蝶屋敷での事だ。
先日の下弦の壱との戦闘で傷を負った時雨は養生のためにしのぶの所に厄介になっていたが、毎日のように他に怪我をして入院した隊員達に罵倒を受けていた。
隊士達の中では、彼女は有名人だった。悪い意味で、だ。
短い時間で柱に昇り詰めたかと思えば、すぐに降格され、その直後に鬼と成り果てた姉が目撃された。
このような数奇な運命ともなれば、彼女に嫉妬した隊士達の中には拡大解釈をする者達もいるのだ。
それが分かっているからこそ、時雨は言い返さず、ただベッドの上で黙して無表情を貫いていた。その態度は彼等の怒りに油を注いでいるようではあったが。
「一体どういう事だよ、おい。聞いてるぞお前達の噂は。有名だものなあ」
「…………」
「口が聞けないのか。当然と言えば当然、鬼になり下がった女の妹だものな。所詮はその程度の女なのだ、お前も」
「………何か、用でも?」
「大有りだとも」
その鬼殺隊員は苛立ちが隠せない様子だった。他の隊員も同様に、厳しい視線をその少女へと向けていた。
その少女──叢雲時雨は、数々の誹謗中傷を受けても、揺れることはなかったが、内臓という内臓に薔薇を張り巡らされたかのような苦々しい顔を浮かべていた。
「叢雲時雨。お前が先日、倒せた筈の下弦の壱をみすみす逃し、柱を辞めさせられたかと思えば、その後すぐにお前の姉が失踪し、挙句、鬼になっているだと?お前達姉妹は一体どうなっている。鬼殺隊の看板にどこまで泥を塗りたくれば気が済むんだ」
「巫山戯てるよな。鬼殺隊としての自覚が無えのかよ、テメェ達は」
顔面を蒼白にさせて、時雨はただ黙って聞く事しかできなかった。散々泣き腫らした眼がズキズキと痛む。早く床に着いて眠ってしまいたい。
だが、この悪夢は醒めはしない。
無反応を貫く時雨に苛立ちが募っていっているのか、隊士達の語気が荒くなる。熱量が些か増しているようだった。
「特に怪しいのが、妹が柱を辞めた直後に姉が失踪した点にある。お前達は鬼と通ずる間者じゃねえのか」
「お前まさか、鬼と通じている、と?」
「そうだ!鬼舞辻無惨が、鬼だけでなく人間までもを利用し始めたかもしれないということだ!」
怒りは時に飛躍的な発想に思い至らせる。
隊士達の指摘も、分からなくはないが……しかし余りにも突飛に過ぎた。
時雨は流石に口を開いた。
「私の姉が鬼になったのは、……事実ですが、彼女も、私も、間者ではありません」
「貴様、それをどうやって証明する!根拠のない理論は濡れ紙よりも脆い!お前が今処断されていないのは、今までの功績あってのこと!本来ならばこの場ですぐに叩っ斬ってやるところ──」
「何してるんですか!!」
神崎アオイの、よく通る声がこだました。
隊士達は彼女の姿を視界に収めると、途端に顔を歪ませ、舌打ちする。
「本当に彼女が鬼と通じているなら、とっくに鬼殺隊本部は攻め込まれてます!そもそも御館様がそんな事態を予測しないわけがないでしょう!それとも御館様の判断が間違っているとでも思ってるんですか!」
「だが現にこいつは──」
「そして貴方達は今から機能回復訓練の時間です!人のことをとやかく言う前に、早く訓練場に行ってください!」
アオイの剣幕に押されたか、隊士達はぞろぞろとその場を去っていく。
しんと静まった病室には、アオイと時雨の二人だけが残った。
蝶屋敷で働いていた時雨にとって、アオイは無二の友人とも呼べる存在だった。何せ鬼殺隊に入ってからは、今まで付き合いのあった人達と一切の連絡を断ち、俗世を捨てた身だ。歳の近い少女の存在は時雨にとって貴重だったのだ。
柱となった後も、降格した後も、変わらぬ態度でいてくれる彼女がどれだけ有り難かったことか。誰よりも優しい彼女は、あくまでも強い口調で言った。
「時雨、気にしなくていいから」
「………。アオイ、今のところ、姉さんの情報は来てる?」
「…………時雨。あのね。その情報が来てたとして、鬼殺隊は貴方には教えない。鬼殺隊たる者情に流されるな、とは言うけれど、鬼になった家族と相対して万が一にも剣が鈍らない人はいない」
「………………」
「まあ、貴方が任務で偶々出会ったのなら話は別だけど。ともかく、妙な考えを持っては駄目。生を放棄しては駄目よ」
「放棄はしないよ。捨てはしない。己が命を全て使い切るまで私は生きる。神が私を生かしたという事は、まだ私の生には利用価値があるのでしょう」
「……………ッ」
言い返す事ができない。
鬼殺隊に入った時点で命などあってないようなもの。常に己の命を未来に懸けている者の一人だからこそ、アオイにはその言葉を否定する事ができない。
時雨の目元に疲れが出始めたのは、つい先日の事。彼女と、千雨の育手が指導者としての責任を問われ、腹を切った。
今まで何人もの弟子を育て、何匹もの鬼を屠った男の死に様が、これだ。
彼にとっては沢山いた弟子の一人に過ぎなかったろうが、時雨にとっては、尊敬すべき師匠だった。
──彼の生に意味はあったのだろうか。
ふと、そんな事を考える。
鬼殺隊は幾百年も前から、殺意を滾らせて鬼と戦ってきた。しかし鬼舞辻無惨の足取りすら掴めぬのが現状。
足踏みしている状態でしかないのだ。
時々、怖くなる。
もしも、もしもこのまま誰も鬼舞辻を殺せなかったら、この連鎖は永久に続いてしまうのだろうか、と。
(千雨姉さんが鬼になった理由は、分からないけれど、でも、多分、鬱屈とした世界に絶望してしまったのだろうとは思う。死ぬのは怖くない。死ぬまでに何も為せないのが怖い。誰も守れないのが怖い)
あるいは。
姉に逢えば分かるのだろうか。
己が生まれてきた意味が。
あの夜、生き残ってしまった意味が。
「もう一度あの日々に戻りたい、とは思わない。でもせめて姉さんに会いたい。私達の物語は、まだ終わってなどいない」
▽▽▽▽▽▽
「あはははははは!」
その鬼は嗤っていた。
泣き疲れたような顔を歪め、気違いのようにケラケラと。
隊士を殺し、人を殺し、飽くなき殺戮をただただ繰り返す。
それは彼女の仮面だった。
それ以外に己が感情を表現できないのだ。
笑顔以外の感情を見せてしまえば、その瞬間に、鬼としての自分は崩れ壊れ去る事を理解している。
そうでなければ、鬼にまで身を窶した意味がなくなってしまう。
「時雨ぇー、時雨ぇー。何処にいるの?」
孤独を埋めるように、駄々っ子のように、最愛の妹の名を叫ぶ。
暁に染まった空の下には、夥しい程の死体の山が積み重ねられていた。
大人、子供、老人。
男、女。
老いも若いも関係なく、遍く全ての人畜生を屠り喰らう。その姿は、悪鬼そのもの。
血に濡れた髪をぐしゃぐしゃに掻き毟る。
彼女が享受した鬼としての生活は狂気に満ちていた。何時間も、何ヶ月も、彼女は狂ったままでいた。
そして──待ち人は來れり、と言わんばかりに、その少女は現れた。
「姉さん」
「久しぶりぃー、時雨ぇー!」
怨嗟に満ちた双眸は、彼女の最愛の妹を写していた。
悲しみに暮れてしまっていた。
可哀想だった。
自分が消えてしまってから、彼女がどんな扱いを受けてきたかを考えると、本当に本当に悲しかった。
自分の事のように辛い。
時雨と心臓を共有しているのではないか、と思うほどに、時雨の悲しみがありありと愛愛の中へと奔流となって流れ行く。
だから、そんな苦しみから早く解き放ってやらなくては。
「時雨ぇー、見て見てぇー。私ね、すっごく強くなったの。あのお方に血を戴いて、とっても強くなったの。これで漸くお姉ちゃんらしい事ができるよ。貴方を守ってあげられるよ。待たせてごめんねぇー」
「……………」
「いきなりいなくなってごめんねぇー。でも私、鬼になってからずっと貴方のこと探してたんだよぉー。そういう血鬼術も会得したんだよぉー」
「………もう、血鬼術を使える段階まで人を食べたというの」
「他にも色々ねぇー。時雨も鬼になろ?鬼になって一緒に家族二人で助けあって生きていこう?私はずっと、ずっと前からそうしたかったのぉー」
「………もう戻れないんだね。分かってはいたけれど」
「うん。鬼から人に戻る術は今のところ、ない。だけど大丈夫、私が守るからぁー」
「ごめんね、守れなくって」
「?これからは私が守るんだよ、時雨」
「私は貴方を殺す。叢雲時雨は、鬼の叢雲千雨を殺す」
時雨は刀を構える。
その瞳には、もはや怒りも、涙も、浮かんではいなかった。
全て枯れていた。
叢雲時雨は、もう、迷わない。
「鬼殺隊として、私は覚悟を決めた。もう二度とあんな失態は起こさない。慈悲を持って貴方を殺す。鬼を殺す」
「────しぐれ?」
「……嵐の呼吸────」
時雨は弱体化していた。
以前の下弦の壱との戦いで、千雨を守ろうとした際に喰らった攻撃。
それが時雨の腕に直撃し、そして怒りのままに酷使したので骨に異常をきたし、筋力が格段に落ちてしまっているのだ。
かつてのような剣のキレは、もうない。
彼女には体格差を凌駕する筋力もない。
鬼を葬り去る毒も持たない。
剣の才能も並外れた視力もない。
そんなただの娘っ子だった彼女は、嵐の呼吸を使っていた。攻めに特化した剣。それで無理矢理自分の実力を誤魔化しながらも鬼を倒していた。
だが今では嵐柱としての力を失い、普通の鬼殺隊員よりは強い程度。対して向こうはなりたてとは言え大量に人を喰っている。
怪我が治った後、近頃犠牲の多かった地点を重点的に探り、奇跡的に目当ての鬼と邂逅できた時雨だったが、彼女の勝ち目は薄いと言わざるを得なかった。
(────だが、それが何だというのか)
それでも尚、彼女の中に吹き荒れる怒りの風は止んではいなかった。
返り討ち?
命の無駄遣い?
知ったことか。
全てを賭してでも為し得なければならぬ事があるのなら、この命、幾らでも懸けてみせよう。
「壱ノ型
「
地面を走る嵐。
それを真正面から受け止めるは、瞬間的に凍らされた血の雨だ。獰猛な雨の猛攻に吹き飛ばされそうになるが、攻撃の手を休めるまいと、時雨は幾度も剣を振るった。
どうしてこんな事するの?と、千雨が言ったような気がした。時雨は気付かないフリをした。
「弍ノ型
「
鬼の身体能力を最大限に活用した、近距離からの攻め。
それらを振り払うように、濃縮された嵐を四連続で放ち、そして回避する。しかし時雨が体勢を崩した先にも、血の雨は降り注がれていた。
「参ノ型
「
時雨の攻撃は当たらなかった。
というより、いなされた。川の水が流れるように、時雨の放った技は当然の如く躱されると懐に潜り込まれる。
咄嗟に刀を引いて防御する。
しかし防御の上から、更に強い打撃を喰らってしまう。時雨は吹き飛ばされた。
──姉に殴られたのは、人生初の経験だった。一生ないだろうと思っていたのに。
違う。姉ではない。鬼だ。
鬼が上空から飛来する。
迎え撃たなければ。
「
「
放たれた雫が絡みつくのを振り解く。
押し上げられた風は、鬼を切り刻む。
ごぷり、と血を吐いた。
感情を舌の根ごと噛み殺し、体勢を崩した鬼に覆い被さるように飛ぶ。
「伍ノ型
「
時雨の攻撃を愛愛が受け止めるが、あまりの風の圧に押されて刻まれた。
何故だ。
彼女の使う風は、一秒毎に、一回転毎に勢いを増しているようにも見える。まさか、彼女は、戦いの中でキレを増しているとでもいうのだろうか。
時雨の風が、極限まで磨かれたとしたら?
愛愛はごくり、と唾を鳴らした。
「陸ノ型
「
濃縮された風の渦。
鬼になってしても届き得ない、彼女の嵐に歯噛みする。
まずい。まずい!
体温を感じなくなった筈の身体には、いつの間にか冷や汗が浮かんでいた。
「漆ノ型
「
なくなった手足を見て、愛愛は絶望する。
力負けするというのか。
まさか、とその可能性を吐き捨てるが、目の前の少女は、時雨は、未だ刀を捨てようとしない。
風の勢いは増すばかりだ。
地に足を着けていられない程の猛攻。
天変地異の前振りかと叫びたくなるような出鱈目な攻撃には、ありありとした殺意が冷静な合理性で包まれていた。
まずい。
もう技がない。
焦る愛愛に対して、時雨は、恐ろしい程に頭が冷えていた。
これから起こる現象が、現実ではないかのように思えた。
(────ああ、そう言えば、この技は、善逸君に褒めて貰った技だっけ)
「捌ノ型
すれ違いざまの攻撃。
巻き起こる嵐は胴を両断し、再生しかけていた四肢を再び捥ぎ取った。
止むことのない斬撃の嵐に、愛愛は血反吐を吐いて転がった。
握り締めた刀に写っていたのは、己が最愛の姉が、苦しみ悶え、無様にのたうち回っている光景だった。
(──私は──こんな事のために──生きてきたというの───?)
天を仰げど、神が答える訳もない。
だが、問わずにはいられなかった。
神は何も思わないのか?この残酷な世界のさまを。狂気も倫理も捨て去って、沙汰の外へと消え行ったこの世の中を。
疑問を抱かないのであろうか、であれば、最早神は神に非ず。
不条理も悪夢も絶えはしない。
鬼を滅したとして、平和な世界などやって来はしない。
鼬ごっこだ。同じ事の繰り返しだ。
強い力を持った者が、弱者を蹂躙する。
そして人は時として闇に堕ちる。
こんな、こんな、こんな。
こんな道理があるか。
これ程の無駄があるか!
死こそが美徳?生の価値?
巫山戯るな。
こんなにも人の神経を逆撫でさせて、苦悶の顔を浮かべさせて、一体、何が、何が楽しいというのだ!悦楽などありはしない。
この世は大事なものが欠けすぎている。
健常に生きる事の、なんと難しい事か。
私は、ただ、
千雨姉さんに、
素敵な風景を見せてあげたかった。
だがこの世は、美しいというには、余りにも血と死体と絶望とで汚れきっていた。
その事に気付くのに、十何年も費やした。
それももう、終わりだ。
「ごめんね」
どちらが言った言葉だろう?
最早それさえもどうでもよかった。
時雨にあったのは、虚無、だった。
止めを刺す直前に、ほんの僅かな空気の乱れに気付かなければ、時雨は死んでいたかもしれない。
生に対する、ほんの僅かな執着。
それが結果として彼女を生かした。
現れたのは、新手の鬼だった。
見覚えのある風体。
瞳にある下弦の壱の文字には、上から覆い隠されたかのように十字が刻まれていた。
「貴方は………あの時の………」
「私を、よくも、よくもよくもよくも!コケにしてくれたな!」
血が沸騰しそうなほどの怒り。
びきびきと血管が浮き出ると、鬼の隆起した筋肉が更に膨れ上がる。
余裕も、落ち着きも、捨て去っていた。
鬼は狂戦士となって舞い戻った。
最悪だ。
よりにもよって、こんな時に!
へとへとの身体を引きずってでも、刀を握る他なかった。
「叢雲時雨ェエエエエーーーー、貴様はここで死ぬのだァアアァアア!!!」
次で最終回です。