教会。
どの宗教に対しても用いられる言葉ではあるが、多くの人はまずキリスト教をイメージするだろう。
「………………」
目の前には何の変哲もないただの教会。
ここには神父のNPCが住んでおり、この世界における常識を一つ一つ丁寧に説明してくれるらしい。
とはいうものの、大抵のプレイヤーは既に知っている内容ばかりのため、ここを訪れるものは殆どいないそうだ。
あらかじめ登録されていたフレンド…………『リン』
メールのやり取りを何度か行った結果、彼女は自分の知っている『遠坂凛』であることが分かった。
そこで一度顔を合わせようということで、彼女はこの教会を場所に選んだのだが……
「“言峰教会”……か」
見知らぬ世界での見知った名前。
本来ならば安堵するべきなのだろうが、つい溜息が出てしまう。
彼独特のあの威圧感は、何度味わっても慣れない。
今、自分は記憶喪失の状態にある。
しかし全ての記憶を失っていたわけではないらしく、遠坂凛や言峰綺礼をはじめ、シンジ、レオ、ユリウスなど、多くの知人のことは覚えていた。
だがそれでも、自分は記憶喪失なのだ。それだけは確実に言える。
彼らのことを覚えてはいるが、なぜ知り合ったのか、どうやって知り合ったのかをまるで覚えていないのだ。
……何より気になるのは、この世界で目覚めてからずっと感じているこの違和感。
胸にポッカリと穴が空いているような感覚。
確かに記憶は欠けている。だが、それ以上に大切な“何か”を、自分は忘れている。
例え全てを忘れ、赤ん坊のようになってしまったとしても、決して欠けてはいけない“誰か”を忘れている。
だから、それを取り戻さなければいけない。
「――――よし。行こう」
扉に手をかける。
もしここにいる神父が自分の知っている“言峰綺礼”だとしたら、彼は間違いなく重要な情報を持っている。
何より、あの遠坂凛がここを選んだのだ。ならば、それには何かしらの意味があるはずだ。
覚悟を決めて、教会の扉を開けた。
◆
扉の向こうには広い礼拝堂が広がっていた。
訪れる者はほとんどいないというのは本当らしく、そこにはたくさんの空席があった。
かつん、という足音が響く。
この教会の主と思われる人物が、祭壇の裏側からゆっくりと現れた。
「これはまた、随分と懐かしい顔の客だな。しかし些か間が悪かったな。遠坂凛は今、野暮用で外出している」
言峰綺礼。
やはり彼がここ、“言峰教会”に住まう神父らしい。
口ぶりから察するに、既に遠坂凛とは接触していたようだ。
「言峰……どうしてここにいるんだ?」
『ここ』とは勿論、異世界………ゲームの世界、という意味だ。
「……どうして、か。まさか、よりにもよって君がそれを問うとは。私を含め、君の多くの知人がこの世界にいるのは彼女のせいだろう」
「え……彼女?」
彼女、とは誰だろうか。
遠坂凛のことか。
いや、きっと違う。なんとなくだが、そんな気がした。
「彼女って…………誰のことだ?」
「――――何?」
途端、神父の顔から笑みが消えた。
言峰は祭壇を降り、ゆっくりと自分の正面まで歩を進めてきた。
自分と言峰の身長にはかなり差がある。あくまでも目測だが、20センチほど彼の方が高い。
そんな長身の男がゆっくりと迫ってくるのだ。これで警戒しない方が珍しいだろう。
やがて、言峰は自分の正面に立ち、歩を止めた。
「……成程。確かに、いくらか記憶の欠落が見える」
「?」
言峰はじっくりと自分を観察しながら思考を巡らす。
しかし、その内容はいまいち理解できない。どうやら、なくしている記憶に深く関係している事らしい。
――――もしかすると。
この男ならば、この得体の知れない違和感の正体を知っているかもしれない。
そう思って、質問してみる。
「…………言峰」
「教える気はないぞ」
即答されてしまった。
「……どうして?」
「決まっているだろう。それではあまりにも意味がない。第一、私は君が『何を成したか』は知っているが、『どうやって成したか』は知らない。結果だけを教えたとしても、今の君では信じることなど到底できまい。
それに、『百聞は一見に如かず』という言葉もある。君には、もっとよいモノをくれてやろう」
そう言った後、言峰は自身の袖を捲った。
現れたのは、神父とは思えないほどに鍛えられた豪腕と、それに深々と刻まれた赤い刻印。
「それは?」
「なに、そう大層なものではない。元よりこれは君のモノだ。一時的な保管場所として私が選ばれたに過ぎない。
――――左手を出せ。少し痛むだろうが、我慢しろ」
「……………」
言われたとおりに左手を差し出す。
同時に言峰もまた、刻印が刻まれた腕をかざした。
―――――その瞬間、変化は起きた。
「っっ―――――!!?」
突如、赤い刻印が強烈な光を放つ。
そしてそれに応えるかのように、自分の左手の甲からも光が発せられていた。
二つの赤い光が、礼拝堂を照らす。
「ぐ―――――っづ、ぅ―――――………!!」
襲い来る頭痛と吐き気。左手は焼けるように熱い。
全身の神経が焼かれる感覚。意識が断線しそうだ。
立っていることもままならず、両膝をつく。
「―――――っぐ……ぁ―――――………」
気を抜けば一瞬で意識はとぶ。
得体の知れない痛みは、耐えられるギリギリの範囲内でじわじわと岸波白野を焼く。
情けなく呻きながら、必死に精神を繋ぎ留める。
「っ……………ぁ」
―――――抗いきれなかった。
意識が断線する。
徐々に瞼は閉じられ、視界から光が消える。
意識を失う直前、彼を見上げた。
言峰綺礼という男は何一つ動じることなく、ただ、どこか満足げに自分を見ていた。
◆
…………声が聞こえた。
『……ご主………聞こ………か?』
それは一体、誰の声だったか。
分からない。
………思い出せない。
ふと、左手の甲が目に入った。
そこには、初めて見る / 見慣れた 赤い刻印。
彼女との繋がりの証。
「――――違う」
知っている。
この声を、自分は知っている。
どんなときも常に隣にいてくれた、一人の女性の声。
『マス……、もうしばら………………さい。
このキャ………、音より速く……………す!』
――――幻影が見えた。
蒼い着物。特徴的な耳と尾。
それは、今となってはただ懐かしい、自分にとって唯一の――――
◆
勢いよく教会の扉が開け、ズカズカと歩を進める。
左手にはレジ袋。中には食料や飲料の類がぎっしりと詰まっている。
一応ここは公共の施設でもあるのだが、そんなことは一々気にしない。
何せ、人がいないのだから。
「――――全く。ここは神聖なる教会であると同時に、初心者救済のために作られた施設だぞ。もう少し人の目を気にしたらどうかね、遠坂凛。」
「別にいいでしょ。こんなところに喜んで来る物好きなプレイヤーなんて、そうはいないわよ。
それに、教会なんてここ以外にも山程あるし。わざわざここを選ぶ理由もないわ」
ここは一応、初心者救済のために作られた教会だ。
教会の主である言峰綺礼はチュートリアルの役目を請け負っている。
しかし皮肉なことに、彼以外にもその役目を担うNPCは大勢いるのだ。
そしてその大半が美女。
ただでさえチュートリアルを利用するプレイヤーが少ない上、この男が選ばれる理由も皆無。
解説役は『見知らぬオッサン』よりも『妖しい美女』の方が需要があるということだ。
「…………で、岸波くんは?」
「ああ…………彼なら、そこで寝ている。」
言峰綺礼は視線だけを動かした。
その先には、礼拝堂の長い椅子の上で横になっている岸波白野の姿があった。
椅子の背もたれで隠れていたため、入口からは見えないようになっている。
私は、岸波白野が横になっている椅子の前でしゃがんだ。
耳を澄ますと微かだが、穏やかな寝息が聞こえてくる。
性懲りもなくまた記憶を失ったと言うのに、素晴らしい熟睡っぷりだ。
そのまま、眠ったままの少年の左手を探った。
――――三画の赤い痣。
そのうち二画は使用された形跡がある。
赤い色が残っているのは一画のみで、残りの二画は色が消え、痛々しく痕が残っている。
「ねえ。これ、どういうこと?」
「どうもこうもない。岸波白野はマスターだ。私はただ、彼にソレを返しただけだが?」
「ふぅん。
じゃあ、キャスターは?」
キャスター。
狐耳と露出度の高い巫女服が特徴的な、岸波白野のサーヴァントだ。
二人はこの赤い痣―――――令呪によって繋がっている。
「知らん。だが、そう心配はいらんだろう」
「んー……………ま、それもそうか。」
シリアスな空気を壊す彼女なら、いつの間にか、いつも通りに姿を現すだろう。
ご主人様~、とか言いながら。
彼女の真名的にも、心配するだけ損だ。
「それより綺礼。私達が帰る方法、分かった?」
帰るというのは勿論、私達が元いた世界にだ。
「無論。
とはいっても、簡単なことだ。この浮遊城から脱出すればいい」
「脱出って…………つまりどういうことよ。」
「このゲームをクリアする、ということだ。」
「………………」
……そんな無茶な。
確かこの浮遊城――――アインクラッドは、全部で九十九層もある。
しかし、ここはまだ一層。
クリアするまでどれだけ時間がかかるか…………
「そう嫌な顔をするな。これはこれで中々面白いとは思わんかね。
普段は自己中心的なゲーマー達が、『生還』というたった一つの目的のために協力し合い、命を掛けて戦いの日々を生き抜く。
ある者は正義感故に最上階を目指し、ある者は夢から覚めるのをただひたすら待ち続ける。
この試みを考えた“茅場晶彦”という男は、余程のセンスの持ち主と見た」
「知らないわよ」
愉しげに語る神父。
元々言峰綺礼は、聖杯戦争における審判のようなものだった。
観戦はこの男の趣味だと認識している。
「ふむ…………まあ、それはいい。それで、遠坂凛。君は一体どちらかね?」
「?」
「最上階を目指すか、夢から覚めるまで待ち続けるか、それとも――――
人を辞め、殺人鬼へと身を堕とすか。」
「何言ってんだか。そんなの、決まってるじゃない」
レジ袋を椅子の上に置き、空中に両手をかざす。
…………この世界でのゲームオーバーは死と同義。
見知らぬ他人がどこでどう死のうと気にはしない。
――――けれど。
こちらが手を尽くす前に勝手に死なれるのは、やはり寝覚めが悪い。
私はこの上なく不敵な笑みを浮かべ、神父に言ってやった。
「即効でクリアしてやるわよ。」
――――コードキャスト機動。ハッキング開始。
この世界は茅場明彦によって運営されている。
だが、作り出した存在が人間である以上、きっとどこかに穴がある。
茅場明彦に気づかれない範囲内でデータをいじり、最強の武器を作り出す――――