もう大学に戻る用事もないから、古本屋を出て、電車に乗って、(天道先輩は、切符を二枚俺にくれたから、俺の往復にかかる出費はゼロだった)自分のアパートに戻った。
アパートの建物が見える場所まで来ると、部屋の前に、小島さんが立っていた。
驚いた。
俺の存在に気が付いた彼女は、手を振ってきた。
俺は、部屋の前まで、駆けて行った。
「部室行ったら、天道先輩と出かけたって聞いたから、来ちゃいました」
「待っていたのですか、ずっと」
「はい」
「どうして……」
「部屋にお邪魔したかったから、て、言ったら、怒りますか?」
「……」
予想外の言葉に、絶句してしまった。
「駄目ですか?」
無言で、俺は頭を振った。
断る理由もない。
俺は、鍵を鞄から取り出して、部屋のドアを解錠し、ドアを開けた。
「うわあ。綺麗な部屋ですねえ」
綺麗に揃えて靴を脱いで、部屋に上がった小島さんの賛美の声に照れながら、ドアを閉じながら、俺は言いようのない不安と緊張に支配されていた。
自分の自宅に女性を招くなんて、初めての経験だから。
というのもある。だが、それ以上に。
今日、天道先輩と交わした会話のこと。
そのせいで、俺は、小島さんと、一緒にいることに、気まずさを、感じていた。
だけど、部屋にあげることを拒否することも、出来なかった。
彼女の訪問の意図は未だにわからないものの、俺は、彼女の望みを拒絶して、彼女に嫌われるかもしれないことを、何よりも恐れていたから。
ドアを施錠し、靴を脱いで上がった俺は、小島さんに、声をかけた。
「その、お好きなところに、お座りください。今ちょっと、お茶を用意しますので」
「ええー。いいですよ。そんなのー」
「でも、せっかくいらしたのですから」
手洗い、うがいをすましたあとで、俺は、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、紙コップに注いだ。
俺の部屋には、小さなテーブルが一つある。
テーブルに、お茶を置くと、小島さんが、声をかけてきた。
「生君」
「はい」
「天道先輩に、どこに連れられて行ったのですか?」
「・・・・・・隣駅の、近くにある、古本屋です」
「おじいさんがひとりでやっている店でしょう、そこ」
「・・・・・・はい」
小島さんは、あの店のことを、知っている。
それが、意味することは。
「私の時も、あの店に連れられて行ったのですよ。でも、天道先輩が電車代を払ってくれたから、私はお金を全然使いませんでした。そういうところ、私は好きですよ。あの人のこと」
小島さんも、知っているのだ。
天道先輩が、小説を書かなくなった、理由を。
彼女が、俺に対して語ったあの残酷な真実を、小島さんも、聞いたのだ。
俺は、小島さんの顔を見ることが、出来なかった。
なんて言葉をかければいいのか、わからなかった。
「ねえ、生君」
「・・・・・・はい」
「天道先輩の言ったことについて、どう思います?」
「・・・・・・よく、わからないです」
よくわからないってなんだ。
お前が、これまでの人生で、何か一つでも、わかったことがあるのか。
俺は、俺自身を、怒鳴りつけたかった。
「私と一緒なんですね。生君も」
「・・・・・・」
「私も、よくわからないのです。天道先輩が言う通り、一億年後も読まれるような小説でもない限り、書く価値なんて、ないのかもしれない。私は、永遠が欲しくて小説を書き始めたのだけど、それって無駄だったのかも」
「でも、先輩は、小島さんの書いた、『死を想え』を、褒めていました」
俺は、ようやく、彼女を見ることが出来た。
「それって、一億年後も、読まれる価値が、小島さんの書く小説には、あるってことなのでは、ないでしょうか」
「……どうなのでしょう」
「きっと、そうですよ」
「でもそれは、天道先輩だけの、評価ですから。一億年後に、私の小説を読んで評価を下してくれる存在が、天道先輩と同意見かどうかは、わからないですから。仮に同じだとしても、一億年後に読まれるためには、その時代にまで残り続けなくてはならない。一億年が経過するまでの間に、数えきれないほど多くの人たちの読んでもらって、『この小説は後世に残す価値がある』と考えてもらわなくては、それは無理です」
「……」
「私は、こう思うのです。私が読んだらとても好きになった小説でも、歴史の中で読み継がれずに、忘れ去られていったものが、きっとたくさんあったのだろうなあ、て。でも、そんな小説が存在したかどうか、私は知ることが出来ないのです」
「・・・・・・」
何を、言うべきか、分からなかった。
「ねえ、生君。今日私がこの部屋に来たのは、どうしても、生君に聞きたいことが、会ったからなのです」
「……なんですか、それは」
「水に、なりませんか?」
「水に?」
言っていることが、わからなかった。
「どのみち、私にとって、小説を書くことに意味がなくなったのであれば、これ以上、ここにとどまる意味って、ないですから。でも、せめて、生君には聞いておきたかった。私と同じ存在に、なってくれるかどうかを」
「あの・・・・・・それって、どういう・・・・・・」
次の瞬間、俺は、悲鳴を上げていた。
小島さんが、青くなったからだ。
肌のすべてが、青くなっていた。
その青に、俺は、見覚えがあった。
いつか、夢の中で見た、母さんの姿と、同じ青。
水だ。
小島さんは、水になっていた。
俺は、駆けだした。ドアに向かって。
ドアノブに、手が触れるか触れないかという瞬間に、俺は、意識を失った。