暴風の如き剣技が炸裂した。
何重にも折り重なった必殺の剣技が束となり、化物の頸を──文字通り捻じ切った。
寸断された胴体は塵芥となり、空気中に霧散していく。頭部もまた同様にして、怒りと怨嗟の断末魔を上げて消えていった。
夢を見ているかのようだ。
人ならざる者がいる。
人が、人ならざる技を使う。
あまりにも異常で、浮世離れした光景。これを寝ている間の出来事だと断じる事ができればよかったのだが、夢は覚める気配がなかった。
おまけに。
鞘に──翡翠の刀を納めた剣士をよくよく見ていると、その男も、およそ化物に近い形相をしていた。
(傷だらけの身体──血走った眼。そして凶悪な人相──理性も知性も無さそうな、狂戦士の如き佇まい──)
「──怪我は無えかァ」
「────えっ?」
「怪我をしている所は無えか?お前達の他に、逃げ遅れた人はいるか?」
悪鬼を体現したかのような男に似付かぬ、優しい声色に戸惑った。その奇妙さに圧倒され──千雨は一瞬、この男が自分に向けて喋ったのだと気付かなかった。
──意外と理性的だ。
驚愕と、もしや自分達を騙して取って喰うのではないか──という疑念とが混じり、心の奥底で鬩ぎ合った。
張り詰めた静寂を破られたのは、全身を黒で覆った人間が、何処からともなく現れた時だった。その人物と何やらブツブツと話しているのを見て、千雨は、漸くこの男があの化物から助けてくれたのだと理解するに至った。
「───風柱様、あの周辺で生存している人間はおりません。逃げたか、鬼に喰われたか──」
「そうかァ。おい、お前達。家族は──」
「……………ッ」
己の顔が苦々しく歪んだのを感じた。
つん、と突き抜けるような喪失感が身体中を駆け巡り、涙が溢れた。
それを見て──全てを察したのか、その男は遽に目を細める。
「──分かった、答えなくていい」
「………どうします、この子達」
「蝶屋敷まで連れて行け。俺は次の任務に行く。後事は胡蝶に任せる」
手早く、部下──らしき男に指示を飛ばすと、風柱と呼ばれた男は踵を返した。
その眼に宿っていたのは、憎悪か、後悔か。あるいはその両方か──
「──俺があと寸刻でも早く駆け付けていれば──」
軋んだ歯の隙間から、そんな声が聞こえた気がした。
真白の短い白髪頭が遠くに消えて行くのを見て、張り詰めた緊張の糸が解けた。
ああ──眠い──。
▽▽▽▽▽▽
「千雨」
──だあれ?
「千雨、ごめんね」
──お母さんに、お父さん?
──
「先に行く私達を許しておくれ」
──どうして?どうして私達を置いていってしまったの?
──現世はまるで絶えぬ悪夢の中にいるようだよ?
──私に、私に、我慢しろというの?
「すまない、千雨」
「ごめんね、千雨」
──私じゃ、無理だよ
「千雨ならきっと大丈夫。私達の代わりに時雨を守ってね」
家族のその願望が、私の心に楔となって打ち込まれた。
心臓を鎖で締め上げられるような感覚。
引っ張られるようにして、意識が浮上していった。
▽▽▽▽▽▽
花の香る匂いが、鼻腔を擽った。
全身が針金で縛られたかのように痛む。
随分と長い間眠っていたらしい。
ここはどこだろう──時雨はどこだろう。
それら疑問を塗り潰す程の無気力さと脱力感が、布団の上からのし掛かっていた。
「天国、かな」
どうやら声は出るらしい。
自分で言っておいてなんだが、ここが天国というなら、夢で見たあそこは何だったのだろうか。……それともあそこは夢の作り上げた世界なのだろうか。
現実にしては突拍子もなく、夢にしては精巧に過ぎる。
──家族はもう時雨以外には残っていないというのに。
「あー!」
子供特有の甲高い声が右耳から私の脳を突き抜けた。
気怠げに、そちらへと首を動かすと──何ともちんまい、点のような目をした可愛らしい少女が声を上げている姿があった。
顔に使われている部品が異様に単純というか、簡単に絵に描けそうな容貌というか。
少女が小走りで引っ込むと、物静かな雰囲気の女性を連れて戻ってくる。
理知的な女性だ。
蝶が人間として生を受けたかのような。
軽やかな所作は、本当に、背中に翅を隠しているかの如きだった。
「醒めましたか」
「ここは?」
「蝶屋敷──鬼の被害を受け、心や身体に傷を負った人達が集まるところですよ」
鬼。
真剣な話の中に紛れ込む、御伽噺の世界の用語に、以前までの千雨なら可笑しさを感じていただろう。馬鹿馬鹿しい、と。
だが、あんな物を見た後では、世界がひっくり返るのも無理もない事だった。
蝶のような女性は、てきぱきと体調や体温を計って診療録(カルテ、というらしい)に書き込んでいく。
頭が冴えていく内にあの常識外の出来事について知りたいという欲求が膨らんだ。
彼女を質問攻めにした。
急いた千雨をやんわりと落ち着かせると、彼女は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
──驚天動地。
胡蝶しのぶと名乗ったその女性が話す内容を聞いていくと、今までの常識や理がひっくり返り──ひっくり返りすぎて逆に元に戻ってしまった。
いや、常識も、理も、沙汰もある。
全てが己の預かり知る領域の外側で行われていたというだけのこと。
鬼殺隊、柱、鬼、蝶屋敷、隊士──それらが千雨の世界より離れて存在しており、千雨の享受していた世界とは、世間の言う最大公約数的なものだった、というだけ。
しかし──しのぶ達の領域に、望まぬ形で脚を踏み入れてしまったのは確かだ。
しばし呆けた後、時雨について尋ねると、彼女は先に起きて機能回復の施しを受けているとの事だった。
「千雨ちゃん、貴方には大きく分けて三つの道があります」
しのぶは細い指を三本伸ばした。
その指には剣を振って出来たであろう隠せない胼胝が薄らと出来ていた。
「一つ、私達のことは綺麗さっぱり忘れて平穏な暮らしに戻ること。仕事に就くまでのお金はこちらで工面します。鬼のことさえ口外しなければ大丈夫です」
是非ともその案に食い付きたいところではあったが、それが現実的ではないことは理解していた。
小娘二人が真っ当な仕事にありつける筈がない。何より、あの惨劇を知っておいて普通の暮らしに戻れる訳がないのだ。いつまた襲われるかもしれぬという恐怖を抱いて、眠れぬ夜を過ごすのは御免だ。
「二つ、鬼殺隊に入隊し、最前線で戦う隊士達の補助をすること。任務で使う烏達の世話をしたり、私達のように医療に携わり怪我人の面倒を見たり、一般人に知られぬよう事後処理をしたり。色々と道はあります。稀に刀鍛冶の里に行く人もいますね」
恐らくは、最適解はこれだろう。
鬼と関わる仕事ではあるが、鬼と接する仕事ではない。異常の淵に立ちながら、異常そのものではないのだから。
「三つ、これは私は決してお勧めはしませんが──隊士として生き、鬼を殺す。隊士になるための訓練は厳しいですし、いつ何時死ぬかも分からない過酷なものです。則ち、死と隣り合わせの世界ですから、五体満足どころか命の保証すらできません。半端な覚悟でこの道に飛び込むならば必ず後悔します。──それでも家族の仇を討ちたいのであれば、別ですが」
「……………」
その時の私の眼には、何が写っていたであろうか。
言えるのはただ一つのことだ。
ーー無理だ、と。
あの鬼とやらと、再び対峙するだけの度胸はない。異常者にはなれない。
私が選ぶ道は、これではなかった。
「退院する迄の間に、己がどの道を選ぶのか、頭の片隅に留めておいてくださいね。其れ迄は私達は全力で貴方の支援をしますから」
しのぶ自身も剣士の端くれであり──明日には居なくなっているかもしれないがーーという、不謹慎極まりない言葉を呑み込んだ。環境の変化に、家族の喪失に、だいぶ戸惑っているようだった、と、まるで他人事のように思った。