───なにも、死の表象を思い浮かべなかった訳ではない。
───生とは一度限りのものであり、死とは生の終着点なのである。仮にあの世があるのなら、死は寧ろ新たな始まりなのかもしれないが、それでも、生が終わる事に変わりはないのだ。
───だから、考える。
───自分は生きる間に、何を為せたか。
───この一生が無価値であったと、無駄でなかったと言えるのかと。『私』はそれほど頑張れたのかと。
───早い話が、『私』は、何のために生まれてきたのだろう、という事だ。
全身から力が抜けていった。
何も感じなくなっていく。目も、耳も、刀を握っているかさえ分からない。
叢雲時雨という存在が、この世界から追放されたようだった。
しかし溷濁した意識の中にあっても尚、時雨の意志は揺らがない。己に喝を入れて律すると、全身に血流を巡らせ立ち上がる。
意識が朦朧とする。
耳障りな声がガンガンと煩い。
元・下弦の壱の鬼が、手前勝手な話をべらべらと話しているのが薄らと耳に入る。
……ああ、本当に、煩い。
「まさか、先の攻撃を受けてまだ立ち上がれるとは。いや、直撃を避けただけか?まあどちらでも良い事よ」
鬼はそう言って笑うが、目だけは笑っていなかった。尊大な態度の中には、地獄の業火よりも紅い怒りの炎が炎々と燃え滾っていた。
しかし、分からない。
鬼舞辻無惨の正体は未だ影も形も掴めぬままだが、少なくとも、失敗し逃走した鬼に機会を与えるのは稀だと言われている。
では、何故この鬼は、ここに?
そんな湧いて出た疑問に答えるように、鬼は叫んだ。
「私が先の戦いで逃げ出した折、あのお方には大層お叱りを受けた……粛清される一歩手前だったのだ。だがあのお方は私の混じり気無しの復讐心を買ってくださったのだ。お前に、お前達姉妹に、地獄を味合わせてやらねばならぬのだ。その怒りを、死の淵に立っても尚燻る事のない憤怒を買ってくださったのだ!」
「……………………」
「そして今!お前を探して来てみれば、実の姉に殺されかかっているではないか!なんという好機!神は、いや、運命は私に味方したのだ!ふふふははははーーッ」
「ッ」
時雨はへとへとの身体に鞭を打ち、無理矢理動かして飛び退いた。
鋭い。確実に早くなっている。
前に一度戦った時とは大違いだ。技のキレも増している。
……あれから人を大量に喰らったのか。
刀を握る力が強くなる。どこまでも身勝手で理不尽な鬼に憤懣が止まらない。どころか加速する一方だ。
怒りでは鬼は殺せない。
だが躰に火を熾す事はできる。
愛愛のことはひとまず、後回しだ。瞋恚の嵐を振り回し、その風は更に強くなる。
──嵐の呼吸は、時間が経てば経つ程、その真価を発揮する呼吸法である。
その風は一秒毎に、一回転毎に鋭く速くなっていく。故に時間が経てば経つ程に時雨は強化されていくのである。
格上の鬼と遭遇した場合、強化された嵐の呼吸で無理矢理頸を寸断するか、粘り勝つのが彼女の戦法であった。
知ってか知らずか、その戦法は、風柱、不死川実弥のそれと酷似していた。
「弍ノ型 葬送・八戸雲断チ」
「甘い!そんなものかァアアーー」
流るる風が濃縮され放たれた四連撃。愛愛との連戦で風は更に強く速くなっている。
しかし、それらを歯牙にも掛けずに打ち破られる。……一体、どこまで強化されているというのか。どれ程の人を喰ったというのか。
しかし、愛愛との戦いで強化された筈の嵐の呼吸が力負けするとは、地力が高過ぎると言わざるを得ない。この男は、腐っても下弦の鬼だ。油断も慢心もしてはいなかったが、力量を見誤っていた。
(嵐の呼吸の奥義を出す?……いや、今の私の身体の状態では却って付け入られる隙を作るだけ!何とか、八つの型を駆使して撃退しなければ)
(──とでも思っているのだろう。しかし私はお前の八つの型を全て見切っているのだ。技を出す際の手の動きの癖、動き、全て見切っているのだ。情報は有益也!)
「伍ノ型 吹キ枯レシ神嵐」
「くっ、はははははは!愚昧に過ぎるぞ叢雲時雨!見るに耐えんな!所詮お前なぞ、この程度の女ということだ!」
「──その程度の女にやられかけた貴方はもっと雑魚ってことだね」
「昔の話だ!今は違う!今の私は完璧なのだ!お前達という汚点を消し去れば私は十二鬼月に返り咲ける!そして行く行くは上弦の座も夢ではないのだ!」
「鬼になってまでやりたいことが、それ?貴方に殺された人達が報われないよ。鬼舞辻無惨の小間使いになる事が人生の最終目標だなんて、器の底が知れるというもの」
「お前には判るまい!あのお方の下につけるという喜びがどれほど甘美なものか!」
「人生の楽しみがもうそれしか残っていないんだね。可哀想に。繋がれた犬と同等の発想しか出てこないなんて哀れだわ」
「犬は貴様だ叢雲時雨!鬼殺に囚われた妄執の犬めが!首輪を括られた奴隷風情が大層な事をほざくな!」
鬼の言う事に心揺さぶられるなどあってはならない。とは分かっていたが、奴隷、という言葉に時雨は遽に動揺した。
図星を突かれた、と言うべきか。
人よりも努力した自負はあった。
鬼殺隊になってからも、柱になった後も、柱を辞めた後も、一日たりとも努力を重ねなかった日などない。
それらは全て、市井の人々と、姉の為の努力だ。その為の努力だった。
しかし結果はどうだ。鬼殺隊となった以降も鬼に家族や友を奪われた喪失者は増える一方だし、最愛の姉は鬼となった。
(努力に限界はない。けれど終わりもない)
時雨は努力の奴隷だった。
秒刻みで勢いを増す嵐のように、強くならなければならぬ宿命を負った。
何百何千という研鑽を経ても、大切な人を喪っていく。だのに強くある事を強いられるのだ。
強くあっても、守れない物があるのに。
言い訳を許さぬ程の怒涛の絶望の奔流に、何度呑み込まれそうになったことか。
──終わりが、ここなのか?
──叢雲姉妹の終着点が、ここなのか?
何故、あの時、鬼殺隊になろうなどと思ってしまったのだろう。叢雲時雨が行く先はここで良かったのだろうか。
死にたくない、とは思わない。
だが無意味な人生にはしたくなかった。
死ぬなら死ぬなりの理由が欲しかった。
死ぬ迄に、少しでも意義のある人生を送れたと言えるだけの事をしたかった。
でなければ、あの時死んでしまった家族は何だったというのか。
技を教えてくれた師匠は何だったのか。
(お願い……まだ終わらないで。まだ終わりたくない。このまま果てれば、あの時去っていった彼等の命は、本当に無駄になってしまう。それは、それだけは──)
「漆ノ型 颶風・志那斗弁!」
「かッ────」
焦燥に駆られた刃は、しかし鬼の頸を確かに捉えた。やった。手応え有り、だ。
確かに鬼は強力だが、技の隙間を通り抜けて渾身の刃を振るえば、何とか、攻撃は通ずるのだ。
時雨は知れず高揚する。
だが鬼は、不遜な態度を緩めない。
その笑みに悪寒が走る。元・柱としての経験からか、時雨は身を守る防御の体勢へと切り替える。果たしてそれは正解だった。
背後からの奇襲。
既の所で致命傷を避けられたのは、もはや奇跡と言ってよかった。横腹を切り裂かれる程度で済んだ。あと数尺横にズレていれば分断されていたころだろう。
額を脂汗が伝う。
見れば、なんと、同じ姿をした鬼が四体。
息つく暇もなく攻撃を躱し続ける中で、時雨は脳だけを思考の海に沈めて高速回転させた。
同じ地点に、瓜二つの容姿をした鬼が数体以上いる理由など、限られている。
──分裂したのか!
(いつの間に?術を発動する瞬間は見えなかった。いつの間に分身を四体も作って私の背後に回り込んだというの?)
「フハハフハハァ!合流したか、我が分身どもよ!」
(!合流……つまり、この分身達は他の場所にいたという事?…………そうか、復讐するために私を探していたのだから、分裂して五体にバラけてそれぞれ違う所を探していたという事か……!)
そしてその分身達が今集まってきたというわけだ。
────まずい。まずすぎる。
一体だけでも厄介なのに、それとおそらく同等の強さを持った鬼が四体いるという事実。鬼との戦いは、余程実力差が離れていない限りは、鬼よりも多い数で戦うのが基本なのだ。
しかし、今、その常識は逆転している。
時雨という鼠に、獅子達が我先にと捕食せんと群がっている。
前へ進めば、横から蹴り飛ばされ。
後ろへ退けば、上から打撃を受ける。
どう動いても勝ちへの活路を開けない。見出す事ができない。
鬼が直ぐに止めを刺さないのは、時雨を痛ぶって遊んでいるからだ。
時雨は決して屈さない。相手が誰だろうと最後まで戦い続ける。鬼殺隊である以上、泣き言は許されないと知っている。
しかし、今、人生最大の、あるいは最後の窮地に立たされた時雨の脳裏では、死という文字が少しずつ大きくなっているのも事実であった。
「隙有りだ叢雲時雨ェエーーーッ」
「!!カハッ────」
直撃、した。
肺に骨が突き刺さるのを感じた。
そして同時に理解した。あと一度でも技を使えば、その瞬間、時雨はもう助からないという事を。
下手に動けば、命は無いという事を。
──ここが、墓場か。
諦めた訳ではない。だが、悟った。
叢雲時雨がここで死ぬであろう事を。
どういった形であれ、もう、死という事実そのものは曲げられないものなのだと、時雨は、受け容れつつあった。
そして、今。
群れる獅子は、一匹の龍に成らんとしていた。
「ハハハハハハハハ────ッ!」
結合して大きく太くなる腕を、脚を、身体を見て、時雨の身体中を心の本能的な部分から来る嫌悪感が擽った。分裂していた肉体は今また一つになり、巨大化し、異形のモノとなりてゲラゲラと嗤う。そのさまは、卑陋の一言に尽きる。
巨人の姿を模した下手糞な粘土細工が動いているかのようだった。醜悪で、見ていられない。
……こいつは、私を喰らった後も、のうのうと長年生き続けるのか。
度し難い。
鬼である以上、須く元は人間だった筈だ。
彼等が今まで喰ってきたのは、彼等の同胞だった筈だ。同種だった筈だ。
だのに、何故躊躇なく喰える?殺せる?
感情を忘れた化物のように思えた。
そして千雨もまた、その化物と同質の存在に至ってしまったのだ。
理不尽だと思う。
直向きに、真っ直ぐ進んでいた筈なのに、それでも曲がってしまうのは何故か。
単純だ。
道が歪んでいるからだ。
どれだけ進んでも、征こうとも、少しずつ軌道は歪曲されゆく。刺が敷き詰められた荊棘の道の先に、何が待っているというのだろう。暗雲は未だ晴れない。
緩やかに、死は、迫っていた。
もう目に見える処まで。
世界に絶望し切った時雨はもう、それを在るが儘に享受する他なかった。
▽▽▽▽▽▽
何の意味もない人生だった。
誰の役にも立てなかった。
中途半端。
根性なし。
何の為に生まれてきたのだろう。
愛愛、いや、叢雲千雨は、何のために生きてきたのだろうか。
あの時生き残ってしまった理由を求め続けても、答えは得られない。
然もあらん。答えなど最初から用意されていなかったのだ。意味など無かった。
叢雲千雨は運が良かった、ただそれだけ。
それを勘違いして、大層な理由を付けようとたのがそもそもの間違いなのだ。
(叢雲千雨は、分不相応にも、生きる意味を欲しがった。くだらない。全ては私の壮大な勘違いだったのだ)
劈くような轟音。時雨と鬼との戦いは苛烈を極めたが、少しずつ時雨が押されているのが分かった。
あの鬼は恐らく、時雨を殺した後に自分を殺しに来るだろう。直接あの鬼を撃退したのは時雨だが、姉の自分をみすみす逃しはしないだろう。
千雨もまた、死期を悟りつつあった。
両断された手脚は未だ再生中。
再生し切った所で、あの鬼から逃げられはしない。かと言って戦って勝てる相手でもない。最早、死に体。
死を待つのみという訳だ。
(時雨を守る筈では無かったのか。………最早全てがどうでもいい。私は何も為せなかったし、これからも為す事はできない。私のこれまで全て自己満足に過ぎない)
叢雲千雨の本質は、自分勝手な部分にこそある。だから気付くのが遅れたのかもしれないが、人を守るというのは、もっと地味で退屈な行為だった筈だ。
派手さの欠片もない、ただ毎日を共に過ごしていく中でしかできない行為の筈。
間違っても強さの狂奔の果てにある行為ではないのだ。根本から間違っていた。人間だった頃からずっと勘違いし続けていた。
誤った認識を抱えたまま歩んだとて、その先に光は無い。嘆いても最早遅いのだ。目先の強さばかり手に入れてしまった。
求むるべきは、それではないのに。
鬼と成り果てた女は、果たして愚行の先に何を見る?
(……ああ、時雨の傷がどんどん増えていってしまう。あのままでは死んでしまう)
だけど、身体は動かない。
鬼となった肉体は疲労を感じない筈だが、圧倒的強者の立ち位置にいた妹が嬲られ蹂躙される姿を見て、喉元から緩やかな絶望が漏れ出し始めた。
──時雨で無理なら、無理だ。
『あの鬼に姉妹共々殺される』
それが未来。
もう確定してしまった未来。
覆す事はできない。
ゆっくりと、ゆっくりと、諦めが心を殺し始めていた。
時雨でも太刀打ちできないこの状況で、何ができるというのだろう。
鬼は、人だった時の記憶を少しずつ失くしていき、身も心も鬼に染まる。しかし執着していた人物の顔を何百年経っても忘れられない鬼もいる。
だから、今でも家族の顔がありありと思い出せる千雨は少し特殊であった。
彼女にはそれしかないのだ。
己を肯定するにも、否定するにも、家族と比較していた。彼女の世界は、鬼を知った後も、鬼となった後も、最初から最後まで変動していない。ずっと家族に囚われ続けてきた。
そして唯一の家族が今、殺されようとしている。千雨の心に残った最後の希望は、潰えつつあった。
後に残るモノなどない。
虚無、だった。
(無価値な人生だった)
時雨もそうなってしまうのか?
(叢雲千雨は人生を無駄に浪費した)
時雨にもそんな人生を歩ませるのか?
(あの子はー……)
あの子は私とは違う。
頭蓋が切り裂かれんばかりの頭痛が千雨を襲った。汗の代わりに、爪先から頭の先まで焦燥が突き抜けて溢れ出る。
何をしているのだ、自分は。
何をさせているのだ、自分は!
叢雲千雨の人生が無駄など、分かりきっていた筈なのに。
逡巡すべきはそれではなかった。
叢雲時雨の人生までもを無駄にさせる訳にはいかない。
──千雨の生は、時雨の生に意味を持たせる為にあったのだ。
徹頭徹尾決まっていた事だった。
役割を果たせ。
「時雨を、あの子の生をッ、無価値だったと言わせてなるものか」
▽▽▽▽▽▽
醜悪な巨体を前にして、死を前にした時雨の脳は過去の記憶を恐るべき早さで拾い上げていた。所謂、走馬灯というやつだ。
様々な情報が浮かんでは消える。
十余年の人生は、恐ろしく濃密だった。
その記憶の奔流の中、時雨の脳は、一つの記憶を拾い上げていた。
雷の師弟と出会った際に桑島慈伍郎が言っていた事について、だ。
そうだ。
何かを、話していた。
善逸の修行に付き合った翌日、かの老人と何かを話していたのだ、自分は。
『儂も昔、柱じゃった。だから元柱として恥じぬ行動をせにゃならん』
『………元柱として?』
『ああ。戦う力を失い、引退し、残ったのはほんの僅かなものだけ。だが一度でも柱の名を背負ったのならば、今際の際まで、気高くなければいかん。お主の師匠も同じ心持ちじゃろうよ』
今際の際まで、気高く。
そう、だったのだろうか。
努力して柱となり、沢山の鬼を狩り、弟子にも恵まれた古強者の最期が、弟子の不始末の責任を負って自殺、だ。
あまりに悲惨ではないか。
彼は自責の深さ故に介錯をつけなかった。
その痛みは想像を絶するものだったろう。痛くても死ねない状況が、長い時間続く。
自責と、後悔と、絶望に塗れた最期だったのではないのか。
問うと、彼岸花の先に、時雨達の師が立っていた。
『──ああ。私は確かに絶望した。お前の姉への指導が足りなかった。苦しみを分かってあげられなかった。だが、傲慢かもしれんが、それで今迄の人生全てが否定される訳ではないのだ』
意味は、あるのか。
『必ずある。お主も一度でも柱の名を背負ったからには、その責任を果たせ。最後の最後まで諦めるな。
──頑張れ、千雨、時雨』
上から引っ張られるようにして顔を上げると、巨大化した鬼と、その鬼を必死の形相で羽交い締めにする姉の姿があった。
──血鬼術。
愛愛、いや、千雨の出した血の雫が氷となって絡みつき、鬼を固定しているのだ。四肢がもがれようとも喰らいつくその執念にただただ目を見開くしかなかった。
「何をするやめろぉおおおおお!!!」
「時雨ぇええええ────!!!私ごと斬ってえええええええ!!!!」
「貴様、貴様貴様貴様ぁあああ!何だこの術は、さっきはこんな力無かった筈、無かった筈なのにィィィイイ────ッ!?」
千雨は死を享受していた。
己が生を、あるがままを、受け入れて。
目の縁が濡れた。
たちまち溢れてしまいそうになった。
だが、この好機を、逃す訳にはいかない。
今しか、ない。
時雨の役割とは、今ここで、一匹の鬼と、一人の姉を斬る事だったのだ。
残酷な運命だと思う。
だが、もうそれを覆す事はできないのだ。
ならば最後まで、揺れてはならない。一度柱の名を背負った者として。
叫ぶようにして、言った。
「嵐の呼吸 奥義」
雲が割れた。
死中の喝か、火事場の馬鹿力か。
何かは分からないが、刀を、ありったけの万力のような力で握り締めると、刃が熱された鉄のように──そう、赫灼に紅く輝いて見えた。
「────轟風アメアラシ」
巨大な斬撃の暴風雨は、まさしく天災そのもの。右半身を犠牲にして放たれた、幾重にも重なった嵐は、絶大な破壊を伴って鬼を滅多斬りにした。
卵がひび割れたかの如き膨大な切り傷は、鬼の再生能力をもってしても追いつかない程の毀損を生んだが、それでも鬼は諦めなかった。時雨の奥義により千雨の拘束が緩んだ瞬間に、小さな、しかし素早い姿へと分裂し、命辛々逃げようとした。
時雨は冷静に刀を持ち替えた。
右腕はもう使い物にならない。ならば、左腕で奥義を使うまでだ。
この日の為に生きてきたのだ。
下から見下すような奴に負けない。
全ては死んだ人達に意味を持たせる為に。
生きる人達に意味を託す為に!
そして今、この鬼を殺す為に生きている!
「────二連!!」
「ぐぎゃ、ああああああああああ!!!!」
嵐の呼吸の最強の攻撃を、二連続で叩き込む荒技。二つの嵐は轟音を呼び、際限なく大きくなっていく。
鬼の断末魔すら呑み込んで、濃密な風の刃は肉を抉り込み、破壊の限りを尽くしてもまだ終わる気配を見せない。
巨大化した嵐がいよいよ天まで届かんとしていた頃になって、嵐は霞のように消え去った。同時に、時雨もその場へ倒れ込む。
後に残ったものは、何もない。
鬼は今度こそ、塵も残さず消滅した。
▽▽▽▽▽▽
知らぬ人が見れば、天変地異が起こったと思わせる程の破壊の痕。
その燦々たる現場に一人立っていたのは、風柱の不死川実弥であった。
不可解な行動をする鬼がいる、と聞き現場に駆けつけて来てみれば、草の根一つ残らぬ地面の真ん中で、かの少女が死にかけで横たわっているではないか。
見覚えがある。
というか、この間の柱合会議で目にしたばかりだ。
叢雲時雨。
色々な事情がある彼女には、色々な感情が渦巻いていたが、ひとまず、それらは放っておかなければなるまい。
──もう、長くない。
無茶な身体の使い方をしたのだろう、もうほんの少しも動く事ができないようだ。
その少女の、時雨の身体を抱いた。
──冷たい。そして軽い。
あの時と全く同じ感触に絶望する。
肺に損傷を負ったのだろう、息をするだけでも辛そうだ。こうなっては最早、全集中の呼吸も何もない。
おそらく内臓はズタボロ。想像を絶する痛みだろう。
……いや、まだ痛みを感じられていれば、の話だが。
「………さい、ご、に、会うのは、ゴホ、しな、……ずがわ…さん、なんだね」
「………悪いな、俺で。何か言い遺す事はあるか」
「ッ、………ッあ、りがとう、ござ、………あの時、た、すけて、くれ、て」
「あの時だと?」
「いいの。覚えてないなら、それで……カハッ、ハァ………まんぞくでした、この、人生は………悔いは、ない。…………辛い事も、っ、たくさ、あった、けれど。どうか、どうか、しな、ハァ、生き、………」
「……………おい」
「………生きて…………ね………」
呼吸が無くなった。
目が虚になり、光が消えた。
灯火は完全に消え去って、無くなった。
彼の手には、ただただ、死だけがあった。
そして彼は、また、怒り嘆く。何も為せぬ自分の不甲斐なさに。残酷な世界に。人の尊厳を奪う悪鬼どもに。
「俺は──いつも──遅ェ──」
軋んだ歯の隙間からは、怒りが漏れた。
「醜い鬼共は俺が殲滅する」
そして、鬼滅の風は、また鬼を探して今日も吹く。
いつか鬼が全て消える、その日まで──
「姉さん」
「来て、しまったんだね。時雨も」
「うん。………ごめん」
「いいの。私の方こそ、本当に……」
「………」
「………」
「……何で鬼になろうと思ったの?って、まあ、理由は聞いたけれど。ちゃんと姉さんの口から聞いておきたくって」
「………あれが、全てだよ。私は、いつも羨ましかったの。私に無いものを沢山持っている姉さんや兄さんのことが、それに時雨のことが。貴方のために何もできないのが嫌だったから……。だから目の前に餌を放られた犬のようにホイホイ飛びついた。我慢できなかった。ほら、次女だし」
「……ふふっ、なにそれ?でも、もう遅いかもしれないけどね、初めて鬼と会った時も熊と遭遇した時も、姉さんが路を拓いてくれたから、私はここにいる。すごくかっこいいなって思ったんだ」
「………そんなことあったっけ?」
「あはは、鬼になって記憶が溷濁しているんじゃない?」
「そうかも。ふふふ………」
「もう、行くね」
「……姉さん………」
「これは私の罪だから、貴方まで此方へ来ることはない。地獄にまで付き合わせてしまったら、私、死んでも死に切れない」
「…………でも……私は、まだ………」
「大丈夫。何年後か、何十年後か、罪を贖ったら、必ず貴方に会いに行くから。その時までに、時雨が誇れるようなお姉ちゃんになってみせるから。だから、その時に、また話そう?」
「………………ッ、うん。またね」
「またね」
「…………また、会えるよね?いや、絶対会おうね!絶対!約束だよ、姉さん!」
「………うん!約束だよ、時雨!」
「破ったら絶対、絶対ッ、許さないんだから……ッ!」
「……ッ、うん、必ず、必ずね」
「願わくば、どうか、鬼なんていない幸せな世界でもう一度会えますように」
運命はいつも残酷だ。
殺し殺される関係には、未だ終わりは見えず。悔恨に嘆いても、誰も助けてくれはしないのだ。
だが、繋げていくのだ。
それが己が役割だと信じて。
いつか刀を取り現れる、不幸の連鎖を断ち切る者へと。
鬼滅の刃を振るう者へと。
『私は次女なので我慢できない』
──終わり
◯叢雲千雨
死亡。
優秀な人間の中で育ち、平凡な自分にコンプレックスを抱いていた。家族を失って以降は更に劣等感に苛まれたが、最終的に克服した模様。時雨とは再会の約束をして別れ、一人で地獄に行く。
鬼化した時の名前は愛愛。彼女の血鬼術は二話に出てくる家族の名前を元にしたものである。
◯叢雲時雨
死亡。
一時は柱の地位まで上り詰めた実力者。とはいえ女性隊士のため筋力面でどうしても劣るので、より攻撃に特化した嵐の呼吸を編み出した。腕相撲したらしのぶさんよりは強いかなくらい。結構良い勝負する。
才能あるとか言われてるけどこの後にもっと凄い無一郎が柱になる。
◯育手
死亡。
元風柱であり、千雨や時雨に剣の稽古をつけた。最期は責任を取る形で切腹。
実は実弥の師でもあり、彼を指導していた時期もある。(と言っても教える事は殆ど無かった)
◯不死川実弥
生存。
短期間で育手と同僚と妹弟子を失ってしまい鬼への怨みをより一層深めた。この後に弟も死ぬ。周りの人の死ぬスケジュールがパンパンである。
◯我妻善逸
生存。
時雨が死んだ事はまだ知らない。鬼殺隊に入ったら時雨とまた会えるかもと密かに考えているが、その願いが叶う事はない。
時雨と交わした約束は一つも果たされる事はなかった。
◯桑島慈伍郎
生存。
時雨に、元柱としての立場から、鬼殺隊士とはどうあるべきかを説いた。図らずも彼と同じく元柱となった時雨は、彼の言葉を思い出して勇気を貰った。
◯下弦の壱
死亡。
情報を有益だと考える一方で、人は愚かだと見下す意識高い系クズ。情報に固執するあまり、知らない情報だと途端に焦る悪癖がある。
何体かに分裂して行動する事ができる。時雨に一度敗れた後、人を大量に喰って血鬼術を強化したが、千雨のサポートと時雨の奥義の前に倒れる。
過去に不死川が直近と当時の下弦の壱を倒したため、繰り上がる形で壱になった。彼が追放された後は魘夢が壱になる。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
初投稿から完結まで二ヶ月弱もかかっちまいました。
誰だよ一日一回投稿すれば一週間くらいで終わるとか言った奴!私だよ!すみません!年明けちまったよ!6話くらいで終わる予定がなんか凄い増えてるし!
しかしまー今まで書いてきた作品の中で初めて終わったのでちょっと感激したりしてます。初めて完結した…。
他の作品もいくつか投稿してるのでよければ是非そちらもご覧ください!ではまた!