12時15分ぐらいに学食に来たら、入り口に小島さんが立っていた。
「お疲れさまです、生君」
「お疲れさま、です」
何故か、俺は緊張していた。緊張の原因自体はわかっていた。女性と二人でお昼ご飯を食べるという予定が、俺に緊張をもたらしていたのだ。だが、なぜ相手が女性であり、小島さんであるという事実が、俺に緊張をもたらすのか、その理由がわからなかった。
数日前、何気なく見たニュースのことを、なぜか俺は思い出していた。ある人気女優が、実業家の男性との婚約を破棄したというニュースだった。人気女優は婚約破棄を決めた理由として、『彼の食事の食べ方が汚かったから』だと述べた。どうしてそんなニュースのことを俺は今思い出しているのか、自分のことなのにわからなかった。
学食は、混んでいた。お昼時だから、当然だ。俺の通うこの大学の食堂のシステムは食券制だ。ここで食事を食べたい者は、まず食券を購入し、それを食堂の人たちに渡して、食事を作ってもらい、渡してもらう。メニューは、ラーメン、カレー、丼もの、定食もの、パスタとバラエティーに富んでいる。
食券を買うための列に並ぶ前に、小島さんは、入り口近くに設置されている、飲料の自動販売機に歩み寄った。
小島さんが、鞄から財布を取り出して、財布から小銭を取り出して、自販機に入れて、ジュースの缶を選んでボタンを押すまでの動作を、俺は見た。
ごっとん。
缶が、自販機の取り出し口に落ちる音を聞いた。
小島さんが、缶を取り出した。
ジュースだ。
液体だ。
水だ。
ごくりと、俺は、唾を飲み込んだ。
俺は、朝から今に至るまで、何も飲んでいない。
だから今、俺は、のどが渇いている。
だけど、今こうして小島さんの手に握られたジュースの缶を見ただけで、俺は昨晩の悪夢を思い出してしまう。
俺が水に食われる夢を。
「生くん?」
小島さんが、俺を見ていった。
その声に、俺ははっとした。
悪夢を思い出して、立ったままぼうっ、としていたようだ。
「大丈夫?」
小島さんは、眉間にしわを寄せて、そんな俺を見ていた。
そんな小島さんを、俺は見つめた。
俺は、思った。
ああ、心配して、くれているんだな。
こんな俺のことを、心配してくれているんだな。
優しい人だな。小島さんは。
小島さんは、不思議な人だ。唐突に、俺はそう気づいた。
一昨日、初めて会ったばかりなのに。
会った時からずっと、俺に優しくしてくれた。
雨の下、俺を傘に入れて送ってくれた。
俺が名前を聞いたら、答えてくれた。
俺が名前で呼んで欲しいと言ったら、そうしてくれた。
俺と一緒に、本を読んでくれた。
俺を、文芸部に誘ってくれた。
俺を、ご飯に、誘ってくれた。
今、俺を、見てくれた。
「いえ、すいません。なんでもありません」
俺は、自販機に、歩み寄り、鞄から財布を取り出して、財布から小銭を取り出して、小銭を自販機に投入して、ポカリスエットのペットボトルのボタンを押した。
ごっとん。
取り出し口から、ポカリを取り出した僕は、すぐにふたを開け、飲んだ。
んぐ、んぐ。
冷たい感触が、喉を潤した。
渇きが、癒されていく。
喉に一度流し込むと、すぐに口を離し、ポカリにふたを閉めた。
そして、小島さんを見た。
「ご心配おかけして、申し訳ありませんでした」
変な男だと思われようと、構わなかった。
その言葉を、言いたかったから。
「大丈夫?」
「はい」
「なら、良かった」
小島さんと俺は、列に並んだ。
俺は、日替わり定食Aランチの食券を買った。
小島さんは、ナポリタンスパゲッティの食券を買った。
積まれたトレイを、一枚ずつ持った。
割烹着を着たおばさんに、俺たちは食券を差し出した。
少し、立ちながら、待つ。
俺が置いたトレイに、肉と野菜の乗ったお皿と、みそ汁の入ったお椀と、白いご飯が盛られたお椀が、置かれていった。
俺は、トレイを持った。
見れば、小島さんの持つトレイには、もうナポリタンの盛られた皿が載っていた。
俺たちは、座れる場所を、探した。窓際の席に、ちょうど二つ続いて空いているところがあったから、二人してそちらに向かった。
お椀をもって、箸でご飯を口まで運ぶとき、ちょっと緊張した。
小島さんに、どう見られているのか、気になった。
箸の握り方、お椀の持ち方、ご飯の噛み方を意識した。小島さんに上品に見られたかった。
食べながら、ちらりと、小島さんを見た。
小島さんは、まっすぐに背を伸ばして、パスタをフォークにまき、口に運んでいた。
本を読んでいる時の姿勢も、綺麗だったな。そう思った。
「生君は・・・・・・」
小島さんが、座ってから初めて、言葉を口にした。
「雨が、嫌いなんですか?」
俺は、箸をおいて、言った。
「どうして、そう思われるのですか? 小島さんは」
「……一昨日、雨が降っているとき、とても苦しそうだったから。生君が」
……恐れていた事態が、現実のものとなった。
覚悟はしていた。
だって、初めて出会った時から、俺が普通とは違う人間だってことは、俺の行動と言動によって否応なく伝えてしまっていたから。
ただ、さっき、自販機でポカリを買った時から、俺は一つの決意を固めていた。
ごまかすことは、しない、と。
例え、小島さんが、俺を嫌悪するという結果が、俺の真実を伝えることによって引き起こされたとしても、それは仕方ないことだと、無理やりにでも俺自身を納得させて、その運命を受け入れようと、俺は決意していた。
だから、正直に、言った。
「俺は、水が怖いのです」
俺の、恐怖を。
俺の、異常性を。
小島さんに、伝えた。
「怖い?」
小島さんの眼鏡の奥からの視線が、俺を突き刺すようだった。
「水が、怖いのですか?」
「はい」
俺は、頷いた。
「それは、その・・・・・・」
ちょっと言いにくそうに、言葉をいったん切って、フォークをトレイに置いてから、小島さんはまた口を開いた。
「その、もしも気を悪くしてしまったら申し訳ないのですが、泳げない、という意味ですか? 泳げないから、おぼれるのが怖いから、水に入ることが怖い、ていう」
「いいえ、ごめんなさい。違うのです」
俺は、首を振った。
「そういう意味では、ないんです。俺が怖いのは、プールの水だけじゃありません。どこにある水も、俺にとっては恐怖の対象なんです。例えば、これも」
俺は、トレイの上に置かれた、先ほど自販機で買ったポカリスエットのペットボトルを指さした。
「これに入っているポカリスエット、液体ですよね、水ですよね」
「ええ・・・・・・」
「この水も、怖いんです。俺にとって、恐怖の対象なんです」
「・・・・・・」
小島さんは、無言で、ペットボトルを見つめた。さっき俺が飲んだおかげで、中身が減っているペットボトルを。
「あれも、怖いんです」
俺は、無料でガラスコップに冷水を注げる、食堂備え付きの機械を指さした。
「水道から出る水も、怖いんです。俺は今朝、顔を洗っていません。顔を洗うために出す水が怖かったからです。トイレの便器に入っている水も怖かったけれど、どうしても我慢できなかったから使って、手を洗うために水道も使いました。でも、すごく勇気がいりました。目をつぶりながら、手を洗いました。雨の水も、怖いのです。一昨日みたいに、傘をさして歩くことはできるけれど、傘を差さずに歩くことは絶対できません。怖いからです。一昨日みたいに、雨の音をずっと聞いていると、」
俺は夢中になって、休まずに話し続けた。
「もうその音だけで、気分が悪くなってしまうんです」
「一体、水のどこに、恐怖を感じるのですか?」
「水は、俺を、殺そうとしているんです」
俺は、ついに、その妄想を、告げてしまった。
人でごった返し、多くの声が飛び交って入り混じる、昼時の学食の一席で、俺は、もうずっと前から俺にとりついて離れない妄想を、告げた。
小島さんは、ただじっと、俺を見ていた。フォークにも、皿にも、指の一本を触れずに。
「殺す?」
小島さんは言った。およそ昼の学食に満ちる雰囲気には似合わないその言葉を。
「そんなこと、絶対にありえないって、頭ではわかっているんです」
そう、あり得ない。
水は、生き物じゃない。
エイチツーオーという化学式で表現される、ただの物質にすぎない。
当然、意志なんか、知性なんか、殺意なんか、持っているわけがない。
「でも、どうしても俺は、そう思ってしまうんです。根拠なんか何もないのに、思ってしまうんです。水は生きているんだって。生きて、俺を殺そうとしているって。水道の蛇口を捻ったら、出てきた水が俺に巻き付いてきて、俺を絞め殺すって。入浴したら、お湯が俺を包み込んで、窒息死させるって。のどが渇いた俺が水を飲んだら、俺の体の中で水は際限なく膨らんで、俺の中から俺を破り裂いてしまうって」
いつの間にか、俺の耳には、周囲のざわめきが聞こえなくなっていた。俺の耳には、自分の口から出る言葉だけが聞こえていた。
「そんなこと、あり得ないって、知っているはずなのに。わかっているはずなのに。俺は学校で科学の授業を受けて、水が生き物なんかじゃないって、知性なんてないから、殺意だって持つことが出来ないっていうことを、ちゃんと知っているはずなのに。なのに俺は、水への恐怖を、どうしても捨てることが出来ないのです」
「誰もが、自分が死ぬということを、知っている。だけど、誰も、自分が死ぬということを信じていない」
突然、小島さんが、言った。
俺は、口を閉じた。
車を猛スピードで走らせていたら、急に目の前に何かが現れて、ブレーキを踏んだような感覚を感じた。
「昔読んだことがある小説に、出てきた言葉なんです」
小島さんは、言葉を続けた。
「きっと、生君は、この言葉とは、逆の状態なんでしょうね。水が生き物じゃないってことを知ってはいても、水が生き物じゃないってことを、信じられない。それでずっと、怖がっている。きっと、つらいんでしょうね。・・・・・・ごめんなさい。生君」
小島さんは、俺を向いて、座ったまま、頭を下げた。
俺は、戸惑った。
「どうして、謝るんですか? 小島さんが」
「だって私が、生君に聞いてしまったから。生君は、私のために、自分が何を怖がっているのかを、語ってくれた。それって、とっても辛いことだと思うんです。だってそれを語っている間、頭の中に自分の怖いもの、自分が嫌なものが浮かぶのですから。ごめんなさい、永君。それにありがとうございます。自分が辛いにも関わらず、私に話してくれて。生君の優しさに対して、感謝します」
・・・・・・そんなことを言われたのは、初めてだった。
これまでの人生の中で、俺が、俺が感じる恐怖を告白した時、相手が俺に示す反応といえば、二つしかなかった。
嘲笑。
あるいは、恐怖。
人には、弱者を見れば傷つけるどうしようもない習性がある。
人には、理解できない存在を恐怖するどうしようもない弱点がある。
俺に、わざと水をかけてくる奴がいた。
それまでは俺と、たわいもない話をしてくれていたのに、俺がこの告白をした次の日から、目もあわそうとしてくれなくなった奴もいた。
俺は、そんなことがあるたびに、何故か悲しくなった。
何故悲しいと感じるのか、今まではその理由がわからなかった。
今、やっと、その理由が分かった。
誰も、俺の苦しみを、わかってくれなかったから。
例え共感はできなくとも、俺が苦しんでいるという事実に同情してくれる人が、一人だっていなかったからだ。
今、小島さんが、俺に示してくれた態度を、誰も、示してくれなかったからだ。
一昨日、小島さんは俺を傘の下に入れて、雨粒から守ってくれた。
そして今、小島さんは、人生という暗く孤独な道を歩いてきた俺に、初めて、目に見えない傘をさしてくれた。
優しさという名の傘を。