水に食ワレル   作:場理瑠都

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第17話

 雨が、降っていた。

 空は、完全に、雲で覆いつくされていて、月も、星も、見えなかった。

 間断なく、大地を打ち付ける雨の音に、街は完全に包まれている。道行く人は、みんな傘をさして、長靴を履いて、時折車道を駆ける車が跳ね上げる水から、傘で身を守っていた。

 その様子を上から見れば、色とりどりの大量の傘が闇の中をうごめいているのが見えるだろう。

 誰もが、一刻も早く家に帰りたいと思って、濡れた地面に足を滑らせない程度に急いで歩いているはずだ。

 俺を除いて。

 俺は、ゆっくりと、まるで夢遊病患者のように、歩いていた。

 俺は、傘をさしていなかった。

 靴さえも、履いていなかった。

 靴下から上着まで、全身が濡れていた。振り続ける雨は全身に浴びて、衣類の下にまでしみ込んで直に肌を濡らす水の感触が気持ち悪いが、俺は歩き続けていた。

 俺の部屋で、父から母さんが死んだと連絡を受けてから、俺はずっと、外を歩き続けているのだ。傘もささず、靴も履かず。

 途中で雨が降り始めても、構わなかった。

 雨が、俺を串刺しにして殺してくれるなら、それこそが今の俺の、最大の希望だった。

 母さんのいない世界に、……樹花のいない世界に、これ以上生きることなど、俺には出来なかった。

 母さん。

 大好きな母さん。

 子どものころ、母さんに抱きしめてもらうことが好きだった。

 母さんの顔を見ることが好きだった。

 俺は今でも、まるでついさっきのことのように、思い出すことが出来る。幼きあの日、初めて本物の海に連れて行ってもらった時、海におびえて泣き出した俺を、優しく抱きしめてくれた母さんの腕のぬくもりを。

 あの温もりがあったから、俺はこれまで、生きていられることが出来た。あんな風に、俺を抱きしめてくれる人がこの世界にいるってことを知っていたから、俺はこれまで生きていることが出来た。

 どんなに水が怖くても、生きていることが出来た。

 誰も俺の恐怖をわかってくれる人がいなくて、どんなに孤独でも、生きていることが出来た。

 ……だけどもう、母さんはいない。

 母さんは、今日、交通事故にあって、亡くなったと、父は言っていた。

 大地の上で、車にひかれて死んだ母さんは、きっと水には、還ることが出来ないだろう。

 その遺体は、火葬されるのだから。火炎の中で、骨に代わっていくのだから。そして骨だけになって、冷たい墓の下に埋められ、閉じ込められてしまうのだ。

 俺が、母さんに、再び出会うことは、永遠にできない。

 だけど、樹花は違う。

 水の中で死ねば、俺はまた、樹花に出会うことが出来るはずだ。だって、彼女自身がそう言ったのだから。

 雨が、どこまでも降り続けてくれればいい。どこまでも降って、街も世界も沈めてしまう雨の中で、俺は溺れるんだ。雨の水が、俺を優しく食らいつくしてくれる。美しいその姿と、俺は一つになれるはずだ。そしてまた、俺は樹花に会うんだ。優しい樹花、俺に傘をさしてくれた樹花に。さあ、早く俺を食ってくれ、雨の水よ。俺の体を食らいつくしてくれ。早く樹花に、会わしてくれ。

 ……だけど、いくら歩いても。

 俺は、死ななかった。

 俺は、雨の降り注ぐ濡れた歩道の上に、座り込んだ。

 そして、天を仰いで、絶叫した。

 早く俺を食ってくれ、と。雨を降らせ続ける暗く思い雲に向かって、俺は泣きながら大声で懇願したのだ。

 頬を伝う涙が、雨と共に地に垂れる。

 ……誰も、答える者はいなかった。

 雨の音が、聞こえるだけだった。

 水はあの夢のように、俺を殺してはくれなかった。

 どうしてだろう?

 水は、本当に生きているのだと、樹花は言ったじゃないか。水の中には、死んで水に還った。数えきれないほどの人が、いるのだろう。今降り続けている雨の中にだって、樹花やその人たちが、いるはずじゃないか!

 ……ああ、そうか。

 水が生きていたというのは、妄想ではなかった。

 だけど、水が俺を殺そうとしているなんて言うのは、俺の抱いた妄想でしかなかったんだ。

 彼らは、人を殺したくないのだ。

 俺を、この生から解放してくれる存在は、いない。

 他ならぬ、俺自身を除いて、いない。

 海に行けば。

 あの巨大で冷たい海に、飛び込めば。

 俺は、解放される。

 救われるのだ。

 俺の生は、俺自身の手で、終わらせるしかないのだ。

 俺は、海に飛び込む俺自身の姿を、思い描いた。

 崖の上から、波打つ海面に向かって、飛び込む俺を、思い浮かべた。

 海面に激突する衝撃を、一瞬感じた後で、冷たい海の中に、俺は抱かれる。

 俺の体、海の底へ向かって、ゆっくりと、落ちていく。

 数えきれないほどの生き物が住む、海の底に漂いながら、俺の体は、朽ちてゆく。

 いつのまにか、その傍らには、きっと樹花がいるはずだ。

 もはや体すらいらなくなった俺たちは、それからずっと、地球最後の日まで、一緒にありつづけるのだ。

 そんな空想をやめて、俺は、立ち上がろうとした。

 海に行くために、立ち上がろうとした。

 だけど、立てなかった。

 どうしても、立てなかった。

 怖かったから。

 怖くて、足がすくんで、立てなかった。

 海に行けば、また海に飛び込めば、また樹花に会えるはずだと、分かっているはずなのに。

 俺は、自分の手で命を絶つことが、どうしても、怖かった。

 涙が、止まらなかった。

 俺は、樹花のように、勇気が出ない。俺は、勇気から、見捨てられたのだ。俺の勇気は、俺を捨てて、どこかに行ってしまった。

 俺を救えるものは、もはや誰もいなくなってしまった。

 俺は、路面に突っ伏して、ただ、泣き続けた。

 助けてくれ。誰か俺を助けてくれ。俺を殺して、誰か俺を助けてくれ。俺はもういやなんだ。俺はもう、生きていたくないんだ。

 そう思い、泣き続けた。

「どうしたんだ、君は」

 その声が、上から聞こえるまでは。

 いつの間にか、俺は、俺の頭に降り注ぐ、雨の感触を、感じなくなっていた。

 雨音が、まだ、俺を閉じ込めているというのに。

 俺は顔を上げた。

 天道先輩が、立っていた。

 天道先輩は、傘をさしていた。

 その傘は、先輩自身と、その足下にうずくまっている俺の頭を、雨から、守っていた。

 

 

 

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