実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
序章 咲き誇る花はしかし、春の終わり
* 終 *
「わたしには、なにができるんでしょうか」
先を歩く浩之さんの背中に向かって、わたしはそう問いかけた。
「どうしたんだ? マルチ」
振り向いた浩之さんは、立ち止まっているわたしのことを見て、微笑んでくれる。
夏の足音が近づいてきていた。それでも日が暮れるとまだ少し肌寒くて、吹き抜けていくほのかな風が肌に冷たさを残していく。
「なにができるのか、わからないんです。どうやってなにをすればいいのか、ぜんぜんわからないんです」
「あぁ」
浩之さんは電灯の下に立って、その鉄柱に手を突いた。私の言葉に疑問を返すのではなくて、頷いて先を促してくれる。
「わたしは、人間になったんです。もうメイドロボではなくなったんです。浩之さんのお店を手伝わせてもらっています。学校でも頑張っているんです」
「そうだな。マルチは頑張ってると思うよ」
「でも見えないんです。わたしは人間になって、なにをすればよかったんですか? なにができるようになったんですか? ――それよりもわたしは、本当に人間なんでしょうか?」
胸の前で手を握りあわせながら、浩之さんのことを見る。
いまのわたしの身体は、風の冷たさを、踏みしめる地面の感触を感じることができる。メイドロボのときにはなかった感覚。
身体はメイドロボじゃない。だからといって、それが本当に人間であることなのかと考えてしまう。
――それにわたしは、いまはなにもできてない……。
浩之さんの側にいたときのように、掃除をしたり、食事をつくったりすることができない。あのときのように、みんなの顔に笑みが浮かぶようなことができない。浩之さんにほめてもらうようなことができない。……浩之さんを、ご主人様と呼ぶことができない。
「前とは立場が逆だな」
瞳に優しい色を湛えた浩之さんの言葉の意味が、わたしにはわからなかった。どういう意味なのか訊いてみようと思ったけど、彼が先に口を開いた。
「人間ってぇのは、お前がメイドロボだったときよりも長い生活が続くんだ。それにメイドロボのように人間の手伝いをする、っていう目的があって生まれてくるわけじゃない。オレだって前はそうだったさ。微笑む人が増えて欲しいっていうお前の夢を追ってきてるだけだ」
「……」
「生きるのって、けっこう難しいものだよな。普通に生きてるだけでもけっこう面倒なものだし、かといってなにか目的を持てば、それが達成できないで悩んだりする。手に入れやすいものばっかり求めてると、物足りなくなったりな」
だんだんと口調が早くなっているのを感じる。十歩も離れていない、電灯の下に立っているはずの浩之さんが、どこか暗く遠い場所にいるように感じている。
「お前は知ってるはずだぜ? マルチ。オレだっていまのお前みたいに悩んできたんだ。どうやって生きていったらいいんだろう、どうして物足りないんだろう、って考えながらやってきたんだ。そんなオレに生き方を教えてくれたのは、マルチ、お前だったんだぜ」
――なにかヘンだ。
そう感じているのに、浩之さんの側に寄っていくことができなかった。抱きついていきたいと思うのに、浩之さんの優しい、でも強い瞳に、話を聞いていることしかできない。
「オレもずっと、どうやって生きていけばいいのかなんてわからなかったさ。でもそれをマルチ、お前が教えてくれた。微笑みを増やしてほしい、って夢をオレに託してくれた。その言葉がオレにとっての道になった。だからオレはいまのいままでその道を進んできた。選んだ道がすべて正しかったとは思ってない。オレはオレなりの考えで、正解だと思える道を進んできた。それはマルチ、お前もできるはずだぜ。なにしろオレはお前にそういうやり方を教えてもらったんだからな」
言い終えて浩之さんはにっこりと笑んだ。
まぶしかった。
いまの浩之さんがわたしにはまぶしく見えた。
「誰もが持ってる生きる目的なんて、たぶんないんだ。それは人それぞれが見つけていくものなんだと思う。ただ誰もが思ってることだろうな、気持ちよく生きていきたいってのは」
だんだん声がかすれてきているのがわかった。瞳にあった優しい色も、いつしか苦しそうなものに変わってきていた。
「オレはお前に道を示してもらった。そしてオレなりに気持ちのいい生き方を目指してきた。他の奴がどう感じているのかは知らないし、オレ自身はもっともっとって思ってるけど、いまはけっこういいとこまでできたと感じてる。お前は忘れてるぜ? マルチ。メイドロボだったときに感じてたものが、いっぱいあったはずだ。オレの側にいたからだけじゃない、もっといろんなことがあったはずだ。マルチは、マルチだ。メイドロボとか、人間とか、そういうことじゃない。お前はマルチだ」
――ダメです、浩之さん。
さっき浩之さんが言った「逆の立場」という言葉の意味がわかってきた。
最近お父さんの様子も、あかりさんの様子も、浩之さんの様子もどこかおかしいのは感じていた。その意味が、やっとわかってきた。
喋り続ける浩之さんに近づいていくことができない。近いはずなのに遠くにいるような浩之さんに歩み寄れなくて、わたしはいつのまにか泣いていた。
「焦るなよ、マルチ。お前はまだ十二歳の子供なんだぜ? いまからいくらでも道は見つかるはずだ。だから泣くなよ、お前が泣き虫なのは知ってるけど、泣いてるより笑ってる顔の方が好きだぜ。お前だって、みんなの泣いてる顔より、笑顔の方が好きなんだろ? だから笑顔が見たいって思うようになったんだろ?」
「ダメです……、ダメです浩之さんっ」
浩之さんがいまどうなろうとしてるのかわかっていた。詳しくどういうことなのかわからないけど、いまにも倒れてしまいそうな彼を引き戻したかった。
「――もっと、もっと早くにマルチとこうして話していればよかったんだろうな。オレもけっこう忙しくてさ、こんな風にゆっくり話してる暇がなかった。すまないな」
笑っている浩之さんの額には汗が浮かび、電灯に照らされて光っていた。電灯の鉄柱についていただけの手は、いまは握りしめられている。
――いかないでください、浩之さん。
やっと足が動いて、わたしは浩之さんのもとに駆け寄った。抱きつこうとしたけど、昔のように頭に置かれた暖かい手がわたしの足を止めさせていた。
「わたしはもっと浩之さんと話していたいんです。たくさん教えて欲しいことがあるんです。だから、だからわたしは――」
仰ぎ見た浩之さんの顔は微笑んでいたけど、その瞳にはなにも映っていなかった。
「わたしはもう一度浩之さんのことを――」
「ダメだぜ、それは」
予想していたかのように言葉を遮り、ニッと唇をつり上げる浩之さん。
――振られたんだ。
わたしは浩之さんの側に行くことができなかった。浩之さんを引き止めることができなかった。わたしはもう二度と浩之さんをご主人様と呼ぶことはできない。
――わたしは、振られてしまったから。
「イヤです……、浩之さん」
くしゃくしゃと髪をかき回す浩之さん。でもその動きは、言葉とともに止まってしまう。
「ゴメンな、あかり――」
つぶやいた浩之さんの膝が崩れた。膝立ちになった浩之さんの身体が、わたしに倒れかかってくる。力を失った身体は重たくて、悲しかった。
「ダメです、浩之さん」
思いっきり抱きしめた彼の身体にはしかし、力が戻ってくることはなかった。
「イヤです。行かないでください。わたしはもっと、もっと浩之さんと――」
あふれ出した涙でなにも見えなくなって、浩之さんの肩に顔を埋める。何度呼びかけても、だんだんと暖かさを失っていく浩之さんがわたしの名前を呼んでくれることはなかった。
目をつむって顔を上げる。大きく開けた口から出たのは、もう言葉にはならない声だけだった。
「イヤーーーーーーーーーーーッ」