水に食われる
水野 生
水に体が食らいつくされる。
水は俺の体を食べたがっている。
水は生きている。生きているんだ。
誰もそれを知らない、俺以外の誰も。
もしかしたら、俺以外にも誰か、気づいたやつがいるのかもしれないが、俺はそいつの名前を知らないんだ。
俺の知る限り、水が生きているということに、水が俺たち人間の肉体を、肉を食らう獣のように食べたがっていることに気付いているのは世界で唯一人俺だけだ。
俺以外誰も、俺以外の人間は誰も、理解してくれないんだ、俺の訴えを。
ほら今だって、ベッドの上で震えている俺を見ながら、愚か者たちが真剣な面でひそひそと、俺に聞こえない程度のささやき声で言葉を交わしあっている。
……飲み水さえ、口にしようとしないのですか? あの患者は。
……ええ。頑として。あの通り、無理やり点滴して、栄養を補給させてやってはいるのですがね。
……排泄は?
……それも全く。少しでも水がたまっているところには、どんなところであっても近づきたがらないのですよ。そっちの処理も我々が、まあ力づくで処理しています。
…・・・難儀ですね。似たようなものなら、なくはない。ただ彼の場合は、特異な妄想がその根拠になっているという点が、類似の症例とはかなり異なっていますね。「水に食われる」という……。
黙れ、黙れ、黙れ!
おまえたちは知らないんだ! 誰一人として、知らないだけなんだ!
子どものころ、母さんに海に連れられて行った時から、俺が知っていることすら、おまえたちは知らないだけなんだ!
その日、もうとっくに海水浴のシーズンが過ぎ去った肌寒い日に、母さんは俺を海につれてきた。
その日、俺は人生で初めて、絵や写真や映像じゃない本当の海を、この眼で見たんだ。
海は、生きていた。
海。
おぞましい海。
巨大な海。
ちっぽけな俺を、一瞬の内に飲み込んでしまう大きな海。
絶対に底が見えない、場所によって無限の色合いを見せる海。
ただの一瞬だって同じ形を保たない、常に不断にその表面の形を波打たせ、変え続けている海。
ただの一瞬の内に、俺の立っている砂浜を沈めてしまう海・・・・・・。
いまでもまざまざと、俺はあの日見た海のことを、まるで今目の前にあるかのように、思い浮かべることが出来る。
あの日、海を見ながら、俺はいつの間にか泣き出していた。
怖かったから。
海が今にも、自分を飲み込んでしまいそうで、生まれて初めて、自分の前に突き付けられた「死」そのものの力が怖くて、でも自分にはそこから逃れることが決してできないというその事実そのものが怖くて、俺は泣いていた。
泣き続ける俺を、ぎゅっと抱きしめてくれた温もりも、俺は今でも思い出すことが出来る。
母さん。
あの時、俺を抱きしめてくれてありがとう、母さん。
きっとあの時母さんは、俺がなんで泣いたのか、きっとよくわかっていなかっただろう。
俺を抱きしめながら、一体どうしたの、どうして泣いているのと、心底困ったような声色で、耳元にささやいてくれたのを覚えている。
でもそんなこと、どうでもよかった。
だって母さんは、泣いているおれを、抱きしめてくれたんだから。
あの時俺は、襲い掛かる恐怖から救われたんだ。
母さんの腕に抱かれることで。
母さんの腕の中で俺の心は安らいだ。母さんの優しい腕が俺の心を守ってくれたんだ。
ああ、母さん。
本当にありがとう、母さん。
あの時、母さんのおかげで、俺は泣き止むことが出来たけれど。
今、母さんが俺を守ってくれたことを思い出すだけで、その記憶が自分にあることが嬉しくて、俺は思わず泣いてしまう。
涙が、頬を零れ落ちていくよ。
・・・・・・。
涙?
俺は、眼を開いた。
ベッドのシーツが、濡れていた。
水が、「俺の横たわるベッドの上に」あった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
いやだいやだ、水だ! 水が俺の目の前にある! 殺される! 俺は水に殺される! 水が俺を食い殺す! 助けてくれ! 水が俺を殺す前に、はやくこの水を殺してくれ!
……落ち着け! 落ち着け!
……暴れるな! 静かにしろ!
俺の体が、駆け寄ってきたやつらに抑えられる。頼む、後生だ、助けてくれ。この水を殺してくれ、殺してくれ! それが出来なければ、水が俺を食い殺す前に、いっそ俺を殺してくれ! この恐怖から、俺を開放してくれ! なんだってするから、そうしてくれ!
……わかった。わかったから、落ち着け!
涙のしみが、ティッシュで拭かれた。
水を、殺してくれたのだ。
「ああ……」
よかった、これで俺は、水に殺されずに済んだ。これでまた、俺は死なずに済んだ。これでまた、俺は生きることが出来る。
俺は、安らぎを得た。
叫んだせいで、とても疲れた。
疲れたから、眼を閉じて、眠りという安息へ、俺は墜ちていった……。
<了>
俺が書けたのは、結局そこまでだった。
一つの小説として成り立っているとはおそらく言い難い、ただの断片に過ぎない文章を、しかし今、天道先輩が読んでいる。
部室に持って行ったら、読まれることになったのだ。
俺は、文芸部への入部を、正式に部長さんに伝えた。
まあ自信なんてものはあまりないが、書けなくなっても死ぬわけじゃないし、書かなくてもいいことは、天道先輩が証明しているし。
そして、俺が部長さんに入部の意志を伝えた時、部室には、天道先輩も、いた。
彼女は言った。やめた方がいいと思うぞ。どうせろくなものは書けない。
俺は答えた。そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。あの後、小説というか、その断片というか、とにかく文章をまた、書き始めたんです。もしかしたら、それを書き続けていけば、そこに俺の書きたいものがあるかもしれません。
天道先輩は言った。なんだそれは? それ、今持っているのか? 持っているなら見せてくれないか?
で、読んでもらうことになった。
一読して開口一番、天道先輩は言った。
「面白い」
意外だった。
まあでも、褒められるのは嬉しい。
とはいえ。
「それ、まだ、書き始めてばかりですよ」
「これだけでも、面白い。小説に、決まった形式なんてものはない。これだけの文章だって、小説だと言い張れば小説だ」
「でも……」
俺は、ためらいながらも、どうしても、心に引っかかっていたことを、言った。
「紅のソルジャーの方が、ずっと面白いんじゃないでしょうか?」
天道先輩は、俺を見た。
射貫かれるような、鋭い視線だった。
「どうして、そう思った。あれは、駄文だ。長いだけの駄文だ。お前が書いてきたたったこれだけの文章の方が、俺の書いたあれよりも、ずっと面白い」
「でも、俺は確かに高校生の頃、夢中になって読んでいたんですよ。紅のソルジャーを」
あの時、天道先輩が、紅のソルジャーを駄文だといった時から、俺はずっと考え続けていた。
果たして、高校生の頃の俺は、価値のないものに、熱中していたのか、という自問自答。
答えは、考え続けても、出なかった。
「どうして、先輩は、ご自分が書かれた小説を、駄文だとおっしゃるのですか?」
だから、駄文だと断言した、当の本人に、聞くしかなかった。
「水野君、今日、時間はあるか?」
「……ありますけど」
「だったら、俺についてこい」
天道先輩は、そう言い切ると、部室を出て行った。
俺は、部長さんに頭を一回下げると、彼女の後を、ついて行った。
階段を下りて、部室棟を出て、天道先輩は、歩いていく。
「どこに行くんですか? 先輩」
「古本屋だ」
とうとう、大学の門さえ、通り過ぎてしまった。
俺たちが通う東城大学は、都内でも自然の多い土地に位置している。緑に囲まれていて気持ちいいが、同時に、書店や映画館のような文化的な施設は、駅以外には無い。
だから、古本屋に行くならば、駅で電車に行って、商店街が栄えている場所に位置する隣の駅で降りなくてはならない。
案の定、先輩は、駅に歩いてやってきた。
「定期を使う必要はないぞ」
振り返って、鞄から定期を取り出した俺を見て、彼女は言った。
「電車に乗らないんですか?」
「いや、乗る」
「だったら」
「俺が二人分の切符を買うから、君が金を使う必要はない」
「えっ、でも」
「俺が連れて行くのだから、当然だろう」
有言実行。天道先輩は、俺の承諾の有無など聞かずに切符を二人分買って、俺に渡してきた。
せっかく買ってくれたものを、断る理由もなかった。
俺は切符を、受け取った。
「……後で、お返しします。お金」
「くだらないことを気にするな」
俺と天道先輩は、改札を抜けた。