「……恋?」
「はい」
「……どうして」
「さあ、どうしてでしょう。もしかしたら、あなたが私たち水の正体について、気づいてくれていたからかもしれません。あるいはもしかすると、雨の降る日に見たあなたが、たまらなくはかなくみえたかもしれません。誰かを好きになる理由なんて、そんなにはっきりと言葉にしていいものでは、ないと思います。私はあなたを好きになった。大事なことは、きっとそれだけのことです」
おそらく、昨日、この言葉を聞けていたら、俺はきっと、嬉しかっただろう。
誰かから恋を打ち明けられたことは、初めての経験だ。
まして、その相手が、彼女であったならば。
だけど、今は……。喜べる余裕が、なかった。
今、彼女の語ることの数々が、あまりにも衝撃的だったから。
「私は生君と、ずっと一緒にいたいと、そう思うようになりました。だから……死にませんか。生君」
「死ぬ?」
「はい」
「俺は、死ぬことで、小島さんと、一緒になれるのですか?」
「はい」
「どうして、ですか」
「死ねば、水に還ります。水に還ることが出来れば、私とともにいることが出来ます。永遠に、近い時間を、一緒にいることが出来ます」
「……」
ふと、俺は、疑問を持った。
「……どうして、あなたは、小説を、書いたのですか?」
「……」
「どうして、あなたは、人間として、俺の前に、現れたのですか?」
「地球の寿命を、生君は知っていますか?」
「……いいえ」
「正解はあと50億年です。地球がその周りをまわっている太陽は、時間を経るごとにゆっくりと、膨張を続けています。今から50億年後、膨張する太陽に、地球は飲み込まれています。その時、私たち水は、どうなるでしょうか?」
「……」
「きっと、そのずっと前に、地球にあるすべての海、全ての水は膨らんでゆく太陽の熱によって、蒸発してしまうでしょう……私たち水も、決して、永遠の存在ではないのです」
「俺たちが、人が、そうであるように」
「いいえ。違います。あなたたち人は、違います。たとえ私たちが滅んでも、あなたたち人は、なおあり続けることが、出来ます」
「50億年先まで生きることなんて、出来ません」
「個人としては、そうです。でも、種としては、ちがう。例え地球が滅んでも、あなたたち人は、はるか離れた宇宙の別の星に、移住することが、出来るじゃないですか。今だって既に、月にまでなら行くことが出来ているじゃないですか。きっと50億年後、地球が太陽に飲み込まれるずっと前に、あなたたち人は、宇宙に広がっているはずです。だから、私は、小説を、書き始めた。そのために、再び人の姿を得たのです」
「……例え、地球が滅んでも、人類に読まれ続ける小説を書くために、ですか」
「はい、そうです。50億年を超えた後の宇宙でも、読んでもらえる小説を、書くために」
「……」
「でも、そんなものは無理だってことを、天道先輩に、教えられてしまいましたから。私はもう、諦めました。もはや、人としてここに生きる理由は、私にはありません。私は、再び、水に戻ります。50億年後に訪れるであろう本当の終わりまで、このはかない第二の生を、生き続けたいと思います。だけど、ここを去る前に、あなたに告白をしておきたかった」
「……」
「死にませんか、生君。だって、生きているのは辛いでしょう。苦しいでしょう」
「……」
「今、答えてくれなくても、構いません。私はただ、あなたを救いたい。あの時、雨の音の閉じ込められて苦しんでいたあなたを。生きているというまさにそれゆえに、この世界に苦痛を与えられているあなたを。あなたが生から解放されるのは簡単です。私がやったように、海に飛び込めばよい」
「……」
「さようなら、生君。私が伝えたいことは、これが全てです。さようなら」
その言葉を最後に、俺は、意識を取り戻した。
最後まで、俺は何も、言うことが、出来なかった。
俺は、俺の住む部屋の入り口のドアの前に、横たわっていた。
目を覚ました俺は、立ち上がった。
俺の目に前にあるのは、今日出た時と同じ、部屋の光景だった。
今、部屋の中にいるのは、俺一人だけだった。
俺は、夢を見ていたのだろうか? 最初、俺はそう思った。
だけど、一つだけ、俺が今朝出た時とは変わっている部分が一つだけあることに、俺は気が付いた。
卓袱台に置かれたコップ。
そこには、お茶が、注がれていた。
俺は、部屋の外に、駆けだした。
ドアを開け、俺は叫んだ。
「樹花!」
夕方の、日が落ちようとしている空に、俺は、彼女の名前を、叫んだ。
本当の彼女に対しては、これまで一度も、呼びかけたことがないその名前を、俺は叫んだ。
だけど、答えるものは、いなかった。
ただ、曇った空の下、大気の中に、その声は消えていくだけだった。
俺は、天を見上げた。
今朝、夜は雨になるという天気予報を聞いた。
だから、今、彼女はこの空を覆う暗い雲の中に、帰ったのかもしれないと、そう、思ったから。
その時、背後で音がした。
俺のスマートフォンの着信音だった。
誰かから、電話がかかってきたことを、示す音だ。
俺は、部屋に戻り、ドアを閉じて、靴を脱いで、俺が床に置いた鞄に歩み寄って、中からスマートフォンを取り出した。
電話は、父からのものだった。
実家にいる父からだ。
俺は、通話のボタンを押した。
父の声が、ためらいがちに、俺に告げた。
母さんが、死んだということを。