいベーコン。それさえ儚い願望だ。ちょっと前まで、目隠しでも完遂できたというのに。
トースターに厚切りの食パンを対人地雷よろしく慎重に設置してから、バターを延ばしたフライパンにラージサイズの卵ふたつを爆撃する。ひとつ目の卵を搭載した右手がフライパン上空を通過し。脳の合図で指に力を込めた途端、カルシウム質が中身もろとも砕ける感触があった。ああ、実についていない。今日のメニューは、目玉焼きひとつとスクランブルエッグに変更だ。気を取り直して二つ目の卵を握り、シンクの角に叩き付ける。生じたひびに指を突っ込むと、柔らかい膜を突き破ったのが分かった。途端、明度の高い黄色が、白い殻を抜けてシンクに滴った。今日のスクランブルエッグは、随分とでかくなりそうだ。
数分後、味気ない白色の皿の上に、ベーコンが干し肉めいて反った姿で横たえられた。かりかりというよりは、ばりばりといった焼き上がりである。これだけでも食欲が失せるが、その隣にもっとひどい焼き色の卵の塊を横たえねばならない。うわあ、不味そう。メインディッシュ『タンパク質の墓場』を手にテーブルに着き、たっぷりとしたイギリスの朝食らしくないそれに手を付ける。ベーコンを口に運ぶと、分厚いチップスの如く砕け、口腔の粘膜に突き刺さる。卵は塩が一部に偏り、じゃりじゃりした結晶がベーコンの爪痕にしみた。ケチャップで誤魔化さなければ、食えた代物ではない。主菜に嫌気が差して、唯一の救いであるトーストに手を伸ばした。――おいおい、何だいこれは。指先に走る感触、そしてその温度……冷たい、凄まじく冷たい。アフガニスタンの雪だって、こうも人類を拒絶しない。原因を辿れば単純明快で、俺というやつはトースターのダイヤルを回し忘れていたのだ。
現在時刻は七時三五分。職場までは車で十分。出勤の目安は八時くらいと考えている。トーストの焼き直しに三分、後片付けに五分……。たったこれだけの計算が煩わしかった。自らのポカを悔やみつつ、パンを焼かずに食う英断を下す。不味い糧食をより不味く、そしてせわしなく詰め込み、飲み下す暇もなく食卓を立つ。雑多な調度品に何度もつまずきながらも、玄関の床に放り出された砂色のベレー帽を掴み、家を飛び出した。手の中で、一対の翼を有する剣の徽章が歪んだ。
ガレージのシャッター上昇を急かし、洗車せずに砂埃を被った車に転がり込むと、イグニッションにキーをぶち込んでエンジンを叩き起こす。何度目かの試みの後、耳障りな破裂音と、力なき声が前方のエンジンから漏れた。ぶ、すん。
「……まじかよ」
果たせるかな、それから何度キーを回しても、うんもすんもない。図らずも、今際に立ち会ったらしい。人知れずため息が漏れ、脱力感からハンドルにもたれた。自宅から職場までは、徒歩で二十分。あいにく、うちに自転車はない。そこから容易に導き出される結果は、考えるまでもなく遅刻である。異様なのは、それが明白になった時点で、自分の内から先の焦りが微塵もなくなったことだ。二九歳の大人が、確たる理由もなしに遅刻。法で禁じられているにもかかわらず、奴隷出身で軍籍持ち。コネで手に入れたも同然の、少尉という階級。それは第二二SAS連隊(英国陸軍特殊空挺部隊)が小隊長たる身分があっても、看過される行為ではない。
指摘されなくとも、我が身が尋常ならざる容体に陥っているのは理解している。数年前であれば額に汗を滲ませるくらいはしたが、今や車の修理を自分でやるか、業者に依頼するかで思考を巡らせていた。気が狂っている。それでも、修理のしようがないのだ。
車を降り、ガレージも閉めずに前庭の芝を踏みしだく。凄まじく始点の悪い、それでも平穏に一日を耐えられると信じて、今日も通勤路を辿る。衣食住に不自由しない先進国にいながら、幸福度は海抜すれすれだった。人並みの幸福なんぞ、過ぎたものは望まない。ただここ、ヘリフォードの街の曇天が恨めしかった。
【3】
くたびれたナイロンの黒い鞄を脇に抱き、まばらな通勤の人足に混じって職場へと向かう。クレデンヒル元空軍基地までは、二・五キロの道程だ。立ち並ぶ商店が開店準備を進めており、軽食店を営む肥った男が閉店の札を片付けている。そこかしこの酒場に運送トラックが停まり、ビールのアルミ樽の卸下《しゃが》に勤しんでいた。それだけなら、ウェールズくんだりの気だるい日常に違いない。ただひとつつの例外を除けば。
平日の朝の中で、際立って目を引く存在があった。異常なまでに短いスカートを履いた少女らが、通勤のスーツ姿に紛れ切れないでいるのが散見される。娼婦にしては容姿が整っているし、そもそも朝方は連中の出勤時間ではない。うら若い少女が大胆に肌を露出しているというのに、疑問の目を向ける者は誰もいなかった。これこそが現代イギリス連邦の最たる恥部、奴隷だ。かつてのスペインをも蹂躙して名を馳せたイギリス様だが、欧州ではとうに化石と変じた制度が未練がましく生き長らえている。
奴隷は、卑しいお仕着せに身を包んでいるとは限らない。雑貨店のショーウィンドウを磨く少女もあれば、物資でぱんぱんの紙袋を抱える少年もいる。神はここでも無情だ。商店で労働を課せられている大半は、お世辞にも「可愛い」なんて形容詞をあてがえない見てくれで、ご立派なスーツから半歩置いて金魚の糞をやれるのは、見目麗しい美少女か美少年と決まっている。これらがいわゆる、性奴隷と呼ばれる種族だ。今日の奴隷には、洗濯女中や子守《ナニー》といった、使用人としての明確な職業区分は存在しない。だが、性奴隷に関してはその限りではない。傍目からも、顔の造りで一目瞭然に判断できてしまう。
大概の性奴隷は、機能性を軽視した給仕服を着せられる傾向にある。主人に伴って職場へ付き添ったり、或いは家に残って家事雑用を担うなどして、日々を生かされている。視界に捉えた性奴隷は華美なフレンチメイド服に身を包み、夏に差し掛かるとはいえど寒々しい灰色の市街に、そのか細い四肢を晒していた。うら若き素肌に、情欲が欠片も湧かないと豪語するつもりはない。そうであっても、イギリス国民がおよそ抱え得ない忌避感が、この身に巣食っていた。石炭よろしく赤熱する、激しくも寡黙に燻る憤り。それに反して氷の如く冷め切った諦観が、背反しつつ共存していた。この国の常識を受け入れられない病魔が、俺の精神を長きに渡って蝕んでいる。
原因は単純明快であったが、如何せん解決への意欲も生じず、そうしようものなら他ならぬこの身が全力で拒絶反応を起こしてくれる。こんなのが十年以上も続いているから、たまったものではない。何事に対しても尊大な期待は抱かず、未練を捨てて諦める姿勢で生きてきた。死人と同等の目で、拭い去れぬ過去と対面せず、遂に三十路を前にくじけそうになっていた。有り体に言ってしまえば、生きる気力を失っていたのだ。それだのに、服毒自殺する踏ん切りさえ付けられない。たった一度、奴隷の身から救われたその時を想起するばかりに。
【4】
職場に到着した時点で、腕時計の針は既に九時を回っていた。黎明期の戦車みたいな鈍足だ。目前に佇む陰気な建築物群が、こぞって自分を叱責する錯覚さえ抱く。
陸軍SAS本部――空軍に放棄されたクレデンヒル基地を、SASが一九九九年に貰い受けた移転先だ。元いたスターリング・ラインズ基地と比較すると、大半のSAS隊員とその家族が暮らすヘリフォードからは幾分か離れている。とはいえ、第二次大戦時に建造されたおんぼろ施設を鑑みれば、多少の不便は甘んじて受け入れられる。パラシュート連帯で三年を過ごした俺が入隊した頃には、極めて快適な施設として運用されていた。
何重にもある警備付きの検問を通り、やっとで施設屋内へと足を踏み入れる。特徴のない壁に囲まれた廊下を進み、自分に与えられた部屋――個人の装備を置いたり、入隊直後で家のない隊員が寝起きしたり、浮気がばれて妻に追い出された間抜けが寝泊まりする――のベッドに荷物を放り出し、遅刻の件で直属の上司に平謝りへと向かう。事前の電話連絡をしようとも考えていたが、面倒に感じてなおざりにしていた。それに、俺の遅刻は最近では珍しくなくなっていたから、上司も分かっているだろう。
廊下で数人の同僚とすれ違う。大抵がスウェットの上下とか、迷彩プリントの施された戦闘服姿だ。何人かは俺を嫌悪を露わに睨み、鼻を鳴らして過ぎ去っていった。俺が所属するD戦闘中隊とその他少数だけは、ただ黙って頷いてくれた。殆どが軍曹や伍長、果ては兵卒などで、階級だけ見れば少尉様に平伏している様にも見える。その実、やつらは酒場で爽やかな笑顔を伴って俺のつまみのナッツにタバスコをぶち込む輩なので、そこに礼節などは存在しない。こちらの事情を知っているのだ。稀な兵役経験にかかずらう受け入れ難い過去と、それが生んだ癌細胞を。
幾つもの小部屋を通り過ぎた先の食堂から、格別に見知った顔が三つ現れる。やつらはこちらをを認識するなり意地悪い笑みを満面に、さも頭の弱そうな風を装って詰め寄ってきた。
「どうした、家でゴキブリ退治にでも手間取ったか?」
「スピード違反で切符切られたんだろ?」
「重役出勤ご苦労さん!」
そんな具合で口々に野次られたので、「羨ましかろう!」と返してやった。こういう場合は開き直るに限る。何ということはない、気遣いに溢れた兄弟同士の軽口だ。
青いジャージ姿のショーンは少尉で、巻き毛の黒髪と角張った顎のありふれたゲルマン系だ。既に数多の実戦に参加しており、頬がこけて実際の二八歳よりずっと老けて見える。本国で待機している間は、対テロリストチームで狙撃班のリーダーを務めている。餓鬼の頃から俺の良き理解者であるが、数年前にスーダンで寝た現地の女に財布を誘拐されて以来、女性恐怖症である。何やってんだ、狙撃兵。
ヴェストも同階級で、綺麗に刈り込まれたブラウンの髪と、思わず殴りたくなる程の優れた容姿を誇るケルト系だ。あらゆる物事に器用で多趣味、それ故に本気で打ち込める対象に懊悩している。女性経験も豊富で、気が付くと酒場で女を引っ掛けている。否、女の方から寄ってきているのだから、こいつの女癖が悪いという事ではない。その一方、彼の秘めたる芸術性の高さに着いていけないという理由で、長続きする女も皆無だ。それでも、彼自身は全く意に介さない。だって、趣味に没頭する時間が得られるから。
ジェロームはどうやら少尉の階級らしいのだが、まるでそんな気風がない……いや、軍人以前に理性がない。程々に整ったラテン系の容姿、けちの付けられないシャンパンゴールドを頭に生やすが、決して人間ではない。ミラノの排水溝から這い出たであろう変態だ。寝床を出ると女を求め、その下心が丸出しである故に自らの手に入らないと嘆いて、風俗店に入り浸る。そして月末には裸同然になって、ひたすら腹を空かしている。鉛弾よっか先に、性病で死ぬんじゃなかろうか。
三人全員が俺と同年代であり、上司のツテで今の階級を手にしているのと同然の状態だ。とはいえ実力は額面以上、仕事はきちんとこなす性質の悪さから、お上からのお咎めも少ない。少々の扱い辛さはあるが、俺という人間を深く理解してくれる稀有な同胞で、各自が複雑な出生を有する、血の繋がらない兄弟だ。戸籍上はヴェストを長兄に据え、ショーンが三男、ジェロームが末弟となっている。そういう訳で、俺は出来た長男を傘にする次男の席にあった。
兄弟と適当に別れを済ませ、今度こそ平謝りに向かう。幹部の執務室が密集する区画の一室、「クラプトン少佐」と簡素なプレートが打ち付けられた質素な木製ドアの前に立ち止まる。ドアはそこらじゅうに「うんこ」とか「女貸せよ!」と油性マジックで落書きされており、シンナーで消されかかった跡がある。ちゃんと消してやれよ。こんな扱いを受けているのが直属の上司かと思うと、無性にやるせなくなったが、同時に幾らか誇らしくもあった。我が親父は、こんなにもたくましい。その息子といえば、なんと情けないことか。
汚されまくったドアを拳で二度小突くと、覇気のない返事が寄越された。
「失礼します。すいません遅れました」
謝罪の念など、ひとつまみと持ち合わせずに突入する。壁一面を灰色でつまらなく彩られた、小窓さえもない部屋の中央。革張りの椅子にどっかり尻を沈めた中年が、座席をくるくる回して遊びふけっていた。使い古された金属の事務机には菓子が散乱し、署名箇所がまっさらな書類に油が染みていた。
「分かってるよ。時計の見方くらいは知ってる」
回転しながら応じている為に、間の抜けた調子の応答がなされる。声音から、こちらを叱責する事もないのだろう。その方がずっと辛かった。
「懲罰を与えないのは、時間の無駄だからかい」
「本気でそう思ってるのか?」
中年はぴたりと椅子の回転を制し、苦々と落胆した表情をして見せた。
リチャード・クラプトン。白髪が混じったブラウンの髪、腹部の肉がふくよかに垂れる、我らがD戦闘中隊直属のボスである。階級は少佐で中隊長を担っているものの、その正体は淫蕩極まりない嗜好にどっぷり浸かった変態の長だ。現在は前線を引退した形を取って、日がなゆるゆると茶など啜っているが、現役時代の仕事振りは今でも語り継がれている。事務における業務態度は甚だ悪いが、その総評は決して悪くない。身の丈は高い方ではなく、格別に顔が良い訳でもない。包み隠さず言えば、冴えない風体をなしている。どだい評価は受けられないが、それでも孤児同然であった兄弟と俺を地獄から拾い上げた、父親に等しい存在には違いない。
少佐は俺の顔を凝視しつつ、手入れのされていない顎髭をこすり、頬杖を突く。思えば出逢った時から、何を考えているのか窺えない男だった。
「……最近、色のある話はあったか?」
ほうれ、いつもこうだ。発言が常に突飛で、掴みどころがない。返答にあぐねていると、肩をすくめて同情めいてみせた。
「やっぱりないのか」
やっぱり。失礼極まりない。
「いいでしょうが、別に」
「よかないから言ってるんだ。もう三十路前だぞ? 少しは危機感があるだろうよ」
「あんただって結婚してないでしょうに」
「書類上はな。女はいるもん。ところが、てめえは未だに鳥さんを演じて、サクランボとおさらば出来ないでいやがる」
ほっとけ! 確かに二九という年齢の軍人が、童貞の肩書きを引っ下げているのは至極みっともない。女を買う金がないのではないし、敬虔な宗教家を名乗るつもりもない。単にひとつの結果として、その事実が存在し続けているだけだ。
「嫌味を垂らすくらいなら、叱ってくれる方が助かるんですがね」
少佐は不服そうに口を曲げ、眉根を寄せた。
「嫌味ねえ? そうか、お前さんにはそう聞こえるのか。ならはっきり言ってやろう。お前は調律の狂ったピアノだ。うーん、そんなに繊細じゃないな。照準器を失くしたぽんこつ銃だ」
唐突に喧嘩腰へと移行した少佐に、反射的に拳を作った。この野郎、他人の深層に土足で踏み込んで来やがる。
「おや、何か間違っていたか? うだつの上がらないお前の代弁をしてやったんだ。端から正答分かっているくせに、短い人生が終わるまでペンを持とうとしねえ。出来の悪いせがれだよ」
口の中で鉄の味が広がった。奥歯がぎりぎりと軋み、手の甲に醜い青筋が浮き出る。
「ああ、知ってるよ。お前の古傷は相当に酷いもんだ。『北』で拾った時点で、いつか狂っちまうんじゃないかと危惧してはいたが、実際にご覧の通りだ。近い内に、殺人か自殺でもしちまうぞ。……お前さんを知る限り、前者はないな。父より先に死ぬ親不孝者め」
軽度の鬱病であれば、もう少しましだったかもしれない。PTSD――心的外傷後ストレス障害。平たく言えば、トラウマだ。十数年前に受けた呪いが未だ脳裏にべっとりこびり付き、悪夢となって毎夜の如く繰り返される。多くの兵士は、人間を殺した瞬間から、相手の死の情景を夢に見る。当時の俺は正規の兵士ですらなかったし、敵を選べる立場でもなかった。下される指示を、ただ妄信することしか許されなかった。
自ら科した足枷の重みが、限界を迎えていた。メスを以て切除しなければならない悪性腫瘍であるのも自負している。にもかかわらず、その手術を目前に駄々をこねて日程を先延ばしにしてきた。
周囲から、心療内科に通院する様に勧められてもいた。実際、数年前に通いはしたが、長続きしなかった。他人に――一部の価値観の近い者を除いて、自身の最も敏感で脆い部位を見せたくなかった。
「だからって、どうにか出来るものじゃない。専門家だろうが、他人は何処まで行っても他人だよ。脳の中身を覗ける訳じゃないし、どうせ理解も共感も出来やしないんだ。そんなの、兵隊のあんたなら言うまでもないだろう?」
苦し紛れな吐露に、冷静な物言いは含められなかった。
「麻薬まがいの薬物もやったし、退役軍人とのお喋りセラピーだって経験した。あんたの言う通りに、集団カウンセリングにも参加したさ。それで何が変わった? 最初から知れていたことさ、同じ境遇なんて存在しやしないんだ。まして俺は北で……!」
すっかり大人の態度を崩して狼狽える俺を、親父が掌を突き出して御した。弱ったしかめ面を覆い、唇を噛んでいる。平生はあっけらかんとした親父が、五年に一度見せるどうかの所作だ。
「なあ、ヒルバート。親として、お前が苦しむのはこれ以上見たくない。荒療治になるが、今生の頼みだ。最後にもう一つだけ試してくれないか」
これが演技なら、確実に助演男優賞のトロフィーを持ち帰れるだろうよ。うな垂れた親父は、絞り出す様に続けた。
「……奴隷を買ってくれ」
それが、後のなくなった息子へ提示された治療法であった。