光を浴びて、俺は立っていた。
緑に囲まれて、俺は立っていた。
草。
樹木。
天に浮かび、それらを照らし続ける太陽。
全てが、温かかった。
優しかった。
全身に注ぐ光も。
どこまでも、地平線の彼方まで続くように広い草原も、それらを囲むようにそびえるたくましい樹木の群れも。
全てが、俺に、優しかった。
ここにあるのは、一つしかない。
命だ。
命だけが、この世界に満ちている。
俺の前には、小島樹花さんが立っている。
彼女は、微笑んでいる。
彼女は、傘をさしている。
初めて、俺が出会った日に、俺を守ってくれた傘と、同じ傘を。
彼女は、ドレスを着ている。
やはりこれも、俺が見たことのあるドレスだ。
まだ俺がとても小さかった頃、母さんが読んでくれた絵本で、こういうドレスを見たことがある。
お姫様がきるようなドレスだ。
白くて、輝いていて、ひらひらしているドレスだ。
対して、俺は、裸だった。
生まれた時と同じように、何もその身に着けていない姿で、俺は彼女の前に立っている。
俺と彼女は、見つめあっている。
「温かいでしょう」
彼女が、言った。
「はい」
俺は、答えた。
「とても、あたたかいです」
「ここには、水なんかありませんよ」
「とても、嬉しいです」
俺の心は、平安に満たされていた。
もうずっと遠い昔に、自分は確かに、こういう気持になったことがあるはずなのに、それがどんな時だったか、思い出せなかった。
だけど、そんなことは、どうでもよかった。
だって俺は今、この美しい世界に立っていて、俺の前には、彼女がいるのだから。
俺は、一歩、足を踏み出した。
俺は、彼女を、抱きしめた。
裸身の俺に抱かれる彼女の耳元で、俺はささやいた。
「樹花・・・・・・」
そこで、俺の夢は終わった。
俺は、目を覚ました。
瞼を開いた俺の視界には、緑の世界でも小島さんでもなく、俺の住むアパートの天井だけが、あった。
カーテンの向こうから差し込んでいるであろう朝の淡い光の中で、ぼんやりと天井の木目だけが見えていた。
俺は、横を向いて、目覚まし時計を見た。
まだ、もう少し眠っていても大丈夫ではあるけれど、今起きたほうが、ゆったりとして朝歩くことが出来る、そんな時間を、時計は示していた。
俺はもそもそと、昨日のアルバイト先での肉体労働で未だ疲れが残っている体を動かして、布団から出た。
トイレにいって膀胱を空にして、手を洗った後でひげをそって顔を洗った。
水道から出る水を顔にばしゃっ、とかけたとき、冷たさが頭の奥までしみるようだった。
濡れた顔をタオルで拭いた後、俺は鏡をじ、と見た。
ひげに剃り残しはないだろうか。
鼻毛は出ていないだろうか。
そんなことを、注意深く確認した。
どうしても、不格好な顔のままでは、外出したくなかった。
不格好な顔を、出来れば見せたくない人と、出会ってしまったから・・・・・・。
朝ご飯は、昨日炊いておいたご飯をよそって、納豆をかけて食べた。
食べ終わって、お椀を軽く洗った後で、また鏡の前に立った。
口元が汚れていないか、確かめたかった。
見たところ、米粒も納豆粒もついてはいないみたいだったけれど、なんとなく、目に見えない汚れがついているような気がぬぐえなかったので、もう一度顔を洗った。
顔を拭いてから、着替えた。
これまた、鏡の前で、ちゃんと着こなせているか、ボタンにかけ違いはないか、服に汚れはないか、社会の窓は開いていないか、確かめた。
昨日の内に準備しておいた鞄を手に取る前に、スマホに電源を入れて、天気予報アプリを確認した。
今日は、一日中晴れだと、アプリは示していた。
でも、一応、折り畳み傘がちゃんと鞄にあるかどうか、俺は見た。
鞄の内ポケットに、折りたたみ傘はあった。
俺は鞄を抱えて、部屋を出た。
朝の空気は好きだ。
澄み切っていて、汚れがなくて、吸っていると心身共に健康になれそうな感覚を覚える。
そんな空気の中を、俺は歩いて行った。
今日は、大学の講義は午後から始まる。午前中、俺はフリーだ。
だから、別にもうちょっと、自室でのんびりしていたっていいのだけれど、今日の俺は、大学に行く前に約束があったから、この時間にアパートを後にしたわけだ。
俺は、大学から遠くないところにある、喫茶店の前にたどり着いた。
古風で上品な、フランス映画にでも出てきそうな(といって俺は、フランス映画なんて一度も観たことはないが)喫茶店だった。
その玄関の前で、俺はしばし、佇んだ。
ここで、待ち合わせをする約束だったからだ。
待ち人を待つ間、暇をつぶすために、俺は鞄からスマートフォンを取り出して、今日のニュースを見た。
なぜニュースだったのかといえば、ソーシャルゲーム(FGOとかパズドラとか)をやるよりもその方が知的で、待ち人がやってきて俺のスマホを覗いたときに、彼女の目に俺が知的に見えるだろうということを期待したからだ。
胸糞の悪いニュースが、トップニュースだった。
去年だったか今年の初めだったかに起きた、病院放火事件で逮捕された犯人を裁く裁判が、いよいよ始まったことを示すニュースだった。
それは、残虐な事件だった。
産婦人科を主とする病院に、犯人がガソリンを使って放火をし、10人程の死者と、20人程のけが人が出た事件。
死者の中には、生まれてまもない新生児や、妊婦が、含まれていた。
事件が発生した時は、連日報道され、コメンテーターたちが悲嘆にくれた顔を画面の中に見せたものだ。
この事件が、特に社会的注目を集めたのは、その残虐性もさることながら、犯人の動機の特異さにもあった。
犯人である、20代の男は、警察に逮捕されて受けた取り調べで、自分の行為を「正義」だと断言した。
人類をほろぼす党党首、高杉真司。
男は、自称した。
そんな政党は公的には届けられていないが、男は、高杉真司は、自分一人しかいない政治団体のリーダーであることを、自称したのだ。
病院に火をかける前、高杉は、Yutubeに動画を投稿していた。『政見放送』と称する動画を。
その動画は、もちろん事件発生後に削除されたが、自分はニュースの中で一部分だけ見たことがある。
「人をたくさん殺すことは、いいことなんだ!」
動画の中で、高杉はそう絶叫していた。
動画の中で、高杉は主張した。人類は、みんな、生きているだけで死刑に相当する罪を犯し続けている最悪の犯罪者だと。
何故なら、人間は生きている限り、食事のために他の生き物を、動物植物問わず殺し続けているからだと。
生存罪、という造語を、高杉は繰り返した。自分が選挙で勝って総理大臣になったらこの罪を制定し、人類を一人残らず死刑にするのだと。
「特に妊婦は重罪です! ただ自分が生きているだけでは飽き足らず、新しい人間を生み出すという、更なる重罪を犯すつもりだからです! 皆さん、街で妊婦を見かけたら、その醜く膨らんだ腹を、是非ぶんなぐってやってください! 可能ならば、金属バットを持ち歩いて、いつでもフルスイングできるようにしてください!」
そして、音程の外れた歌を歌って、高杉の動画は終わっていた。
「妊婦の、腹を、ぶん殴れっ! あそれ! 妊婦の、腹を、ぶん殴れっ! あそれ! 金属バットでぶん殴れっ! あそれ!」
胸糞が悪い動画だった。
弱い人たちに対する暴力をあおるメッセージに、俺は嫌悪感しかなかった。
もちろんそれは、この動画を見た、事件を知った大多数の人たちも同じであっただろう。
と同時に、識者を中心に、高杉は注目を集めた。
思想に基づく大量殺人。
それが、高杉の起こした事件の特異性だったのだ。
日本では、それは、珍しい形の犯罪だった。もちろん過去を振り返れば、この国にもテロがあったけど、犯人がたった一人で、しかも相手が政府機関でも企業でもない多数の一般人であったという事実が、特異だったのだ。
ある評論家は、高杉の思想の背景として、近年海外で支持者を増やしている反出生主義を見出し、「21世紀のテロリズムは、彼のような思想に基づくものが増えていくだろう」と語った。
・・・・・・おぞましいことに。ネット上では、掲示板、SNSを問わず、高杉の主張を正しい主張だとみなし、高杉を英雄視する声も散見された。
「やっぱりさあ、妊婦ってうざいんだよ。邪魔なんだよ。バスとか電車とかで、あいつらのでかい腹がさ。その上席を譲れなんて、ずうずうしく要求してくるんだぜ。 なんで俺が、勝手に中出しセックスしたやつなんかのために、席を譲らなきゃいけねーんだよ? 焼け死んでくれてざまーみろって感じ。犯人はよくやったよ! 無罪放免の上報奨金を上げたいね」
大半は、こんなようなノリの、知性を感じられない浅い賛同意見だったけれど。
中には、それなりに理論武装した意見もあった。
「確かに大量殺人は許されない。が、彼の動機となった思想自体を、完全に否定できるとは思えない。現在、地球上の人類の人口は七十億人を超え、これが生態系に与えている負担は計り知れない。そもそも我々人類が、過去どれだけの生物を絶滅に追い込んできたであろうか。それも我々自身の際限のない欲望によって、だ。我々は今、自ら絶滅もしくは環境に負荷を与えない程度にまで数を減らす選択をする道義的責任があるのではないか」
だけど、こんな意見も、俺にはどうしても、生理的に、受け入れられなかった。
難しい理屈なんて関係ない。
ただ、ただ病院にいただけの妊婦さんや、生まれてきたばかりの子どもを殺した人間の語る言葉に、少しでも同意を示す人間がいるという事実が、自分には、気持ち悪かった。
その理屈が正しいのかどうか、考えることさえもが、自分には受け入れることが出来なかった。
これは、俺が、異常者だからだろうか。水を怖がるような異常な人間だから、善悪についての感覚も異常なのだろうか。俺以外の人間の大多数は、高杉のような奴の意見も、一つの意見として受け入れて、「次の選挙では誰に投票しようか」なんて問題と同じような感覚で、その是非を語り合うことが出来るということだろうか。
小島さんは、どうなのだろう。
唐突に、俺は思った。
小島さんなら、この事件に対して、どんな感想を示すだろう。
でも、こんな話題を持ち出して、小島さんは不快にならないだろうか。
「おはようございます! 生君!」
俺の思考は、背後から聞こえた、澄んだ声で中断された。
俺は、振り向いた。小島さんが、立っていた。