【10】
目を開くと、周囲は深い闇に包まれていた。手の届く範囲すら満足に窺えず、手許には一切の明かりさえない。状況を探ろうとする最中、そう遠くない地点から、質量のある水音が聞こえる。音の方を向くと、闇の中でありながら、黒光りする物体が蠢いているのが視認できた。
どす黒い物体は表面がねっとりした粘菌状で、どうやらゆっくりとこちらへ近付いてきているらしい。アメーバであれば仮足と呼んだか、海洋生物の触手と見紛う腕が、こちらへずるりと伸びてくる。こちらの手には、光沢を消した黒色の銃身と、素手に吸いつく年季の入った木製グリップを持つ銃が握られていた。名匠ジョン・ブローニングが遺作、〈ファブリック・ナショナル〉のハイパワーだ。重さからして、弾倉には十分な量の弾薬が込められている。最後に使ってから久しいが、世界各国の銃器を扱うSASにとって、相当に馴染み深い一挺だ。この銃そのものに憶えはないが、それでも腐れ縁の様に勝手が分かる。
ぶちゅっ、と気分の悪くなる音が、自分が撃った対象から生じた。実際は発砲音で殆ど聞こえないので、間違いなく命中したという実感から起きる錯覚に近い。事実、粘性の物体を見やると、ぐったりと力を失って動きを止めていた。夜目が利いている訳でもないのに、不思議と弾丸の射入孔を具に観察できた。ふたつの小孔が、極めて近い位置に穿たれている。
死亡確認に粘性物質を蹴り飛ばそうと脚を引くと、妙な事象に気付いた。暗闇であるために色の判別などつかないはずだが、射入口には明確な、黒とは別の色があった。視細胞にこびり付いて離れない、暗色の赤。ふたつのクレーターから、赤い滴が重力に従ってぬるりと筋を引く。嫌悪感が心臓を掴み、手中の武器がもたらす余裕が砕け散る。鼻筋を脂汗の珠が通過した瞬間には、もう遅かった。
突としてクレーターから生じた太い触手が、こちらの腕を絡め取るや、手首の関節を強かに捻り上げる。虚空へ放り出されたブローニングが、足下を滑っていった。落とした武器を追うその前に、何条もの拘束が五体の自由を奪った。
粘液の塊に、それまでより異様な動きがあった。射入口の周辺が盛り上がり、徐々に形を成してゆく。色も粘っこい黒ではなく、青ざめた土気色へと変じる。殆ど同じ場所に位置していたふたつの孔がゆっくりと移動し、やがて左右に離れて停止した孔それぞれを中心に、粘着質の物体は新たな造形をかたどる。人の顔面――それも、知った顔だった。右は五歳くらいの男児、左はその母親。彼らの死に濁った瞳が、煮詰まった恐怖を訴えていた。触手が首を覆い尽くし、肉を引き千切らんばかりに締め付ける。引き剥がそうにも、軟体の触手はこちらの振り解く動作に追従してなおまとわりつく。血の気の失せた顔ふたつが、こちらを無感情に見つめている。
親子の顔を目の当たりにして、精神的にも息が詰まった。忘れられるものか。細動する二組の双眸に、正気を失いかける。慄然から逃れられず、呼吸困難から眼球が突き出る感覚があった。脂汗が眼孔に落ち込み、泡立った唾液が顎を伝う。頸椎が軋み、死がほんの手の届くところにまで迫っていた。くそ、冗談じゃない。
――あの日、俺は配送の遣いを受けていたに過ぎない。選択権のないこちらには、何の落ち度もなかった。偶然にもあの場所に居合わせた、やつらにこそ非があった。どちらかが間引かれる必要があった。立ち塞がる障害を排せない、人生をやり通す力の行使を放棄した弱者が、生存競争から落後しただけ。たったひとつの命も守り切れない輩に、今さら祟り殺されるいわれはない。悔い改めてなどやるものか。二つの怨霊を今一度殺すために、取り落とした銃をがむしゃらに足で探った。こんなやつらに――
両脚に、強烈な衝撃が加えられた。二本の野太い触手が、両の大腿を貫いていた。激痛に喘ぐより先に天地が逆転し、後頭部が地面を擦る。俺は貫通された箇所を支点に、逆さ吊りにされていた。化け物の絞め落としが一層強まり、酸素の供給が余さず断たれる。
理解しろよ、ああする他になかったんだ。俺でなくともそうしたはずだ。酸素を欠いた身から、意識が霞む。視界から、次第に暗黒さえもが消え去りつつあった。未練がましい悪霊め。いったいあと何度、俺を殺すつもりだ。
何かが砕ける音で目の前が真っ暗になった。
【11】
目蓋を見開いた先に、血管の浮き出た自分の腕が伸びきっていた。不規則な動悸が耳障りで、起き抜けの思考を掻き乱している。肌に張りついた寝間着が皮膚呼吸を阻害し、肌着に染み込んだのと同じ液体が、額に滝を作っていた。そう、いつもと変わらぬ最悪の目覚めだ。敵対者のいない自宅で眠ったはずが、常在戦場よりひどい朝しか迎えられない。
目頭を揉みつつ上半身を起こすと、汗臭い部屋に似つかわしからぬ情景があった。提灯袖《ランタンスリーブ》のない黒色のジャンパースカートに純白のエプロン、飾らないカフスとホワイトブリムを身に着けた、この家には過ぎた女中さんが、こちらを見下ろしている。彼女のお名前はブリジット。昨晩から、うちのメイドになった女の子である。三十秒前とは真逆の夢見心地を味わったが、全身の不快感はこれが現実だと知らしめてくれる。どうしようもなく浮世離れした現実だ。そしてどうやら、いい事ばかりでもないらしい。
ブリジットの眼はすこぶる怯えを孕み、腰も引けていた。両手から延びる細い指が、胸の前で拳銃を抱いている。見返すと、俺が伸ばした腕はテーブルへ一直線に向いていた。就寝前に、自分で拳銃を置いた場所だった。起きて早々に、鈍い頭痛が牙を突き立ててくる。寝起きの面というのは余程の色男でない限り醜く、それは見る者全てを忌避させる素敵な傷跡野郎も例外ではない。まして、悪夢にうなされた後のそれだ。最早、言い訳のひとつ二つで切り抜けられる案件ではない。もし拳銃が元の位置のままで、悪夢に囚われたまま現実との境を見失っていたらどうなっていたか。薬室は空であったとはいえ、それは単なる結果論に過ぎない。あらゆる惨事が起こり得た。ブリジットの身に、取り返しのつかない傷をこさえる可能性さえあった。
ブリジットは依然として銃を手に警戒を示し、不気味を極める雇用主へ如何様な言葉を掛けようかと躊躇っていた。彼女が奇声と混乱に身を任せる子でないのを、祈る神もいなかったので、暫定的に親父へ感謝した。
失態を噛み締めて天を仰ぐ最中、ブリジットが狼狽の声を発する。
「すみません、そんなつもりでは……その、とてもうなされていて……!」
「そんなつもり」がどういった内容であろうと、必死に取り繕う彼女を責める権利なぞ、俺にはない。現状だが、第三者からは、使用人が主人の寝首を掻き損ねた場面に映るだろう。可哀想な子だ。掌の水分を寝間着の裾に吸わせ、震える手へそっと腕を伸ばす。人殺しの接近に、ブリジットの肩がすくむ。臓器売買を商にしている輩の気分だ。銃を彼女の手から抜き取ると、緊張の面持ちに涙目までもが加わった。いじめる腹づもりはないのだが、どうにも小道具がいけない。薬室の安全確認を行い、引き抜いた弾倉から弾薬を取り除いた。こちらの行動を呆然と見つめるブリジットに、抜弾してだいぶ軽くなった銃を手渡す。雇用者の突飛な行動に対処を考えあぐね、上目遣いに指示を求めた。
「その……悪かった。今後またこんな事態があるとまずいし、しばらく預かっておいてくれない? その方が助かる」
前夜に銃への注意事項を述べておきながら、何たる言い草かと苦笑した。のっけからやらかしてくれたな、ヒルちゃんよ。どうやら殺されるのではないと理解したブリジットは〈シグザウアー〉をおっかなびっくり受け取ると、レースのハンカチに包んでスカートのポケットへ収めた。……随分でっかいポッケだねえ。
俺は俺で仕事へ行ける見てくれではなかったので、重い足を引きずってバスルームへと這った。すれ違いざまに窺ったブリジットの表情は、恐怖から哀れみを含んだものへ移り変わっていた。優しい子なのだろう、可哀想に。
シャワーの湯が肌を焼くのが、まるで生の実感に縋る様で、矮小な自己が際立って感ぜられた。傷跡のひとつ一つが、自らの生き字引だと大層な暗示を掛けてくる。実社会では汚点でしかないのに。
濡れた壁に手を突き、今後の暮らしに改めて思案を巡らせた。こいつは一種の交渉に近い。昨日知り合った間柄に、元より信用などありはしない。そこに一定の信頼関係を築き、円満とは呼べずとも、ある種の共生関係を構成する。奴隷は……いや、メイドは雇用主に依存する運命だから、否応にも家主に従事しなければならない。俺個人としても、十万ポンドは手痛い出費であるから、どうにか元は取りたい。心苦しいが、彼女にただ飯を食らわせる訳にもいかない。ちょっとくらいは雑用を押し付ける必要が生じる。それも、枕営業を抜いた分野で。はて、そいつは生身で空母をやっつけるくらいの戯れ言だ。
シャワーを止め、すぐ右にあるバスタブ――総檜造りの湯舟を見やる。当然ながら、俺の趣味ではない。何を隠そう、この家はかなり前に親父から譲り受けた物件である。他の兄弟がフラット暮らしの手前、当初は譲渡を拒否したものの、俺が自死していないか監視するという名目で押し切られてしまった。実際、親父と兄弟は頻繁に遊びに来るし、ニーナもきつい悪態と一緒に料理を差し入れてくれた。特にジェロームは、金欠の度に泊まりに来ていた。ブリジットがいる手前、もう出禁だが。
そんな家主に分不相応なでかい邸宅を、メイドひとりの細腕でどうにかしてもらおうとは、つゆほども考えてはいない。しかし、己の自堕落がもたらした不衛生と無秩序の尻ぬぐいを頼みたい気持ちも、間違いなく存在している。すり切れて埃っぽいタオルで身体を拭っていると、その葛藤はなお増した。
重い苦悩が肩を離れないまま、揉みくちゃのポロシャツに袖を通してダイニングへ戻ると、異常事態が生じていた。独り身の軍人は、朝食に贅沢なぞ言えない。ぱさついた数枚のトーストとベーコンに、二つくらい目玉焼きでもあれば事欠かない。入営からこの方、そう思い込んでいた。イギリス流の朝食は、毎食たっぷりのはずなのに。手間を理由に理想から目を背け続けたせいで、俺の朝食はずっと味気ない一辺倒なものだった。こんな献立で兵士の身体が動く道理もなく、基地の食堂でべとべとした不味いロールケーキを胃に詰め込むことで、昼を乗り切っていた。夜は言わずもがな、陰気に酒場の厄介だ。休日はふかしたジャガイモに塩を振っただけのものと、洗っただけの野菜をコンソメで煮詰めた汁で命を繋いでいた。思えばこの頃、肌の調子がすこぶる悪い。指先も、ささくれが乱立していた。
それで、目下のテーブルのこれはどういった天変地異か。トーストにはバターが均一に延ばされ、中央の大皿に大量のジャーマンポテトが鎮座している。彩り豊かなサラダが緻密に盛り付けられ、ご親切にひっくり返されたマグカップまである。目玉焼きの姿はなかったが、代わりに形の整ったポーチドエッグが、朝日を受けて煌めいている。瞬時にテロリストと人質とを見分ける脳が、ヘビー級ボクサーのパンチを頬桁にぶち込まれたみたいになっていた。頭の中に住む小さな俺たちが脳味噌を叩き起こしたところで、ようやく状況描写に適した回答が導き出された。うちに料理上手なメイドさんがやってきたぞ!
キッチンでは、朝食を独力で作り上げた張本人が、ポットに紅茶を用意していた。疲労が溜まっていたとはいえ、寝ている家主を起こさずに、あれらの料理群をこしらえたのだ。畏怖をも覚える手際に、生唾を隠せなかった。こやつ、出来る。唯一の不満は、取り皿が一人前しか用意されていない、その卑屈さのみであった。
「どうも席が足りないみたいだけど?」
キッチンの給仕さんが、目を丸くする。ややあって、物言わず己が均整の取れた顔を指差し、衝撃と言わんばかりに見返してくる。それから歯痒いほどに緩慢な動作で、食卓へ目を向けた。あのね、他に誰がいるんだい。冗談抜きに除霊が必要になっちまう。大きく首肯してやると、お手伝いさんはばつが悪そうに俯いてしまった。無理強いしているみたいだが、両者の立場を対等に近付けない限り、当方の主眼は達成されない。これはエゴではなく、双方にとって利得のある取引なのだ。説得力は皆無だが、とかく自分の言い訳っぽい逃げ腰を抑えてやる義務があった。ヒルちゃんの内側には、保守派と漸進派が同棲しているのを認めざるを得ない。どちらも煮え切らないやつらだが。
二人して食卓に着くと、ブリジットはきまり悪さを隠せない様子だった。じきに慣れる。そう言い聞かせていた対象は、自分だったのかもしれない。どうやら食前の祈祷の習慣はないらしく、こちらとしてもやり易かった。料理はいずれも美味を極めたもので――驚くなかれ、味がある!――そこそこ高級な店で出しても遜色のない腕だった。率直に褒めると、少しばかり気恥ずかしげに目を細めてくれた。いかんな。こんなので勝手に騙されるから、男という生物は救えない。
数年振りに英国人としてまともな朝食を終えると、ブリジットは慣れた手つきで食器の片付けに取り掛かった。俺が手伝おうとすると、恐れ多いと断られてしまった。無理強いするのもよくないかしらと退いたが、手持ち無沙汰なのも居心地が悪かったので、留守を任せる間に必要であろう物品を用意した。親父と俺の携帯番号、PCのパスワード、最寄りの施設をマーキングした周辺地図。それから、諸費として五十ポンドを収めた封筒を彼女へ渡した。ブリジットはかなり躊躇ってから包みを受け取ると、家主の意図が気掛かりで仕方ないという具合の笑顔を寄越した。気持ちは分かるが、今の俺に出来るのはこれだけである。金だけ払って、肉体関係を要求しないというのも、相当に気味が悪い。
仕事用の鞄を肩に掛け、玄関で部屋履きからブーツへ足を突っ込んだところで、ブリジットがぱたぱたとカーペットを踏み鳴らして駆けてきた。その腕に、ウィスキーのブランドロゴがプリントされた紙袋が抱えられている。クラフト紙の包みは、こう語り掛けてきた。「俺は弁当だ」そうか、初めまして。何処の生まれかな? いや、皆まで言わなくていい。
不安も露わに、ブリジットがおずおずと紙袋を差し出してくる。まるで猛獣の餌やりだ。
「朝の余り物ですが、ご迷惑でなければお昼にどうぞ」
あれだけの御膳を振る舞っておきながら迷惑があるかと苦笑したが、果たしてこの実に遠慮っぽいのが彼女の本質なのかと疑念を抱く。この子の内を知れる日が訪れるか知れたものではないが、今は地道に親交を積むしかない。なあに、彼女の心痛に比べれば、自分の神経がちょっと目の鋭いおろし金で血だらけになるのなんざ、二二口径の拳銃弾を腹に喰らう様なもんだ。運が良ければ病院送りで間に合うし、悪ければ死んじゃうだけで済む。段々と錯乱してきたので、強張った笑みで礼を言って家を出た。朝からいやに疲れているのは、何も歳のせいだけではないだろう。
毎度機嫌の悪いエンジンを吹かすBMWを走らせると、弱ったサスペンションがもたらす揺れで、骨張った尻が悲鳴を上げた。不快感の原因はそれに止まらない。朝食は美味かったし、ブリジットの表情は堅苦しかったものの、純粋に可愛かった。だが、不覚にも出逢って半日の相手に、化膿した傷口を晒した愚行を赦せなかった。信号待ちをしている間、噛み締めた奥歯が軋んだ。
何重もの検問を通過し、自分の所属するCT(対テロリスト)チームの車庫に車を収め、食堂でたむろしていた兄弟に会うと、幾らか気が休まった。ヴェストに至っては、何も言わずに肩を抱いて背中を撫でてくれた程である。自分が女なら、一発で堕ちていただろう。
電話に出なかった件を謝罪してから、当日の勤務内容――訓練の要項を確認し、隊員各自へ与えられた小部屋で黒ずくめの戦闘服に着替えた。入隊直後でヘリフォードに住む家のない新米や、そもそも家を買わない連中は、このベッドと装備が転がるだけの狭い部屋に寝泊まりする。この狭さが引き起こす閉塞感が、俺を含めた兄弟には耐えられなかった。各々が特殊な来歴を有しているが、幼少期の冬を暖炉の前で過ごせた者はいない。俺の場合は、錆の浮いたニッパーを握る日々だった。時には鋭利なナイフを振り抜き、我が身に掛かった生温かい血液が冷えていくのを感じた。凶行への罪悪感に押し潰されまいと、自らの保身に狂っていった。残念ながら、罪は肉やジャガイモと違い、腸内で自然に消化されない。本人の自覚なしに、長い期間を経て心とか頭の片隅に堆積する。そのまま短命に死ねば、自身よりも大きく育った怪物と遭遇せずに済む。何かの拍子でそいつを隠している靄が晴れてしまえば、受け入れ難い現実と対峙させられる。望まぬものに限って実現するのが世の常で、必死に目を背けていたのに、悪運が堰を切ってしまった。凍りついたままでいてくれたら良かったのに、温水でゆっくりとほだされる暇もなしに、心が砕け散った。戦闘服への着替えを終えた頃には、またも湿った気分に陥っていた。
訓練を放って一直線に帰宅したくなったものの、既に個人の都合で三連休を貪った手前、その直後に早退を決め込む図太さはこの身に備わっていない。やむなくお仕事に立ち向かおうと個人部屋を出ようとするなり、ドアがノックなしに開かれた。多感な三十路前の聖域を、デリカシーのない教練軍曹が侵した。男の名はアーロン。現場を退いて久しい三八歳で、基地にいる教官の中でも突出して忌まれている野郎だ。領土侵犯の不埒者は、こちらが用件を尋ねる間もなく、すぐに元の服へ着替えろとの指示をがなった。浅黒い顔に、独善的な笑顔が張りついている。それで事情を察した。くそ、まずいことになった。
基地本部から少し離れた施設"キリングハウス"の正面に、〈ヘッケラー&コッホ〉のMP5サブマシンガンを携えた中隊の半分が集められた。部隊の内訳は機動小隊と、我々クラプトン兄弟も属する航空小隊だ。黒色の物々しい戦闘服とレスピレーター(ガスマスク)で武装する隊員に対して、分隊長を務める兄弟は場違いな平服姿で突っ立っていた。
キリングハウスは二階建ての建築で、中央を走る廊下の両脇に、幾つもの小部屋が連なっている。標的として、国際色に富む犯罪者が描かれた書き割りと、人質のそれが配置される。至る箇所に設置されたカメラが部隊の動きを記録し、壁面には跳弾防止に特殊なゴムが貼られている。内装は自在に変更可能で、一般住宅から大使館の一室まで簡単に模倣が可能な、SASの象徴的存在だ。
と、ここまで美点を並べ立てたものの、今日におけるキリングハウスはかなりロートルな設備である点は否めない。実弾使用による負傷は過去に数度記録されており、全周スクリーンに映像を投射して行われる訓練の方が、安全性とコスト面で遙かに秀でている。施設内には複数の換気扇が備えられているものの、閉鎖空間で短時間に何千発も発砲する手前、排気が間に合っているべくもない。実戦の機会に立ち会う前に、煤煙で肺や咽を患う隊員も存在しただろう。何より、"特殊部隊の祖"が前時代の遺物に依存していると吹聴されるのは、後続の減少や今後の国家運営にも関わる。
とはいえ、実弾を用いての可及的に現実に即した状況を重んじる類の先達はいくらか存命であり、俺も含めて、そういった思想に一部でも共感する連中は決して少なくない。この野蛮で不穏当な長屋が現在まで生き長らえているのは、こいつがSASにとって、ある種の偶像や神話に昇華されているからかもしれない。えらく場所を取る火薬臭い御神体だが、我々はこの旧き神を崇める他ない。高価な電子機器まみれの部屋にぼんすか爆破突入していたら、このけちな島国の防衛予算は数日で破綻するだろう。それに、他人の金で気兼ねなく物をぶち壊せるのは、すごく気分がいい。
だが、この素敵な過去の遺物の使用にあたって、最も不名誉かつ貧乏くじな役回りというのが存在する。それ即ち、「生きた」人質役である。教練軍曹が普段着組の手首を後ろ手にきつく縛り、キリングハウス内部へと歩かせる。廊下を進んで間もない部屋でヴェストが座らされ、頭に麻袋を被せられた。布地に全て隠れる間際まで、その美貌は物怖じもせずにへらへらしていた。どうやっても俺には真似できない。生きているのが不思議なくらい参っているくせして、今生への未練があり過ぎる。別の部屋に監禁されたショーンとジェロームも同様で、麻袋へ平然と頭を通させた。長屋の末端に近い部屋に到達すると、俺も揃いの格好を取で固いコンクリートの床に尻を着かされた。せめて目隠しだけはと切に念じたが、こちらの意図など汲み取る頭のない教練軍曹に麻袋を被せられた。
麻袋のほつれ目から、微弱な光が垣間見える。その一筋の寄る辺さえも、部屋を去る教官が照明の電源を切ったせいで奪われた。ドアの閉じられる音が、ひどく遠くに聞こえた。
明かりが失われた途端に、石灰質の床の無機質な冷たさが尻を伝わる。衣服の下で、粘ついた脂汗がどっと噴き出してきた。つい先日の訓練で、書き割りの頭部にコンマ数秒で六発も撃ち込んだやつがいた。大したやつだ。書き割りとはいえ、人質の脳をミンチにするとは。
膝の間に頭を埋めて、この部屋の内装を思い返した。六メートル四方の空間の中央に円形のバーテーブルが置かれ、テーブルを挟んで武装犯の書き割り二枚が立っている。俺はそいつらの足下で身をこごめて、嵐の襲来に備えられないでいた。
連隊(SAS)は時として、人命を賭してまで隊員に人質を演じさせる。実戦で人質の救出にあたる場合、彼らは木の板よろしく黙って座っていてくれやしない。だからこそ、可能な限り実戦に近い状況を作り出し、隊員に非人道的な訓練を課す。対する人質役も、敵の捕虜に取られた際の心境や、すぐ隣を弾丸が掠める恐怖を経験する。副次的ではあるが、同僚との信頼を醸成する効果も含まれている。
などと、先達はご高説をのたまうが、俺はこの役回りに心底辟易していた。持てる技能を封じられ、丸腰の無力な存在になるのが不安でたまらない。部下の育成のためとはいえ、死に目に見舞われるのは遠慮したい。おいアーロン、日頃から恨んでいるぞ。
気掛かりなのは、突入してくる隊員がどういった編成でやってくるかという点だ。まさか数部屋を制圧するのに、三十人いる二個小隊の全員を投入する無茶はなかろう。願わくば、航空小隊の面々が投入される未来を祈った。機動小隊の連中に鉛弾を叩き込まれるくらいなら、せめて同胞の弾で斃《たお》れたい。
首筋を冷や汗が伝ったのと時を同じく、遠方から金属の殴打と摩擦が空気を引き裂いた。端から隠密性を捨て、迅速かつ瞬発的な暴力性に物を言わせる手法を採ったらしい。地面を揺らす足音から人数を推し量る余裕は、とうに失われていた。敵を瞬間的に無力化するフラッシュ・バン(特殊閃光音響弾)の炸裂と、乾いた銃声が屋内を駆け巡っている。麻袋を介して鼓膜が振動する度に、ただでさえ乱れた心拍が不規則に歪められる。誰とも分からぬ怒号の飛び交う距離が、秒刻みに縮んでいた。肩が震え、寒気が身を包み、股間がじっとりと汗ばんでくる。気づいていないだけで、涙も流れているかもしれない。唇をきつく噛み締めたが、それで気が休まる道理もなかった。殆ど平静を手放したのと同時に、自分のいる部屋のドアが手荒く開かれ、重厚なブーツが踏み込んでくる。手を伸ばせば届く距離で、フラッシュ・バンの爆音が弾けた。聴覚の狂った世界で、けたたましい発砲が続け様に起こり、砕けた木片が肩に降り掛かる。
頭上で発砲炎が煌めくと、とうとう神経が限界値を振り切った。自我を離れた身体が、叫びを上げて床へ突っ伏した。尿道と肛門が弛緩しなかったのは奇跡に近い。制圧完了の怒声に続いて、野太い腕が濡れた腋へ割り入り、およそ引きずられる形で運び出された。
戸外で地べたへ転がされて拘束と麻袋を解かれた時には、顎に多大な疲労感を抱えていた。長い廊下を消防士流に担ぎ上げられて揺られる最中、俺は人ならぬ音を喚き散らしていたらしい。監禁場所から解放された先では、分厚い雲が陽光を遮っていた。湿っぽい微風が汗まみれの身に厳しく、骨まで冷え込む。
手首に残る麻縄の跡をさすりつつ、キリングハウス脇に駐められた、撮影機材の詰まった特殊車輌を覗き込んだ。車というより、映画マニアの秘密基地みたいだ。積み重なる複数のモニターへ食い入る教練軍曹に今しがたの突入の評価を仰いだが、ろくでもない神経伝達物質が残ったままで、唇が上手く動かなかった。
「最高だね。部屋を八つ回るのに、八人もいて二分掛かってる。実戦なら、人質はひとりも残らなかっただろうな。このお利口な坊ちゃんは、敵かどうか識別するのに三秒も掛けてる。注意深いな。刑事になるにはいいんじゃないか? あとはヒル、お前のアドリブは傑作だったよ。あの雄叫びで、部隊全体の動きが鈍くなったんだ!」
「そりゃどうも」
こいつの口からは、いつだってうんこしか出てこない。趣味の悪い笑みを浮かべる教練軍曹に、生茹での作り笑いを差し向けた。くそ野郎、何が演技だ。目尻までひきつる間際に、背後からやってきたショーンが、俺の肩に腕を回してきた。
「映像を巻き戻してくれ。俺のケツを蹴飛ばしたやつが知りたい。ビールを請求してやる」
そんなつもりなど毛頭ないくせに、弟はアーロンに合わせた軽口を叩いた。ショーンがアーロンの相手を代わってくれたので、ストレスの増加が一時停止した。
モニター群に、黒ずくめの連中が実験マウスみたいに駆けずり回る光景が展開されている。ドアを片っ端から蹴り開けたり、ショットガンでヒンジをひん曲げたりと、やりたい放題を尽くしている。暴力的で娯楽性には欠かないが、特殊部隊としての完成度を鑑みると、口惜しさにこめかみを掻いた。この教練軍曹に同意するのは反吐がこみ上げるが、殆どの隊員が原隊――SAS入隊前にいた部隊の慣習を捨て切れていない。どうしたものかと顎を撫でている内に、先の突入を行った連中がレスピレーターを外してやってきた。面子を眺めて、不出来な理由に得心した。航空小隊の、入隊して半年も経たない青二才ばかりだ。いやなやつから嫌味を受ける心構えをしておけと、そっと後ろ手でバツ印を送ると、若手の間に渋い表情が拡散した。
そんな萎れた面々でただひとり、余裕げに鼻毛を引っこ抜いている若造がいた。他の隊員が屋内の制圧に手間取った中、図抜けた働きを見せた黒髪の青年、その名をダニエル・パーソンズという。生粋のコクニー(ロンドン子)で、小憎らしさのある顔立ち、身の丈が一七〇センチちょっとのこいつは、昨年の選抜訓練をほぼ無問題で通り抜け、追随する継続訓練――試用期間と解釈して間違いない――でも、専門知識を貪欲に吸収していた。何より、齢二三という若気はおじん所帯に新風をもたらしてくれた。仲間内での評判も芳しく、基地の爺さん陣営に、艶のある固い巻き毛を撫でくり回される光景も多々見かける。ただ、どういう理窟か、物好きにも入隊当初から俺に懐いる節がある。自分の願望を投影してか、俺もこやつを色眼鏡で見てしまっているのは事実である。
人質役で疼痛めいた心労とストレスを負ったが、どうやら不必要に頑健な我が身は、これでもまだ仕事に意欲的らしい。
いつの日か物理的にやっつけたい教軍曹の指示で自室へ戻り、さっき脱いだ装備を身に着けた。その間に別の班がキリングハウスに突入していたが、結果は最初のものより拙いものであった。先のが初めての社交ダンスなら、こっちは園児の学芸会だ。
新人の技能不足においてはその実、お国に結果責任がある。冷戦終結後の社会情勢から、通常部隊の枠組みにはまらない専門家集団――特殊部隊への需要は上昇する一途であった。要するに、その頭数の増加が急務となった。この風潮が我らがSASへも波及し、選抜訓練で要求される規定水準の低下が命じられた。この愚策により、玉鋼のごとき精鋭集団に、大量の不純物が混入した。昨今の紛争におけるベテランの損耗が、それに拍車を掛けているのも然りである。
モニターの中で動く人影が、次第にゴキブリに見えてきた。今日も大事を取って、休暇を取るべきだったかもしれない。本国に待機しての対テロ勤務期間中は、お上の発令あらば、我々は基地へ丸裸で出頭しなければならない。とはいえ、基本的には受動的な勤務であり、身体能力と技術を維持していれば、組織からのお咎めはない。それでも各自がこうして身に鞭を打っているのは、この職への愛着故であり、自らの向上を願って止まぬ克己心がもたらす、ある意味での自己主張である。これが士官になると士気云々で兵士の規範となるべきなのだが、俺はといえば階級ばかりが独り歩きしており、ちょっと喧嘩のやり方を心得ただけの物ぐさと見なされている。冷静に考えると、こいつはまずい。存在さえも危うい信用を取り戻すべく、そろそろ身の振り方を改めるべきか。それが自己の欺瞞だというのは、自明の理であるが。
録画された映像を若手に見せつけながら、教練軍曹が声高にねちっこくがなっている。無意味にでかい声量に、鼓膜が裂ける心地だ。ふと脇へ視線を向けると、ジェロームが物陰で耳栓を丸め始めていた。身振りで「俺にもちょうだい」と伝えると、それまで噛んでいたガムを渡そうとしてきた。……お前ってやつはさあ!
耳栓もなしに、悪しきロートルの愚痴と同意義の講釈なぞ聞いていられないので仕方なく、AR-15ライフルの動作機構を妄想してやり過ごすことにした。「馬鹿みてえに無防備に頭を――」がこっ!「立ち止まってる暇なんかあったら――」がちん!「つべこべ考えずに敵の――」ぱーん! ああ、なんて素敵なメカニズム!
社会不適合者の独白と悪態が一段落すると、どうやら分隊長らで突入の手本を見せるという流れになっていた。ごめん、全く聞いていなかったよ。とはいえ、煩雑な苦悶を吹き飛ばすには、この上なくおあつらえ向きの運動だ。実弾を用いる訓練の最中は、それだけに思考を割り当てられる。陰鬱な現実から遠ざかって、仮想敵とだけ戦えばいい。好むと好まざると、これが最も性に合っているのだろう。
突入の準備に数分間が与えられていたが、我々に装備の点検にあてる猶予はなかった。若手連中が指導を求めて押し寄せたのだ。各々が容赦なしに質問をぶつけてくるのに対し、回答を投げ返すので手一杯だった。頼れる長兄と一撃必殺の三男を師と崇めるなら納得なのだが、若人は淫蕩末子や、ぐうたら次男にまで純真な眼差しを向けてきた。遅刻を筆頭とした規則違反が褒められる行為でなかったとはいえ、意地悪でないというのは、そこまで魅力なのだろうか。安月給のために酒場で満足に酔えていない若造を見つけては、「酒場を湿気らせるな」とビールやチップスを奢ったせいだろうか。模範的ではなかったが、それなりに都合の良い身の振りではあったらしい。隠居したじいさんみたいだ。
それがわざわざ俺を目当てに来る弟分がいる説明にはならないが、怒鳴り付けるだけのアーロンに誰も――ただのひとりとして!――教えを請おうとしない事実が、人徳の儚さを物語っている。先達から聞くところによると、作戦中に脚を負傷するまでの現役期間、彼が腐心していたのは、いつだって目上へのシナ作りだったらしい。おかげで現職があるのだから、そうした行為も有意義ではある。
我が身で恨むべくは、この無意識が同族以外には作用しない上、意識的な行使が不可能である、極めてぶきっちょな性質であった。軍の仲間とはよろしくやっていけるが、対する一般人との円滑な交流は望めない。……要するに、若い女の子とお喋りなぞ、どだい無理な話なのである。この性格が祟って、士官学校でも一切の人脈が築けなかった。
そして階級だけの上司が心苦しさを噛み締めているこの間も、可愛い部下は悪気なしに質問責めで窒息させようとしてくる。くそm随分と肉付きの良い雛鳥だ。忙しいから後でと言うのに、誰も聞いちゃいない。見なされたところで窮屈なだけだが、こいつらは誰も俺を将官と扱ってくれず、妙に根暗な気分屋の酒飲みと捉えているらしい。当人も、この不当な認識はやぶさかではないのだが。
実戦同様の重装備で施設の入り口に立つと、脳の旧皮質から闘争本能が涎を垂らして這い出てきた。胸と背中に装備した、セラミックの抗弾プレートが不快な重みをくれる。如何なる訓練であれ、実戦と同じ、あるいはそれ以上の負荷を掛ければ、然るべき折にそれが活きる。訓練が厳しければ、本番はそれだけ楽になる。言うは易しで、これをまともにやるには、並ならぬ克己心を要求される。自分達が優れた人間だとは示し難いが、自負と矜持がなければ、こんな仕事はやっていない。
生の人質役は、事前にアーロンが数名を指名しており、先程と同様の状態で拘束されていた。こちらに人数は知らされず、敵の位置も先の時点から変更されている。隊員の注目がクラプトン兄弟へ向けられているのが不愉快なのか、アーロンはぶすっとしてモニター前で頬杖を突いていた。彼の怒声が突入の合図だ。解せぬ。隊列は一本の縦列で、先頭に〈ベネリ〉M4ショットガンを脇に吊すジェローム、次いで俺、ショーン、しんがりのヴェストと続く。各々が、専用のクリップで連結された弾倉を銃へ押し込み、先台《ハンドガード》に〈シュアファイア〉の大光量フラッシュライトが捻じ込まれたMP5をしっかと肩付けしていた。訓練であれど、強烈な緊張と興奮が神経を満たす。これをやるために連隊に入ったのだし、俺に至ってはこれしか能がない。皮膚に密着したレスピレーターのせいで、自分の呼吸が尚更にやかましく聴こえた。
加えて、強力な武器を手に安堵もあった。やはり銃はいい。強力な火力は、心に安寧をもたらしてくれる。それが高級なドイツ製であれば、皆まで語るべくもない。樹脂製の面の下で、現実の不安も忘れてほくそ笑んだ。
その時、罵声に等しいアーロンの合図が発せられた。怒号と同時に、俺はジェロームの背中に差されていた長大な金属製の棒を抜いた。ハリガンツールと呼ばれるこの金属棒は、元は消防士が災害で開閉不可能になったドアを破るのに用いる道具で、それを各国の対テロ部隊は家屋への突入に転用している。二股に分かれた一端をドア枠に突き立て、そのまま何度かこじると、ドア枠が歪んで扉が自然と内側へ開いた。ハリガンツールをジェロームの背中に戻し、肩を叩いて合図を送ると、やつは陸上選手よろしく駆け出した。密着した距離を維持して俺も続き、後方でも同じ動きがなされた。屋内への進入まで、六秒と掛からなかった。
ほの暗く味気ない廊下が視界を満たし、四組のブーツが硬い地面を叩く。レスピレーターで狭められた視界が、発電機の如く揺れる。ジェロームが前方右手、ひとつ目の木製ドアへと目標を定め、その脇の壁に張りついた。そのままドアノブに手を掛けると、鍵が掛かっていたので、即座にMP5からショットガンへ構え直し、ドアのヒンジ目掛けて三度発砲した。耳を聾する轟音と共に、構造物の破壊に適した特殊弾薬が、上下の蝶番と錠をねじ切った。ジェロームがMP5を持ち直して廊下へ警戒を向け、あとの三人が俺を先頭に室内へ突入する。穴だらけのドアに肩からぶつかって部屋へ飛び込み、後続がつかえない様に部屋の隅へ進みつつ、四方へ視線を巡らせる。敵の書き割りは見当たらず、部屋の隅で横倒しにされた人質役が縮こまっているだけだった。室内の制圧完了を叫ぶが早いか、今度はヴェストを先頭に対面の部屋へ突入する。鍵は掛かっておらず、ヴェストは胸に収納されたフラッシュ・バンを室内へ投げ込んだ。部屋の壁に衝突した円筒缶が、百万カンデラ超の閃光と百八十デシベルの大音響で、室内を蹂躙する。我々にはレスピレーターとヘッドセットによる防護があるが、人質やテロリストは一時的な見当識障害を被る。SASが対テロ部隊を創設して以来、欠かさずに使い続けている逸品だ。なお、前述の装備なしにフラッシュ・バンを使わなければならない事態はままある。
燐やマグネシウムの化学反応で生じた白煙の中へ、ライトを点灯して踏み込む。室内には黒いバラクラバ(目出し帽)を被って銃を手にした男の書き割りが二枚あったが、最後尾の俺が室内を覗いた時には、既に頭部に風穴が空いていた。
壁沿いの次の部屋への突入は、俺が先頭を務めた。ドアの隙間から投げ込んだフラッシュ・バンが炸裂する前に身を滑り入れて索敵すると、部屋の中央に茶の用意がされたテーブルを挟んで、二枚の敵が配置されていた。人質はいない。慣わしでMP5の銃口は初めから殺害対象へ向いており、あとはそこに細かな修正を加えるだけでいい。ライフル弾と比較して大人しい発砲炎が銃口に生じ、背後のショーンが銃を構える頃には、書き割りにおびただしい数の孔を穿いていた。
機械的な反復作業がその後も続き、最後の部屋には人質三人が転がされ、五枚の書き割りが乱立するという呆れた演出が待っていた。各々が無心で人体の急所を撃ち抜き、全目標の無力化の後、計六名の人質を回収しつつ廊下を駆け戻って施設を飛び出した。
今しがたの突入映像が再生されるモニター群を前に、隊員が押し合いへし合い集っていた。ポルノビデオの上映会だと説明されても、誰も疑問を抱くまい。映っているのは、暗がりで蠢く野郎だけだが。
映像を元に隊員の動きを分析し、各々の改善点を指摘するのが、教官らの仕事である。興味深いことに、ごろつきばかりの隊員らはそれらしからぬ態度で教習に臨む。克己心の塊であるが故に、適した餌を用意してやれば大人しいものだ。可愛いやつらめ、むさい顔をもっと可愛くしろ。
レスピレーターを額へ上げて汗を拭っていると、この後で指導を担当するはずのヴェストが肩を叩いてきた。
「喉が渇いた」
そう言うなり、こちらの手にレーザーポインターと無線式のマウスを押しつけて、食堂のある方角へすたこら歩いてゆく。あまりに自然な所作に、舐め腐った理由で指導役をなすりつけられた事実に気付けなかった。おい兄上、お恨み申し上げますぞ。餌を求める雛が涎を垂らしている手前、不承不承ながら、手垢まみれのマウスを手に講釈を垂れる羽目を喰った。
「えー、作戦においては隊員ひとりの失態が全員の死に直結する。なにがしかののトラブルが起きたら、すぐに大声で伝えろ。しっかり、でかい声でだ。どんぱちやってても聞こえる様にな。スタン、ちょっとやってみせて」
隊で一番背の低い同期のスタンを呼ぶと、嬉々としてやってくるなり、俺の首を掴んで自分の顔の真横へ引き寄せて叫んだ。「掩護しろ!」ちくしょう、ホルンに頭を突っ込んだみたいだ。年甲斐もなく身体を張るもんじゃない。凄惨な耳鳴りに襲われて吐きそうになったが、左の耳を庇って続けた。
「その……今の通りだ。ちょっとうるさいくらいで丁度いい。まあ一番大事なのは、無用な障害を避ける事だ。まずは銃をちゃんと整備しておけよ。俺が言えた義理でもないが、支給されてる玩具はお高いんだ。てめえの親御さんより大事に扱え」
選抜訓練を生き延びた者へわざわざ垂れる程の御託でもないが、軍人であれば聖書に加筆しても遜色ない項目だ。聞くところ――つまりは親父の受け売りだが、日本の板前は商売道具たる包丁を、常に最高の状態に保っている。さるべき時に、予定外の動作を起こす事態があってはならない訳だ。肝心なのは、どれだけ丁寧に整備を施しても、銃は支障に見舞われる可能性が付きまとう点だ。こればかりはヒト手の及ばぬ分野である。刃物と銃で部品数が違い過ぎるのがいけない。一般人は意識していないが、彼、あるいいは彼女らは――何らおかしな表現ではない――精密機器なのだ。油を定期的に注してやる必要があるし、汚れたら掃除しなければならない。部品が老朽化したら当該箇所の交換も必要で、甚だ面倒臭い。そして、だからこそ愛おしい。
キリングハウスでの訓練を十五時過ぎまでやり終えた隊員は、疲労の溜まった銃を丹念に労い、凄まじく『美味しい』料理の数々を無償で提供して下さる食堂でカロリーを補給した。本来であれば、俺もその面々に含まれていたのだが、ありがたいことに今日は違った。ブリジットがこしらえたベーコンのサンドウィッチが、空っぽの胃腸を癒してくれる。献立は朝食とは変わらないが、冷めて湿気たトーストでも味を保っていた。付け合わせに茹で卵が二つ用意されている辺りも抜かりない。
たいへんに優雅な食事時であったが、この至福を妨げる不届き者が身内にいた。つい三十秒前から、脂っこいロールケーキを片手にしたジェロームが、隣の席から恨めしげに睨んでいた。おまんまが不味くなるので、即刻止めていただきたい。パンの咀嚼を続けながら、茹で卵の拉致を企てる愚弟の、いけない手をはたき落とす。強かに内出血の生じた手をさすりつつ、お馬鹿な弟は不遜な目を向けてきた。何処に当方の落ち度がありまして?
「なあ、どんな子なんだよ」
互いに下賤の身上とはいえ、まずは他人の食い物を盗もうとした非礼を詫びていただけないだろうか。
「何が」
「ほう、とぼけるんだね。買ったんだろう? 奴隷だよ」
「今後は俺の前でその名詞を使うな。メイドとか、お手伝いさんと呼べ」
ジェロームはぽかんと言葉を失ったものの、不思議と反論はなかった。人間としてはろくな発言をしないが、動物的な直感は備わっている。単に霊長類の枠組みの中で、おつむが宜しくないだけだ。
「で、そのメイドさんってのはどうなんだよ。美人かい? それとも可愛いの?」
この男の発言であるから想定はしていたが、女と聞いたら見境のない駄馬である。出し渋る程の情報でもないが、こいつに教えるのはどうも癪だ。新月の夜に、うちの防犯設備を無力化してでも夜這いに来ないとは限らない。こいつの出自からすれば、それも不可能ではない。近い内に、兄弟と共謀して去勢手術を強行するべきだろうか。
二つ目の卵の殻を剥きながら返答に思案していると、食堂の入り口からショーンとヴェスト、おまけにダニエルが、春のミツバチよろしく飛んできて、俺を取り囲んで座った。こいつは参ったぞ、退路が断たれた。兄弟は、俺がメイドを家に招き入れたのを知っている。ダニエルは興味本位といったところだろうか。平静を装って卵の脱衣を続けたが、ジェロームが顎髭を武器にこちらへ詰め寄ってきた。「髪色は? おっぱいはでかいの? 別の大陸出身? いい匂いする?」止めろ! ちくちくした金色が痒い!
卵を一口で平らげ、悪辣ににやける野郎どもの顔を窺った。どうも逃がしてはくれないらしい。腹を据えるしかあるまい。
「……肌は色白で、たっぱは百六十センチもない。書類上の年齢は十八で、血液型はA型。髪色はくすんだブロンド。色味はそう濃い方ではないな」
「おっぱい」
しつこい弟だ。さしもの優しいお兄様でも、固めた拳をぶつけたくなる。
「……そう大きくは、ないんじゃないかな」
「ジャガイモくらいか?」
「いや……見たことはないが、そんなにひどい形はしていないだろう。おい、ダニエル。お前、こんな年寄り連中の与太話なんざ聞いても面白くないだろう。若者とお喋りしてこいよ」
色素が沈着したマグカップからコーヒーを啜る舎弟は、こともなげに肩をすくめた。
「この件に関しちゃ、俺も最初から関与してましてね。経過を知っておきたいんですよ」
ちくしょう、親族以外にまで俺の痴態が漏れていやがる。結局、俺は端からこいつらの掌で踊らされていた訳だ。すごく可哀想! そんな惨めな俺に、ジェロームが追い討ちを掛けてきた。
「じゃあ何だ、おっぱいの大きさに関しては頓着がなかったのか? それとも、おっぱいの小さい子を選んだの?」
「お前の頭が、おっぱいとおめこだけなのは知ってるよ。でもな、訊くにしても他にあるだろう」
「失敬な、尻とかふとももなんかも忘れるな」
お前に比べれば、大概の失敬なやつらは紳士だよ。ジェロームでは埒があかないと判断されたのか、ヴェストがこちらへ湯気の立つ紅茶のカップを差し出してきた。
「で、大枚はたいておいて訊くものでもないが、上手くやれそうか?」
カップを受け取りつつ、言い淀む。上手くやる? 歳の離れた女の子と円滑な関係を築きつつ、自らの傷跡を埋めるなど、安請け合いは出来まい。
「はっきり言って、かなり難しい。彼女……ブリジットは繊細な方だろうし、何の苦労もなしに済むとは思えない」
加えて、今朝の起き抜けの一件は大きなマイナスだろう。どう埋め合わせするかも見当も付かない。最初から絶望で真っ暗だ。意識がカップの内へ吸い込まれる錯覚で気分が塞いだところで、ヴェストが肩に手を置いてきた。
「いや、お前らしい返答で安心したよ。何かあれば連絡しろ。どうせ、既にだいぶやらかしたんだろう?」
多くの女が、彼に惹かれ堕ちる理由の片鱗を、身を以て味わった。この男の言動からは、下心が感じられないのだ。力強く温かい掌から、麻薬に近い成分が分泌されるのかもしれない。それと同時に、その女たちは彼の深淵に触れた途端に離れてゆくのだが……。
「近い内に紹介しろよ。こっちとしても、見知っていた方が対処しやすい」
俺とは方向性が異なりつつ、女性恐怖症を抱えているショーンが、魅力的な提案を示してくれた。お前さんのトラウマが治って、早くいい女が出来る事を祈るよ。
「家に帰りづらかったら、うちにも空き部屋のひとつつくらいありますぜ」
愛弟子にこうまで言ってもらえるとは思わなんだ。下手くそに微笑んで、近日、ギネスのケースを差し入れに行こうと誓った。
「いつでも電話してくれ」
鼻息荒くジェロームが寄越したメモ用紙には、きざな書体で電話番号が記されていた。おまけに、どぎつい香水まで振り撒かれているらしい。当然、俺はやつの電話番号も住所も把握している訳だから、こんなものを受け取る道理はない。そんな訳で、ヴェストからライターを借りてメモに着火した。おお、香水のアルコールでよく燃える。揺らめく炎の向こうで、馬鹿が悲しげに佇んでいた。
「なあ、兄ちゃん。独占はよくないよ。女の子はすべからく、健全な青少年の共有財産なんだから」
こいつも自分なりに俺の緊張をほだそうとしているらしいが、いつまで無垢な少年を名乗るつもりだろうか。お兄ちゃん、お前の行く末が心配だよ。いつか親族として事情聴取を受けそうで。
「でも、これでよく分かったよ。そこまで俺様を危険視するに、その子は相当の上玉と見える。だろう?」
「わざわざ推察してくれてありがとう。回答は控えさせてもらう」
返答に満足したのか、色魔が気味悪く口角を上げた。うわあ、捕食者の目だ。こんなのにブリジットを引き合わせたら、ひとたまりもない。いざ対面したが最後、こいつは銃を抜く様にジーンズのベルトに手を掛ける。そしてこう叫ぶ。「ばーん! おちんちんだあ!」ただでさえストレスの掛かっている彼女の心に、止めの一撃を喰らわせられるものか。今からでも、ブリジットの住居を別に借りようか? だが、親父に金を返すと啖呵切った以上は節約を心掛けるべきであるし、何より別居状態というのは当初の目的に反する。ここはジェロームの良心と道徳を信じるしかない。元よりその存在さえも疑わしいが。
かくして執拗なジェロームの訊問をやり過ごし、雑務を終えて帰路に就かんとしていた矢先であった。個人部屋から出た俺を、平服姿の親父が待ち構えていた。壁に背を預ける親父は、どうも真面目くさった面持ちで、俺に手招きして耳を貸させた。
「時間はあるか?」
鉛弾を千発単位でぶっ放して疲弊している身ではあったが、時間の融通は利いた。軽く頷くと、そのまま外の車庫へと誘導された。どうやら基地内で済む用事ではないらしい。
車庫に着くと、平服に着替えた兄弟とダニエルが既に待ち構えていた。ヴェストが自車の鍵を指先で弄んでいる。空気に幾分か張り詰めたものがあり、軽く飲みに行く雰囲気ではない。
「何処か座れる場所へ行こう。連隊のやつらが使わない店がいい」
相応しい場所に心当たりがあった。先日に、個人で利用した喫茶店だ。長居したところでお咎めもない。満場一致で会場が決まり、各々ヴェストと俺の車に乗り込んだ。こちらには、親父、ジェローム、ダニエルが乗った。
二台が走り出し、ヴェストの車を先導して十分も経たない内に、件の喫茶店に到着した。店内に客は我々の他におらず、急な身内の入店に備え、入り口を監視可能な奥まった席を選んで陣を構えた。我々に反してやる気のない店員が、席料代わりの注文を取りに来る。大概が紅茶かコーヒーのみを注文するのに対して、レアチーズケーキと、くそでかいパフェを希望する者がいた。前者は俺、後者は親父だ。人間が脳味噌を万全の状態に保つには、糖分が不可欠だ。単に甘味に飢えている訳ではない。
ソーサーにちょっと零れた紅茶を始めとした注文品が揃うと、親父が口火を切った。
「ここまで単にお茶に集まった、なんて思っているやつはいまい。これは他でもない、我らが愛するヒルバートの直面する課題に即応するための作戦会議だ」
ここに来てようやく当事者がその事実を認識したのだが、親父様は次男の理解速度など歯牙にも掛けなかった。
「俺は昨晩の内に例の子に会ったが、率直に言ってかなりの上物だ。器量もでかい。うちのヒルちゃんには勿体ない娘さんだな」
親父の評価を聞くや、ジェロームの瞳に獰猛な輝きが宿ったので、すぐに牽制した。
「誰かさんを煽る発言は止してくれ。こんにゃろうがうちに乗り込んで来たら洒落にならない」
「残念だな、煽るつもりで言ったのに」
もう帰ってもいいのではないか。そうも考えたが、せめてこのケーキを平らげるまでは動静を観ようと踏んだ。幸か不幸か、この決定は間違っていなかった。形の悪いクリームの山の一角を削った親父が、スプーンを俺へ向ける。
「まずは、ブリジットの情報が欲しい。あの子の購入時に、色々と書類を受け取っただろう。健康状態やなんかの記載があるやつだ。今もあるか?」
いやに詳しい父を訝しみつつ、昨日から入れたままの書類群を綴じたファイルを鞄から取り出す。先頭のページには、ブリジットの履歴書もどきが収められていた。各々が首を伸ばして書類を覗き込む中、ジェロームがブリジットの顔写真を視姦していた。
その場の全員が紙面の箇条書きに着目し、当然ではあるが、怪訝かつ不審を多分に含んだ視線をこちらへ向けてきた。月経の停止・過去の記憶の喪失に関する事情を説明しても、やはり納得を示す者はいなかった。
皆が情報に目を通すと、パフェを腹に収めた親父が悠然と語り出した。
「とりあえず、この国の旧き悪し奴隷制に関して幾つか確認を取ろう。少し長くなるぞ。飲み物の追加は?」
全員がかぶりを横に振り、紅茶で唇と喉を潤してから親父は咳払いをひとつやってから、右手を挙げた。
「あのー、店員さん? 〈オランジーナ〉を二つお願いしまーす」
締まらないおじんだなあ。
炭酸飲料のグラス二つが運ばれてくると、親父はひとつを半分干してから口火を切った。
「このバストアップからも分かる様に、我らがヒルバート君は並外れた面食いだ。そうだよな? それはさて置いて奴隷制だが、現代のこいつはかなり厄介で微妙で……ぶっ飛んでる」
親父は懐からメモ帳とボールペンを取り出し、毛むくじゃらの腕で概念図を描き始めた。クラプトンの家系でなければ読み取れない雑な線と図形が、紙上を乱れ飛ぶ。
「一言に奴隷制と呼んではいるが、その原型は今日じゃ見る影もない。西部開拓時代においては、黒人の輸入販売マニュアルに過ぎなかった奴隷制は、一九世紀まで経済の一端を担い続けていた。それがリンカーン台頭の踏み台を最後に、西欧社会での衰退を始める。だが、イギリス連邦というガラパゴスにおいては、卑しい進化が促された。お前さんらが知っての通り、このイギリス……それからお隣のアイルランドは異常なんだ」
親父がペン先で叩いている図は奴隷制の変遷を表しているらしいが、その意図を汲み取るには考古学者の解説が必要だろう。一杯目のオランジーナを飲み干してから、親父は重々しく語を継いだ。
「ヴィクトリア朝の勃興以来、我らが大英帝国は新時代に突入した。産業革命に伴って、お家仕事を押しつけるための使用人制度が最盛期を迎えた。今日に普及している奴隷は、このヴィクトリア朝時点における住み込みの使用人が原型となっている。当時の使用人と異なるのは、人権の全剥奪と、雇用主に俸給の義務がない点だな」
話題が深い場所へ潜るのに従い、心臓が締めつけられる思いに苛まれた。自分の過去を抉り返しているのだから、面白いはずがない。類似した経歴を持つ兄弟も、少々の動揺を喰らっているらしかった。
「奴隷売買のシステムに移るぞ。昨今のこいつは、売買契約成立時に利益の大半が奴隷販売業者に吸収される仕組みになっている。中間業者の介在は殆ど見られない。規模こそ凄まじいが、健全な経済活動と断じるには後ろ暗い部分が多い。だろうな。
続いて、実際に奴隷が雇用主の手に渡る過程を辿ろうか。奴隷の調達元だが、裏市場で実の親に売られたり、衣食を求めて自ら志願して奴隷候補となるのが大半だ。前者の場合は、手続きが完了した時点で元所有者――つまりは親族等に金が払われる。この金額は業者の査定で決定されるが、基本的には美形であるとか、それまでの経歴で秀でた技術を有している場合、高額が弾き出される。買い手が付かなかった場合は……そこまでは俺も知らん。ここまではいいか?」
システムの考案者を者を吊るし上げたい心地であったが、周囲にならって首肯した。親父は言葉を濁したが、孤児の最終処分場という裏道も、英国の悪習として根付いている。俺たち兄弟は、たまたま運が良かった。そうでなければ、くず肉に変じて家畜の腹に収まっていたやもしれないのだから。
オランジーナ一杯を一気に飲み干し、親父は表情筋を引きつらせながらも重い口を開いた。
「業務用としてではない高級奴隷……容姿の優れた奴隷は性奴隷として、顧客が求める優れた存在となるべく、大なり小なりの調教期間が設けられる。家事の能力や、市井と社交界の常識、主人の性欲を満たす技巧なんかを叩き込まれる訳だ。この書類を見るに、ブリジットは三年間、その調教を経ている。俺が知る限り、かなり長い方だ」
三年という期間を耳に、引っ掛かるものがあった。物言わず気付いたらしく、親父は目を伏せる。
「領収書の通り、ブリジットの売約は十万ポンドで結ばれている。ちょっと頭の回りが悪いやつでも気付くだろう。個人としては大打撃の額面だが、数万ポンドぽっちじゃあ、三年も養った業者側の手間に見合わない。年単位で衣食住を賄い、目的別の教育を施してやるんだから、学生を養育しているみたいなもんだ。黒字になんて手が届く道理がない。まして、うちの次男坊は分割払いを申し出てるんだ。何処かで下らない小細工が咬んでいるのが分かるな?」
親父は全員に目配せしながら、喫茶店の店員を一瞥した。三人の店員はこちらに目もくれずに、カウンターの奥で談笑している。接客業者として褒められたものではないが、この場においては好都合だ。
「一見すると慈善事業にも見えるこの金額設定だが、その実は調教期間中でさえも、奴隷販売業者は収益を生む術を確立している。それも、経費をごっそり削れる方法をな」
親父の顎に皺が寄る。
「風俗で働かせるんだよ。コンパニオンみたいな綺麗どころもあるが、大半は性的なサービス込みのマッサージ店があてがわれる。売却後の必須技術を習得させながら、店舗からは指名料の一部を掠め取るって寸法だ。これなら販売側は教習の手間がひとつ減るし、ついでに金も手に入る。企業や契約にもよるが、一部分が素体を提供した親に入る場合もある。いわゆる派遣社員みたいな扱いだ。駆け足にさらったが、以上が現代の奴隷制事情だ。疲れたから質問は手短にしろ」
トドみたいに唸って天井を仰ぎ、親父はカップに残った紅茶を飲み干した。明らかに、俺からの問いを待っている。控えめに挙手すると、待っていましたとばかりに指差しを受けた。
「売り手……つまり、ブリジットの血縁者と連絡は取れないのか?」
「不可能だ。個人情報の保護という名目で、業者は奴隷の出処に関して、絶対の秘密厳守を貫いている。まあ例外もなくはないが……そもそも、知ってどうするつもりだ?」
もっともな返しで、言葉に詰まった。奴隷への自己投影が過ぎた為に、生じた発言であった。
幼い頃は、実親への憎悪を糧にしていた時期もあった。血眼になって出生を手探ったが、DNA鑑定を以てしても、この血の起源は辿れなかった。揺り籠から墓場までの支援は、あくまで英国が保証する人間様のみに許されていた。それから数年も経つと、くすぶっていた残虐な復讐の種火も収拾を見せた。時間が全てを解決するとは、よく言ったものである。
だが、疑問はまだ残っていた。それも、国家に責を問えない範疇で。
「……あの子が奴隷としてでなく、ひとりの人間として満足な幸福を得られる様に、俺が出来る事ってあるのかな」
珍しく素直なせがれの問い掛けに、親父が言い淀む。
「心苦しいが、我々軍属がどうこうして、奴隷の社会的地位をいじくるというのは考えるべきではない。最近は奴隷制撤廃を掲げている政治家もいるが、口先だけの公約に過ぎない輩が大半だ。奴隷制そのものへの反対を主張する非営利団体も幾つか挙げられるが、何れも後ろ盾が不在だし、それこそ不穏当なロビー活動の温床が殆どなのが現実だ。
奴隷保護を名目とする法整備も不十分で、奴隷本人の証言は法廷において無力に等しい。未だに、その名詞だけで差別意識を催す輩は珍しくないし、施設利用を規制する動きもままある」
表情の陰った面々を見かねてか、親父は意識的に目許を緩ませた。
「だが、何も悪い話ばかりじゃあない。奴隷への追い風があるのも確かだ。昨晩みたいにメイド服でめかしてやるのも、穴だらけのシャツとジーンズでビッチを気取らせるのも自由。服装に関しての規制は、今やなきに等しい。変な噂を立てられたいなら後者を推奨だ。まあ、俺はせがれがどんな趣味でも否定はしないが……既に見ちまったからなあ」
それまでの空気をぶち破った親父が、人体の骨格を超越した半眼になる。
「それに、奴隷を養子として迎え入れる資産家だっているくらいだ。大量の資格で武装した、奴隷出身の起業家だっているんだぜ? 昔に比べれば、仕える主人で当たりを引けば、そう生き辛い時世でもないって事だ。お前はどっちだろうな?」
にい、とチョコレートにまみれた歯を覗かせる親父に苦笑する。無論、こちらも悪い様に事を運ぶ意志はない。要はつつがない会話を繰り広げられる間柄を醸成する指標を掲げつつ、己が心的外傷の治癒を見守ればいいのだ。これまで、一度として実を結んではいないが。
喫茶店を後にすると、各々が自宅や酒場へと勝手に向かった。自分の車のドアを開ける間際に、親父がぬうと隣に現れたので、少し漏らしそうになった。
「お前、あの場では格好つけてたくせに、本当はもっと別に気になっている事柄があるだろ」
「何だよ、気味が悪い」
俺の返事をそのまま履行し、親父は息の掛かる距離で耳打ちしてきた。
「安心しろ。あの子はきれーなまんまの生娘だ」
頭の右半分が吹き飛んだ。コンマ数秒後に見当識を取り戻して何かを言う前に、親父はヴェストの車へ乗り込んでいた。どういった意図の発言だろうか。単なるフカシや気休めなら、まだ理解できる。だが、先の声音には確固とした真実味があった。
「業者は奴隷の出処に関して、絶対の秘密厳守を貫いている」
同一人物による矛盾した発言に、ここ数日で味わったものとは別の頭痛を覚える。俺の知り得ぬ何を、あの親父は知っているというのか。
帰路を辿ってBMW]のハンドルを握る左腕で、時計が十七時を過ぎを指していた。 先程の親父の説明、ブリジットへの接し方、周囲の協力……いずれも、数日前には想像だにしていなかった要素だ。何処へに転ぶやも知れない状況だが、この不確定な現状を不快と思わない自分がいた。取りも直さず、大人げもなく期待していたのだ。国家を揺るがす事態さえなければ、暇な身なのだ。しばらくは退屈せずに済むと思えば、そう悪いことばかりではない。バックミラーに、眉根を寄せて口元を緩ませる間抜けが映り込んでいた。