"影"の仕事は嶺奇の捜索。そういう事になっている。実際にはもう少し細かく分けることができる。嶺奇の捜索のためには情報収集が必要で、それに伴って他の鬼の情報も入ってくる。近ければそれを討伐し、噂程度ならひとまず本部へとその情報を回す。実態としては大半がそれだ。嶺奇はなかなか尻尾を見せない。嶺奇への手がかりとして、操られた鬼や人に遭遇することもある。鬼なら討伐し、人なら助ける。助からない人はその命を奪って供養する。
それが他の者たちに知られている仕事で、それ以外の仕事も存在する。むしろそちらが本命だった。それこそ"影"という言葉らしい仕事だ。要は隊員たちも探る対象になるのだ。嶺奇に操られていないのか。あるいは、嶺奇以外にもそういう鬼がいるかもしれない。そんな可能性があるため、仲間を疑うことも仕事になる。
そして、必要があればその者の殺害をする。
隊の不利益になること。情報を売ったり、仲間を手にかけたり。いわゆる『裏切り行為』をした者の処罰も誠の仕事だ。剣士も隠も鍛冶師も関係なく。洗脳されている場合、本人にその自覚がない。防げないものかと模索したが、その者の行為は無意識下で行われる。誠は手にかけるしかなかった。
そういう仕事もやる必要が無くなる。総力戦が近づいており、今さら何も隠す情報がない。輝哉から届けられた手紙にもその旨が書かれており、今回で影の仕事が最後だと確定した。
「悪いの。わざわざ足を運ばせた」
「いえ。仕事ですので」
「ふんっ、その前に少し茶でも飲まんか。この老いぼれの最後の教え子の様子を聞かせてくれ」
「知っていることは少ないですが、その限りを話しましょう」
誠が会いに来たのは、元鳴柱である老人。片足を失ってから育手へと転向した人物だ。歴に比例してこれまで教えてきた者たちは多く、最後の教え子は二人。その一人が我妻善逸である。
囲炉裏を挟んで向かい合い、出された茶をいただく。もう教え子を取っていないようで、家の中は誠と桑島慈悟郎の二人だけ。誠は善逸と一緒に任務をこなしたことはない。炭治郎や伊之助から任務時の様子を聞いたり、真菰から又聞きした内容だけ知っている。それ以外は蝶屋敷での様子だけだ。
それを包み隠さず話すと、あからさまに桑島から不穏な気配が立ち上り始めた。だが、本人としても元気にしてくれているのが一番なようだ。
「迷惑をかけておるようじゃが、堪忍しとくれ」
「本気で嫌っている子はいませんからね。本人の芯の部分が腐っていないからでしょう。そこを伸ばした桑島さんのおかげでもあります」
「持ち上げるでないわ」
「いえ、善逸はなんだかんだあなたの教えを大切にしてますよ。相変わらず鍛錬は嫌いなようですし、鬼との戦いも嫌がってますが、桑島さんのことを誇りに思っているのは間違いありません」
「善逸のやつめ。まったく……いつまでも世話の焼ける」
苦言を呈しているが、その顔は満更でもなさそうだった。桑島は教え子達に誠心誠意に向き合う。いつだって本気で、真剣で、相手のことを理解して信じている。それが善逸にも分かるから、だから善逸も桑島のことを「じいちゃん」と言って慕い、教わったことを大切に覚えている。
桑島が茶を飲み、湯呑みを置くと雰囲気を変えた。善逸の話は終わりらしい。
「あやつは……獪岳は本当に鬼になってしまったのか」
「……そう報告を受けています。獪岳の鴉や他の隊士の鴉もそう言ってますので、間違いないのかと」
「そうか……」
僅かな至福の時間も終わり、桑島は誠を連れて外に出る。しばらく歩くと、小丘の上に一本の木が生えている。その木の下には、
「必要があるとは思えないのですが」
「いや。儂の下から鬼を輩出した。お館様に顔向けなどできぬ。散っていった者たちが報われん! 儂が代わって詫びるしかないのじゃ!」
「……」
「儂はお主の仕事には反対じゃった。そんなものはいらぬじゃろうと。だが……それができた経緯を踏まえると、の。……今は少しだけ良かったとも思っておるよ」
「なぜですか?」
「こうして話ができた。伝えたいことを直接言える。その機会ができたのも、影ができたからじゃろう」
「利永めの置土産のことは聞いておる。あやつも儂の下から飛び立った男じゃ。……つくづくお主には迷惑をかけておるな」
「あの人からは助けられたことも多いですよ」
「……お主が苦しんでおることも知っておる」
「……」
「利永が用意した道を歩いておることに、お主自身苦悩しておるじゃろう」
桑島の言葉は当たっている。誠のことを知らないはずなのに、見事に言い当てている。年の功とでも言うべきだろうか。
「じゃが、その道を変えることはできる」
「っ!?」
「利永の道ではなく、その道を泰富誠の道と考えよ。この違いは大きいぞ。たとえ用意されていたものであろうとも、誠自身が自分の足で歩いておるのだ。それを自分の道と言わんでなんとする。その道についている足跡は誠のもの。進む足も誠のもの。ならば、"そこから見えるもの"、"その先に見えるもの"、その全てが誠自身のものだ。胸を張って進め。決して偽物などではないぞ」
鋭い視線で見上げられる。その視線、言葉が誠の中で電流として迸る。誠の中で何かがこじ開けられ、一気に見える景色が変わった。それに戸惑う様子を見て、桑島は笑って小刀を抜いた。
「元柱桑島慈悟郎、鬼になった者の罪を貴殿の首を持って……」
「躊躇うな! あとは駆け抜けよ。道の終着は近いが、新たな道が待っておる。大切な者と歩んでいけ」
「……っ、貴殿の首を持って償っていただく」
「承知。ぬんっ……ぐっ……!」
「さようなら、桑島さん」
鮮血が走る。
誠はその場に佇み、呆然と空を見上げていた。晴れた空の中雨が降り始め、誠の頬を濡らしていく。
「誠」
「……岳谷さん?」
「弔いは俺がしておく。お前はお前の居場所に帰れ」
「……いえ、手伝います……。手伝わせてください」
「ったく。んな顔でよく言うぜ」
頭をガシガシと掻き、誠の背中をぽんと叩いてから二人で桑島を弔う。それが終わると、岳谷は誠をぐいぐい押して帰らせ、途中の分かれ道で自分も帰っていった。
自分の先生である岳谷と別れてからは、どこからともなく飛来してきた土佐右衛門を肩に乗せて帰っていく。土佐右衛門の軽快な口調が、誠に小さな元気を与えていく。
重たい足取りでも着実に進んでいき、行きよりも時間をかけて、なんなら日数すら増して天元の屋敷へと戻ると真菰の下へと歩いていく。屋敷に戻った時点で土佐右衛門は肩から離れ、隊員たちも数日の間に全員次の柱の下へ向かったようだ。庭で花を愛でている真菰を見つけ、真菰も誠に気づいて歩み寄る。
「おかえりなさい」
「真菰……」
「わっ。大丈夫……じゃないね。お疲れ様。ゆっくり休んで」
「うん……」
真菰を抱きしめ、弱々しく俯く。真菰は何も聞かず、誠の頭をそっと撫でて受け止めていた。真菰の存在が、その優しさや温もりが、擦り減った誠の心を癒やしていく。
時を忘れるほどその時間は幸せで、手放したくないと強く思えた。それでもやらねばならないことがあり、そのために真菰もそれを促した。
「悲鳴嶼さんが、誠が戻ったら来るように伝えてって言ってたよ」
「悲鳴嶼さんが? それは行かないと駄目か」
「うん。だから戻ってきたら、ね?」
口に指を押し当てられる。珍しく艶っぽい真菰に魅了されるも、用事があるために堪えられた。戻ってすぐになってしまったが、誠は宇髄邸を出ていく。それを見送った真菰は、その姿が見えなくなるとそっと自分の胸に手を当てた。
「はぁぁー、すっごいドキドキしたな~」
慣れないことは恥ずかしい。耳まで赤くなった真菰は、しばらく風に当たって体を冷やした。
悲鳴嶼行冥がいるのは山の奥深く。滝や大きな岩があり、それら自然のものを訓練に扱うのだ。ここに到達した者もここの試練で大苦戦している。柱たちの試練をすぐに突破できる者がなかなかおらず、天元が「質が悪い!」と文句を言っていたが、行冥の試練は難易度が最も高い。過酷さで言えば実弥が一番だ。
隊全体の強化を図るこの『柱稽古』なわけなのだが、死んでは元も子もない。滝に打たれて気を失っている隊員を見つけ、誠はそれの救出に駆り出されていた。
「ゲホッゲホ! うえっ……はぁはぁ、助かりました……」
「ギリギリまで追い込むのはいいが、やり過ぎると死ぬから塩梅には気をつけろ」
「はい」
「ところで、悲鳴嶼さんは?」
「たぶんこの時間ですと……あ、やっぱりあそこですね」
「……あの人も大概人外だな」
巨漢である行冥をも超える巨岩。念仏を唱えながらそれを押し続ける姿を見て、誠たちは行冥を人外判定した。異論は一切出なかった。
「悲鳴嶼さん。何か俺に用ですか?」
「来たか。場所を移そう」
「?」
他の隊員に聞かれたら困るものなのか。誠は首を捻り、この場で訓練に挑んでいる隊員たちを見渡す。全員こっちに意識を割く余裕などない。死に物狂いで向き合っていた。伊之助と善逸も岩を動かそうと全力を注いでいる。
前向きな伊之助はともかく、訓練を嫌がる善逸が真剣に向き合っている理由など一つしかない。誠は罪悪感に潰れそうになると、行冥が乱雑に頭をなでた。無言だったが、気を遣っているのだろう。行冥ならば仕事内容を知っていてもおかしくない。それにもう終わったことだ。今さらどうとも思わない。
行冥は場所を移し、誠は後ろをついていった。少し山の中を進むと、先ほどの岩ほどではないにしても、大きな岩があった。少し分かりにくかったが、この岩も移動させられた跡がある。その跡は古く、1年以上は前のものだと推測された。
「これは?」
「かつて胡蝶カナエが動かしていたものだ……」
「!? カナエが?」
「あの子の成長は凄まじかった……。利永も『並ばれるかもしれない』と話していたほどに。あの男はそれを楽しみにしていた節もあったな……」
「そのための鍛錬でここに?」
「うむ。柱になる少し前からカナエは私の下に訪れ、やっている鍛錬を教えてほしいと頼んできた……」
カナエとしのぶは、その昔行冥に助けられた姉妹だ。両親を鬼に殺された日。それが行冥との出会いの日でもあった。人伝いに情報を集め、お礼を述べに家を訪ね、そして行冥とのある勝負に勝って育手の下へ送られた。そんな経緯から、カナエもしのぶも行冥のことを尊敬している。見た目からして分かりやすい強者感。そしてそれを裏切らぬどころか、期待以上の実力を持つ行冥。そんな彼に、カナエは修行をつけてもらっていた。ちょうど誠が利永に鍛えられていた頃に。
「私もあまり時間が取れなかった。方法だけ教え、それ以降はあの子一人でやっていた……。時折見ることはできたが、鬼気迫るものを感じた……」
「カナエがそこまで?」
「信じられぬだろう? 私もそうだった……。カナエは誰よりも優しく、誰かが傷つくことを嫌い、鬼すらも哀れむ子だった……。そんな子がどうしてと思い、聞いたことがある」
休憩させ、なぜそこまで強くなろうとしているのか聞いた。カナエは戦い自体が好きなわけでもなく、可能なら戦わない道を選びたがる。そんなカナエが、なぜそこまでして自分を鍛え抜くのかと。そう言われたカナエは、頬をかきながら笑っていた。
『それでもしのぶと選んだ道ですから。しのぶとの約束もありますし、……放っておけない人もいるので』
「そう言っていた。自分たちが戦い続けるのなら、その者も戦いの道を歩くのだろうと……。それならば、強くなって守れるようになりたいのだと。肩を並べられるように……」
「……カナエの方が断然強くなりましたけどね」
「否定できんな……。ふっ、私は君に感謝している」
「感謝されるようなことしてないと思いますけど」
「君の存在が、あの姉妹の生活を色づけた……」
「…………買いかぶり過ぎですよ」
自分の存在はそこまで影響を与えない。カナエもしのぶも、二人揃っていればそれだけで笑顔を咲かせていた。自分はただそこにいただけ。その場にいて、二輪の花を見ていただけに過ぎない。
「私はあの二人が入隊することに反対だった……。優し過ぎる姉と首を斬れない妹。性格と身体。どちらもが決定的に欠如していた……。結局入隊したが、叶うことならああいう子らはこのような世界で生きず、平穏に暮らし、恋をし、家庭を築いてほしいと思っている……」
「そこは同意できます。皆、そうなればいい」
「そうだったな……」
誠も似たようなことを会議の場で堂々と言いのけていた。鬼を憎む心が根底にないからなのか。行冥には言えないことを誠はやっていた。もしかしたら、そういう部分もカナエは気づいていたのかもしれない。
『あの人は目を離すと死んじゃいそうなのに、人のことはちゃんと見てるんですよ。何も見てないような目で、その人が目を逸している部分を見てるんです。そういう事されると、普通の生活を送りたくなっちゃうんですよね。みんなで笑って、一緒に食べて。"行ってらっしゃい"とか"おかえり"とか言う生活。あの人といると、そういう事したいなって。そう思っちゃうんですよ』
「私はこの目で見ることはできないが、それでも間違いなくあの子は満開の笑顔でそう語っていた……。それを言わせたのは、泰富。お前自身だ。しのぶも感謝しているものがあるだろう……」
「……そう、ですか。その時から……」
「私が伝えることは伝えた。他にも話すことがあるかと思っていたが、どうやら杞憂で終わったようだ……。疲れているようだが、いい気配だ」
「ようやく一本化されましたからね。俺も覚悟というやつができたようです」
「では、いいんだな?」
「はい。柱になります」
誠の柱就任。それはすぐに知らされることとなった。柱たちも各々にリアクションを取ったが、柱稽古を受けてる隊員たちは絶望的な心境に至った。柱がこのタイミングで増えたということは、柱稽古がまた一つ増えたということ。地獄とはここだったのかと嘆いていたという。実際には増えないのだが。
行冥との話を終えた誠は、戻る道中で実弥の屋敷に寄った。特に理由もない気まぐれだ。炭治郎と揉めたという話を聞いて、ちょっと揶揄おうとかそんな邪な考えはない。
「帰れェ」
予想通りのことを言われた。心底嫌そうな顔をしている。だが門前払いは面白くない。どうにか話をしようと苦悩する誠を、思わぬ人が援護した。
「そう言わずに、同期で集まるのも良くない?」
「真菰!? なんでここに」
「誠に会いに来ただけだよ? ついでに実弥と話すのもいいかなって」
「お前らマジ帰れよ……」
「いいじゃん別に~。これ、蝶屋敷の子たちが作ってくれたおはぎ。あげる代わりに少しくらい話そ?」
「それがあったら全部うまく行くとでも思ってんのかァ?」
餌付けされる子供のような扱いに実弥が怒り心頭する。真菰もそれ一つで事が運ぶとは思っていない。結構遊び感覚でそれを言っている。おはぎがあるのも、誠と食べようと思ったからだ。食べ歩きは行儀が悪いが、たまにやりたくなったり。
「軽く話すだけでも駄目?」
「俺は話すことなんてねぇんだよォ」
「私はあるんだけどな~。炭治郎と喧嘩したみたいだし?」
「チッ」
真菰と炭治郎は同門だ。姉弟子にして炭治郎の先生も少し兼ねていた。弟弟子が起こした騒動のことも、話をしておきたいのである。実弥にとってはイラつく話なので、ストレスが溜まる一方なのだが。とはいえ、真菰が甘い人間でないことは実弥も小耳に挟んでいる。炭治郎寄りであっても、どんな時でも炭治郎の肩を持つわけでもない。ちゃんと状況を精査するタイプだ。
「ここでいいだろォ。さっさと話して帰れ」
「うん。あ、お酒飲む? 持ってきたけど」
「なんで?」
「お前こいつどうにかしろよォ」
「無理無理」
もはや強制だった。真菰が袋から酒を取り出し、お猪口も人数分取り出す。お猪口は4つ用意していたようだが、元々の想定がどうなっていたのかは実弥と誠には分からなかった。
屋敷の門にある段差で腰掛けることになり、二人の間に誠が挟まれる。場合によってはサンドバッグになりかねないが、真菰のためならそれでもいいかと腹をくくった。
「炭治郎から話を聞くだけだと偏るからね。善逸にも聞いたし、玄弥からも聞いたよ。それでだいたいの状況は掴めてると思ってる」
「……ケッ、なら話すこともねぇんじゃねぇの?」
「実弥からは聞いてないもん」
「俺は話す気ないっつってんだろォがァ」
「気恥ずかしいとかか」
「泰富お前喧嘩売ってんのかァ?」
お猪口に罅が入り、実弥の怒気が増していく。胸ぐらを掴まれそうな勢いをやんわりと落ち着かせ、どさくさに紛れて実弥のおはぎを食べようとする。本気で叩かれて阻止された。叩かれた手が赤く腫れている。
「まぁ実際問題。兄弟のことに外野がとやかく言うのも鬱陶しいだろうからなー」
「分かってんならあのガキに言い聞かせとけやァ」
「炭治郎と会ったらな。けど、玄弥に友達ができたのはよかったんじゃねぇの?」
「知った口聞くなァ」
「照れ隠し?」
「女じゃなかったら殴ってるからなテメェ」
男同士で通ずるものがある。それで誠はニアピン程度に実弥のことを察するし、実弥も誠のことをある程度察する。だから違和感を掴めて話を聞き出していた。その感覚は異性にはとんと分からない。少し置いてけぼりになってるのが、真菰には面白くなかった。
だが、異性でも、その感覚が分からずとも相手を分かることはできるのだ。それが得意な女性もまた、同期にいる。
『不死川くんはすっごい良い人なんですよ? 口調が荒っぽいし、行動も怖い感じだけど、不器用さが出てるだけなんです。弱い人、向いてない人に特に厳しいのは、その人が命を落としやすいから。そういうやり方しかできないんですよ』
「カナエのやつはお前のことそう言ってたよ」
「あの屋敷の人間はお節介な奴しかいねぇなァ」
「おせっかいじゃないもぉん!」
「あァ? ……こいつ……」
「真菰さん。酔ってらっしゃる? え、そんなにお酒弱かったんだ……。ならなんで持ってきたの!?」
目の焦点が時折ズレ、顔が赤くなっている。まさか持ってきた張本人がこんなに弱いとは思っておらず、誠は焦り、実弥は呆れていた。誠が介抱している間に実弥はふと酒が入っていた容器を揺らす。中からは水の音が一切しない。男の感覚についていけなかった真菰が、次々と酒を飲んで空にしたのだ。
「馬鹿だろ……」
「ばかはさねみもでしょー」
「はァ?」
「まこともー、みんなもそぉー! ……すきなひとといっしょにいたいのは、みんなそぉーなの。はなれて……いくほうがぁ……わるいのぉ。……すぅ、すぅ」
「……寝ちゃったか」
「ったく。お前んとこの奴らにゃァ調子狂わされる。酒も無くなったから帰れ」
「ああ。真菰も寝ちゃったしそうする」
片付けは実弥がすると言い張ったため、誠は寝入った真菰を背負って帰路につく。その誠に、実弥は背を向けたまま声をかけた。
「泰富ィ」
「どうした?」
「諦めんなよ」
「……ありがとう。お前も死ぬなよ」
真菰を宇髄邸へと連れて帰ってから数日。一度蝶屋敷へと戻ると、しのぶが出掛けてから帰ってきていないと聞いた誠は、「何か仕事なんだろ」とアオイたちを落ち着かせてしのぶを探した。よっぽどの極秘事項のようで、しのぶがどこで何をしているのか掴めない。だが、それはそれで逆利用できる。
『情報を隠すってことは、隠し方を掴みさえすれば逆に手がかりになる。人の意図が必ずそこにあるんだからな』
元忍である天元の教えの一つだ。誠はこのやり方に何度も助けられている。隠すということは隠したい意図があるということ。しのぶしか知らないことで、誰にも知られないようにしているのも、それ相応の理由があるから。この状況で警戒すべきはただ一人。鬼舞辻無惨だ。
(そうなると、探さないほうがいいんだろうな。こういう"目"もあるし)
陰に隠れていた"目"を潰す。その目には「肆」の文字が刻まれており、誠はそれで向こうの狙いを察した。その"目"は一体ではなかった。誠を見ているやつも三体いた。他の隊員たちも見られていると予想したほうがいい。
(俺たちを一人残らず消す、か。問題はしのぶが見られたかどうかだな。せめて、何をやっているのかを知られてないのがいいが……。よし、目を探そう。変に潰すとそれで悟られるしな)
自分ができることを、相手ができないとは思わないほうがいい。それは岳谷の下で何度も言われてきたことだ。突飛な才能を持つならまだしも、平凡なお前にはそれができないと考えろと。浸透しているものであるほど尚更だ。
そうやってしのぶを追う目を監視していたのだが、肝心のしのぶに誠が見つかった。しのぶは自分の居場所を探り当てた誠に驚き、いつものように怒るのかと思いきや微笑で済ませた。
「怒られるかと思った」
「そう思うのならやめてください」
「屋敷の子らが気にしててな。ひとまず大丈夫だと鴉を通じて伝えといたぞ」
「それはありがたいですけど、そのまま誠さんも帰ればよかったのでは?」
「ちょっと気がかりもあってな。しのぶが鬼と協力してることとか」
「っ、そこまで気づいたんですね」
しのぶの笑顔が引きつる。建物の中に入らせてもらい、目が追ってきていないことも密かに確認する。これなら大丈夫だろうと安心し、誠はしのぶから話を聞いた。輝哉からの指示で、志を同じくする鬼と協力してある薬を作っているのだと。
「その薬については?」
「さすがに教えられません。完成はしてます。私も今日片付けを済ませて帰ろうと思っていました。あの方はすでに出ていってますし」
「ふーん?」
「……なんですか」
「いや。カナエが喜びそうな展開だなって思っただけだ。人と歩み寄れる鬼がいて、しのぶがその鬼と協力してるんだから」
「私は……お館様の指示でやっただけです。……姉さんのようには割り切れませんよ」
こういう鬼もいるんだなと思いながら協力はした。だが、しのぶの腹底にある鬼への憎悪は消えない。共に研究を進めたものの、ストレスは溜まりまくっていた。少しでもおかしな動きがあれば刺し殺そうと考えていたほどに。
「でも最後まで協力できた。しのぶなりに割り切れてるじゃないか」
「詭弁ですね」
「カナエはカナエ。しのぶはしのぶだ。どう足掻いても変わらない事実で、実際に鬼と協力して完成させたのもしのぶ。上手くは言えないが……お疲れ様」
「いろいろと言葉を諦め過ぎでは?」
相変わらず無知なところは抜けないなと半眼で誠を見つめる。誤魔化すように笑っている誠に、仕方ない人だとしのぶも肩の力を抜いた。そのまま軽く頭を胸に押し付ける。
「少し疲れました」
「少しじゃないだろ。お前はいっつも頑張り過ぎるからな。アオイがまた心配しながら怒るぞ」
「あの子……ふふっ、少し癖になっちゃったんですけどね」
「ぜひともやめてやれ」
本気で心配していて、アオイの方が倒れるんじゃないかとさらに周りが心配しているのだ。ミイラ取りがミイラになる、なんて展開になりかねない状況が、蝶屋敷でずっと続いていた。それももう終わるのだろうと思うと、感慨深くもなる。肩の力を抜いているしのぶをそっと撫で、そういや年下だったと思い出す。
20にもなっていない若さで、何人もの命を背負い、隊に欠かせない存在となった少女。皆、この小さな背中に頼り過ぎた。
「しのぶ」
「なんですか?」
「今までありがとう」
「どうしたんですか急に。らしくなさ過ぎて気持ち悪いです。……不安になるからやめてください」
「別に死ぬわけじゃない。そうなりかねない戦いが迫ってるけど、死ぬ気はないよ」
「ならなんで? どうしてそんな顔するの? 嫌……その顔やめて! あの時の姉さんみたいな顔しないで!」
「緊急招集!! 緊急招集!!」
扉をガンガン突きながら鴉が叫ぶ。まだ誠に言いたいことがあったが、遅れるわけには行かない。誠としのぶは同時にそこを飛び出した。ついでに目も潰したが、もう意味はないのだろう。
"その時"は来た。
先を走る誠の背中を見つめる。ついさっきの表情が脳裏に蘇る。カナエの表情も蘇り、しのぶは首を振ってどうにかそれを霧散させた。今連想しないでほしかったから。
「もう一度言っとくが、俺は死ぬ気なんてない。しのぶもカナヲも死なせない。もうこれ以上、家族を悲しませない」
「信じていいのよね?」
蟲柱としてではなく、普通のしのぶとして聞く。一瞬たりとも振り向いてくれなかったが、その質問の答えはその背中で語っていた。いつにまして大きく見える背中。頼りがいがあり、信じていいのだと自然に思わせてくれる。
山をかけていく道中で、産屋敷邸が爆破される。その衝撃に足を止めそうになったしのぶを、誠が手を掴んで走らせる。今は止まる時ではない。
そうして駆け抜けると、焼け野原となった場所に無惨と行冥、そして協力者である珠世がいた。他にも続々と柱たちが集結する。全員がほぼ同時に技の型に入るも、足元に別空間が広がる。
(
鬼たちの城──無限城。それがこの決戦の場となった。目があったのも、隊員たちを対象とするため。だが、閉ざされた空間に入るのはお互い様だ。見方を変えれば、敵を殲滅する絶好の場である。
(いるな。ここにいやがる)
「しのぶ!」
「っ! 誠さ──」
この一瞬でしのぶと少し離れた。互いに手を伸ばすも、手が届く前に間に障子が入って遮られる。それにより、しのぶとは遠く離されてしまった。
時は少し遡る。
誠がしのぶを探していた頃、蝶屋敷では過去一番の騒ぎが起きていた。きよが大声で叫び、なほが驚きのあまり腰を抜かし、すみが片付けていた洗濯物を放り投げ、アオイの手から包丁が壁に突き刺さるほどの騒動だ。
きよの声に全員がある部屋に集まり、年長者であるアオイが恐る恐るそこに足を踏み入れる。その部屋の主は、皆のその様子をおかしそうに笑った。
「うーん、呼吸は使えないみたいね~」
「あ、あの……っ!」
「あらあら、みんな泣きそうね~。私みんなの笑顔が好きなのだけど……。それよりごめんなさい。書くものを用意してくれるかしら?」
「ぐすっ、はい、すぐに!」
涙を拭きながらアオイが部屋を駆け出して行く。「走ったら危ないわよ~」と言っても、聞こえてなさそうだ。成長してるはずなのに、変わらないところもあって可愛らしい妹だなぁとほっこり。それもすぐに切り替えて、必要なものを揃えるために頭を働かせる。
「あとは鴉──」
「私ガイルワヨ」
「あら~? 他の人には就かなかったのね」
「冗談ガ好キネ」
開いていた窓から鴉が入ってくる。そのタイミングの良さに、さすがだなーとフワッとした感想を漏らす。
紙とペンをアオイがすぐに取ってきて、堪えられない涙と共にそれを渡した。
「ありがとう。みんなに心配かけてたわね」
「いえっ……! お目覚めになられて何よりです……カナエ様……!」
はい、決戦です