そこまで強くない、アイツです。
振るわれる爪を避ける、石造りの橋べりが砕ける
拳を馬車を盾にやり過ごす、馬車が無残にも破砕される。
攻撃が掠る、容易く地面に転がされる。
転がった先にまた爪が振り下ろされる。不格好に這いずってでも避ける。
「く、……ぅ……ッ」
獣が身体を起こし、幾度と無く聞いた咆哮を撒き散らす。辺りに獣臭い風が吹き荒れ、被り通しだったフードがはらりと落ちた。最も、それを直す間も無くまた石畳を転がる羽目になったが。振り抜かれた爪を前転で潜り向け、走って来た道を引き返す。
こんな奴とやり合うなんて冗談じゃない、既に何分経ったのかは分からないが、一撃喰らわせるのにも今までの獣の何十倍の労力が掛かる。それに対してこちらは既に擦り傷塗れ、ノコギリ鉈でも毛皮以外なら斬り裂けるが、頭上からの爪と拳が執拗にそれを阻害してくる。……そもそもの話
あの腕で、あの角で一撃でもされてみろ、少なくとも重傷、最悪即死だ。やってられない。
奴を潜り抜けた俺を嘲笑うように獣は一声鳴くと、
此方は引いては攻撃を試みてを繰り返し、既に限界が近いと言うのに奴の健脚は衰えの影すら見せない。
「クソ……、コイツ。…………ッ!?」
振り回される右腕から後退する事で逃れる。だが奴が伸ばした左腕はすでに俺を捉える間合いにあった。脚がガクつく、唐突にやってきた絶対的な死の予感に、物理的な圧力すら伴うようなそれに、俺はなす術もなく潰され___否。
身体を半回転させて左腕を回避、風に煽られながらも鉈を構え、奴の掌に向けて振り下ろした。遠心力を伴った刃先は確かに奴の一指を斬り飛ばし、大きく後退させた。滅茶苦茶に振り乱される両腕を潜り、導かれるような軌道を描いて鉈が、ノコギリが乱舞する。
脇を、腹を、喉を、股を。
一振りごとに奴が嘶く。遂に獣がその場から飛び退き、両腕で身体を覆った。そう、覆ったのだ。
明確に防御の姿勢を取った、明確に恐れている。あの凶暴性の塊のような獣がだ。
が、それは俺も変わらない。全身の節々が痛む。意識が身体の駆動に追い付かない。まるで俺の身体が、奴の事を知っているかの如く勝手に次の動きを導き出し、実行する。
街を歩く間にも有った感覚だが、これはその比ではない、身体が俺の意識を引き摺り回している。恐ろしい、やめてくれ、俺は一体何なんだ、何をしていた人間なんだ。何故そんなにも自然に奴を斬り刻める?
「何なんだよ、俺は」
縋る声は、誰にも届かない。代わりに奮い立つ叫びが返ってくる。獣が跳んだ、痩せた身体では着地点に隙間が出来る事を俺は
俺の恐怖を他所に身体は軽く進んで懐に入ると、あばらの浮いた胸をノコギリで一閃、引き下がった奴にぴったりと追随して下がった頭に一撃、勢いのままノコギリを変形させ、身体ごと回転してもう一撃。
生木を割くような音を立てて捩くれた角が割れる。突き立った鉈を離し、今度こそ動きの止まった奴に向かって空いた右腕を引き絞った。
___待て、何をする気だ
困惑する思考を他所に掌は熊手の様に強張る。地面が踏み締められ、全身に力が込められる。俺の眼がだらしなく露出した口内に向いた。正確にはその奥、汚らしい蛭に似た舌に。……まさか!
一瞬だった。静止する間も無く奴の口内に右手が突き込まれ、狙い通りに舌を
そして、夥しい量の血液が撒き散らされ、獣が悲鳴を上げた。
まだ脈打つ肉片が、俺の手に握られている。不格好に歪んだ、奴の___
「……ぁ、あぁ、あ、」
___
「うぁ"あ"あ"あ"ぁ"ぁ"あ"あ"あ"ッ!!!!!!!!」
跳ね上がった奴の頭に、両手で持った鉈を叩き込む。衝撃で下がった所にもう一撃、緩慢に身体を庇う右腕に、散々俺をつけ狙った左腕に、もう飛び跳ねられないよう膝に、爪先に、腿に、腹に、胸に、首に、毛の覆う背に、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
「クソッ、クソが、死ね!死んで!しまえ!!!死んでくれよッ!!!」
吐瀉物のようにぐちゃぐちゃに混じり合った感情が喉から吐き出される。そうでもしなければ今すぐにでも狂ってしまいそうだ。だから、こいつを、少しでも早く狩らなければ。
そうだそれで良い、今はこいつを狩る事だけ考えろ。
一際獣が甲高く啼き、ほぼ残骸同然の角で俺をかち上げる瞬間を何処か他人事の様に、盤上の様に見た。
こんな事想定内だ、
肺が潰れ空気が搾り出されるが俺の意識はただ一点、なます斬りにされた奴の左腕に向いている。身体と意識が合致する、あのパズルピースの感覚。
鉈を右手で握り込み身体を捻る、遠景が縦一直線に溶け崩れ、風の音が耳もとで蟠った。
既に死に体だ、とどめを刺せ。
数多の裂傷の中で最も大きく深いそれに向かい、鉈の刃を滑り込ませる。拮抗は一瞬、ガツンと骨を断ち切る音と共に血液が噴き出した。
獣の叫びが掠れていく。振り返れば膝から崩れ落ちる奴の姿があった。その左腕は肩の下で寸断され、未だにだくだくと血を垂れ流している。
「……今のは」
あの、頭蓋に声が流れ込むような感覚は何だったのだろうか。いや、今はそんな事よりも
「…………疲れた、……痛い、くそ……」
よたついた足取りで橋べりの馬車の影に座り込んだ、先程まで動き回っていた事が信じられない程の痛みが全身に這い回っている。
思考が回らない、懐の輸血液を取り出す事すら億劫だ……、こんな所で、休むなんて危険極まりない事は、知っている……だが、もう、目の前が…………暗く…………
……………………
…………
……
初戦突破って、謎の力が働いたみたいですよね。
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