12/6時点での原作より先の時系列の話となっています。
「ん……」
染み入るような肌寒さを感じて、桐須真冬はぼんやりと眼を開いた。
肘が重い。その原因が自身の頭が乗っかっているせいだと気付くと、少しずつ現状を認識する。
部屋だった。自分の部屋。ほんの少しばかり散らかってはいるが。そのテーブルの上で授業中に居眠りする生徒よろしく、両肘を枕にした格好で突っ伏していた。眼前には電源が入ったままのノートパソコンが、低い動作音を奏でている。
「はあ……」
睡魔――どうやらいつの間にか眠りこけていたらしい。認識した途端、またも寒さが襲ってきた。ぶるりと身を震わせる。エアコンは点けていた筈だったが、そういえばタイマーもセットしていたかもしれない。
ため息を漏らすと、床に転がっていたリモコンに手を伸ばした。エアコンをオンにし、そのまま自分の意識もオンに切り替える。
あくびをこらえながら不眠不休で働き続けるノートパソコンに向かう。ロック画面を解除すれば、作りかけのカリキュラムや報告書などがずらりと並んでいた。完成までは残り三割といったところか。
(そういえば!)
以前にもこんな状況があったことを思い出した真冬が、慌ててコンセントを確認した。結果は――杞憂。しっかり根元まで刺さっていた。
ほっと安堵の息が漏れていく。あの時の様な失敗をするのは、二度と御免だった。自身も散々な目に遭ったのだが、何よりも――
「……失礼」
折しもその騒動に巻き込み、迷惑をかけてしまった生徒の姿が浮かんだ。想像の中でも心配そうな顔をしている彼に、つい唇を尖らせる。
ふるふると首を振った。
「集中よ。集中」
気を取り直して真冬が作業を再開する。脳が忙しなく動いたからだろうか。ありがたいことに眠気のほどは少し遠ざかっていた。頬も若干赤くなっている様な気もするが、無視を決め込むことにする。
あと一息。そう自らを鼓舞すると、キーボードへ指を滑らせていった。
「へっくち!」
くしゃみをし、ぶるりと身を震わせながら、真冬は仕上がったデータを丹念にチェックしていた。間違いがないことを確認し終えるとデータを保存し、一晩中働き尽くめだったパソコンをシャットダウンする。
結局、気付けば朝になってしまっていた。ちらり見たカーテンの隙間からは、朝の光が控えめに差し込んでいる。
「少し……無理し過ぎたかしら」
眉間をぐりぐりとやりながら、真冬。ここのところ睡眠不足だったせいか、今回の徹夜は流石に身体にきていた。
とはいえ以前と同じ轍は踏まないのが教師というもの。幸いにして今日は休日だった。今から寝直せば何ら問題は無い。
(それにしても……やけに寒いわね)
肌を撫でつける冷気に再びぶるりとする。外が相当冷え込んでいるのだろうか。エアコンを点けているのにも関わらず、流石にここまで室温が上がらないのはおかしかった。
威力が弱いのかもしれない。そんなことを思いながらリモコンの表示を見た瞬間、びしりと顔が固まる。
「理解。冷房に……なっていたのね」
頭を抱え、ずーんと肩を落としていく真冬。氷の女王の二つ名にふさわしい寒風は、立ち直った彼女がエアコンを切り替えるまで吹き続いた。
「38.5度。確定……完全に風邪ね」
熱っぽい表情で体温計の数字を読み上げた真冬は、そのままベッドへと倒れ込んだ。弾みで吹き飛んだ体温計が、床に散乱したゴミ袋の海へと消えていく。
やはり連日の無茶がたたったのだろう。元アスリートとして鳴らした筈の肉体は、今やすっかり病魔に蝕まれ、盛大な悲鳴を上げていた。
(そういえば、確か風邪薬が戸棚に)
はたと思い出した真冬が、節々の痛みを堪え、ベッドから抜け出した。ゴミが自生してくる(なんとも不思議なのだが、事実だ)床をぬって歩き、薬箱が入っていた筈の戸棚を探す――が、見つからない。最後に見た記憶を思い出そうとするも、残念なことに短期記憶というのはいとも忘れやすい。授業で述べた通りである。
「ほ、本当にもう少し、自分で整頓する習慣をつけようかしら……」
ゴミ床をかき分けながら、真冬が反省の弁を口にする。掃除に関しては以前よりはましにはなった(と思う)ものの、整頓や収納については依然として彼に任せきりなため、どこに何がしまってあるのかイマイチ把握できていない。
後悔先に立たず。そんな言葉を思い浮かべた彼女は肩を落としながら捜索を続けた。
そして、
「悪化…‥かえって悪くなってる気がするわ」
結局、小一時間ほど部屋中を引っかき回し、ようやく薬を見つけることができた(通勤鞄の中に入れていたのだった)真冬は、一層疲れ切った様子で呟いた。さっさと薬を飲み終えるとテレビを点け、這うようにしてベッドへと潜り込む。今日はもうここから出ないことを、彼女は固く心に誓うのだった。
『では今日の特集で~す。まずはこちらのボードをご覧下さい』
(ワイドショー……)
テレビから流れはじめた賑やかな声に嘆息する。ニュースを見たかったのだが、どうやら当てが外れたようだ。
消すか、とリモコンを向ける真冬だったが、次の瞬間手が止まった。
『――そう、昔と違って、今は結婚するなら、いわゆる“三低”がオススメなんです。ところで皆さんは三低が何のことかわかりますか?』
そう言うと、画面の中の司会者は番組のゲストたちに話を振った。笑いを取るための適当な答えが二つ三つ出た後、ご意見番らしき男が口を開く。
『確か低姿勢、低依存、低リスクでしたか。合ってます?』
『流石ですね。その通りで~す。では一体どういうことなのか、説明していきたいと思います。まず――』
前振りを経て、司会者がすらすらと“三低”について説明していく。ただ一辺倒に喋り倒すだけでなく、時には自ら笑いを取ったりゲストに話を向けたりもしながら視聴者の興味を維持し続けている。
大した技術だ。自分には到底真似できそうにないことも加味して。
「三低……」
次の話題に移ったタイミングでテレビを消した真冬は、先ほどの内容を振り返る。かいつまんで言えば、女性から見た理想の結婚相手の話だった。”物腰が柔らかく”、”家事育児に協力的で”、”安定した職業に就いている”男が歓迎されているらしい。
「……唯我君は当てはまるのかしら?」
そう呟き、軽い気持ちで教え子――唯我成幸の姿を思い浮かべてみる。数秒後、色んな意味でおかしいことに気付いた彼女がみるみるうちに顔を赤くした。恥ずかしさに耐えきれず、がばっと毛布を被る。
(疑問! なぜそこで唯我君が?)
頬が熱を帯びるのを自覚しながら悶々とする。かたや必死に「論外!」と切り捨てていくのだが、その一方では「興味。どうなのかしら?」とまた拾い集めている自分がいる。
「まったく……」
逡巡の末、思考そのものを打ち切った真冬がもぞもぞと頭を出す。
風邪で頭が鈍っているのだろう――半ば強引にそう結論づけた彼女が、さっさと寝ようと瞼を閉じた。
と、
(……?)
聞き間違い……ではなかった。再度鳴り響いたインターホンに、真冬が渋々と目を開けた。傍らに置いておいたマスクを着けると、覚束ない足取りで玄関に向かう。
(宅急便かしら。それとも唯我君が……)
またもや浮かびかかった想像を、真冬は首を振って打ち消した。が、そんな乙女じみた思考は彼女に力を与えたらしい。
気持ち軽くなった足取りで玄関にたどり着くと、彼女はドアを開けた。
「どうも。宅急便でーす。桐須真冬さんですね?」
「……ええ」
運送会社の制服を着た若い男性が、威勢の良い声で問いかけてきた。若干肩を落とした様子で返す真冬。
「荷物をお届けに来ましたので確認のサインをお願いします―――はい、確かに。ではお荷物の方はいつものようにここに積んでおきましたので」
「ええ……ありがとう」
では、と会釈し、男性は慌ただしく去って行った。残されたのは段ボール箱でできたピラミッドと、病人。
真冬が天を仰ぐ。「厄日だわ」と呪詛のこもった声で呟くと、渋々、荷物を中に運び込むことにした。
「ううっ……」
持ち上げると、ずしりとした重みが体に伝わった。思わずよろけてしまう真冬。こんな時に限って嵩張るものばかりを頼んだ間の悪さにうんざりしつつ、どうにかこうにか運びこむ。とりあえずは玄関脇に降ろしておけば良いだろう。ゴミ袋が落ちてない場所を探し、ちょうど冷蔵庫の前にスペースがあったのでそこに置いた。
あとは繰り返すだけだった。ふらつきながらも何度も往復し、順調に段ボールの塔を築き上げていく。
「はあ、はあ……これで最後ね」
汗ばんだ手で、真冬が「りんご」と書かれた段ボールを持ち上げた。間違いなく荷物の中で一番の重さだろう。手足が震えるばかりか、熱があるのに身体を酷使したせいで頭がぐわんぐわん揺れる。
どうにか玄関のドアを閉めはしたものの、ついに限界を迎えた彼女が足をもつれさせた。
(あっ!)
傾いた身体が積み上げた段ボールへと突っ込んだ。衝突で吹き飛んだ箱は更に隣の冷蔵庫までも巻き込み、まとめて彼女の体へと覆い被さっていく。
片付けよう。いやもう、本当に。
下敷きになった彼女は、決意すると、そのまま意識を失った。
「う……」
心地良さすら覚えた静寂から戻ってくると、真冬はそっと目を開けた。
真っ暗だった。それに全身に何かがのしかかっている感覚。ああ、と彼女が先程の記憶を思い出す。
「不覚……」
もはや口癖にもなりつつある言葉を呟くと、さっさと抜け出すべく手足を動かそうとする――が、びくともしない。
さーっと、彼女の顔から血の気が退いていく。流石に洒落にならなかった。
「だ、誰か……!」
ことここに至っては体面など気にしてはいられなかった。普段使わないほどの声量で真冬が何度も助けを呼ぶ。が、密閉状態のうえに玄関のドアは閉めてしまった。隣や外にまで聞こえるかどうかは怪しいうえに今は休日の昼間。仮に声が届いていても近隣の者は皆留守にしている可能性が高かった。
(窮地、このままじゃ……)
徐々に息が苦しくなってきて、真冬が黙り込んだ。危機、絶望、後悔……ネガティブな言葉が次々に頭を過ぎっていく。
どれもこれも、自らの至らなさが招いた結果だ。悔しさと情けなさで、じわりと涙が滲みだす。もはや自分一人ではどうすることもできない。
が、
――俺がいなきゃ、先生いつも大変なことになってますからね
脳裏を、懐かしい記憶が掠めていった。笑いかける彼の姿を思い出した真冬が、ふと思い付く。
彼がいなければ自分は大変なことになっていた。なら……裏を返せば、自分がピンチを迎えていれば彼は来てくれるのだろうか。
(……論外)
浮かんだ仮説を、真冬は即座に切って捨てた。そんなものは仮説とは呼べない。只の希望的観測だ。
けど、それでも。
――俺は先生を、幸せにしたいです
自分が苦しかったとき、彼はいつだって側にかけつけてくれた。
それが縁とか、運命とかだというのなら。
(唯我くん……)
そっと目を瞑ると、真冬は一心に彼を想った。
生徒で、年下で、たまに調子に乗ることもあって。
けど、いつも頼りになって、とても暖かくて、一緒にいると、安らげて。
彼が来てくれるのを願い、ただただ祈りを重ねていく。膨らんだ想いはやがて熱を持ち、形を変え、
「助けて……唯我くん」
言葉へと、成った。
そして――
「先生……?」
果たして願いは叶う。何度も聞いた声。聞きたかった声。信じられない思いで彼女が目を見開く。
まさか、でも、何で、本当に?
未だ戸惑いを見せるなか、外から物音が聞こえ出し、身体に感じる重みが徐々に消えていく。積み重なった荷物を取り除いてくれているのだろう。
どうにか動けそうだと判断した真冬はそのまま起き上がろうとして――止めた。
困惑。そんな無意味なことをする理由が、自分自身でもわからない――が、そう言えば、この状況は最近読んだ漫画の場面に少し似ているかもしれない。
だとすれば、自分は味わってみたいのかもしれなかった。この物語の結末を。
鼓動を高鳴らせて、じっとその時を待つ。やがて一際大きな音が鳴り響き、頭上から光が差しこんだ。
「桐須先生!」
「唯我くん……」
ああ、と真冬が得心する。漫画と同じシーン。やはりあの作品はリアリティに溢れていたのだ。
背中に差し込まれた両腕に、彼女はそっと身をゆだねた。
「大丈夫ですか? 先生!」
抱き上げられ、胸元まで身体を引き寄せられてから、彼――唯我成幸が口を開く。
自分を真剣に案じる声に、真冬は彼をまともに見ることができなかった。
こくりと頷くと、
「感謝。ありがとう、唯我くん」
そう告げ、彼の胸元に顔を埋める。とくんと鳴った胸の音が、やけに大きく感じられた。
「い、いえ……と、とりあえずベッドまで運びますね!」
真冬の体調不良に気付いたのだろう。成幸の声はやや上擦っていた。病人の彼女をしっかりと抱え直すと、一歩一歩、大事な宝物を扱うように慎重にベッドまで運んでいく。
と、
「あの……先生?」
「待機、十秒だけ時間を頂戴」
いざベッドに降ろすタイミングで、真冬がぼそりと告げた。
顔を埋めたまま自覚する。赤く染まりきった顔はまだ元には戻っていない。冷静になるための時間があと少しだけ欲しかった。
病状が悪化しているとでも思ってくれたのだろう。軽く驚かれはしたものの、あとはじっと身体を支えてくれた。
「……じ、十秒、たちました」
「ええ」
絞り出すような成幸の声に、真冬は少しだけ名残惜しそうに顔を離した。心中は未だ穏やかではないものの、表情だけはどうにか取り繕えている。
あらためて成幸の手でベッドに降ろされた彼女は、照れを悟られないようすぐさま口を開いた。
「恐縮。いつもいつも……申し訳ないわね」
「いえ、先生の体調が悪いのはすぐにわかったので……間に合って良かったです。大方、宅急便を中に運ぼうとしたら転んで荷物と冷蔵庫の下敷きになったんでしょうけど、気を付けて下さいよ」
もはや既知のことのようにトラブルを言い当てる成幸に、真冬は羞恥に項垂れた。
「善処するわ」とだけ告げると、話を切り替える。
「ところで、どうして唯我くんがここに?」
「バイト先の都合で今日は早く終わったんです。なので久しぶりにここの掃除を、と思ったんですが――」
と、成幸が辺りを見回す。入試の前より彼の来訪は途絶えていたうえに、真冬自身も色々と忙しい身だった。今や夢の島へと生まれ変わりつつある部屋を確認した彼が、引きつった笑みを浮かべる。
「……本当に、来ておいて正解でした」
「ぐ、偶然! こうも酷いのは最近忙しかったからで――」
「それでも普通は家の中で生き埋めになったりはしないと思うんですが」
正論というよりは寧ろ常識を返され、うぐっ、と真冬が言葉に詰まった。
少しの沈黙を挟むと、
「……善処するわ」
さっきと同じ台詞を繰り返す。何ともバツの悪そうな表情の彼女だったが……心の中では幸福感を覚えていた。
久しぶりの、いつもと何ら変わらない彼とのやり取り。なら、当然この後は――
「じゃあすぐに片付けますので。もし具合が悪くなったなら言って下さいね」
「ええ。いつもありがとう」
「はい、それじゃあ」
ベッドから彼を見上げる形になった真冬が、上目遣いに告げる。いつもより弱々しい雰囲気を出していたせいだろうか。返事をし、踵を返した彼の頬には少し赤みがさしているように見えた。
「……ふう。大体こんなものかな」
何ということでしょう、とでも言うべきか。小一時間後、見違えるほど綺麗に片付いた部屋がそこにあった。
匠の仕事を見事完遂した成幸が、額の汗を拭う。
「先生。このりんごはどうします?」
そう言って、成幸が未開封の段ボールを抱えて真冬の下にやってきた。生き埋めになった元凶に少しだけ苦い顔をしつつ、彼女が思案する。
「そうね、キッチンの床に置いといてもらえるかしら」
「わかりました。あ、良かったら食べるためにいくつか置いておきましょうか?」
「ええ、お願いできるかしら」
「わかりました。じゃあ包丁も取ってきますね」
箱からいくつかのりんごを取り出すと、成幸がキッチンへと消えていく。病気ということもあってか、彼の行動はいつも以上に甲斐甲斐しく頼もしい。
――結婚するなら、いわゆる“三低”がオススメなんです
薬が効いてきたせいだろうか。あのワイドショーの司会者の言葉が頭を過ぎる。
どこかぼうっとした様子で、真冬は成幸の帰りを待っていた。
――十分後。
「す、すみません……やってみると意外に難しくって」
ずーんと凹んだ様子の成幸に、身体を起こした真冬はテーブルの皿を見た。おそらく櫛形に切ろうとしたりんごはさながらバラバラ殺人の犠牲者のようだ。中には皮がひっ付いているものもあったが。
「……」
ベッドから抜け出した真冬はりんごを手に取ると、すぐさま口に入れた。
呆気にとられた成幸を脇目に、もぐもぐと味わい、飲み込む。
「美味。皮付きでも問題無いわね」
「せ、先生! わざわざそれを食べなくても――」
「前に失敗作のカレーを残さず食べてくれたのは誰だったかしら?」
さらりと返す真冬に、今度は成幸の方が押し黙った。
「君が苦手を推してまでやってくれたのでしょう? 少々見栄えが悪いくらい問題無いわ」
「ですが……」
子犬のような目でなおも食い下がる成幸に、真冬が根負けした様子で息を吐いた。
「了解……なら唯我君も食べるのを手伝って頂戴。完食したら新しいのを剥くから」
「わ、わかりました」
真冬に勧められ、成幸もりんごに手を伸ばした。口に入れた途端「うまい」と顔を輝かせる彼を見て、彼女がふっと表情を緩める。
(家事は得意でも料理だけは苦手なのね。許容……私も決して上手ではないけど、レシピがあればどうにか――)
と、我に返る。いつの間にか彼と共に暮らす前提の妄想をしていたことに気付いた真冬は、慌てて首を振った。
「つ、追加。次のを剥くから包丁を貸しなさい。唯我くん」
思考があのテレビ番組に毒されているのを自覚する。
成幸から包丁を受け取った真冬は、再び熱くなりだした頬を誤魔化すようにりんごを剥き始めた。
「ありがとうございます先生。すごく美味しかったです」
「いえ……こちらこそ、完食してくれて助かったわ。唯我くん」
笑顔でお礼を告げてきた成幸に、真冬は恥ずかしげに言葉を返した。無心で手を動かし続けた結果、気が付けばその場にあったりんごを全て剥いてしまい、彼の助けを借りる破目になってしまったからだ。(幸い彼にとってはちょうどいいくらいの量だったらしいが)
はあ、と彼女が息をつく。人に頼るのは自分の信条ではないというのに、今日はいつも以上に彼の世話になりっぱなしだ。
手を額にあててみれば、幸い身体の方は良くなりつつあった。ならばここらで借りを返していく必要があるだろう。
空になった皿をテーブル端に寄せると、告げる。
「食べ終わったことだし、そろそろ切り替えて勉強を始めましょう」
自らも頭を教師モードに切り替えた真冬がそう言うと立ち上がり、本棚へと移動した。
(前回は過去問を全般的にやったわね。なら今日は出題傾向から少しヤマを貼って――)
今日の方針を決め、必要な資料を手早く引っ張り出す。持ち帰ったそれらをテーブルに積み、成幸のぽかんとした表情を見て、
「…………愚行。もう必要無かったわね」
気付く。今はもう三月。受験は終わり、学園からも卒業を済ませた彼はとっくに勉強漬けの日々から解放されていた。
羞恥の混じった声で訂正した真冬が、成幸から顔を背ける。
「先生……」
教え子の声に、一抹の寂しさが真冬の心を過ぎる。そう――彼が掃除に来るのはあくまで勉強のついで。受験も、ましてや高校生活さえも終わりを迎えたいま、もはや彼がここを訪れる理由は何も無い。
(潮時)
自身のために、そしてそれ以上に他の誰かのために、彼はずっと奮闘し続けてきた。全てが報われ、ようやく一段落できた今こそ、普通の学生らしい青春を過ごすべきだろう。
決断する。今日を以てこの関係は終わりにしよう。だからこそ、これだけは彼に言っておかなければならない。
「唯我君」
かつての恩師の息子。そして自慢の教え子の名を呼ぶ。
こちらを向いた彼と視線を合わせた真冬は小さく息を吸いこむと、告げた。
「祝言。少し遅れてしまったけど……合格おめでとう。唯我くんも、古橋さんも、緒方さんも、武元さんも、小美浪さんも。本当に良く頑張ったわね」
「え……? は、はい! ありがとうございます!!」
虚を突かれ、慌てて返事をする成幸に、真冬がふっと頬を緩める。そういえば彼を手放しに褒めたのは、これが初めてだったか。
「それと、謝罪。元教育係の私が不甲斐なかったせいで、結果的に唯我くんに大きな負担を押し付けることになってしまった。本当に……ごめんなさい」
言い終えて、真冬が深々と頭を下げる。生徒を不幸にさせたくない一心だったとはいえ、自身のエゴが彼女たちを追い詰め、最後には見放したことは事実だ。おまけにそれが巡り巡ってVIP推薦を狙っていた彼の負担になってしまったのは、弁解の余地もない。
(本当に……無能ね)
顔を伏せたまま、真冬が自嘲を重ねる。今日もそうだ。大事な恩師の息子だというのに、こうして迷惑ばかりかけてしまっている。
人として、教師として。彼を諭し、導いてあげられるようなものは何も無かった。それが申し訳なくて……寂しかった。
が――
「掃除していると思うんですけど……この部屋っていつも本が散らばってますよね」
「……?」
唐突で意図のわからない発言だった。思わず訝んだ真冬が成幸に目を向ける。
「それも殆どが教科書や資料集の類で。本当にいつも勉強熱心ですよね」
「え、ええ。研鑽……生徒が一つでも多く学べるように努力するのが教師の務めだから」
「だからこうして違う教科も……ですか」
口を動かしつつ、成幸がテーブルに置かれた『数学』の参考書を手に取る。適当に開いたページには受験生の持ち物の如くマーカーが引かれ、なかには自身で解いてみたと思わしき計算式もあった。
そっと本を閉じて、成幸が口を開く。
「……正直、教育係を引き受けた当初は不安で一杯でした。俺みたいな一介の学生が、果たしてあんな天才問題児たちをどうにかできるのかって。気持ちの方にも余裕が無かったと思います。けど――」
成幸の視線が僅かに滑る。その目が見つめる先に映っているものを、真冬はよくよく知っていた。トロフィーの飾られたガラスケースだ。
「ここで初めて桐須先生と話をしたとき、ようやく覚悟が決まったんです。失敗したっていい。やれることを精一杯やろう、って。それからはあいつらの前で不安を見せないようにしてきました」
そう言って控えめに笑う成幸に、真冬の心が動揺する。それは全てが順風満帆に見えていた彼が初めて明かす、心の内側だった。
「とはいえ、不器用なあいつらを教えるのは並大抵のことじゃなかったです。時には成果が出ずに落ち込むこともありましたが……ここに来るとまた立ち直ることができました」
「どうして……?」
「俺の心が決まった思い出の場所ですから。それに……先生が生徒のためにいつも努力している姿に仲間意識みたいなものを持っていました。散乱した本の束を見るたびに、俺も頑張らなきゃなって」
「唯我君……」
話が冒頭に繋がったことに気付いて、真冬がぽつりと呟く。同時に理解もできた。そのうち彼の方から部屋を訪れるようになった理由はこれだったのだ。
それからも彼の独白は続いた。水泳の補修で合格できたこと。調理実習の代理を引き受けた理由に感銘を受けたこと。進路に悩んでいた自分の背中を押してくれたこと。センター試験のとき車で必死に捜索してくれたこと。
話を聞くうちに真冬の心に羞恥にも似た感情が沸き上がる。そんなものは教師の仕事の一環だ。わざわざあげつらう程のものではない。
そう否定しようと思うのに、なぜだか言葉が出てこない。
――自分の気持ちに素直にな
不意に過ぎったかつての恩師の言葉に、ああ、と真冬が理解する。決して否定をしたいわけではない。だけどもし、素直に言葉を受け入れてしまったら? 再び生徒に近付いてしまったら?
両親の顔が、かつての教え子の顔が彼女の胸に去来する。夢を目指し、生徒に寄り添うことを目指し、才能の味方を目指し――全て失敗してきた。
自分の行動が正しかったことなんて一度も無い。それでもなお教師を続けたいがために、おっかなびっくり生徒に寄り添っていくことを選んだのだ。
それなのに――
「――先生の言葉があったから、先生の背中を見てきたから俺は教師の道に進もうと思えました。俺が自分の夢を見つけることができたのは、親父と、先生のおかげです」
テレビの司会者のように流暢ではない。たどたどしく、だからこそ嘘のない目と言葉が、心を揺さぶり続ける。
間違えていなかったのだろうか
きちんと、導くことができたのだろうか
自分は……慕われてもいいのだろうか
かつて彼女が憧れ、捨て去ったはずの光景が恩師の息子からもたらされる。
腰を浮かした成幸が真冬の両手を取り、告げた。
「本当にありがとうございました。桐須先生に出会えたこと、俺は一生忘れません!」
「――!」
とくん、と、真冬の鼓動が跳ねた。
油断していたのかもしれない。病気で心身が弱っていたせいかもしれない。何よりも……彼の言葉だったからに違いない。
真っ直ぐな目が、迷いの無い言葉が、心からの感謝の思いが、彼女の胸に染み渡っていく。
そして、
「…………」
ぽつ、ぽつ、と。
氷の仮面が剥がれていく。目蓋からこぼれた熱い雫は頬を伝い、手の甲へと落ちていった。
「卑怯……よ。唯我君……」
「せ、先生!?」
ぽろぽろと涙を流しはじめた真冬の姿に、成幸が盛大に狼狽えた。
「すすすすみません先生! おお俺、何か失礼なこと言っちゃいましたか!?」
「相違……違うわ! でも君は……ぐすっ……卑怯よ……」
満たされた想いが、とめどもなく涙を溢れさせる。ぐずりながら告げた真冬が、そのまま責任を取れとでもいうように彼の胸に頭を埋めた。
自身の胸で泣きじゃくる氷の女王。そんな驚天動地の出来事に、成幸の口が金魚のようにぱくぱくと動く。頭から煙を吹きつつ、それでも今の彼女に寄り添える方法を必死に探し続けた結果、彼はかつて父がしてくれたように振舞うことを選択した。
(んっ……)
泣いている真冬の背中に、ふわりと包み込む感触があった。
とても暖かだった。母にあやされる赤子のような居心地の良さを感じていると、不意に頭を撫でられる。一瞬驚きはしたものの、嫌ではない。だから……進んで受け入れることにした。身を預け、自らもぎゅっと腕を絡ませる。
すん、すん、と鼻をすする音だけが、固く抱き合った二人の間に響いていた。
「……醜態。今日は恥ずかしいところを見せてしまったわね」
「い、いえ……大丈夫ですから」
それなりの時間が経ったあと、ようやく平常心を取り戻した真冬は、項垂れながら成幸に告げた。
思い返す。泣き止んだあと、自身がどういう状況なのか気付いた彼女は、もう最高潮にテンパった。顔を真っ赤にしながら彼から離れると、教師と生徒の倫理観についての緊急ディベートを開始する。
セーフか、アウトか?
脳内議論の結果、満場一致でアウトの判定を頂いた彼女はずーんと落ち込んだ。その後、今回は相手が成幸だったことを考慮し、以後は気をつけようと誓いを立てて今に至っている。
「あの……先生」
「な、何かしら。唯我君」
恥ずかしさから互いに顔を伏せたままやりとりする二人。
が、これでは格好がつかないと思ったのだろう。深呼吸し、肩の力を抜いた成幸が真冬に向き直り、告げた。
「その……迷惑じゃなかったら、これからもここに通っていいですか? 大学では新たに教わることばかりだし、何より、俺にとってはここが一番落ち着いて勉強できるんで」
「……」
「だめ……ですか?」
先程の決意は何だったのか。
控えめな様子でこちらに訴えてくる成幸に、真冬が思わず苦笑しそうになる。何のことはない。必要としているのは彼の方も同じだったのだ。
首を振ると、真冬は言った。
「許容。掃除の方もまだ君に手伝ってもらう必要があるようだし……こちらこそお願いするわ、唯我君」
「ありがとうございます。ていうか、掃除は手伝う前提なんですね……」
そう言って苦笑いを浮かべる成幸に、真冬が「当然」と返す。いつもの調子の、いつものやり取り。
ため息を漏らした成幸が苦言を呈してくる。
「当たり前のように手伝っていますけど、いい加減一人でもできるようになって下さいよ。でないとこの先結婚するときに困って――」
そこまで告げた直後、はっと成幸が口を閉ざす。どうやら失言に気付いたらしい。顔をしかめている真冬を見た途端、がくがくと震えはじめる。
「あ、あの……今のは、その」
すっかりパニック状態に陥っている彼を見て、真冬は心の内で息をつく。普段は頼もしいことこの上ないが、こういうところはまだまだ子供である。
でも、まあ――
「なら……唯我君がもらってくれる?」
「えっ!?」
どうやらあの涙は、ずっと心に押さえこんでいたものまで押し流してしまったらしい。
軽くなった心の赴くままに告げると、彼の顔がびしりと固まった。
「あ、あの……」
「どうかしら? ご家族もきっと喜ぶと思うのだけど」
「い、いや……た、確かに母さんや葉月たちならそう言うかもしれませんけど、でもいきなりそんな」
赤面しながらわたわたと慌てる教え子の姿に、真冬がしてやったりと表情を緩める。今まで散々こういうことをやられてきたのだ。彼には良い薬に違いない。
立ち上がり、ネタばらしを行うことにする。
「新鮮。今日届いたばかりだし、沢山あるから十個くらい持っていくといいわ」
「……は?」
「りんごの事よ。少しでも荷物を整理しようと思ったのだけれど。もしかして要らなかったかしら?」
「え…………あ、ああ! そ、そうですよね! てっきり俺――」
「てっきり……何?」
不意打ち気味に言葉に割り込むと、真冬はじっと成幸の顔を見つめる。
顔を赤らめ、再びしどろもどろになってしまった彼に、彼女は今度こそ笑みを浮かべた。
「保留。答えを聞くのはまたの機会にしましょう。だから、これからもよろしくね。唯我君」
茜色をした黄昏の空がどこまでも広がっていた。家に着くまでの僅かな距離を、ぶらぶらと成幸は歩いていく。
もう数学の問題を暗算してみることも、覚えたての歴史をそらんじることもない。すっきりした頭の中に思い浮かんできたのは先程のやり取りだった。思わず勘違いをしてしまいそうになるほど、すっかり彼女にまいっているらしい。
「先生……」
受験が終わってようやく余裕が生まれたとき、彼の心の中に一人の女性が佇んでいた。ジャージ姿をした孤独で、けれど誰よりも心優しい氷の女王。
いつからそこに入りこんでいたのかはわからない。ただ――だからこそ彼女に対しては「愛してます」だの「好きですよ」だの、うかつな言葉を無意識に口走ってしまったのではないかと、今にして思う。
人生を変えてくれた。
面倒で何かと世話が焼けた。
だからこそ、笑顔を見たいと思った。
好きになった理由など、今ならいくらでも思い付く。それでも、今はまだ我慢しなければならない。学園に籍があるうちは、彼女に想いを伝えるわけにはいかないから。
だから、
「次に来たときは……必ず答えを用意してきます。先生」
ひとり決意を固めると、成幸は家路への足を早めるのだった。
終
久々のぼく勉小説でした。前作の投稿からおよそ一年。より可愛さとヒロイン力を増した今の先生がEDを迎えるならこういう感じになるかなと想像しながら書いてみました。
原作でも先生エンドになったら嬉しいですね