「こんなところで、傘もささずに座り込んでいたら、風邪を引くぞ。傘はどうした?持ってないのか」
天道先輩は、俺を見下ろしていった。
俺は黙って、首を振った。
「一体、何をしている? さっきは大きな叫び声を上げていたが」
「……」
答えられる、はずもなかった。
「・・・・・・まあ、答える義務なんてないし、風邪を引くのも君の権利の一つだから、俺に中止させる権利はないがね。だが、このまま君をスルーして帰宅してしまうと、多分今日、俺は眠れないだろうな。君が風邪を引いてしまうのではないか、もっと悪いことには、雨に打たれ続けながら眠り込んで、死んでしまうのではないか、と気になってしまってね。だからこれは、まったく俺の自己中心的なお願いに過ぎないのだが、俺の傘の下に収まって、君の家に帰宅してくれないかな? 俺が君を、送って行ってやるよ」
「・・・・・・」
俺は、ぼう、と彼女を見上げていた。
俺は、もはや、理解していた。
俺は、自殺することが、出来ないということを。
誰も俺を、殺してはくれないということを。
俺は、死にたくない、ということを。
だから俺は、立ち上がった。
「はい・・・・・・。ありがとうございます。天道先輩・・・・・・」
俺は、天道先輩の握る傘の下で、彼女とともに、雨の夜の道を、歩み始めた。
歩きながら、俺は言った。
「天道先輩、お願いがあります」
「なんだ?」
「紅のソルジャーを、完結させてあげて、いただけないでしょうか」
「あれは、駄文だ」
「でも俺、あの小説が、可哀想です」
「可哀想? どうしてだ」
「結末まで、書いてもらってないことが、可哀想です」
「そこまでの価値がないのだから、当然だろう」
「駄作だからといって、価値がないなんて、違うのではないでしょうか。いつか誰からも忘れ去られてしまうからといって、価値がないなんて、多分違うと思います」
「どうしてそう考える?」
「だって、じゃあ俺たち人間は、どうなるのですか。人間はみんな、いつか死ぬし、ほとんどの人間は、死んでから何年も経ったら、誰からもきっと忘れ去られてしまう。でもそんな人間に、価値はないってことなのでしょうか」
「……人と小説は、違うよ」
「俺には、同じに思えます」
「……そうか」
そんな会話をしているうちに、俺のアパートについた。
「じゃあな。熱いシャワーでも浴びて、温まれ」
部屋の入り口まで来て、天道先輩はそういって、別れようとした。
「ちょっと、待って下さい。先輩」
俺は、あわてて部屋に入り、置きっぱなしの鞄に駆け寄ると、財布を取り出して、先輩のところに、戻った。
千円札を取り出して、先輩に差し出した。
「・・・・・・なんのまねだ? これは」
「今日、俺を部屋まで送ってくれたお礼です」
「いらないよこんなの」
「でも、俺を送ってくれたおかげで、回り道をしたわけでしょう。先輩の住んでいるのは、ここから電車で駅一つ分いったところじゃないですか。電車賃でもタクシー代でもいいから、これを使ってください。お願いします」
俺は、頭を下げた。
「まあ、そこまでいうなら。・・・・・・いっとくけど、返さないぞ」
先輩は、俺の差し出したお札を受け取って、自分の財布に入れた。
「ありがとうございます。天道先輩」
俺は、頭を下げた。
先輩は、そんな俺を、まじまじと見た。
「じゃあ、今度こそ、じゃあな。・・・・・・完結の件、一応考えとくよ」
そう言い残して、彼女は、去っていった。
俺は、再び、独りぼっちの、部屋に戻った。
服を脱いで、熱いシャワーを浴びた。
その日は、ぐっすり眠れた。
夢は、全く見なかった。
それから後、俺は樹花をみていない。
大学で、他の人に聞いたところ、その日から後で、樹花の姿を見た人は、誰もいないそうだ。
俺はそれから、前と変わらない日常を、今でも送っている。
実家に帰って、母さんの葬式に出席してから、また大学に戻って、時々は文芸部に行ったり、アルバイトをしたりして、暮らしている。
水に対する恐怖は、今でも消えていない。一度ちゃんとした医師に診断してもらった方が良いと考えるようになったから、心療内科に予約をした。来週の火曜日に、初診を受けることになっている。
小説を、書き始めた。
どうせ、俺が50億年後に残るものなんて、書けるはずもないが、書くのが好きになったからだ。
俺が、人生で二度目に書いた小説は、私小説だった。
あなたが今、読んできた小説が、それだ。
そして今、俺は、パソコンの前で、悩んでいる。
書きたいものが、もう尽きてしまったからだ。
この小説を、もう、終わりにしなければならない。
でも、終わりに相応しい言葉が、思いつかない。
しかたないから、心情を、だらりと書くことにした。
俺は結局、樹花のところに行くという決断を下すことが、出来なかった。
人生で初めてされた告白を、俺は振ってしまったわけだ。
俺はこれからも、この生という苦しみを、受け続けなければならない。
でも、仮に水になったのだとしても、俺の苦しみは、消えるわけじゃない。だって、地球はいつか滅ぶのだ。その時、水だって一緒に滅ぶ。
だから、結局、これでよかったのかもしれない。
だって、生きていれば、少なくとも、小説は書ける。
例え、下らない小説だって。
樹花と、もう一生、出会うことがないという代償と、引き換えに。
樹花。
俺もきっと、彼女のことが、好きだったのだと思う。
でも俺にとっては、俺のこのくだらない生は、彼女とまた出会うこと以上に、大事なものに過ぎなかった、ていうだけの話だ。
それが、悲しいといえば、悲しい。俺は結局、人を自分より好きになることさえ、出来なかった。
俺は、この生涯が終わる前に、俺が死んだら、海に沈めてくれるよう、遺言に書き記すつもりだ。そうすれば、俺の体は海の中で朽ちて行って、再び、彼女と出会うことが出来る、
いつ来るかわからないその時が来るまで、俺は、生きる。
ずっと。
ずっと。
<了>