奴隷邂逅【改訂版ver.2】   作:紙谷米英

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奴隷邂逅【3】

 

 

【9】

 

 脇に抱えた鞄へ手を突っ込み、わななく指先で札束の安否を確認した。ちょうど汗をかいていたので、乾いた紙幣が役に立ってくれた。件の女の子はというと、飽きもせずにこちらへ好奇の目を向けてくれている。場違いな風体の男への怯えがない訳ではないが、まんじりともせず落ち着き払っている。近くで通り魔が出没したくらいでは、金切り声なぞ発しない肝が据わっていると見えた。

 だからこそ惹かれた。女らしくない女というのは、実に好都合だ。親父の要求は果たせるし、ひとつ屋根の下で暮らすにしても、さほどの意識改革なしにいられる……多分。差し当たっての障害は、この子の売値が十万ポンドという現実と、自分になけなしの倫理を捨てる覚悟が出来るかという点にある。

 踏ん切りを付けられずにいる隣で、赤毛のケルト系が誰かに買われた。連鎖する様に、例の美青年もお立ち台を下りる。ストレスで粘り気の強い唾液が口内に満ちるのが分かった。自分とて性欲が枯れた訳ではない。不健康で不健全なクラプトンの男として、本能に基づいた感情を抱くのも致し方ないのである。……無論、対象は異性に限る。

 客観性に欠ける弁論はさておき、本題はそこではない。眼前の少女を購入することで、親父殿からの指令は果たされる。そこに息子の自由意志が介在する余地はなかったのだが、今となっては些末なことだ。最後の抵抗を振り払い、八割方を自動操縦で動く身体が、紅いベストに身を包む奴隷販売業者の肩を叩いた。

「分割支払について訊きたいんだけど」

 鏡がないので確認のしようがなかったが、振り向いた業者がぎょっとしたくらいだから、総統にひどい顔だったに違いない。

 

 業者に恐怖を抱かせた数秒後、俺は物言わぬ少女を傍らに伴い、赤毛の七万ポンドを購入した男と仕切りで隔てられた商談席に案内されていた。貸与契約――どうも購入額の満額受領まで、所有権は販売元にあるらしい――を担当する職員を前に、何十枚もある書類と対面させられる。顕微鏡で細菌と睨み合う様な作業に、視力が下がりそうだ。

 俺がおびただしい数の文字――最早、脳が文章と認識できない文字列と格闘している間、俺のキープを受けた少女は、大量の書類で覆われた机の向こうの職員の隣で、下腹部の前に両手を組んで佇んでいた。書類を読む隙に何度か様子を覗き見ると、その度に視線が真っ向から交わってしまい、慌てて意識をを書類へ戻した。くそ、童貞なのが丸出しじゃないか。あの娘にも、そしてよく分からない説明を続ける商談担当の男にも。

 少女の個人情報が記載された顔写真つきの書類――履歴書に等しい文面に目を通し、そこで初めて彼女が十八歳である事実を知った。情報といっても、商品管理に用いられる識別番号と生年月日、血液型くらいで、氏名さえも記されていなかった。軍人が敵国の捕虜に取られた際、訊問で話す必要のあるビッグ・フォア――氏名、階級、所属、認識番号――と同じで、身長とか体重といった表面上のプロフィールが大半を締められていた。いや、女の子にとっての体重は機密事項なのかしら? まあ、表記より幾らかサバを読んでいてくれた方が健康であろう。むしろ、実際の方が軽いのは勘弁願いたい。体重四八キロと書面が主張する少女を改めて見やると、自分を身請けを決定しうる談合も余所に、商談ブースのパーティションをよじよじ登る小さな蜘蛛……恐らくはアダマンハエトリを、愛おしげに目で追っていた。アラクノフォビアでないらしいのは吉報だ。我が家の地下室にも、そいつらは結構な数が暮らしている。言うまでもなく、それが好む獲物も蔓延る証明であるのだが……。

 少女には既存の氏名が存在しないとの説明が職員から為され、奴隷の拝命は主人次第であるとも続けられた。これは奴隷の定石であり、奴隷購入者に対する当然の特典との言である。あっけらかんと一息に言い放った目の前の男を無性に殴りたかったものの、こいつが作った通例ではないし、俺自身も今の親父から授かった名を名乗っているので、頭ごなしに否定も叶わなかった。ジョンとかトムなら、もっと気楽だったのだろうか。

 履歴書でことさらに目を引いたのは備考欄で、元は五行であったところに罫線が追加されて、計十行に改変されていた。内容は身体の健康状態から書き出されており、良好との旨であった。他のおおよその奴隷は、きっとこの一行で締められているのだろう。それがこの子の場合は、にわかに受け止めがたい記述で他の行を埋め尽くしていた。

"奴隷化以前の記憶なし"

 どういう経緯かと従業員を問い詰めると、身を売られたショックによるものであろうと、煮え切らない釈明をする。脳の自己防衛機能の一環なのだ、と。同様の症状に、他ならぬこの身が浅からぬ因縁があるし、本人がすぐ近くにいる手前、それ以上の追求はしなかった。

 だが、その次はもっと惨かった。

"原因不明の月経停止"

 今度こそはと、語気荒く職員に詰め寄った。半泣きで寄越された回答によれば、詳細は不明だが少なくとも肉体の健康に支障はなく、如何なる精神障害も罹患していないと早口に並べ立てるなり、文字通りお手上げしてみせた。職員はおぼつかない手で、診察医の連絡先が備考欄の最後にあるのを指したが、それで引き下がれる事情ではない。それで納得しない俺は複数の陸戦協定に背き、職員の白旗を無視してしつこく食い下がって、他に欺瞞している情報の有無を訊問した。とうとう哀れな雇われディーラーがしわくちゃにべそをかいたところで、理不尽な責めから解放してやった。これには傍らで控える少女も少したじろいでいた。彼女が俺の嗜好はさておき、その容姿に反して他のどの固体より高価でない理由が知れた。ちくしょう、値引きの理由に景品表示法違反を使いやがって。

 芋づる式に問題が浮き彫りになったが、それでもこちらに契約辞退の選択肢はなかった。この娘を逃せば、親父に叱責を、姉貴に特大の嫌味を垂れられるのだ。自分の病気がなくとも床に伏せる羽目になる。契約担当の職員と最終確認を交わすと、無意味なな法的文書の数々の調印に、気取ったデザインのペンを走らせる。購入にローンを組む必要があったため、個人の年収の記載も要求された。職員は何度も言葉につかえて、その度にこちらの機嫌を窺った。別に噛み付きゃしねえよ。悪かったよ。

 そこから追加で実に二十枚以上の漂白コピー紙に目を通しただろうか、それまでより格式張った、分厚い帳面が差し出される。購入承認の最終的な合意書らしく、返品や免責に関しての留意事項が、下線つきの太字で記されている。ここまで来て知ったことか。こちとら後には退けないのだ。心中で僅かに躊躇いつつ署名を落とし込むと、従業員は数年分の仕事を片付けた様に、安堵の息を漏らした。分かってるよ、やり過ぎたって。ごめんよ。

 それから奴隷専用の生命保険の加入や、奴隷を購入する上で必須のアフターサービスを結んでいった。「人権を剥奪しておいて」などとは言わなかった。机上の空論は、奴隷制を糾弾する少数の政治家に任せておけばいい。

 商談の席に着いて、どれだけ経っただろう。ベルトが汗を吸って重くなった腕時計へ視線を落とすと、既に十八時を回っていた。道理で疲れる。慣れないデスクワークなんかやるからいけない。現金で二万ポンドを受け取り、平常心を取り戻しつつあった従業員が、次で最後の確認事項だと告げた。いやはや、君にとっても悪くない話じゃあないか。

「再調教サービスというものがありまして……」

「何だいそりゃあ」

「弊社は奴隷の品質を確約しておりますが、万一にお客様のご要望に満たなかった……例えば、勤務態度に反抗的なものが窺えた場合に、弊社へご一報いただければ当該奴隷を適切に再教育を施すというもので、これが一年保証になりますと五千ポンドで……」

「結構! さよなら!」

 二万ポンドを頭金に、契約は実存を得た。一〇八回払いのローンをこの『スレイヴ・デディケイション』とかいう企業と組んだことで、数時間前まで押し殺していた不安が、ここぞと喰らい付いてきた。――いったい、これからどうなっちまうんだ。思春期の少年みたいな懊悩が、ようやく実感を伴って襲ってきたので、鎮痛剤の〈タイレノール〉を四回分、水もなく飲み下した。今になって、ちゃんと心療内科で市販ではない薬を処方されるべきだったと悔やんだ。

 

 

【10】

 

 とうとうやっちまった! 契約書の束を提出し、世間的には自身の所有物と化した少女を引き連れて会場を去るヒルバート・クラプトン御年二九歳は、過去前例にないほど狼狽えている! うわあ、どうしよう! 衝動買いの経験くらい誰にだってあろうが、こんなに恐ろしいお買い物は類を見ないだろう。処理不能の興奮に融解した脳味噌が、弾薬庫に誘爆した戦車よろしく噴出しつつある! ぶしゅー、ぼかーん! そのまま爆散できれば、どれだけよかったことか。

 頭上に黒煙をたなびかせつつ店内を探索していると、休憩スペースとして儲けられたテーブルを見付けた。すぐ近くに売店もあり、そこでメニューも見ずに飲み物をふたつを注文して、誰もいない席に着いた。テーブルの白い天板に両肘を突き、汗で蒸れた頭を抱える。紅茶のカップから立ち上る湯気を通した向かいに、同じカップを前に不安な面持ちを浮かべる"彼女"がいた。

 奴隷販売会場から撤退した直後、契約内容を話半分に聞いていた俺は、購入した奴隷が居住所へ後日送られてくると考えていた。商談を終えると、俺が雇用契約を結んだ女の子――買ったとは言いたくない――は、自分の隣にすっと歩み寄ると、大腿の途中までしかないワンピースの裾をつまんで、カーテシーをして見せた。

「わたくしめをご購入いただき、ありがとうございます。これより当方は、貴方様の奴隷です。どうぞ、何なりと」

 抑揚のない声音で言い放たれた挨拶に、奴隷の購入という現実を改めて突きつけられた。強烈な先制パンチから見当識を取り戻すと、生存本能から慌てて会場を後にした。とにかく、この場を離れたかった。

 会場から逃れる途中、気持ちの悪い汗が額と首筋を垂れていた。商談中、出された茶も飲まずにいたせいで、体内の水分が限界を迎えていたらしい。まずは会場から出来るだけ離れた落ち着いた場所で、水分を摂らねばなるまい。

 雇用主となった男の不自然な速足に着いてくる少女へ、何か飲みたいかと苦し紛れに訊くと、「お気遣いは不要です」とのことだったので、自分と同じものを与えた次第である。短く礼を述べてカップを受け取った彼女は、そのままの姿勢で固まっていた。初めは俺と同じく、砂糖砂糖がないことに困惑していると考えたが、ややあって思い至った。ああくそ、そうだよな。席を立ち、まずは売店の備品から砂糖その他を調達してテーブルの真ん中へ置いた。

「こっちのことは気にせず、飲んでくれると嬉しい」

 その言葉を聞くと、彼女は逡巡の後で、桜色の唇を遠慮がちにカップへあてがった。

 俺がどう捉えようが、彼女は自他共に奴隷の定義を負っている。主人の許しもなく食事を摂ることは御法度と教育されているのだろう。高等な使用人教育を受けていない身には想像だにつかない数多の抑圧が、彼女を縛っているのだろう。

 やっとで紅茶をひと口飲んだ少女が、ほうと小さな吐息を発する。たったそれだけだった。液体に濡れた整った口唇に、目が奪われた。あれだけ乾いていた自分の水分補給も疎かに、心中の奥底でねっとりとした情欲がこみ上がりつつあった。慌てて手の甲をつねって自我を取り戻したが、トラウマの一因を対の性別が担っているとは思えぬ有様に愕然とした。変態的な視線を、彼女に悟られていない幸運を祈った。片目を下方に向けると、左手の甲が激しく赤熱しており、数分後の惨状が恐ろしくなった。

 双方とも無言のまま、数分が経過した。彼女は露ほども凍り付いた無表情を崩さないのに、こちらの首筋はねばつく汗がシャツを前衛芸術的に染めていた。よく聞く大人の余裕とは何だろう?

 その場の居心地悪さから、会話の切り口を見付ける方便として、そして今後の便宜上でも、彼女の呼び名が欲しかった。良心の皮を被った保身願望が駄々をこねるのを殴って黙らせ、彼女の元の名を問うた。

「名前を訊いても構わないかな?」

 彼女は申し訳なさげに首を振り、やはり聞き心地の良い、それでいて上品を装っている風ではない声音で応じた。

「施設では番号で呼ばれていましたので……。どうぞ、ご随意のままにお呼び下さいませ」

 施設というのは、恐らくは調教に使われていた場所であろう。書類の情報群には、約三年をそこで過ごしたとの記載があった。調教とやらの実態は知る由もないが、一般教養と家事全般を叩き込まれ、他企業商品の宣伝やレースクイーンとしても駆り出されていたらしい。

「でも、仲間内での呼び名なんかはあったんじゃないか? 例えば、他の子との交流があったりとかは?」

 少女は遭遇時と同じく目を丸くしてみせ、それでも感情を露呈させない調子で答えた。

「同僚からは、ブリジットと呼ばれていました」

 ブリジット。現代っ子らしくない、言ってしまえば婆さんめいた響きだ。とはいえ、古くささ故の安定感は確かだ。妙に煌びやかだったり、身元不明の死体みたいな呼称よりずっといい。

「そう呼ばれることに抵抗はある?」

 尋ねたところで、目の前の少女は否定しないだろう。元より、奴隷に拒否権などありはしない。あえて煩わしい手間を踏むのは、その必要があるからだ。

 奴隷制に染まりきった民衆、現代英国を当然に生きる人間は理解しかねるだろう。それが甚だ自然なのだから、不思議はないだろう。実際、人間同士の業務外でのコミュニケーションとは、その煩わしさに重要性があるというのに。

「……いいえ、ございません」

「俺がそう呼んでも?」

 今の自分を鏡で見たら呆れるだろう。こんなに微笑みが下手くそなやつがあるか。今まで、皮肉っぽい表情しか作ってこなかった報いだ。帰ったら、顔面神経を揉みくちゃに解して訓練しよう。

「どうぞ、お望みのままに」

 彼女――ブリジットが、笑顔の手本を見せてくれた。首を僅かにかしげて両頬が軽く持ち上がり、物腰の柔らかい雰囲気だ。俺は顔の皮を強張らせながら語を継いだ。

「紹介が遅れたね。ヒルバート・クラプトンだ。軍人をやってる。よろしく、ブリジット」

 対等な立場で接したいという願望から、テーブル越しに右手を差し出した。無骨で節くれ立った肉塊が生える前肢にたじろぎつつ、ブリジットはそっと白磁の手で握り返してくれた。……わあ、やわこい。理性をかなぐり捨てそうなくらい気持ちいい。煩悩が顔に顕現する前に、温かな手を放した。右手がむせび泣き、離脱を命じた脳髄を糾弾した。口惜しいが、これが俺の限界だ。俺が女性と関わっていられるのは、この距離がぎりぎりの線だ。健全な男であれば股間が爆発するところを、俺は胃腸が炸裂する。その証拠に、右腕には極太の針で皮膚を縫い付けられるが如き痛みと痺れが、色濃く残っていた。

「不束な身でございますが、これよりお世話になります。クラプトン様」

「……どうも、堅苦しいのは苦手なんだ」

「それでは、ヒルバート様とお呼びしても?」

 敬称は撤回されなかったが、当面は良しとした。それに、若い女にかしずかれて悪い気はしない。きっと向こうから慣れる時が来る。いつか基地の連中よろしく、ヒルちゃんとでも小馬鹿にしてくれると嬉しいのだが。

 

 さて、どうしたものか。紅茶を飲み終えると――まさか、砂糖を一本丸ごと使わない人間が存在するとは思わなかった――ブリジットの所持品を検めた。身に着けているのは白い薄手のワンピースに、同色のレースシューズ。傍らには、個人の持ち物が入っているらしい革張りのでかい旅行鞄が置かれている。……ここまでの移動中、持ってやるべきだったな。夏場とはいえ、これでは風邪を召してしまう。まだ七月にすら達していないし、イギリスはいつだって肌寒い風土だ。差し当たっては彼女の衣服を買おうと、本人の了承を取って席を立つ。手持ちの金は、自前の三千ポンドと小銭が少々。きっと何とかなるだろう。しばらく衣服、それも女物なぞ触れていなかったが、一着でスイスの軍用銃ほどする経済には成り果てていないはずだ。……そうだよな?

 

 中身は見ないと断った上で半強制的にブリジットから旅行鞄を受け取ると、階層案内を参照してエスカレーターで二階へ上がり、婦人服店の集中するフロアへ到達した。

 ここで障害がまたひとつ生じる。俺というやつは駐英イラン大使館が国際テロリストに襲撃された際の対応は把握していても、お嬢様のお召し物の知識なぞ持ち合わせてはいないし、使用人のそれに至っては尚更に未開拓の領域というのが実情である。わあい、困ったぞ! 黙っていても、誰かが最適解を持ってきてくれるではないので、こちらから解決手段を見出す他ないだろう。ブリジットを付き合わせるのは忍びなかったが、軍隊流しか知らないので、足を動かして店舗を練り歩いた。

 幸運にも、売り場を闇雲にぶらぶらしている内に、奴隷向けの衣類を販売する店舗を発見できた。決して奴隷専門である必要はないのだが、この国で生きる以上、その職柄に合った装いをしている方が便利なことも多い。俺はそう出来なかったから、要らぬ苦労を強いられたものだ。暗澹たる過去の悔悟を振り払いつつ、四十半ばと見られる女性店員を呼び止めた。

「この子の服を見繕って貰えます?」

 予算は四千ポンドでと小さく付け加えると、店員はにこやかに俺達を会計付近のテーブルへ案内した。どうやら、自分が悩まずとも済みそうだ。稚拙なお味噌の休暇が摂れる。

 店員は店の奥の扉へと姿を消し、すぐに分厚いファイルを手に戻ってきた。その背表紙には「奴隷関連商品」と書かれている。

「こちらの娘さんは、ええと……メイドでお間違いありませんか?」

 いやはや、言い回しひとつで変わるもんだな! 気を回してくれた店員に、無言でぶんぶん頷いた。

「何かご希望はございますか?」

「えー、あー、ありません、特に何も」

 唐突に訊かれても、用意されていないカードは切れない。こちとら迷彩服という一張羅で通してきた。お陰様で、一般人の言う普段着は致命的な具合だ。兄貴からちょっとくらい洒落っ気を分けて貰いたいところである。運の悪いことに、この服装への無頓着が血の繋がらないショーンに血を経ず遺伝してしまっているのは、実に嘆かわしい。

 一日分の糖をとっくに消費して灰と化したお味噌で絞り出した回答は、極めて情けないものであった。

「お任せって可能ですか?」

「勿論でございます」

 神はいた。他力本願、無責任、どうとでも言え。ここで他人に頼らずして、いつ頼るのだ。思わず、目頭が熱くなる。

「他にご要望はございますか?」

「差し当たっては何も……。いや、下着や寝間着、それと一般的な外行の衣類数着も見繕っていただきたい。あと、とにかくちゃんとした靴を。とにかく一式です」

「かしこまりました。では一時間ほど頂戴しますが、お連れ様のご都合は宜しいでしょうか?」

 ブリジットに目配せすると、静かな肯定が返された。

「それでお願いします」

「承りました。では、ご用意が終わり次第、全館放送を致しますので、お名前をいただけますか?」

「クラプトンです」

「クラプトン様ですね。それではお時間まで、ごゆるりとお過ごし下さいませ」

 こんな見知らぬ土地で、休まる気などないのだが。

「どうも。何かあれば報せて下さい」

 店員はブリジットを連れて、会計カウンター奥のドアへと消えていった。どうやら、通常の試着室とは別に設けられた部屋があるらしい。後ろ盾のない彼女がどう扱われるか気に懸かったものの、何とか切り抜けてもらうしかあるまい。

 

 待ち時間を過ごせと言われたところで、元よりこの商業施設に奴隷購入の他に用事などあらず、さして気になる物品もない。それが今となっては、そもそも現金さえない。衣服の見繕いが終わるまで、近くの椅子にでも掛けて、ブリジットの新たな装いでも妄想しようかとも考えた。が、ジェローム君ほどの下半身丸出しなおつむなき身では早々に限界が露見し、すぐにその場を後にした。書店でも物色していれば、自然と時が流れるだろう。

 モールの四階に位置した書店に立ち寄り、至る箇所に折り癖の付いた雑誌を立ち読みする。関心のない政治の特集をすっ飛ばし、アウトドア用品や銃器ブランドの広告ページを探り当てた。こんな時に限って、贔屓にしているブランドの特集が組まれていない。時間を潰す必要に駆られているのに、運がそれを許さない。さぞや陰険な表情を浮かばせていたのだろう、不機嫌な非番軍人を視界に入れてしまった五歳ほどの少年が、母親の尻にしがみ付いた。子供には酷な願いだろうが、おじさんの心へのダメージも考えてくれ。

 

 やがて貰い物の姓が店内の放送機材から発せられ、拷問めいた退屈の終了を告げられた。読んでいた雑誌を片付けて書店を後にすると、エスカレーターを駆け下りて二階へと戻り、件の服飾店へと踏み込んだ。先の女性店員がこちらを認識すると、つい先刻ブリジットを通したドアへ案内された。この先に彼女がいる。掌に粘っこい脂汗が生じた。何しろあの容姿だ。案ずる必要などなく、大抵の服は着こなすだろう。専門家の目もあるし、童貞がでたらめに部品をくっつけるのとは訳が違う。

 ドアの先は、色彩豊かな衣服と装飾品の数々にまみれた、写真館めいた空間に直結していた。なお、三脚を装着されたカメラやレフ板はない。その代わりに、天井から床まで達するクリーム色のカーテンが、部屋を真横に仕切っている。さほど厚くない生地の向こうで、ブリジットであろう人影が窺えた。

「ご自分で開かれますか?」

 それがここでの通例なのだろう。プレゼントの包みを破くのは楽しいからな。だから答えてやった。

「すみません、そちらで開けて下さい……」

 悲しいかな、俺はこんな薄布を相手にびびっていた。笑ってくれよ店員さん、その方が救われる。苦笑混じりに、店員がカーテンを引く。金具が天井のレールを走り、眼前の眩い光源に細めた。

 息をのんだ。目の毒でしかなかった装いから一転、少女はその職務を明示する制服を纏っていた。華美ではないが、スカートが膝元まであるブラウンの上下に、諸所に主張の激しくないフリルをあしらった前掛けから成るエプロンドレス。砂色の髪には、飾らないホワイトブリム(メイドが装着するカチューシャ)が映える。膝下まである革の紐ブーツは、それが実用性を重んじた作業着である事実を誇示している。装備の全てがブリジットにあつらえられた様に仕立てられ、彼女の落ち着いた持ち味を際立たせていた。

「お気に召さない点がございましたら、すぐにお取り替え致します」

 女店員がうやうやしく尋ねてくるものの、したり顔が隠せていない。恐らく、こんな逸材をいじくれる機会は稀で、相当楽しい仕事だったのだろう。

「問題ないです。これで会計を」

 十二分の完成度に感服しつつ会計カウンターへ移動し、店員がレジのキーを連打する。内心で惜しみつつ三千ポンドを払い、釣りは要らないと心付けをした。ちくしょうこのおばちゃん、何とも自信に満ちた表情をしていやがる。手渡された長大な領収書には、ブラとかネグリジェといった単語が散見されたが、意識的に見まいと努めた。衣類の詰まったくそ重い紙袋を、店員が車まで運ぶとの申し出があったが、丁重に断った。自分の雇用主が貴族の出身などと、ブリジットから妙な誤解を招きたくない。財布もすっかり軽くなってしまった。女の子の暮らしって、どうしてこう値が張るの!

 荷物を両腕に抱えて店舗を去る直前、ブリジットが女店員に小さく礼を言うのが聞こえた。

 

 足早にモールから撤収し、自車の後部座席へと荷を積み込む。ブリジットを助手席に案内して、慣れない手付きでドアまで開けて差し上げた。運転席で付き合いの長いハンドルにもたれ掛かったところで、でかいため息が漏れた。隣に可愛い女の子がいてやるべきことではないが、自責の念を跳ね除ける。何しろ、次は任務完了の報告という大仕事が控えている。

 三日振りに個人用途の携帯電話に電源を入れると、二一件もの不在着信があった。その殆どが親父からで、ヴェストやショーンの名前も散見される。にわかに信じられないが、ジェロームのあんちくしょうの履歴まであった。今度、ビールでも奢ってやろうかしら。

 連絡先から目当ての番号を指定して、小さな通話ボタンを太い指で押し込む。親父の携帯電話に繋がるまでの数秒間が、恐ろしく長かった。このまま出てくれない方が好ましいと思い始めた矢先に、緊張の籠もった応答があった。らしくない。図々しいのが、あんたの取り柄じゃないか。

「まあ、その……役目は果たしましたよ」

 隣にブリジットがいる手前、奴隷を買ったなどと吐ける豪胆さは持ち合わせていない。茶を濁してはいるが、これでも核心は伝わるだろう。

〈……本当に買ったのか?〉

 失敬な野郎である。まるで、尻尾を巻いて逃げ出すのを待っていたみたいだ。否定はしないが。

「ああ、これからどうすればいい」

〈今は何処にいる〉

「首都だ」

〈十代の家出みたいな距離だな。まあいい、今からうちに来い〉

 どうも、帰って寝かせてくれる気はないらしい。ひでえよ、父ちゃん。おざなりな返事を寄越して、電話を切った。

 時刻は一九時半を回っており、既に陽が沈んでいた。エンジンを掛けようとした車内に、今にも死にそうな胃の悲鳴が轟いた。どう反応していいのか当惑したであろうブリジットが、不安げに俺の腹を見つめている。年中腹を空かせて飯代もままならない、そんな男の許で暮らさねばならないのかと、差し迫った懸念が瞳に込められている。曲がりなりにも、士官でよかった。

 気管支炎の患者みたいな始動音のBMWを走らせて、食料の調達を急いだ。昼にも訪れたマクドナルドにしようかとも考えたが、極度に貧乏くさい印象を与えるのも宜しくないので、〈バーガーキング〉のドライブスルーを選択した。何にせよ、腸に営養を入れなければならない。脳もそうだが、肉体が臨界点を突破している。

「悪いね、こんなので」

 ブリジットにハンバーガーを渡すと、ちっとも気にしていない風に受け取ってくれた。その実、すさまじくけち臭いと思われているだろうが。バーガーキング様にも、甚だ失礼な言い草だ。

 俺が膝にバンズの屑を撒いて運転に勤しむ最中、ブリジットが愛らしい仕草でバーガーに齧り付く。そんな光景を脇目に、運送トラックだらけの高速道路で事故を起こすのではと杞憂した。だって、それくらい強力なんだもの。

 この身は決して、女性自体にトラウマがある訳ではない。悲しいかな、性欲そのものは確固と存在し続けている。だからこそ、精神に及ぼす影響が尚更にややこしい。自分から近付いてしまえば、自己嫌悪から自身が壊れてしまう。そして今は、この子にファストフードしか食わせてやれない事態が最たる自己嫌悪の材料だ。

 運送トラックが爆走するM4自動車道に乗ってから、約十分が経過した。車載ラジオも点けず、隣の少女との間に会話はなかった。直前の作戦で、仲間の誰かがが死んだみたいだ。誰も話を切り出そうとしないし、そうするのが一番だと知っている。今は違う。単に思考がまとまらないのだ。片や不審な無頼漢に警戒を抱き、そいつは過去の自身と如何に向き合えばいいかと壁にぶち当たっている。十万ポンドで責任を買ったのに、未だ割り切りを付けられずにいる。

 停滞している内は、まだ足踏みする余裕がある。ケツに火を点けて退路を断つくらいしないと、凍り付いた歴史は動かない。極限まで自身を追い詰めるために、こちらから話題を切り出した。

「これから向かう場所だけど、今から三時間ほどで着くヘリフォードだ。まず俺の親父の家に寄って、そこで少し食事をすると思う。それから、君の今後の家に行く。質問はある?」

 可能な限り語調を柔らかく、笑みを作って問い掛けた。バックミラーを覗き見ると、スプラッター映画の悪役みたいなやつがいた。そいつのおぞましい表情のせいか――そうに違いないが――彼女は口を結んだままだ。

「その……ふたつ、三つあると助かる。女の子と話すのは下手なんだ」

 三十路を前にして、目の当てられない惨状だ。若さを言い訳に出来る時代は、とうに過去のものとなった。個人の年表には、それまで介入した作戦が刻まれているが、表沙汰に出来る事柄は極めて少ない。俺が他とちょっと違うのは、パパと暖かいクリスマスを過ごさず、病床でママのオートミールを食わず、同じ年頃の友達と家の庭にツリーハウスを造らず、セクシーな同級生とベッド共にする代わりに、樹脂粘土と銅の紐切れで物騒なびっくり箱を作る青春を過ごしていただけなのに。陰鬱な空気で車内が満ち始めたところに、そっと救助艇が派遣された。

「……では、ひとつお聞かせ願えますか?」

 奴隷の立場とかは別として、聞き分けの良い子は大好きだ。そういうやつは、きつい訓練も上手く切り抜ける。

「ひとつと言わず、少しでも気に掛かる点があれば訊いて欲しい。命令じゃなくて、お願いとして」

 おえーっ! 言った直後に反吐を催した。柄にもなく、くさい台詞を吐くべきではない。眉の下がった俺へ向けて、ブリジットが微笑を作る。この状況下で本当に笑っているなら、それはそれでぞっとしない。とはいえ、主人を懐柔して猫可愛がりされようという思惑も臭わない。まともに接するのもひと苦労だろうだが、こちらへ対する正体不明の関心を維持させるべきだろう。橋頭堡の構築は、揚陸作戦の要である。初っ端からどじってみろ、走行中の自動車から飛び下りる羽目になるぞ。どんぱちをやるだけが取り柄ではないと、親父に思い知らせてやれ。

「それでは……お仕事について詳しくお伺いしても?」

 当然の疑問だろう。自分の雇い主が食い扶持を得られる身分かは、彼女にとって最優先の確認事項である。特に、最初の食事にハンバーガーを選ぶ男に雇われた場合は。

「うーん、さっきも言った通り軍人……信じられないだろうけど、特殊部隊に所属している。SASって知ってるかな? そこで少尉をやってる」

「スペシャル・エア・サービスですか?」

 よっしゃ食い付いた! だが油断するな、お前のポカひとつで状況はひっくり返るんだ。

「そう、それ。俺たちは単に"連隊"って呼んでる。馬鹿な男が集まって、毎日人に向けて……銃を撃ってる」

 おい馬鹿たれ! 世界屈指の少数精鋭が、ろくでなしの殺戮集団になっちまったぞ! ハンドルを握る手が、汗で滑り始めた。

「ごめん、今のは語弊があった。違うんだ。撃つ対象はちゃんと選んでる。警察の手に負えない悪いやつらとか、首相を殺そうとする不届き者をやっつけるんだ。最近はアメリカの尻にくっ付いて、中東によく行く」

 幼稚園児の作文じゃないんだ。上手くやらなくていいから、ぼろを出すな。全てが決まる第一印象だぞ。

「つまり……ホモみたいに野郎ばかりでつるんで、全身を汗と火薬臭くして、夜にチップスとビールをやって馬鹿騒ぎする職場にいるんだ。ドラッグは身体に悪いからやらない」

 なめらかな動作で、運転席のドアロックを外した。鳥になる頃合いだ。傷は浅い内がいいだろうし、この期に及んで躊躇う理由もない。後の始末は、親父が何とかしてくれるだろう。幸い、この車は特別仕様だから、事故を起こしたところで助手席のブリジットに危険はないだろう。後続の軽自動車をスクラップにするのは忍びないが、それも運命と受け入れていただきたい。シートベルトを外すと、不甲斐なさから右目に涙が滲んだ。実りのない人生であったが、最期に美少女と話せてよかった。辞世の句が浮かびつつある最中、すぐ隣から快い声音が鼓膜に届いた。

 ――笑っていた。少し控えめに、それでも、ブリジットは確かに喉を鳴らして微笑んでいた。ロックから外れて逃げるシートベルトを急ぎ捕まえて、再び装着する。バックミラーに、馬鹿が阿呆面を晒していた。

 間抜けを露呈している己に気付いた瞬間に、和やかな笑みは消え去った。自身の処遇への影響を察してか、ブリジットは消え入りそうな声音で謝罪の言葉を紡いだ。全く馬鹿馬鹿しい。自身の愚かしい行いにに鼻白む。理解者を作らねばならないという時に、自らを偽るとは。それも、十は歳の離れた女の子に気遣いまでさせて。

「ようし、仕切り直しだ。下手な芝居は止めよう。さっき言った通りなんだ。毎朝、動物園より統制のない部隊基地へ行って、飼育係の教官にどやされて、ゲロよりも不味い餌を食べながら、雌ゴリラみたいな娼婦を値踏みする……俺は違うよ? ヤクをやらないのは本当さ、俺たちは酒の方が好きだからね。ああ、すっきりした!」

 バックミラーに、色々と吹っ切れた男がいた。自分と同じく馬鹿な仲間内でゲロを撒き散らしている時の、だらしない面構えだ。

「幻滅するだろうけど、得てして現実はそんなに綺麗じゃない。特殊部隊なんて大層な肩書きだけど、むさいおっさんしかいない掃き溜めだよ。俺はそのくそが大好きなんだ」

 ブリジットは呆気に取られていたが、次第にこちらの口下手を把握してくれたらしい。ちょっとくらいは舐め腐っても問題ない相手だと、そう判断されたのだろう。薄い唇に、微笑が戻っていた。

「ようし、何でも訊いてくれ。今ならお国の機密でも喋るよ」

 数時間前の取り繕った感じではない、ほのかに気を許した塩梅の笑みが隣に萌芽した。

「では……ご家族は?」

 覚悟を決めたつもりだったが、こちらとしては際どい切り口であった。とはいえ、折角の詰問……質問であるから、可能な限りは正直に応じるべきであろう。

「兄弟は……全部男で、それが三人。皆うちから近い場所に住んでる。親父は車で十五分の場所にいて、母親は……どうだろう、いたのかな。孤児なんで、分からないんだ。俺だけじゃなくて、兄弟全員が」

 容姿に相違なくブリジットは聡明で、彼女から追求はなかった。厭な空気を振り払うために、親父について述べることにした。数時間後に訪問する相手であるし、あの変人に前置きなしで会わせたら、常人は卒倒しかねない。頼むから、裸踊りで迎えないでくれよ?

「どう説明すればいいのかな……。悪い人間ではないんだけれど……馬鹿野郎なんだ。事務作業に対して不真面目だし、ビールとデンプンで腹が出てるし、何故かすごく日本にかぶれてる。職場では俺たち兄弟の上司で、二十以上も歳の離れた妻……もとい、娘がいる。ロシア美人のニーナ。俺たち兄弟にとっては、おっかない姉貴みたいな女だ。親父の秘書もやっていて、家ではメイド服を着せられてる……。変態なんだ。親父だけじゃなくて、ニーナも」

 内容はどうでもよかった。車内を無音に戻したくなかった。その後もブリジットは拙い話を訊いてくれたし、適度な間隔を空けて質問をぶつけてくれた。信教・好きな映画・購読している雑誌に新聞……どうして車に妙ちきりんな装置が載せられているのか――これはアイルランドでIRAとの抗争が激しかった頃のSASが使っていた防弾装甲装備の古い改造車両を貰い受けたからで、変なでかい機械群は旧世代の通信機だった――。質問の全てに俺は滅茶苦茶に答えて、時たま彼女へ訊き返した。彼女はこちらの過去には触れなかったし、俺も自身の弱点については語らなかった。それでも、暇な三時間を撃退するには十分だった。年齢については、二九という事実にちょっと面食らわれた。皮膚下へのヒアルロン酸注射を検討しようか。いや、よそう。地元で笑いの種になるのがおちだ。

 

 時刻は二二三六時。赤レンガで洒落っ気を演出する、二階建ての親父宅の前で、BMWのエンジンを切った。ガス欠になる寸前で、装甲の施されたくそ重い車輌を手ずから押す羽目を喰う間際だった。帰り際に、親父から燃料を少し拝借するとしよう。

 ノーム人形などいない前庭を越えて呼び鈴を押し込むと、屋内から慌ただしい足音が轟く。二十年前には精鋭の兵士だったとは信じ難い。カメラ付きのインターホンは仕事をさせて貰えず、玄関ドアが勢い開かれる。白いポロシャツでビール壜を手にした親父が、アルコールで染まった赤ら顔を見せる。それがこちらの後方を一瞥するなり、急速冷凍でも掛けられた様に顔から朱が抜け落ちた。こいつは一悶着あるぞ。苦笑を浮かべつつ、腹を据えた。

 靴底の泥を落として家中へ迎え入れられ、"醤油の匂い"が漂うダイニングへと導かれる。奥の広々としたキッチンでは、濃紺のエプロンドレスに身を包んだニーナが夕餉――げえっ、土鍋だ!――を火に掛けていた。そんな夫との"しとね"以外では冷酷な女王様も、ふとこちらへ注意をやった途端に、驚嘆という人間らしい感情を覗かせた。正確に述べれば、俺の二歩後ろに立つブリジットを視認したために。それでも何もなかったと言わんばかりに、客人へ会釈をやって、鍋に浮かぶ灰汁を取り続けた。傍目には冷静に見えても、あれでかなり揺らいでいるはずだ。掬い上げた灰汁の大半を、元の鍋に落っことしているのだから。

 親父はニーナと自分の紹介をブリジットへしつつ、慣れた手つきで食卓へ丁重に導いた。意図せぬ扱いを受けた賓客は、おっかなびっくりながらも着席した。それから親父は可愛い次男坊へ含みのある笑みを放ち、重々しい手で肩に触れてきた。

「話がある。表へ出ろ」

 わあい、素敵なご指名だ。大失敗作の笑顔に、口角が引きつった。

 

 今しがた抜けたばかりの玄関ドアを抜けて、前庭へ戻る。先を歩く親父が振り返りざまに口を開きかけたが、それを無理矢理に遮った。何でもいい。言い訳を考える時間を稼ぎたかった。

「車がガス欠寸前なんだ。少し分けてくれ」

「それは俺の話が終わってからだ」

 普段の飄々とした態度は何処へやら、親父がずいと詰め寄ってくる。いきなり殴り掛かってくる気はないだろうと見積もったが、未来はこちらの返答次第でどうとでも変わりうる。

「単刀直入に訊こう。幾らだった?」

 無粋な問であったが、茶化せる空気ではない。身振には表れずとも、暗闇に光る灰色の双眸がその真意を物語っていた。前線を退くまで、屈強な戦闘員として銃を握った男だ。こちらを射貫く視線に、相応の凄味が込められている。虹彩の筋のひとつ一つに、殺気めいた意志が渦巻いていた。

「単価なら十万ポンドだ。それから衣服に四千、付随する保険が諸々……」

「十万? そりゃあすごい。で、あの奴隷が気に召した訳だ?」

 F評価の答案用紙に対するお叱りが始まった。ええい、ままよ。こっちも防戦一方でいるつもりはない。

「あんたはこの案が、俺にとって最後の機会だと言ったな。その通りだよ。こっちはとうに歯車が錆びついて、あとちょっと油が乾けばお終いだった。それで、似た境遇の女を探させたんだ。違うか?」

 親父が黙っていてくれたので、間髪を入れず自説を続けた。向こうが鉄壁の砦を築く前に、にわか作りの破城槌で敵陣へ攻め込むのが得策だ。

「今日行った会場の子は、全て見て回った。それで出した答なんだ。外見は別として、あの子だけが他とは違った。最後に物を言うのは、経験からもたらされる直感だろう。俺はその勘に従った。それだけだ」

 自分で吐いておきながら荒唐無稽な言い分であったが、元は口下手の親父に困惑の色が差した。慧眼なんぞなくとも、今日のツキは焼きの回った俺にある。畳み掛けるには今しかない。ブリジットを養うかどうかは明言していないが、高すぎる買い物の釈明に最大の語彙を紡ぐ。

「なあ親父、頼むよ。いつおっ死ぬかも知れない生業で、こんなことを言うのもどうかしてる。でも本心なんだ。失った分の人生を取り戻さなきゃならない。下らない過去に引きずられて、これ以上無為に過ごしたくないんだよ。純粋に、生きる活力を見出したい。現状はもう御免なんだ」

 親父の両肩を掴み、指に力を込める。くそっ、前線を退いてはいるが、今でも酒場の飲んだくれ比較にならない骨肉が備わっている。説得に失敗すれば、これでどつかれるのだ。あばらの数本は余裕で逝くだろうが、それで済むだろうか。冷たい汗が首筋を伝うと同時に、親父の腕がだらりと脱力した。

「……お前、あの奴隷を買ったせいで、俺が叱るとか思ってるの?」

「違うのかよ。貰った十万ポンドを相談もなしにすかんぴんにしたから、腹を立ててるんだろう?」

 いつ鋭利なパンチが飛んでくるかと、すぐに左腕だけを戻せるように構えた。いざという時に両手とも使えないのは洒落にならない。

「おい、たまげたな。こいつはひどい的外れだ」

 緊迫した表情を解き、親父はにへらと顔面の筋肉を崩した。

 そこからは一瞬だった。親父の左脚が、こちらの軸足を一瞬にして刈り取った。直立姿勢を崩し倒されるなり、上半身を屈強な両腕に押さえ込まれ、俺は顔面から青い芝生に伏していた。すぐ頭上で、近所迷惑もはばからない哄笑が響く。

「言ったじゃないか、二万なら頭金には十分だって! お前はその通りに奴隷を買ってきただけ! しかしまあ、とんでもないのを連れてきたな! 童貞のくせに面食いかよ!」

 憂慮していた自分の苦心は何だったのかと、冷たい土の味を噛み締めながらに嘲った。こちらの苦悩は、端から無意味な懸念だったのだ。親父が課したのは良くも悪くも奴隷の購入それだけであり、その価格は指示に含まれていなかった。頼むから、作戦内容は仔細に伝えてくれ。

 親父様は地べたを這う息子を見下ろし、何とも楽しげに呵々大笑していらっしゃる。くそ、これでは少々収まりがつかない。反抗期を迎えてやる。

 息子を下して満足げな、おつむの成長が十代そこらで止まっている野郎の大腿を抱きかかえて引きずり倒した。自分の有利を崩されたことで、親父の闘志に火が点き、防御を捨てた取っ組み合いに転じた。大の男ふたりが束の間、体面を捨てて親子の時間を過ごした。女も知らずに、男同士で何をしているのだろう。双方の気が済んで互いに衣服の土を払い落とす最中に、子供同然な面持ちの親父へ語り掛けた。

「あんたがどう言おうと、金は追々返していくよ」

「うちの次男は何処までも素直じゃないね。『素敵な後押しありがとうございますぅ、大好きなお父様ぁん』の一言でいいのに」

 この父親、きっもちわりいなあ!

「借りを作り過ぎると面倒だからな。それと、"奴隷"なんて呼び方はよしてくれ」

 土をはたき終えて玄関ドアに手を掛けた俺に、親父がつまらなそうに苦笑した。

「驚いたね、お前さんが他人を慮る発言が出来るまでになるとは。あい分かった、あの可愛い娘さんは"お手伝いさん"と称するよ」

 あ、それすごく良い。歳を重ねて締まりのなくなった涙腺が緩みかけるのを悟られぬためか――あるいは、さっき俺に投げ飛ばされた痛みが今になって襲来したのか――親父はさっさと家の中へ戻った。気軽に触れたい話題でもないし、シルクのハンカチを片手にしんみり懐古に浸る性質でもない。するにしても、握るのは鼻水でぐちゃぐちゃのティッシュが似つかわしい。

 

 勝手知ったる親父宅の洗面所で手の泥を流してダイニングへ戻ると、ニーナがテーブルを挟んでブリジットと対話していた。着衣が土にまみれた父子の存在を視界に入れるなり、ブリジットははたと口をつぐんでしまい、ニーナは席を立ってそそくさと鍋を食卓へ運んできた。ええ、お邪魔しましたよ、すみませんねお姉様。

 常よりもぶすっとしたニーナの隣に親父が座し、その向かいにブリジットが座る。俺は親父の向かいにいる訳で、虫の居所の芳しくない姉と正対せずに済んだ。おおよそ、童貞の身分で過ぎた買い物を決行したことにご立腹なのだろう。考えてもろくなことにならないので、食事に専念しようとした。が、そうもいかなかった。

 卓上コンロに据えられた土鍋の中で、『湯豆腐』が昆布出汁にくつくつと揺られていた。気が紛れるどころか、徹夜明けに長距離行軍を命じられた気分だ。そもそも、初対面の客人へ振る舞う料理の選択として、あまりに不適当だろう。大豆を煮詰めて濾して固めたゼリーって何なんだよ。豆を煮た時点で食えよ。

 目慣れぬ異国料理へ躊躇いを見せるブリジットに――そりゃあ、そうだよ!――ニーナは基地で野郎に対して使うのとは明らかに別種の、親近感の持てる対応を取ってくれた。俺に対しては湯豆腐をよそってくれるのかと思えば、切り揃えられた白い立方体を、漆塗りの椀の中で丁寧に潰してから寄越してきた。挙句それを差し向けてきた際には、素晴らしく陰湿な微笑を浮かべて「空爆後のイラクを再現したの」などとほざく有様である。豆腐のみならず、可愛い弟の脆い心まで崩れてゆく。可哀想な俺! しかもブリジットにはスプーンを渡しておきながら、俺へは使い捨ての『割り箸』を放る始末である。三十路を前にして、ぐれてやろうか?

 使い勝手の悪い箸で湯豆腐を掻き込み、舌に火傷を負いつつ終えた食事は、個人的に緊迫の絶えない時間であった。如何なる会話を交わしていたか殆ど憶えていないが――大体、俺が虐められていた――それでも、ブリジットがこの不可思議な家族に、不快感を覚えていないのはありがたかった。俺が言えたことではないが、やはりこの娘もだいぶ頭のネジが飛んでいる。

 

 食後、ニーナが食卓を片付けるのをブリジットが手伝おうとしたが、親父夫婦がそれを拒んだ。客人扱いの意思が誤りなく伝わったのか、ブリジットは申し訳なげに謝礼を述べ、立ちかけた椅子に腰を下ろした。そして俺は、姉様の顎で散々に使われた。

 豆の汁で膨れた腹を撫で下ろしつつ、日付変更から三十分が過ぎた腕時計を見やる。お暇する頃合いだ。親父夫婦に悪いとかではなく、一日に使える俺の気力が限界をとうに振り切っている。

 男同士の揉み合いで芝生が抉れた庭で、ガソリンのポリタンクへホースを突っ込み、サイフォンの要領で自車へ補給を行う。親父が〈シュアファイア〉のフラッシュライトで手許を照らしてくれたが、反射光が眩しくて目が痛かった。燃料の補給中ずっと、ブリジットは指を絡ませて所在なげであった。奴隷としての存在理由が剥奪された心地でも味わっているのだろうか。日頃から怠惰な身からは想像できないが、仕事がないと狂う類かもしれない。……メイドさんへの指示って、何をやればいいの?

 重量を次第に失っていくポリタンクから発せられる音が、自分の身体から生気が抜けるそれに聞こえた。累積した疲労が脊髄を駆け上がり、目蓋が閉じそうだったが、ポリタンクが空になった弾みで現実に戻された。食事中に親父からビールを勧められたが、断って正解だった。

 昏倒しそうなのを耐えて乗車すると、親父がサイドウィンドウから「燃料代のちゅー」などと気色の悪い伝票を提示してきたので、「くたばれ色情魔」とお休みを言ってイグニッションを回した。ちゃちな爆弾でも仕掛けられていたのか、エンジンが破裂音と一緒に始動した。車の喘息のせいで殆ど掻き消えてしまったが、発進する間際に「いつでも頼れ」との囁きが聞こえた。

 

 帰路の光景は、助手席のブリジットに見せたいものではなかった。日付の変わったヘリフォード郊外は、閉店時刻で酒場から追い出されて帰り道さえ思い出せず、娼婦からも蔑まれて彷徨う酔っ払いが跋扈していた。ただでさえ疲弊しているというのに、そいつらを轢き殺さない様、細心の注意を以てハンドルを切る羽目になった。うわっ、道路のど真ん中でうちの隊のブランドンが吐いてる! だから、この時間に外出するのはいやなのだ。

 地獄の沙汰をくぐり抜けること十五分、ようやくで到着した我が家を前に、少しは気を抜けるかと予見していたのだが、どうやらそうでもないらしい。むしろ明日からが本番とばかりに、気苦労の氷山がその一角を垣間見せた。

 防犯体制が強固に配備されたオフホワイト色のマイホームは、安寧の住居としての顔を見せてはくれなかった。今晩ばかりは、その姿が悪名高きアブグレイヴ収容所の如くそびえ立つ。芝の敷かれた殺風景な前庭は、赤外線センサーが不可視のレーザーをびゅんびゅん走らせている。その奥、分厚い鋼鉄の玄関ドアの先は、半歩後ろで控えている娘にとって、外部と接触を断たれた牢獄に等しい。今後、彼女は小さな身に内包した神経を擦り減らす日々を送る。方向性は違えど、それは俺も同じだ。今朝まで男ひとりの汚いねぐらだった空間が、揮発性の劇薬と寝食を共にするガス室に変じる。

 この窮屈な状況をを僅かでも緩和、あわよくば良好な関係を築くのが、大金まで借りた俺の責務であろう。そのためには、先に俺が異性の発するガスで中毒を発症しないという前提が必要になる。こいつの症状は凄まじく危険だ。ストレスに狂った鳥類は、己が羽をむしり始める。人間に置き換えるなら、自己嫌悪に飲まれた暁に、手ずから喉を掻き切るといったところだろう。中々どうして、自分が包丁を片手に血の海に沈む痴態が容易に想像できる。

 油の切れた鍵穴へディンプル式の鍵を挿入して解錠し、ブリジットを中へと誘導する。俺は彼女の後から敷居を跨いだ。きついブーツから部屋履きに足首を収めつつ、即席で作った平常心を崩すまいと顔を掌で覆う。彼女が調教施設にいた頃は、気心の知れたルームメイトなり、それに準じた存在がいたかもしれない。この家は違う。二基の監視カメラは空き巣の撃退には頼もしいが、この窮屈で物々しい構造物は彼女の痛苦に直結する。男の臭いが染み付いた部屋は、生理的な忌避感を催すだろう。おまけに最も無防備な睡眠を、何を企てているか知れない異性の管理下で行わねばならない。致命的な精神疾患を、その身に受けても不思議ではない。改めて整理すると、とんでもなく敏感な爆弾を抱え込んだ事態を実感する。何やら数キロの重石が両肩に乗っている感じだ。このたった数キロが、どうしようもなく重たい。

 玄関ドアの錠を落としてからというもの、ブリジットの面持ちは今まで以上に緊張を孕んでいた。家中を案内したが、一度で暗記するのは困難だろう。騒々しい販売会場から移動すると着せ替え人形の扱いを受け、お次は三時間の密室空間。仕上げに変人のお仲間ふたりを交えた異文化交流もどきで、疲弊するのも無理はない。第一、この家は一人暮らしには広過ぎる。

 目頭を揉み、自宅の内装に視線を巡らせた。一階はキッチンと仕切りのないリビングダイニングが大部分を占め、妙に大きな浴室と、洗面所を兼ねた脱衣所、清掃の不足が目立つトイレが、余裕を以て廊下と繋がっている。これだけでも独り身には持て余すが、加えて二階と地下室を備えているときた。階段下には大きな収納スペースが取られ、寝室三つを設ける上階へと通じている。その内のひとつは大量の銃器保管場所を兼ねた作業部屋であり、官憲に見付かればいい顔はされない。自身の寝室は他に比べれば飾り気があり、これまでの遠征や作戦における記念写真が壁に駆けられている。ベッドの下には、野外で三日は生き延びられる装備を詰めたベルゲン(金属フレーム入りの背嚢)と、HK53カービン(ライフルを短銃身化した銃)のケースを横たえている。就寝前にはいつだって、私物の〈シグザウアー〉P226を枕元に控えさせる。ちなみに、名前はボリス君。

 石壁で囲まれた地下には、イギリスの冬に欠かせないセントラル・ヒーティング(全館集中暖房)を始めとした機材を動かすボイラーと、それぞれ異なる錠の掛かった幾つもの戸棚がそびえる。そこには各種食糧や燃料の他に、護身の範囲を逸脱した数と口径の弾薬、市民の目に晒せない危険物が貯蔵されている。こんな問題物件に、か弱い少女を連れ込んだ罪状は如何ほどであろうか。死後に地獄暮らしくらいで済めばいいのだが。

 たったひとつしかないシングルベッドのシーツと枕を替え、消臭スプレーを噴霧して、ひとまずはブリジットの寝床をこさえた。家主が下階のソファで寝るのを彼女は良しとしなかったが、そこは意地を通して説き伏せた。声を荒げぬ様にと慣れない配慮をしたせいで、全身の皮膚がべろりと剥けそうだった。

 銃を筆頭に、家中の危険物への注意をブリジットに呼び掛けてから、ベッド脇のサイドボードからP226――ボリス君――を回収して一階へ下りる。手にした鉄塊に恐怖のひとつでも表すかと危ぶんだが、それも杞憂であった。銃そのものが見境なしに破壊をもたらす存在でないと、多くが受け入れぬ真相を心得ているらしい。つまり、その分の警戒までもが俺個人へ向けられる訳である。若くして頭が切れるのも考え物だ。

 気付けば、深夜一時をさらに半時過ぎていた。ブリジットも目蓋が重そうで、明らかに疲れが見える。就寝前にシャワーを浴びる様に勧めると、僅かに目を伏せて頷いた。彼女が「主人より先に……」と言いかけたところで、首をぶんぶん振ってみせると、大人しく従ってくれた。小さな背中が、廊下とリビングとを隔てるドアで見えなくなる。それが合図だった。膝下から力が抜け落ち、ソファへ脇腹から沈み込む。いやはや、我ながらよくやったよヒルバート。人殺しだけが取り柄の身にしては上出来だろう。頑健な軍用銃と違って、年頃の女の子というのは繊細が過ぎる。変に気を遣わない訳がない。両の目蓋が今にも合体しそうであったが、超過労働を訴える目頭を揉んで起き上がった。どうにかして、失った分の英気を養わねばならない。キッチンから〈ギネス〉の壜とメーカー指定のパイントグラスを調達してソファへ戻り、常温のスタウト・ビールをゆうっくりと注ぐ。これがいい。

 ギネスには、メーカーの最高醸造責任者が定めた厳格な注ぎ方が存在する。よく冷えたギネスを二段階に注いで適切な泡を生み、それから一一九・五秒待つ……。グラスの中程で漂っていた泡が次第に上面へ浮くにつれて、奥深い黒色の秘術が完成する。カウンターにグラスが置かれた直後に飛びつくアジアの観光客へ、酒場の店主が必ず施す案内だ。でも、イギリスとアイルランドの民は知っている。ギネスは自宅でくつろぎながら、"常温"で胃に流し込むのが一番美味いという不文律を。

 壁際のプラズマテレビへリモコンを向けつつ、底の見えない黒の奇跡に口付ける。ローストした麦の匂いが口内から鼻腔へ抜け、複雑な苦みと濃密な香ばしさが胃を満たす。グレア加工の液晶画面にBBCが映り、遠く離れたイラクで英陸軍兵士が奔走する光景が流れた。すぐに不調を訴えるSA80(英陸軍制式ライフル。L85A2)を手にする彼らには、全く頭が下がる。

 敵に数で劣る特殊部隊が任務を果たせるのは、ひとえに通常部隊の尽力という前提が築かれているためだ。我々が彼らに勝る点は数多く挙げられるが、その運用は確固たる地盤ありきである。特殊部隊が平常ならぬな仕事をする裏――実際には我々が裏だが――では、通常部隊が汗水垂らして世論を遠ざけてくれている。飲みながら考える事柄でないし、誰かに聞かせるべくもない単なる自己満足だが。

 SA80の発砲音がけたたましいテレビをぼんやりと眺めている内に、でかいグラスの中身は繊細な泡だけになっていた。心身に詰んだ疲労を秤に掛けると、アルコールの量が絶対的に足りない。キッチンから持ってきた二本目のギネスをグラスへ注ぐと、どす黒い液体の水面に、茶色にもくすんだピンクにも見える、優しい色合いの泡が積み重なる。雑念に頭を使わず、五感だけで麦の魔術を味わう。粘膜をアルコールがじわりと焼き、大麦の深い芳香が鼻腔を抜けて、身の内の気苦労がほだされる。酔い潰れる以外の目的の酒など、思い出せない程に久しかった。

 早々に二本目の壜を空けて人心地つき、三本目をちびちびやっている時分である。脱衣所から、こちらへ移動する足音が聴こえた。ビールのほろ酔いが雲隠れし、顔面神経に緊張が戻ってきた。自己を偽るのは止めたのではなかったのかと叱責する自分を、段階が大事だと甘やかす自分がいた。冷静になってみると、どちらが自身に無理を強いているのか分からない。グラスにひと口残っているスタウトに口付けたのと同時に、後方のドアが開く。そちらを見やると予想通り、毛足立った濃紺のバスローブを纏ったブリジットが佇んでいた。家主のサイズなので、床に触れるぎりぎりで生地の端が揺れている。無駄毛の一本もない足首には、砂色のスリッパを履いている。風呂上がりにブーツは蒸れるだろうと、事前に渡していたものだ。無垢な肌は上気して赤みを帯び、濡れて常より艶めく髪が妖しい。これがジェロームであれば、鋼鉄の手錠で拘束したところで、枷を自力で引き千切って欲望のままに飛び掛かるだろう。

 妄想と一緒に三杯目の残りを口に含んだ瞬間、事故は起こった。無音の室内にするりと、乾いた衣擦れの音が響く。ブリジットの細い指が、バスローブの前を留める紐に掛けられていた。その結び目を解く、たったひとつの目的で。予期せぬ彼女の行動に、濃厚なスタウトの奔流が勢い口から噴き出た。えんがちょナイアガラが天井照明の下で煌めき、緩やかな弧を描いてテーブルに飛沫を上げる。一部は鼻腔へ逆流して下腹部をしこたま汚していた。急に自爆してむせ返る雇い主、そしてテーブル上で泡立つ液体を目の当たりに、哀れなメイドさんはその場で硬直していた。

 遮蔽物なき原野で狙撃に晒されているかの如く、心拍数が上昇していた。肺と気管が炭酸の暴力に悲鳴を上げていたが、アルコールの回った思考回路は、想定外にも冷静に原因究明を成し遂げた。自ら彼女を毒牙に掛けてしまうのを恐れていたあまり、別方向の可能性を失念していた。一括払いでないとはいえ、常人の性欲を持ち合わせていれば、手中に収めた性奴隷をその日の内に犯さないやつはいない。自分の分野でないとはいえ、こうも意表を衝かれるとは。

 両の鼻腔から滴る麦汁を拭い、かろうじてバスローブの結び目が繋がったままのブリジットへ向き直った。どうにも、通しておかなければならない話があるらしい。

「あのな、まずは紐から手を離そう。それから、事の成り行きとしては至極当然なんだろうけど、俺はそういった、えー……行為をするつもりは毛頭ないんだ。それだけは分かって欲しい。俺とその……寝ないからといって、戸外へほっぽり出すなんて真似はしないし、そもそもダッチワイフ代わりに君を雇った訳じゃない」

 途中で何度か咳き込みつつ、空気が剣呑にならない様に身振りを交えて闇雲に主旨を伝えた。だけど、俺はヴェストの兄貴じゃない。服の裾が翻れば淀んだ空気がオーシャンブルーに変わり、視線が合った女が悶死する極上の色男なら、こんな苦労はしないのに。

 数秒の沈黙が室内を満たし、やがて小さな嗚咽が空気を湿らせた。

「では……どうして、私を買われたのですか……」

 疑問ではなく、精一杯の嘆きと苦心を込めた恨み言だった。俯いて口許を手で覆い、細かに震える小さな身体が痛々しい。だのに、掛けてやるべき言葉の用意がない。齢二九にしてこのざまとは、何たる欠陥品だ。

 彼女の反応は当然だろう。奴隷としての技巧を叩き込まれ、その行使による評価を許されぬ職場へ監禁されたのだから。楽観的な性質であれば、働かずして飯にありつけると構えられたのだろう。だが恐らく、このブリジットという娘はその責任感から自らに重圧を課して、労働せずにはいられない性質なのだ。言ってしまえば、根っからの奴隷根性を患っている。若いのに、可哀想なやつ。

 意を決して、ソファから腰を上げた。整った顔を崩してすすり泣くブリジットに、そっと歩み寄る。スタウトでべちょべちょの身であったが、気にしてもいられない。とうとう両手で顔を覆ってしまった少女の肩に、節くれ立った手で触れる。ああくそ、ちっこいなあ。――瞬間、手首から、おぞましい忌避感が脳へ伝わり、アルコール由来ではない吐き気が急浮上する。本能がブリジットから離れる様に叫ぶが、冗談ではない。ここで俺に拒絶されたら、彼女は二度とヒトらしい感情を発露出来なくなるかもしれない。

 ブリジットの身が瞬間的に強張り、嗚咽が弱まった。が、またすぐに身寄りなき弱者の悲鳴が、謝罪の形を取って吐き出される。

 こちらの自棄も極限に達していたが、あと数秒だけ持ってくれれば十分だ。肉が弾けそうな腕を華奢な腰へと回し、弱々しい肩を抱き寄せる。気の強いやつが相手なら張り手や引っ掻きの一発くらい覚悟していたが、ありがたいことにブリジットは抵抗もなく、野太い腕の中で大人しくしてくれていた。都合のいい人質を取っているみたいで、余計に不憫だった。

「……何かをさせる為に、君をここへ連れてきた訳じゃあない。こんな状況だけに、信じられないだろうけどね」

 ブリジットが返事を寄越さないのをいいことに、そのまま語を継いだ。

「ここでの生活に慣れるのには時間が必要だろうし、行き詰まったら相談するといい。相手が俺なのが嫌なら、さっきの親父と連絡を取ればいい。他にも頼りになるあてはある」

 ゆっくりと身体を離して向き合い、濡れた頭を不慣れに撫でつける。それからすぐさま後ろを向かせ、廊下へ向けて背中を押してやった。

「さあて、もう午前の二時前です。ほれ、お子ちゃまはさっさと寝た寝た」

 ブリジットから理解の追い付かない、涙で赤く腫れた双眸が向けられたが、こちらの相当に困った風であったらしい面持ちに対し、ほんの少しだけ緊張を緩めた笑みを見せてくれた。束の間とはいえ、罪の意識を忘れる程に可愛らしかった。未だ震えの混じる声で、自信なげな問い掛けがなされた。

「……明日は、いつ起床のご予定で?」

「七時過ぎかな。起きられる自信はないけど」

 それだけ聞くとブリジットは深々と頭を下げ、今度こそ本当に寝室へ向かった。彼女が階段を上がり切るのを耳で確認してから、飛散したスタウトの後始末を済ませる。力の入らない身を引きずってシャワーを済ませ、皺のない部分の見当たらない寝間着を羽織って、へこんだソファに寝そべった。テーブルには、弾倉を挿入した拳銃が置かれている。

 これからの日々、招きもしない波乱の数々が巻き起こるだろう。数時間後には仕事もあるし、厄介事の絶えない時節の訪れが目に見えている。それでも、何処かでそんな骨折りを期待する馬鹿たれが身中にいるのを実感している。落涙する被雇用者とは真反対に、ふと口元が緩む。

 差し当たり悩まされたのは、ブリジットの肢体に触れた数秒間が脳の皺に刻み込まれ、眠りを欲する身体を休ませてくれなかった点だ。幾本もの切創が縦横無尽に走っているかの如き痛みが、未だに腕の皮膚に残っている。そこに、今は別の感覚までもが植え付けられていた。

 ブリジットに触れた右手を眺め、何度か開閉し、幾つか手近な物品に触れてみた。ああ、やはりそうか。

「……柔らかいんだな」

 俺の人生における障害は、凶悪犯罪者と自らのトラウマに加え、以後は性欲という魔物までもが立ち塞がるらしい。辛苦には他ならないが、ややもすると、それこそが失った人生なのかもしれない。薄っぺらい布団を頭まで被ると、悶々としながらも、次第に意識が遠のいた。

 

 

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