「しぐれ」
何度その名を呼んだだろう。
何度その声を聞いただろう。
千雨は、たった一人残った妹に無意識のうちに執着していた。
羨望もあった。
愛情もあった。
しかしその全てを振り切るように、時雨は先へ先へと歩んでいった。
そうして遥か遠くへ行ってしまった彼女はもう、遠い世界の住人だった。
千雨の知る世界から、法理から、彼女は遠く遠くへ離れていった。
久しぶりに会う彼女は、別の名前で呼ばれていた。
「嵐柱様」
鬼殺隊になる際は、死への恐怖と鬼への畏怖とで碌な説明も聞いていなかったが、それでも日を重ねるごとにその名を知る機会は増えていった。
柱。
鬼殺隊を支える支柱。
恐ろしい速さで死んで行き、入った傍から命を落としていく隊士達の中にあって、確実に鬼を滅して殺す事を可能とする手練れの剣士達。
それが柱であり、それが鬼殺隊の象徴でもあった。多くの隊士達の憧れにして最高の戦力である彼等は、並大抵の功績ではなれるものではない。
しかし、その天才達の領域に新しく入った剣士が一人いた。
それが、叢雲時雨である。
「千雨姉さん、久しぶり。私、私ね、柱になったんだよ」
そう笑う彼女の顔を見て、叢雲千雨は、己が存在が恐ろしいほどに惨めなのだと自覚させららる。
肩や隊士の模範となるべき柱。
肩や平凡の域を出ない一般隊員。
何だ、この差は。
何なのだ、自分は。
狂おしいまでの自己嫌悪。
(時雨は柱になんてならなければよかった)
そんな事を考えてしまう自分が大嫌いだ。
素直に喜ぶ事ができない。
柱になろうと為すべき事は変わらない。責務が重くなりはするが、強者は生き延び弱者は屠られるのが世の理。だからもう今更命がどうとか、などとは言わない。
だからせめて彼女の努力は称賛すべきだったのだ。
彼女の働きはあくまで日陰の仕事であり、世の中の、無辜の民に知れ渡る事はない。
だから私がいの一番に、頑張ったね、と声を掛けるべきだったのに。
立派な事なのに。
凄い事なのに。
認めたく、ない。
そしてそう考えてしまう自分が大嫌いだ。
(ああ、そうか、私が嫌いなのは時雨じゃなかった。私が嫌いなのは私自身。どうして気付かなかったのだろう。……そうか、妹に嫉妬する見苦しい存在であるのを認めたくなかっただけなんだ)
滑稽な話だ。
私はそんな浅ましい人間じゃない、と、自分に言い聞かせていたに過ぎない。
私は姉だからしっかりしないと。そんな責任感が盲目にしていただけだ。
ああ、ああ、あああ。
こんな醜い人間が私である事実が辛い。耐えられない。
受け入れ難い。
時雨は鏡だ。清廉潔白で美しく磨かれた彼女は人の心を映す。その鏡に写っている自分を見て、私は、悶絶していたのだ。
そのあまりの浅ましさに。
「千雨姉さん、どうしたの」
「────ッ。何でもない。そう、何でもないよ、時雨」
「そう?ああ、もう少しで着くよ」
時雨とやって来ていたのは、鬼の隠れ棲むとされる、大きな市街地だ。
先行した隊士の遣わした鎹鴉の話によれば、これまでに相当な被害が出ているとのこと。ややもすると、十二鬼月の可能性があるらしい。
これまでに鬼の頂点とされる彼等に遭遇した事は無かったが、その噂は聞いていた。
聞いてはいたが、よく分からない。
下弦の鬼の時点で凡ゆる隊士を殺し、屠り喰らう無双なる鬼だ。討伐された記録こそあるが、それでも一般隊士の敵う相手ではない。上弦ともなれば遭遇した時点で死が確定すると言われている。
そもそも隊士は殆ど殺され尽くされているので詳細が分からない。それが現状。
しかし分からないのは、時雨が、私がそんな鬼の討伐に役立つ人間だと、なぜ本気で思えるのだろうか。
「私は姉さんに沢山助けてもらった。初めて鬼と遭った時も、熊の時も、姉さんがいなければ死んでいた。私は姉さんが凄い人だって誰よりも知ってる。だから今回の任務もあまり心配してないんだ」
正気か?
鬼殺隊に入り、一年で百匹という圧倒的な速さで鬼を狩って行き、柱となった時雨がそれを言うのか?
本当に凄いのは時雨だ。
叢雲千雨は矮小な人間なのだ。
頼むからその目を向けないで。
凄い姉だ、素晴らしい姉だ、などと思わないで欲しい。
私が抱いていた感情は、嫉妬と、それ以上の自己嫌悪だった。妹に憧れ焦がれた私の姿を直視したくない。
汚物が服を着て歩いているようなものだ。
鬼殺隊になって人を助ける?私は殺す事はできても、一度も守ることはできてない。
弱っちい私を、頼らないで。
▽▽▽▽▽▽
ああ、やはり。
悪い予感は当たるものだ。
鬼の棲むという街に入り、鬼を探っていると、先手を打たれ襲撃された。忠誠心が高いらしく、時雨を柱と知った上で、いや柱だと知ったからこそ戦闘を起こしていた。
その鬼は頭が良く、分裂して街の人々を襲い騒ぎを起こした。
私達は別行動を取らざるを得なくなった。
柱であっても、街の隅から隅まで鬼を殺して回るというのは骨が折れる。いくら強くともその身体は一つなのだ。
そして厄介だったのが、時雨の近くには弱い分身を何十匹も作り撹乱させて、千雨の周りには強い分身を数体置いて確実に追い詰めているという点だ。
弱い分身であっても人々にとっては脅威な訳だから、それらを放って置くわけにはいかない。かくいう千雨も余裕はない。
分身の目を見ると、下弦の壱という文字が見せびらかすように刻まれていた。
「風の呼吸の使い手とやり合うのは初めてだが……こんなに弱っちいものなのか。よほど鬼殺隊は人材不足とみえる。ああ、罪なものだ。こんな娘っ子に刀を握らせて、自分も鬼を殺せるのだと勘違いさせる。何とまあ可哀想な娘っ子だ」
「……ッ、そうだね、貴方の方が風の呼吸が得意みたい。私一人如きに分身を何体も作らないといけないほど、臆病風に吹かれているなんてね!私には真似できないよ」
「いやね、私も困ってるんだよ。なるべく分裂して戦闘力を下げて、手加減しながら戦ってるんだが、君は一向に私を倒してくれないじゃないか。さっさと私を一体くらい倒して、風の呼吸の情報を引き出させてくれないかな」
鬼の本体そのものは、いつでも逃げられる位置にいた。
知能が高く、鬼殺隊を警戒する鬼が一番厄介だ。奴はいつでも私を殺せる。だのにさっさとそれをしないのは、情報を引き出させたいから。
しかしこちらは、さっきから全力なのだ。
限界などとうの昔に越えている。
身体中が悲鳴を上げても無視をして無理矢理動かしている。
身体中の全ての機能を極限まで研ぎ澄まして、時雨が来るまでの時間稼ぎで防御に専念しているというのに、傷は数秒毎に増えていくばかり。
「ははははっ!文字通り、秒刻みだな」
怒りを原動力に動く。それが駄目なら、感情を殺す。だが倒せない。
火事場の馬鹿力なんてものに頼ってもみたが、死が迫り、身体中が高揚してもなお、全く持って通用しない。
早鐘を打つ心臓の音がうるさい。
渾身の一撃を事もなげに躱された時、私の中に浮かんでいたのは諦めと恐怖だった。
(ああ、そうだ。私では勝てない)
そう思考した瞬間から、溢れんばかりの言い訳が浮かんでは消えた。
勝てないのは仕方ない。
今ここで殺されるのは無駄死にと同義。
そうだ、逃げよう。
逃げて生き延びれば、いずれ力をつけて強くなれる。逃げて逃げて、生き残った者が勝者なのだ。
時間稼ぎ?知ったことか。
私は、よくやった。
でも勝てない。仕方ない。
仕方ないことなのだ。
「────千雨姉さん!」
時雨が駆けつけた時、千雨は袈裟斬りにされていた。
右腕は肩の辺りから切り裂かれ、傷は腹部にまで達した。眼球が傷付けられ、右眼は光を失った。
ものの一瞬の出来事だったが、それでも、千雨には無限の時間に感じられた。
激痛は後からやってきた。
千雨が自分だけ逃げおおせようと魔が刺した時、その一瞬の逃げの動作を、鬼は見逃さなかった。
情報とは有益である、味方にとっても敵にとっても。それがこの鬼の考えであり、弱点や情報を持ち帰られるのを本能的に恐れたのである。
時雨は悲鳴とも、怒号ともつかぬ叫び声を上げる。鬼が千雨にトドメを刺そうとした瞬間、時雨は彼女を庇い、右腕を負傷してしまった。傷は深く、骨まで達しているようだったが、激痛すらも感じないほどの怒りなのか、端正な顔を歪めに歪めて、刀をやたらめったらに振り回した。文字通り、視界に入ったものは全て。
しかしその動きには、無駄すぎる程の無駄があった。彼女らしくもない、悪魔のような叫びが夜空にこだました。
「千雨姉さんに近づくなァアアアアーー!!!」
少女の悲痛な叫び。
およそ柱とは思えない、駄々を捏ねる子供のような乱雑さ。
その滅茶苦茶な攻撃は、家を切り裂き、建物を壊し、地形を変える。下弦の鬼はバラバラに切り刻まれる、が、鬼は頸を切り刻まれるのだけは死守した。
破壊にだけ比重を置いた斬撃の嵐から鬼は逃げる。真正面から戦えば、いや、奇襲したとしてもやられる。だが冷静さを欠き怒り心頭となった時雨の攻撃からは、鬼は命からがら逃げる事ができた。
──剣撃の嵐が止んだのは、鬼がまんまと逃げおおせた後だった。
時雨はそこでようやく、正気に戻る。
彼女もまた泣いていた。
己の無力さに泣いていた。
そこで漸く気付く。
時雨もまた、人間なのだ。
(私は──自分のことばかり考えて、時雨のことは何も見えていなかった。今、この子には優しさが必要だ。家族の温もりが。労りが。感謝が。時雨の心は頑丈に見えたけれど、その実、とても脆かった。ひび割れた硝子のように。そこに映る風景ばかりを気にしていた。声を、声をかけなければ。いいんだよ、って。
────何で。何で今、私の唇は動かないの)
千雨はその大怪我で意識を失った。
そこからは時雨にとって動乱の日々だった。
下弦とはいえ、柱ともあろう者が倒せる筈の鬼を逃した。彼女に突き刺さる視線は厳しいものとなっていった。
だが、真に叱責されるべきは時雨ではなく自分自身であると、千雨は思っていた。
一瞬とはいえ、逃げようだなどと。
最低だ。罵倒されるべきは自分だ、と。そう思ってはいたが、あまりの激痛に口を開くことができなかった。
妹を守る?
鬼を殺す?
このざまで?
何を考えていたのだ、自分は。
しかし一度逃げた鬼と再度相見える機会は稀だ。警戒して近寄らなくなり、そして拠点を変える。此度の時雨の失態は無視出来ないものだった。
また足を引っ張ってしまった。
千雨は絶望し、またもや、何度目かも分からない自己嫌悪に陥った。叢雲千雨は、時雨の弱点だったらしい。
なんてことを。
言葉にならない悲鳴が吹き荒れる。
時雨は降格を願い出た。
柱の称号を自ら返上し、最も下の位である
御館様はじめ千雨を含めた何名かは引き留めたようだが、本人の強い希望と、同僚の柱達からの意見もあって、彼女への処分が覆る事はなかった。
「し、ぐれ、ごめん、ごめんなさい、しぐれ、ごめんなさいごめんなさい、私なんかがお姉ちゃんで本当に、本当にごめんなさいごめんなさいごめんなさい────」
私は逃げようとしたのだ。
私は別に勇敢に戦って散った訳ではないのだ。臆病だったのだ。
だが、そう鬼殺隊の人間に言っても、彼女の降格が取り止められる事はなかった。
無力だった。
何のために生まれてきたのだ、私は。
何のために生きてきたのだ、私は。
「いいの。気にしないで。私の覚悟が甘かったのは本当だから。ごめんね、千雨姉さんは、これから私が守るから。ごめんね。情けない妹でごめんね」
やめて、ほしい。
そんなに自分を卑下しないでほしい。
自分は無力で、下劣な存在なのに。
時雨がそんな人間より劣っているわけがないのに。苦しむ必要などないのに。
助けたい。
救ってあげたい。
叢雲時雨を、この世界の苦しみから解き放ってあげたい。
私が。
私がもっと強ければ。
叢雲千雨が不甲斐ないせいで。
情けない姉のせいで。
守るのではなかったのか?
彼女より強くなければ。
時雨を守れるだけの力があれば。
私は、私は、私は。
時雨を守らなければならないのに。
守りたかったのに!
しかし、それはもはや不可能だ。
この手ではもう剣を握る事すら叶わない。
叢雲千雨の剣士の人生は終わった。
眼帯からは、もはや出ない筈の涙が溢れそうになっていた。
「私に力があれば、違ったのかな。私達の立場が違えば、変わったのかな。力が、力さえ、力があれば守れたのにーー……」
「ならば私が力を授けてやろう」
黒髪の、血のように紅い目をした男。
まだ若く瑞々しい肌だが、悠久の時を生きている超越者にも見える。
美しく整った顔は、不気味でもある。
色白の男は、囁くように言った。その言葉は甘く、溶けてしまいそうだった。
「妹を助けたいのだろう。妹の力となりたいのだろう。そのために必要なものを、私が分け与えてやろう」
「あ、なた、は──…………」
「鬼舞辻無惨。この名を二度と口にせず、忠実に尽くすならば、私の血を分け与えてやろうではないか」
「あ、あ────私は………」
「大丈夫だ。お前は悪くない。力の為に奔走するのは罪ではない。お前を罰する者すべてを殺し尽くしてやれ」
ボドボドと、男は血を流した。
それからのことはよく覚えていない。
無心になって血を啜り、誰かの足を毟り取っては口に含み、爆発的な高揚感に身を任せていた。
ああ、時雨にも食べさせてあげたい。
こんな素晴らしいものがあったなんて。
これなら、私にもあの子を守れる。
漸く、姉らしい事ができる────!
「どんな気分だ?」
「最高です、我が君。あなたを命を懸けてお守りいたします。そして私、私は、時雨を守りたい。守って愛されたい。誰よりも愛したい、あの子を。この世に絶えず降り注がれる絶望と苦痛の雨から守りたい」
「いいだろう。愛に飢え、怨嗟の雨から守らんとする鬼………お前の名は、これより『
今、ここに。
一匹の鬼が誕生した。
最初のプロットでは鬼化した時の名前は血雨(ちさめ)にする予定でしたが、愛愛の方が面白いよね。こんな変な名前たぶん他にないしね。
そんでもって時系列ぐちゃぐちゃすぎたので時間ある時調整します!