水に食ワレル   作:場理瑠都

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第3話

 12時15分ぐらいに学食に来たら、入り口に小島さんが立っていた。

「お疲れさまです、生君」

「お疲れさま、です」

 何故か、俺は緊張していた。緊張の原因自体はわかっていた。女性と二人でお昼ご飯を食べるという予定が、俺に緊張をもたらしていたのだ。だが、なぜ相手が女性であり、小島さんであるという事実が、俺に緊張をもたらすのか、その理由がわからなかった。

 数日前、何気なく見たニュースのことを、なぜか俺は思い出していた。ある人気女優が、実業家の男性との婚約を破棄したというニュースだった。人気女優は婚約破棄を決めた理由として、『彼の食事の食べ方が汚かったから』だと述べた。どうしてそんなニュースのことを俺は今思い出しているのか、自分のことなのにわからなかった。

 学食は、混んでいた。お昼時だから、当然だ。俺の通うこの大学の食堂のシステムは食券制だ。ここで食事を食べたい者は、まず食券を購入し、それを食堂の人たちに渡して、食事を作ってもらい、渡してもらう。メニューは、ラーメン、カレー、丼もの、定食もの、パスタとバラエティーに富んでいる。

 食券を買うための列に並ぶ前に、小島さんは、入り口近くに設置されている、飲料の自動販売機に歩み寄った。

 小島さんが、鞄から財布を取り出して、財布から小銭を取り出して、自販機に入れて、ジュースの缶を選んでボタンを押すまでの動作を、俺は見た。

 ごっとん。

 缶が、自販機の取り出し口に落ちる音を聞いた。

 小島さんが、缶を取り出した。

 ジュースだ。

 液体だ。

 水だ。

 ごくりと、俺は、唾を飲み込んだ。

 俺は、朝から今に至るまで、何も飲んでいない。

 だから今、俺は、のどが渇いている。

 だけど、今こうして小島さんの手に握られたジュースの缶を見ただけで、俺は昨晩の悪夢を思い出してしまう。

 俺が水に食われる夢を。

「生くん?」

 小島さんが、俺を見ていった。

 その声に、俺ははっとした。

 悪夢を思い出して、立ったままぼうっ、としていたようだ。

「大丈夫?」

 小島さんは、眉間にしわを寄せて、そんな俺を見ていた。

 そんな小島さんを、俺は見つめた。

 俺は、思った。

 ああ、心配して、くれているんだな。

 こんな俺のことを、心配してくれているんだな。

 優しい人だな。小島さんは。

 小島さんは、不思議な人だ。唐突に、俺はそう気づいた。

 一昨日、初めて会ったばかりなのに。

 会った時からずっと、俺に優しくしてくれた。

 雨の下、俺を傘に入れて送ってくれた。

 俺が名前を聞いたら、答えてくれた。

 俺が名前で呼んで欲しいと言ったら、そうしてくれた。

 俺と一緒に、本を読んでくれた。

 俺を、文芸部に誘ってくれた。

 俺を、ご飯に、誘ってくれた。

 今、俺を、見てくれた。

「いえ、すいません。なんでもありません」

 俺は、自販機に、歩み寄り、鞄から財布を取り出して、財布から小銭を取り出して、小銭を自販機に投入して、ポカリスエットのペットボトルのボタンを押した。

 ごっとん。

 取り出し口から、ポカリを取り出した僕は、すぐにふたを開け、飲んだ。

 んぐ、んぐ。

 冷たい感触が、喉を潤した。

 渇きが、癒されていく。

 喉に一度流し込むと、すぐに口を離し、ポカリにふたを閉めた。

 そして、小島さんを見た。

「ご心配おかけして、申し訳ありませんでした」

 変な男だと思われようと、構わなかった。

 その言葉を、言いたかったから。

「大丈夫?」

「はい」

「なら、良かった」

 小島さんと俺は、列に並んだ。

 俺は、日替わり定食Aランチの食券を買った。

 小島さんは、ナポリタンスパゲッティの食券を買った。

 積まれたトレイを、一枚ずつ持った。

 割烹着を着たおばさんに、俺たちは食券を差し出した。

 少し、立ちながら、待つ。

 俺が置いたトレイに、肉と野菜の乗ったお皿と、みそ汁の入ったお椀と、白いご飯が盛られたお椀が、置かれていった。

 俺は、トレイを持った。

 見れば、小島さんの持つトレイには、もうナポリタンの盛られた皿が載っていた。

 俺たちは、座れる場所を、探した。窓際の席に、ちょうど二つ続いて空いているところがあったから、二人してそちらに向かった。

 お椀をもって、箸でご飯を口まで運ぶとき、ちょっと緊張した。

 小島さんに、どう見られているのか、気になった。

 箸の握り方、お椀の持ち方、ご飯の噛み方を意識した。小島さんに上品に見られたかった。

 食べながら、ちらりと、小島さんを見た。

 小島さんは、まっすぐに背を伸ばして、パスタをフォークにまき、口に運んでいた。

 本を読んでいる時の姿勢も、綺麗だったな。そう思った。

「生君は・・・・・・」

 小島さんが、座ってから初めて、言葉を口にした。

「雨が、嫌いなんですか?」

 俺は、箸をおいて、言った。

「どうして、そう思われるのですか? 小島さんは」

「……一昨日、雨が降っているとき、とても苦しそうだったから。生君が」

 ……恐れていた事態が、現実のものとなった。

 覚悟はしていた。

 だって、初めて出会った時から、俺が普通とは違う人間だってことは、俺の行動と言動によって否応なく伝えてしまっていたから。

 ただ、さっき、自販機でポカリを買った時から、俺は一つの決意を固めていた。

 ごまかすことは、しない、と。

 例え、小島さんが、俺を嫌悪するという結果が、俺の真実を伝えることによって引き起こされたとしても、それは仕方ないことだと、無理やりにでも俺自身を納得させて、その運命を受け入れようと、俺は決意していた。

 だから、正直に、言った。

「俺は、水が怖いのです」

 俺の、恐怖を。

 俺の、異常性を。

 小島さんに、伝えた。

「怖い?」

 小島さんの眼鏡の奥からの視線が、俺を突き刺すようだった。

「水が、怖いのですか?」

「はい」

 俺は、頷いた。

「それは、その・・・・・・」

 ちょっと言いにくそうに、言葉をいったん切って、フォークをトレイに置いてから、小島さんはまた口を開いた。

「その、もしも気を悪くしてしまったら申し訳ないのですが、泳げない、という意味ですか? 泳げないから、おぼれるのが怖いから、水に入ることが怖い、ていう」

「いいえ、ごめんなさい。違うのです」

 俺は、首を振った。

「そういう意味では、ないんです。俺が怖いのは、プールの水だけじゃありません。どこにある水も、俺にとっては恐怖の対象なんです。例えば、これも」

 俺は、トレイの上に置かれた、先ほど自販機で買ったポカリスエットのペットボトルを指さした。

「これに入っているポカリスエット、液体ですよね、水ですよね」

「ええ・・・・・・」

「この水も、怖いんです。俺にとって、恐怖の対象なんです」

「・・・・・・」

 小島さんは、無言で、ペットボトルを見つめた。さっき俺が飲んだおかげで、中身が減っているペットボトルを。

「あれも、怖いんです」

 俺は、無料でガラスコップに冷水を注げる、食堂備え付きの機械を指さした。

「水道から出る水も、怖いんです。俺は今朝、顔を洗っていません。顔を洗うために出す水が怖かったからです。トイレの便器に入っている水も怖かったけれど、どうしても我慢できなかったから使って、手を洗うために水道も使いました。でも、すごく勇気がいりました。目をつぶりながら、手を洗いました。雨の水も、怖いのです。一昨日みたいに、傘をさして歩くことはできるけれど、傘を差さずに歩くことは絶対できません。怖いからです。一昨日みたいに、雨の音をずっと聞いていると、」

 俺は夢中になって、休まずに話し続けた。

「もうその音だけで、気分が悪くなってしまうんです」

「一体、水のどこに、恐怖を感じるのですか?」

「水は、俺を、殺そうとしているんです」

 俺は、ついに、その妄想を、告げてしまった。

 人でごった返し、多くの声が飛び交って入り混じる、昼時の学食の一席で、俺は、もうずっと前から俺にとりついて離れない妄想を、告げた。

 小島さんは、ただじっと、俺を見ていた。フォークにも、皿にも、指の一本を触れずに。

「殺す?」

 小島さんは言った。およそ昼の学食に満ちる雰囲気には似合わないその言葉を。

「そんなこと、絶対にありえないって、頭ではわかっているんです」

 そう、あり得ない。

 水は、生き物じゃない。

 エイチツーオーという化学式で表現される、ただの物質にすぎない。

 当然、意志なんか、知性なんか、殺意なんか、持っているわけがない。

「でも、どうしても俺は、そう思ってしまうんです。根拠なんか何もないのに、思ってしまうんです。水は生きているんだって。生きて、俺を殺そうとしているって。水道の蛇口を捻ったら、出てきた水が俺に巻き付いてきて、俺を絞め殺すって。入浴したら、お湯が俺を包み込んで、窒息死させるって。のどが渇いた俺が水を飲んだら、俺の体の中で水は際限なく膨らんで、俺の中から俺を破り裂いてしまうって」

 いつの間にか、俺の耳には、周囲のざわめきが聞こえなくなっていた。俺の耳には、自分の口から出る言葉だけが聞こえていた。

「そんなこと、あり得ないって、知っているはずなのに。わかっているはずなのに。俺は学校で科学の授業を受けて、水が生き物なんかじゃないって、知性なんてないから、殺意だって持つことが出来ないっていうことを、ちゃんと知っているはずなのに。なのに俺は、水への恐怖を、どうしても捨てることが出来ないのです」

「誰もが、自分が死ぬということを、知っている。だけど、誰も、自分が死ぬということを信じていない」

 突然、小島さんが、言った。

 俺は、口を閉じた。

 車を猛スピードで走らせていたら、急に目の前に何かが現れて、ブレーキを踏んだような感覚を感じた。

「昔読んだことがある小説に、出てきた言葉なんです」

 小島さんは、言葉を続けた。

「きっと、生君は、この言葉とは、逆の状態なんでしょうね。水が生き物じゃないってことを知ってはいても、水が生き物じゃないってことを、信じられない。それでずっと、怖がっている。きっと、つらいんでしょうね。・・・・・・ごめんなさい。生君」

 小島さんは、俺を向いて、座ったまま、頭を下げた。

 俺は、戸惑った。

「どうして、謝るんですか? 小島さんが」

「だって私が、生君に聞いてしまったから。生君は、私のために、自分が何を怖がっているのかを、語ってくれた。それって、とっても辛いことだと思うんです。だってそれを語っている間、頭の中に自分の怖いもの、自分が嫌なものが浮かぶのですから。ごめんなさい、永君。それにありがとうございます。自分が辛いにも関わらず、私に話してくれて。生君の優しさに対して、感謝します」

 ・・・・・・そんなことを言われたのは、初めてだった。

 これまでの人生の中で、俺が、俺が感じる恐怖を告白した時、相手が俺に示す反応といえば、二つしかなかった。

 嘲笑。

 あるいは、恐怖。

 人には、弱者を見れば傷つけるどうしようもない習性がある。

 人には、理解できない存在を恐怖するどうしようもない弱点がある。

 俺に、わざと水をかけてくる奴がいた。

 それまでは俺と、たわいもない話をしてくれていたのに、俺がこの告白をした次の日から、目もあわそうとしてくれなくなった奴もいた。

 俺は、そんなことがあるたびに、何故か悲しくなった。

 何故悲しいと感じるのか、今まではその理由がわからなかった。

 今、やっと、その理由が分かった。

 誰も、俺の苦しみを、わかってくれなかったから。

 例え共感はできなくとも、俺が苦しんでいるという事実に同情してくれる人が、一人だっていなかったからだ。

 今、小島さんが、俺に示してくれた態度を、誰も、示してくれなかったからだ。

 一昨日、小島さんは俺を傘の下に入れて、雨粒から守ってくれた。

 そして今、小島さんは、人生という暗く孤独な道を歩いてきた俺に、初めて、目に見えない傘をさしてくれた。

 優しさという名の傘を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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