半数の狩人の心を折った者です
あれから、しばらく経つ。
マスク越しの臭気に慣れ、より獣らしい姿の獣、汚水に這いずる獣、肥太ったネズミの相手にも慣れ、ディアナの両親を探し、下水道を塞ぐ巨大な豚をすり抜けた先、唐突にそれは終わりを告げた。
眼前には聳え立つ無数の建造物、この街の医療の本山、【青ざめた血】の知識を持ち得る場所、一度は門に阻まれた【聖堂街】の威容。記憶を失う前の俺が求めた物が、存在するかも知れない場所。もう少し、ギルバートの言う通りなら、墓所を越えた先に辿り着く。
「もう少し、もう少しだ」
うわ言のように自ら言い聞かせながら、階段を登っていく。冷たい、湿った空気が流れてくるのを感じる。そして、苔生した墓地の土を踏んだとき、『それ』に気付いた。
男だ、それもかなり大柄の。手に持っているのは、斧。男はそれを脚元に何度も振るっている。もう片手には俺の物とは形状の違う銃。
長いコートにハットを被るその姿は、俺やアイリーンと同じ狩人のそれだ。
「……どこもかしこも、獣ばかりだ」
不意に男が呟いた。俺に気付いているのかいないのか、斧を振るう手を止める。
「……貴方は?」
「……くはッ、人真似のうまい奴だな」
「何を、言っている」
ゆらり、と男が振り返る。ハットの奥、包帯に覆われた下の眼線が、鋭く突き刺さった。
「……貴様も、どうせそうなるのだろう? いや、
「何の事だ。……俺は貴方と同じ、狩人だ」
「あァもう良い、耳障りだ、獣の声というものは」
嫌な予感がする。これは、まさか。
「せめて、速やかに狩ってやろう」
「待て、待て! 俺は」
「穢らわしい獣が、耳障りだと」
奴が身体を屈めた、まずい。
「人間なんだ!!!」
「言った筈だッ!!!」
距離が一瞬で詰まる、斧が大柄な身体の影に隠れて間合いを計る事も出来ない。恐ろしい速度で突き出される鉄塊を鉈で受け流そうと構えた瞬間、果たして俺は吹き飛ばされた。
「く……ッ、ァ……!?」
墓石に叩き付けられ、強かに全身を打つ。見えていた筈の攻撃に対応出来なかったという事実と、それを引き起こした男の技量に戦慄した。衝撃に眩む視線を奴に向けるが、其処にはもう誰もいない。何処にと思う間も無く影が落ち、反射的にその場から飛び退いた。
づがん、と墓石に斧が突き立つ。もしあと一瞬迷っていれば断ち切られたのは俺の頭蓋だっただろう。
苛立たしげに斧を構え直す男の視線がかち合う。恐ろしいが諦める訳にはいかない、この男は狩人だ、腕は伸長していないし、言葉も明瞭、ただ冷静ではないだけ、きっとそうだ。
「どうした、避けるだけでは俺は喰えんぞ、獣」
「獣ではないと言っただろう……! 俺は狩人だ、人間なんだ、貴方と、同じ!」
「黙れ、獣は皆そう言って人を殺す」
取り付く島も無く男がまた距離を詰め、斧を振りかぶった。
跳んで避けたその先に土がかけられ、一瞬視界が奪われた視界が晴れた先、頭上から斧が落とされる。
「……ッ!」
「甘いな」
事は無く、代わりにけたたましい破裂音が鳴り響いた。全身を食い破る激痛、迎撃しようと振り上げた腕、胴からも脚からも血が噴き出す。男を見れば、左手に握られた銃から煙が上がっている。……散弾銃か。
堪らず膝を突いた俺を丸太のような脚が蹴り飛ばす。身体が折れ曲がり、口中に鉄臭い味が一杯に広がる。視界が揺らぎ、武器を取り落とした。
「俺の知る狩人は、この程度で膝を突かない。やはり貴様は、人真似が上手いだけの獣だ」
「ッカ……、は、うぐ…………、ォエ……ッ」
横隔膜が迫り上がって肺を圧迫し、反論はおろか呼吸すらままならない。嘔吐館が込み上げ、しかし痙攣する喉がそれを締め上げる。立ち上がろうとしても膝が震え、無様にもがく事しか出来ない。
「せめて速やかに狩る、そう言ったな」
頭上で動く気配がする、影が蠢くのが見えた、まずい、まずい、まずい、斧だ、斧が来る。
「……あぁ、どこもかしこも、獣ばかりだ」」
斧が風を斬る音、その重圧が身体に届く前に短銃が火を噴いた。土に塗れた
未だに痙攣する身体を誤魔化すように銃口を向け、出来る限り冷静に言葉を紡ぐ。まだ対話の余地はある、こんな所で正気の人間同士の殺し合いなど堪ったものではない。
「何度でも言うぞ……、俺は人間だ、貴方と争う気は無い、聖堂街に向かいたいんだ!」
「獣の言う事を誰が信じるッ!?」
「しつこい! 俺はジャック、人間だ!!」
「好きなだけ喚くがいい……!」
ぎゃりり、と火花を撒き散らしながら男の斧が伸長する、取り回しの良さそうな手斧から身の丈ほどもある大斧へと。僅かな溜めを経て偉丈夫が跳躍し、空いた間合いを潰して斬撃が震われる。
斜め上から迫る斧を屈んで躱す、痛む体に鞭打って次次に繰り出される攻撃を避け回るが、僅かずつ、だが確かに俺の身体にその刃が届き始める。そして
「……そこだ」
「ぐ、ぁあッ!!」
泥濘んだ土に足が沈んだ一瞬の内に、爪先に切っ先が突き立ち縫い止める。そのまま動く事も叶わず、顔面に拳が叩き込まれた。
「……ッ、ッフ、……〜〜〜〜ッ!!!!」
噴き出した血で視界が赤く染まる。咄嗟に手で抑えても血は溢れ、逆流した血塊が息苦しい。堪らず尻餅をついた胸を奴が踏み付ける。悠々と引き抜いた斧を振り被り、銃を持った俺の手を抑え込む。この後如何なるか、否応なしに理解した。
「獣が、妙に手を煩わせるものだ」
「ッ、は、や、」
「黙れ」
一瞬の間も置かず斧が振り下ろされる。今度は狙い違わず胸に、深々と。
「___ガッ……フ、……ッ!!…………!!!!」
冷たさと熱が体内で暴れ回り、身体が痙攣する。血に溢れた喉が震え、声にならない叫びだけが虚しくこぽこぽと鳴る。視界が明滅し脚が我武者羅に暴れ回るが、奴の身体は揺るがない。その内にもう一度斧が叩きつけられる。
「黙れ、獣」
もう一度
「黙れよ」
もう一度
「もう沢山だ」
もう一度
「いつまで夜が続く」
もう一度
「いつまで」
もう一度
「いつまで、貴様のような哀れなものを、殺せばいい」
ついに斧は止まる、残ったのは夥しい血溜まりと、一人の狩人だけだった。
余りにも書くのが難しかった、時間的にも、内容的にも。
みなさん、流行病にはお気を付けて、手洗いうがい、ついでに鍋でネギを食いましょう。