俺は、喫茶店の玄関の戸を開けて、店内に入っていった。小島さんも、後に続く。
「生君、待ちました?」
「いや、さっき来たばかりですよ」
俺は笑っていった。思えば、彼女と会ってから、笑うことが出来るようになった気がする。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「二人です」
店員さんの出迎えに対して、俺たちは一緒に答えた。
「当店は、全席禁煙となっておりますが、よろしいでしょうか?」
「はい」
俺が、答えた。この店で煙草が使えないということは、この店のことを教えてもらった時に、小島さんから聞いていた。俺は煙草を吸わないから、それになんの不都合もなかった。
店員さんに案内されて、俺たちは、日当たりのよい窓際の席に案内された。平日ということもあって、店内は混んではいなかった。ただ、お年寄りが多く来店しているようだった。落ち着いた雰囲気のおかげで、近所に住んでいる人たちの憩いの場になっているらしいことも、小島さんから既に聞いていた。
俺たちは、座った。
「ご注文は、お決まりでしょうか?」
「紅茶でお願いします」
「俺は、コーヒーで」
店員さんは、俺たちの注文をメモして、カウンターに歩み去っていった。
「いい店でしょ? ここ」
小島さんが言った。俺は頷いた。
「ええ、なんか、上品です」
この店で会う約束を俺たちがしたのは、昨日のことだった。
大学の傍に、いい感じの喫茶店があるから、明日はそこで会わないかと、提案をしてきたのは小島さんだった。
会って、何をするのかというと・・・・・・。
「書けました? 小説」
「はい、一応」
俺は、鞄から、ファイルケースを取り出した。
その中には、昨日プリントした、四枚ほどの、文字で埋まった紙が保管されていた。
俺はそれらを取り出して、小島さんに渡した。
それは、俺がここ数日を費やして、なんとか書き上げた小説だった。
自室にあるパソコンのワープロソフトで書き、プリントは近所のコンビニの有料印刷サービスを利用した。
数日前、小島さんと初めて一緒にお昼ご飯を食べた日に、俺は小島さんに、文芸部の部室に案内された。
部室には、4年生の部長さんと、他に二人の先輩がいた。小島さんは、俺を彼らに紹介してくれた。
彼らは、俺を歓迎してくれた。
とはいえ、俺の方としては、入部の意志がまだ固まってはなかった。いくら無理に書かなくてもいいといわれたからといって、入部する以上は、やはり小説を書くことが出来たほうがいいと、考えていたからだ。
その迷いを正直に伝えると、部長さんは、小説でも詩でもエッセイでもいいけど、一度短くてもいいから、何か書いてみた上で、考えてみたらいいのではないかと、言ってくれた。
書くのが好きだと感じられたなら、入部すればよい。それは「書ける」てことだから、と。
もちろん、例え書けなくとも、入部したいと思えば、入部すればよい、と。
俺は、そうすることにした。
まだ何を書きたいのか、何か書けるのかわからないけれど、「書く」という行為がどんなものなのかを、知るために。
俺は、書くことにした。
小島さんは、書けたら最初に読みたいと、言ってくれた。
だから今、俺はここに座っていて、小島さんは俺の書いた小説を読んでいる。
小島さんの目が、プリントされた文字の上を追うのを、俺はどうしても見続けることが出来なかった。
緊張しているからだ。
自分の作品を読んでもらうことが、こんなに緊張することだなんて、予想外だった。
不特定多数の世の中の人にいつも読まれている小説家や漫画家の人たちって、頭がどうかしているのではないだろうか。
俺は、窓の外に視線を向け、車が前の車道を通り過ぎていく姿や、おばあさんが犬を散歩させながら歩道を歩く姿や、ベビーカーを押した男性が横断歩道橋を渡る姿を見た。
陽光の降り注ぐ、喫茶店の前の道の午前中に相応しいであろう、平和な光景だった。
ふと、俺は思った。
この光景の中を歩いている人たちは、俺が水を恐れているということを、俺が人生で初めて小説を書いたばかりだということを、俺が彼らと違うということを、知らない。
俺の名前さえ、知らない。
俺も、彼らのことを、全く知らない。
知るはずもない。
でも俺たちは、同じ地球という星に生まれて、今この瞬間を生きている。お互いに存在位は気づいても、これからいつ終わるかしれない生涯の間、二度と目にすることはないだろう。
当たり前の事実だ。
でもそんな当たり前の事実に、俺は今この瞬間、初めて気がついたような気がした。
俺は今まで、俺は異常な人間だと思っていた。異常な恐怖に悩まされている人間だと。
でも、今目の前の光景を歩いている人たちだって、俺が知らないだけで、他人に明かさないような彼ら一人一人に固有の恐怖感を、抱いているのかもしれない。
彼らも、他人に容易に明かせないような秘密を胸に抱いて、歩いているのかもしれない。
彼らだって、異常者なのかもしれない。
彼らだって、自分のことを異常者だと考えながら、歩いているのかもしれない。
俺は、不思議だった。
なぜ、そんな単純なことが、今まで抱いた種類のない驚きを、俺に与えるのだろうかと。
「読みました」
小島さんの、声が聞こえた。
俺は、彼女を見た。
小島さんも、紙をテーブルの上に綺麗にそろえておいて、俺を見ていた。
「・・・・・・どう、でした?」
恐る恐る、俺は聞いた。
「初めてでこれだけ書けるんだったら、すごいと思います」
ちょうどその時、コーヒーと紅茶が、運ばれてきた。俺たちはそれをとって、テーブルに置いた。
「話はまあ、正直に言うと、そんなに面白くはなかったかな」
紅茶を一口すすった後で、小島さんは言った。
俺は、意外とショックは感じなかった。あらかじめ予想はしていたからだったかもしれないし、小島さんが言った言葉だったからかもしれない。
実際、自分でも、それは自信作とは言えない代物だった。近未来を舞台に、タイムマシンを開発した男が過去に戻って自分を殺したら、その瞬間に幽霊になってしまったという、ひねりのない落ちのお話だ。
でもこれが、俺の精一杯だったのだ。部屋のパソコンを立ち上げて真っ白な画面を見ながら、昔かった星新一のショートショート集なんぞを読みながら、どうにか形だけでも真似て整えた。
「でも、ちゃんと起承転結というか、構造はきちんとしているじゃないですか。これから作品を書き続けていったら、生君にしか書けない小説が、書けるようになるんじゃないのかなって、そう思いました」
「そうだと、いいけどね・・・・・・」
俺がそういって、熱いコーヒーを一口すするのを見て、小島さんはニヤリと笑った。
「そうだといいけどね、ていうってことは、これからも書き続けたいと思っているんですね。書いていて、楽しかったですか?」
「・・・・・・」
俺は、考え込みながら、コーヒーカップを置いた。
「ちょっと、よく、わからないです。楽しいかどうかは」
何しろ、一語一語、一文字一文字を入力することにさえも、普段使わないような神経を使ったのだ。これまで感じたことのない苦痛を、執筆の間中、常に感じていた。
と、同時に、とにかくも一つの小説を書き上げた時、達成感と共に俺の書いたモノを読み直したときに感じたあの不思議さもまた、これまでの人生で、一度も感じたことがないものだった。
ああ、俺はこれを書いたんだ。
初見で、そう思った。そう思うと何故か、書くのに苦労したあの一語一語、一文字一文字が、例え俺以外の誰も読んでくれないとしても、世界が生まれてから書かれ続けてきたどんな言葉よりも愛おしく、高貴なものであるかのように見えてきたのを覚えている。
わが子を慈しむ母の心とは、あるいはこのようなものであろうか。
「でも、書き続けてはいきたいなって、思っています。良いものが、書けるがどうかは、わからないけれど」
「じゃあ、入るんですね。文芸部に」
「はい」
「ようこそ」
小島さんは、そう言って、また紅茶をすすった。
俺は、返してもらった原稿を、また丁寧にファイルケースに入れて、鞄にしまった。
それから、俺も小島さんに習って、コーヒーカップを持ち、飲み干した。温かさと苦みが心地よかった。
「生君。聞いてもいいですか」
そんな俺を見ながら、小島さんが言った。
「何?」
「私の書いた小説を、読んでくれます?」
「小島さんの書いた、小説を?」
「うん。もしできれば、生君に読んでもらって感想を聞きたいなって」
「良いですよ」
「ありがとう」
小島さんは、自分の鞄から、本を取り出した。
厚い本だった。
カバーのないむき出しの姿で、モノクロの表紙には、幾何学模様が描かれている
俺は、それがなんなのか、言われる前に気付いた。
「部で出している雑誌ですか?」
「うん」
俺は、小島さんから、部誌を受け取った。
俺は、部誌を開いた。
「火宅遊っていうのが、私のペンネームなんです」
俺は目次を見た。火宅遊という作者の小説は、12ページくらいにあった。俺はそのページまで本をめくり、小島さんの小説を読み始めた……。