俺たちは、12時過ぎに、喫茶店を後にして、大学に来た。
「じゃあ、これで」
「はい。お疲れ様です。生君」
学部が違うから、受ける講義も違うので、俺たちは門を過ぎてすぐのあたりで別れた。
その日、教授の講義の声を聞きながらも、心はずっと、小島さんの話してくれたことについて、考え続けていた。
彼女もまた、俺とある意味同種の人間であったということ、他の人たちに見えていないことがみえてしまい、それ故に苦悩する人間であるということが、俺に対して深い印象を残したのだ。
もっとも、俺のそれがただの妄想に基づいているのに対し、小島さんは、現実にこの世界に存在する真実のせいで、苦悩している。それが、違いだ。
とはいえ、と、俺は、教授のやむことない言葉に黙って耳を傾けている、教室に座る何人もの学生たちの姿を眺めながら、思った。
彼らだって、言葉に出してはいないだけで、本当は、それぞれ何かを恐れているのかもしれない。
それはもしかしたら、俺の目から見れば、取るに足りないようなものなのかもしれないし、あるいはただの妄想に基づいているものとしか思えないものかもしれない。
人は、それぞれ違う。
同じ世界を見つめていても、その瞳には、全く違う光景が映っているのかもしれない。
例えば、あの産婦人科病院放火事件を起こした高杉真司や、彼の賛同者たちの瞳にも、善悪について、俺とは違った光景が、きっと見えていたのだろう。
そういえば、結局、小島さんとの会話で、あの事件について話題に持ち出すことは、なかった。
まあ、あの平和な喫茶店の空間に、あんな血なまぐさい事件の話題はミスマッチだったと思うし、別に小島さんとしたいような話でもなかったから、良かったのかな。
その日、受けなければいけない講義が全て終わった後で、俺は文芸部の部室に行くことにした。
入部の意志を伝えに行く必要があったから。まあ昨日会った人たちがいるとは限らないが、もし誰かいたなら、書いた小説を読んでもらいたいという思いもあった。
文芸部の部室は、文化系部活棟の三階にある。
俺は、古びたその建物の階段を上った。
「文芸部」という張り紙(端がちぎれていて、剥がれそうだった)が貼られたドアを、俺はノックした。
反応は、なかった。ただ、明かりはついていた。
ドアノブを握った。鍵はかかってなかった。
はてな。俺は首を傾げた。
誰かが、電気はつけっぱなし、鍵は開けっぱなしの状態で部室を放置した、ということだろうか? もったいなくて不用心だ。
もしも誰もいないのならば、このまま帰ってもいいのだが……。
好奇心が、俺を突き動かし、ドアノブを回させた。
ドアが開き、文芸部の部室の中の光景が、俺の目に前に現れた。
部室は、無人ではなかった。
靴を脱いで上がる、敷き詰められた床の中央、小さなテーブルの傍らに、人が一人、俺の立つ入り口に背中を向けて、横たわっていた。
長い髪と、体型と、スカートとそこから出た足から考えるに、どうも女性らしい。
眠っているのだろうか?
だとしたら、起こしたら悪い。
とはいえ、せっかく部員(だと思う。多分。)の人がいるのであれば、俺の書いた小説を読んで欲しかったし、今後人間関係を始めていく中で、親交を結んでおきたかった。
俺は靴を脱いで、眠るその人に、近寄った。
その人は、やはり女性だった。そしてやはり、眠っていた。
なので、起きるまで、待つことにした。
本でも読んで時間をつぶせるかと思って、俺は本棚を見た。
やはり文芸部だからだろうか、部室には本棚があり、色んな本があった。綺麗にそろえられたタイトルを追っていくと、おや、と俺は驚いた。
懐かしい書名を、見つけたからだ。
明星(あけほし)月光(げっこう)作『紅のソルジャー』シリーズの、一巻と二巻。
それは、俺が高校時代によく読んでいた、ライトノベルのシリーズだった。
高校時代も、俺は、図書室を友として過ごしていた。俺が通っていた高校の図書室には、『紅(くれない)のソルジャー』シリーズが置かれていたから、自然に手に取ったのだ。
近未来の日本を舞台に、戦争用サイボーグとして作られながら、軍を脱走し、高校生として生きる少女、紅烈(れつ)花(か)が、悪と戦うというストーリー。
魅力的なキャラクターに緻密な設定、バトルをはじめとする繊細な描写力によって人気シリーズとなり、確かアニメ化もされたはずだ。
俺が何よりもこのシリーズで好きだったのは、ヒロインである烈花と同じ高校に通う平凡な少年、桐(き)生(りゅう)月人(つきと)との関係性だった。二人は最初、ただの同級生だった。しかし、月人が敵と戦う烈花を目撃したのをきっかけに、二人は徐々に関係を深め、やがては恋に落ちてゆく。しかし、烈花は、サイボーグである自分は、月人と同じ世界に生きることはできないと考え、自分の思いを伝えることが出来ない。そんな烈花の姿が、けなげで、愛おしくて、俺は読みながら、二人の恋の成就を願っていたものだ。
確か、このシリーズは、未だ完結していないはずだ。
俺が高校三年生だった頃の春ごろを最後に、刊行が止まっている。理由はわからない。
俺は、一巻を手に取り、読み始めた。
久しぶりに読んだが、やはり面白い。
そのまま夢中になって読むふけり、遂に、一巻を最後まで読み切ってしまった。
二巻目を読もうと、持っていた本を本棚に返そうとしたとき。
俺は、自分を見つめる瞳に気が付いた。
横たわっていた女性が、体を起こしていたのだ。
上半身だけを起こした体勢になって、本を持つ俺を、じっと、凝視している。
ものすごい、真顔だった。
「あ・・・・・・、すいません」
別にそんな必要はなかったかもしれないが、何故か気まずくなったから、俺は謝った。
「その、ドアが、空いていたもので、、、その、お休みだったようですから……」
そんな必要はないのかもしれないが、なぜかしどろもどろに弁解を始めてしまった……。
「君は……」
女性が、口を開いた。
若い声だった。彼女は、外見も若そうだ。俺と多分同年代だろう。
「好きか、その小説」
彼女は、俺の持つ「紅のソルジャー」第一巻を指さした。
俺は、口を閉じた。
急に、未だ名前も知らない彼女が、予想外のことを質問してきたから、どう答えたらよいかわからなかった。
「え、えっと、好き、です」
別に、答える必要もなかったかもしれないが、一方で答えない必要もなかったので、俺は正直に答えた。
「そうか。君に小説を書く才能はないから、文芸部なんて入らない方がいいぞ」
脳みその中が、ぶっとんだ。
もちろん、比喩表現だ。
わかりやすく言えば、衝撃を受けた。
いきなり、初対面の人に、初めて交わす会話で、なんか言葉にできないけど、俺の大事なものを全否定されたことに対して、衝撃を受けた。
俺の頭の中には、たった一つの言葉だけが、たった一つの疑問だけが、渦巻いていた。
なんなんだ、この人?
それが、俺と、天道(てんどう)文(ふみ)姫(き)先輩との、ファーストコンタクトだった。