少し早かったけれど、大学に行くことにした。
途中、コンビニに寄った。
320円のパスタだけを買って、それをイートインで食べることにした。
ちゅるちゅる、ちゅるっ。
長く滑らかで温かいパスタの最後の一本を胃袋に収めると、のどが渇いてきた。
パスタの入っていた容器を袋にくるんでゴミ箱に捨てると、俺の眼は自然と、飲み物が置かれた棚に向かった。
お茶。コーヒー。ココア。コーンポタージュ。コーラ。サイダー。オレンジジュース。
色んな飲料が、そこにあった。
みんな、水だ。
今朝、夢の中で、俺を捕食した、水の仲間たち。
イメージが、俺の中で爆発した。
俺がのどに流し込んだ熱いお茶が、俺の体内で増殖し、あふれ出し、腹を引き裂いて噴出し、俺を逆に包み込むイメージが。
膨張し、大蛇のような姿となって、俺を内側から食い破る水のイメージが。
俺は、頭を振った。
(馬鹿馬鹿しい。)
あれは、ただの夢だ。
現実には、水は俺を食べたりなんかしない。
わかって、いるはずなのに。
俺は、どうしても、飲料の棚に向かって、足を進めることが、出来なかった。
結局、そのまま何も買わずに、コンビニを出た。
喉に渇きを抱いたまま、俺は大学の門を通った。
昨日と同じように、図書館に入り、二階への階段を上った。
二階の入り口を通り過ぎてすぐに、小島さんと会った。
「あ……」
突然の遭遇に、俺は少し動揺したが、なんとか言葉を口に出すことが出来た。
「お、おはようごさいます」
「おはようございます。生さん」
小島さんが、挨拶を返してくれた。
小島さんが、俺の名前を呼んでくれた。
小島さんが、俺が懇願した通りに、俺を名前で呼んでくれた。
「あ、ありがとうございます」
気が付いた時には、そう口に出していた。
口に出した後で、後悔した。
こんなことを言ったら、きっと変な男だと思われる。
いきなり、お礼を言うなんて、変だ。
案の定、小島さんは困惑しているようだった。
「えっと……、わたし、今何か、生さんにしましたっけ?」
「えっと、その……名前で、呼んでくれました。俺の頼んだ通りに。ありがとうございます」
「ああ・・・・・・」
小島さんは、微笑んだ。
ずっと、見続けていたいような、笑みだった。
「生さん、昨日も図書館にいらっしゃいましたよね。図書館が、お好きなんですか?」
「はい」
「私もなんです。今は、この本を読んでいます」
小島さんは、抱えていた本を、俺に見せてきた。
俺は、驚いた。
「あれ、どうかなさいました?」
「その本を、読んでいるの、ですか?」
その本は、俺が昨日、探した本だった。
「生さんも、ご存じだったのですね」
無言で、俺は頷いた。
「俺も、読んでいました。ここ数日。借りようかとも、考えていました」
「そうなんですか!」
小島さんは口を開けて、眼を開いた。綺麗な歯がまた見えた。
「すごい、偶然ですね。……良ければ、一緒に読みますか?」
思わぬ申し出だった。
「そんな。いいんですか?」
「本って、他の人と読むことで、より読むことが楽しくなるって、私思うんです」
その考え方は、正直、ちょっとよくわからなかった。
だけど。
「・・・・・・はい。一緒に、読ませていただきます」
俺に、断る理由なんて、あるはずもなかった。
俺たちは並んで椅子に座って、本を読み始めた。
一緒に、本に手を添えた。
小島さんの指がページをめくると、俺の指がそれを受け止めた。
小島さんは、俺の読んだ部分から、ページをめくってくれた。文章を目で追いながら、俺たちはその内容について話もした。
俺たちの会話は、本の内容だけに、とどまらなかった。
「生さんて、学部はどこなんですか?」
「経済学部、です」
「教えていただき、ありがとうございます。私は文学部です。学年は、何年何ですか?」
「まだ、入学して、一年目、です」
「え、私も」
それから小島さんはちょっと考え込むようなしぐさをしてから、言った。
「なんか、同学年なのに『さん』付けするのも、ちょっと違う気がするのですよね・・・・・・。『生くん』って、読んでいいですか?」
「ええ・・・・・・大丈夫です。小島さんが呼びたいように呼んで頂ければ、それで大丈夫です。俺の方こそ、小島さんを小島さんって呼んで、良いでしょうか?」
「いや、それ以外に呼びようないじゃないですか。いいに決まっていますよ」
小島さんは、口を片手で抑えて、くすくすくす……と、笑った。
「ごめんなさい、でも……。面白いですね、生(せい)くんは」
面白い。
変な人って、意味だろうか。
ちょっと、ショックだ。
俺はどこに行っても、そうみられる運命なのだろうか。
「サークルとかには、入っているんですか?」
「入学したばかりのころに、いろいろ見てはみたのですけど……。結局、入ってないです」
特に運動部は、どうしたって駄目だ。
どうしたって、水分補給を、沢山しなければならなくなる。
「じゃあ、今から文芸部に入るように勧誘されたら、ちょっと興味あります?」
「ぶんげいぶ?」
そんな名前を、そういえば四月頃、看板の中に見た記憶がある。確か・・・・・・。
「小説を書いたりする、サークルですか?」
「そうそう。私が、入っているサークルなんです。一年生が少ないから、生くんが入ってくれたら、嬉しいです」
思わぬ、誘いだった。
だけど……。
「小説なんか、俺に書けるとは思えません。そもそも読むことすらほとんどしたことない」
「別にいいんですよ。書けなくったって。書いた方がいいですけど、書かなくったっていいんです」
「文芸部なのに、ですか?」
「サークルなんて、そんなものですよ。みんな、集まる口実が欲しいだけなんです」
「・・・・・・それなら、入っても、いいんでしょうか?」
「是非! 人は沢山いたほうが、楽しいですから。それに・・・・・・」
それに?
「これを機会に、書かれてみても、いいんじゃないでしょうか。私、生君ならいい小説を書ける予感がします」
これまた、予想外の言葉だった。
俺は、なんと答えていいか、わからなかった。
「ま、単なる無責任な直観なんですけどね」
小島さんは、歯を見せないままに口元に笑みを浮かべて、頬を手に乗せて俺を見た。
なぜかはわからないが、どことなく恥ずかしい気持ちになったから、俺は眼をそらして、腕時計を見た。
気づけば、講義が始まる時間だった。
「あの、すいません」
「あ、もう、時間ですか?」
小島さんも、自分の腕時計を見た。
「ほんとだ。私も行かなきゃ」
「すいません、では、これで」
「待って下さい。生君。」
立ち上がった俺を、小島さんは座ったまま見つめた。
「生君は、今日、お昼はどこで食べるんですか?」
意図がつかめない質問だったが、答えない理由もないので、正直に答えることにした。
「学食で、食べるつもりです」
「じゃあ」
小島さんは、本を閉じて、立ち上がりながら、
「お昼ご飯、ご一緒しませんか?」
これもまた、断る理由がない申し出だったので、受けることにした。