実りの季節を抱きしめて 実りの季節シリーズ3 作:きゃら める
第一章 散る花、消ゆ花、花吹雪
* 1 *
カーテンから差し込む日の光に目が覚める。
「夢を、見ていたのかな?」
ベッドの中から見上げた天井がかすんで見えているのに気がついて、指で目尻を拭きながら起きあがる。机の上に置いた目覚まし時計を見てみると、セットした時間よりも少し早かった。
夢の内容は憶えていない。悲しいような、寂しいような感じが胸にわだかまっているけど、それがなんだったのかは思い出せなかった。
カーテンを大きく開いて朝日を部屋に入れる。まぶしくて、でも気持ちのいい光に、わたしは「んーーーっ」と声を出しながら伸びをして、重くなっている気分を全部入れ替えてしまう。
「今日もいい天気ですね」
窓の外を見ながら笑み、ベッドを出たわたしは乱れた布団を直して目覚まし時計を止めた。
ドレッサーの前に座ってブラシを手に取る。
鏡に映っているのはもちろんわたしの姿。寝起きで頬がまだ少し赤くなっている、十二歳の人間の女の子、それがいまのわたし。
試作型メイドロボ、HMX―12マルチだったわたしが、クローン技術でつくられたみのりさんの身体をもらって人間になって、もう半年以上の時間が流れていた。お父さんに見せてもらったことがあるみのりさんの写真の姿よりも少し幼い感じの顔。人間として目覚めたときは肩に掛かるくらいだった髪は、背筋に沿って伸びてきていた。
――メイドロボの髪は伸びないですからね。
そんな小さなことに気がついて、わたしはまた微笑んでしまう。
人間になってすぐの頃はいろいろなことにとまどってしまった。食事やお風呂や歯磨き、――トイレのことも、メイドロボには必要なかったり、ぜんぜん違ったりしていた。それどころか最初は手を動かすことも、瞬きすることも、メイドロボのときとはぜんぜん違って、変な感じがしていた。
半年経ったいまでも、人間とメイドロボの小さな違いひとつひとつに、自分が人間になったことを実感したりしていた。
――髪もしっかりお手入れしないと、すぐに枝毛がいっぱいになってしまいますしね。
髪を梳かし終えてブラシを置き、にっこり笑んだわたしは中学の制服に着替える。それから鞄を手にとって、一階へと下りていった。
リビングの時計を見てみると、髪を梳かすのに時間をかけすぎてしまったらしい。じっくり朝食をつくるには時間が足りなくなってしまっていた。
お父さんは昨日の夜、書類を整理するために遅くまでかかると言っていた。今日はその書類を持って昼過ぎに研究所に行くので、朝は遅いかも知れなかった。
自分の分のトーストをトースターで焼きつつ、冷蔵庫からレタスやキュウリやトマトを取り出して手早くサラダをつくる。ゆで卵も添えたかったけどそこまで時間はない。もう少し時間を見ながら髪を梳かそうと心に決めつつ振り向くと、いい香りがしてきたトースターがチンッと音を立てた。
「それでは行ってきます、お父さん」
自分の食事はつくりながら手早く済ませたので、歯磨きをしている時間は充分に取れた。お父さんの分と思って多めにつくったサラダにはラップをかけてある。目玉焼きは半熟が好きだから、起きてからお父さんが自分でつくるだろう。
忘れたことがないかひとつひとつ思い浮かべて、大丈夫なのを確認したわたしは、まだたぶん寝ているお父さんに小さく声をかけて玄関の扉を閉めた。
高くなり始めた日の光を受けながら、鼻歌を歌い始める。
「今日もいい一日でありますように」
そんなことを口に出して願いながら、門をくぐって学校へと向かった。
私が階段に足をかけたとき、ちょうど玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。
「間に合わなかったか」
玄関先まで来てみたが、マルチの姿はもうそこにはなかった。
――朝の挨拶くらい、毎日でもしたいものですね。
ため息をもらしながらキッチンへと入り、コーヒーメーカーをセットする。ダイニングに行ってみると、マルチがつくってくれたサラダが置かれていた。
「いつも通り、ですかね」
マルチよりも遅く起きた朝は、いつもダイニングテーブルに彼女がつくってくれた食事が置かれている。できるだけ一緒に食事をするようにしているが、そうできない日には、今日のようにマルチが朝食を用意してくれていた。
噛まずにトマトを口に放り込み、甘酸っぱさを味わいながら思う。
――私はマルチに言うべきだったのだろうか。
それはもう手遅れなこと。言うべきか言わざるべきか判断がしきれずに、けっきょく時は過ぎてしまった。
いつも通りに見えても、マルチの心は揺れ動いているだろうことはわかる。そんな彼女に対して、私はかけるべき言葉を持たなかった。
「父親失格ですね」
考えていることを口にし、トマトを飲み込んだ私は歯を食いしばる。
マルチの父親としての生活。けれども私は父親としての役目というものがわからなかった。これから先に、――いや、いまの彼女に対しても、私がなにをしてやれるのか、それを見いだすことができなかった。
*
ふと目を離した隙に、みのるは画用紙の外の床にまで絵を描き始めていた。慌てて側に寄っていくと、うちの王子様は私を見上げて言う。
「マァマ、いっぱい」
にっこり笑うみのるの顔を見ていると、あきれるような嬉しいような気持ちになってしまう。
「うん、いっぱい描けてるね。でも絵はこっちに描かないとね。こっちにもっともっと描いてね」
みのるの隣にしゃがんで画用紙帖を一枚めくってあげる。そこを指し示すと、みのるは嬉々として新しい白い画用紙に絵を描き始めた。
このところリビングの床はすっかりみのるの画用紙となってしまっている。まだまだしていいこととしてはいけないことの分別は今ひとつといった感じ。画用紙を飛び越えて絵を描いてしまうことなんていつものこと。片づけることも憶え切れていなくて、部屋のおもちゃは出したら出しっぱなしだった。
そんなみのるにひとつひとつ教えていくのは大変だった。
「私もこんなだったのかな」
二歳のときの記憶はないから、もしかしたら自分もこんな感じだったのかも知れない。
――お母さんも大変だったのかな。
経験がある分、お母さんはみのるの扱いがすごくうまい。私はまだまだ怒ってしまいそうになるけど、性格もあるのか、お母さんは怒らずにみのるにしていいこととしてはいけないことを教えていく。
もちろんみのるが教えられたすべてをすぐに憶えてくれるわけじゃない。一日二日じゃなくて、ひと月、ふた月という時間で見ていくと、みのるはどんどん成長しているのがわかる。言葉も、遊びも、やんちゃもだけど、広がっていく。
――そう思えば今度ブロックを買って上げよう、って浩之ちゃんが言ってたな。なんでも口に入れちゃうクセがちゃんと治ったら、大丈夫かな。
料理雑誌を手にしたまま読まず、ゆったりとした音楽に乗るように画用紙に向かっているみのるに見入ってしまっていた。
浩之ちゃんと私の幸せの形。彼が与えてくれると言った幸せがまさにみのるのように思えて、みのるの様子を見ているだけで微笑みが漏れてしまう。
そんなとき、チカッと一瞬リビングが明るくなったかと思うと少し暗くなった。電灯の方を見てみると、四つある蛍光灯のうちひとつが切れてしまっていた。
「ちょっと待っててね。すぐ付け替えるから」
私と同じに切れた蛍光灯を見上げているみのるの頭をポンと軽く叩いて、倉庫へと向かう。ひとつ切れたくらいではそんなに暗くはならないけど、いまリビングはみのるの遊び場。少しでも明るい方がいいと思う。
家の中にある小部屋のような倉庫に入って灯りをつける。
「蛍光灯……、蛍光灯、っと」
据え付けられた棚を見回して蛍光灯を探す。奥手の高いところにそれはあった。
「あれはちょっと、ダメかな」
棚に手を突いて背を伸ばしてみるけど、棚の一番上にある蛍光灯の箱には届かなかった。さわれるにはさわれそうだけど、予備で置いてある重ねた箱が落ちてきてしまいそうで、そのままでは取れそうになかった。
ふと後ろから伸びてくる大きな手。それが蛍光灯の箱を取ってくれる。
振り返ると優しい笑顔。「あかりの背じゃ無理だったな」と意地悪な笑みをする、彼。私はちょっと頬を膨らませて不満な気持ちを表すけど、本当は彼の小さな優しさが嬉しかった。彼もそんな私に笑い声で応えてくれる。
――でも、いない。
わたしの見ている倉庫の入り口には浩之ちゃんの姿はなかった。
浩之ちゃんはいまここにはいなくて、いつもならそうしてくれるだろう浩之ちゃんのことを勝手に想像して、いるはずの浩之ちゃんの影を見ながら、私は泣いていた。
「――マァマー」
みのるの呼ぶ声が聞こえてきて我に返り、濡れてしまった頬と目尻を拭いた。倉庫の中にあった踏み台を使って蛍光灯の箱を取る。
リビングに戻ってみると、みのるはまた床の方まで絵を描いていた。
「ほら、ダメだよ。画用紙はこっちね」
箱をテーブルの上に置いて雑巾を手に取った私はみのるに画用紙を示し、床に描かれたクレヨンを拭く。
「マァマ?」
呼ばれてみのるを見ると、私の顔を不思議そうに見上げていた。
――こういうところまで浩之ちゃんに似てるんだよね。
みのるは人の気持ちに敏感で、喜びや悲しみを感じ取ってしまう。浩之ちゃんは子供の頃はそれを表に出すことはあまりなかったけど、みのるは素直に表してくれる。
「大丈夫だよ、みのる」
まだ残っていそうな目尻の涙をこっそり拭ってみのるに笑いかけた。
*
「おっはよぉ~、みのりっ」
近づいてきた元気のいい声の後、背中を思ったよりも強く叩かれた。
不意打ちだったために倒れ込みそうになりながらバランスを取り、叩いてきた張本人を振り返る。
「――真澄さん、ちょっと強く叩き過ぎかも……」
「そぉ? 今度からもう少し加減するね」
にっこり笑んでわたしの顔を見ているのは、クラスメイトの川添真澄さん。
「普通に挨拶してくれればいいのに」
小さくつぶやき顔をゆがませているわたしを見て笑いながら、真澄さんは横に並んで一緒に校門をくぐった。
強い日差しに手をかざしながら真澄さんが言う。
「夏休み、まだかなぁ」
「その前に期末テストがありますよ」
「それはちょっと、イヤかなぁ……」
苦々しい顔をしてる真澄さんにクスリッと笑みを漏らしながら昇降口へと向かう。
なにか気を使ったり特別なことをしているわけではないのに、真澄さんはどこか話しかけやすいような雰囲気を持っている人だった。
中間試験もこの前終わり、まもなく六月になる。中学に通い始めてからもうすぐ二ヶ月になるけど、わたしには友達が多いとは言えなかった。
メイドロボのときはみんなに挨拶をしたりしていたけれど、人間となったいまではなんとなくそれをためらってしまう。
二週間だけメイドロボの試験として学校には通ったことはあったから、学校がどのようなものか知らなかったわけではない。けれどもあのときはあくまでメイドロボと人間としての関係であって、同じくらいの年の人たちと友達になるというのは、わたしの知らない感覚だった。
そんなときに話しかけてきてくれたのが真澄さん。入学式から少ししか経っていないのにたくさんの友達ができていた彼女は、わたしにも他の人と同じように話しかけてきてくれていた。
「もうすぐテストが帰ってくると思うと憂鬱だなぁ――」
「勉強、してなかったんですか?」
「そういうわけじゃないけど、得意な教科とそうじゃないのってあるじゃない? 自信がないのもあるんだよね」
「それはそうですね……」
げっそりした顔をする真澄さん。でもすぐに元気を取り戻して笑顔になる。
「まっ、返ってきてみないとわかんないもんだけどさっ」
表情がころころと移り変わる真澄さんを見ていると、どうしてかクラスの他の人に感じる抵抗が消えていく。そんな不思議な魅力があって、誰とでも友達になれてしまう彼女のことが、わたしは少しうらやましく感じる。そんな彼女に引っ張ってもらって、わたしも少しずつだけど、クラスに馴染んできていた。
「ありがとう、真澄さん」
「なにか言った?」
「いえ、なんでもないです」
ちょっと恥ずかしくて、ちゃんと感謝の言葉は言えなかった。聞こえなかったらしいので、ごまかしながら昇降口へと入って靴を脱ぐ。
上履きを取ろうと自分の下駄箱の戸を開けたとき、動きが止まってしまった。
「ん? どうしたの? みのり」
「いえ、あの……」
靴を履き替えた真澄さんがひょういとわたしの下駄箱の中を見る。
「やっぱりもてるよね、みのりって」
「そういうわけじゃないと思いますけど……」
にんまりと笑われて顔が熱くなるのを感じたわたしは、素早く上履きの上に置かれていた手紙を取って鞄にしまった。
「もててると思うけど? まだあたしたち一年なのにそんなのが入ってるなんてね。それにみのりってあたしが見てもけっこうかわいいと思うよ?」
「……」
返事の言葉も出ずに靴を履き替えて階段へと向かう。
中学に入ってから、これで四通目の手紙だった。もちろん全部男の子からのもの。友達とどうやってつきあっていいのかわからないわたしはクラスの中であまり目立っていないはずだけど、なぜか手紙が下駄箱や机の中に入っていることがあった。
――みのりさんはどうだったんでしょうね。
この身体はもとはみのりさんのもの。同じ顔をしているなら学校に通っていたときみのりさんも、同じように男の子から手紙をもらっていたのだろうかと考えてしまう。
こんなときに、というのはヘンかも知れないけれど、みのりさんがいるならどうしていたのか教えて欲しいくらいだった。
冷やかされているのか、嬉しそうなのかわからない真澄さんの笑い声を聞きながら教室に入る。
「おはよぉーっ」
「んっ、おはよっ」
友達の多い真澄さんの声に教室の中からたくさんの声が返ってくる。
「……おはようございます」
真澄さんに少し遅れて教室に入ったわたしは、クラスメイトの一瞥を受けながら自分の机に向かう。そそくさと教科書やノートを机の中にしまっているところに、すぐ後ろの真澄さんの席に人が集まってきた。
昨日のテレビの話、服装の話題、中間テストの結果などいろんな話題が飛び交っている。振り返ってわたしも話に参加しようと思ったけれど、なんとなくできなくて、半分身体を向けるだけになってしまう。男の子の話が出たときには真澄さんにちらりと視線を向けられて、思わず身体ごと視線を逸らしてしまっていた。
メイドロボだったときとは違う友達との距離。いろんなことを話したり、一緒に笑ったりする。
わたしにはまだどうしていいのかわからないことが多い。少しずつ慣れていこうと思うけれど、「これでいいんだろうか?」と考えてしまって、言おうとした言葉をつぐんでしまうことがほとんどだった。
「はい、出席を採りますよ」
ホームルーム開始のチャイムとほとんど同時に先生が入ってきて、みんな急いで机へと向かう。
「予鈴が鳴ったら席につくように言いましたよね。友達と話すのは楽しいでしょうけど、私が来るまでには戻っておいてください」
教壇に立ってにこやかに笑っている女性の先生。でもどこか厳しい雰囲気を漂わせているのが、わたしのクラスの担任、姫川琴音先生だった。
「では出席を採ります」
静かになった教室ににっこり笑って姫川先生は出席を採り始めた。
みんなが先生の声に返事を返している間、わたしは机の中に手を伸ばす。
――なんでこんなものが入っているんだろう。
思いながら下駄箱に入っていた手紙を手にしていた。
わたしには人間というものがわからない。メイドロボとして過ごしてきたとき側にいれくれた浩之さんのこと以外、人間というものについてなにも知らなかった。どうやれば知っていくのかもわからなかった。
『焦りすぎだ』
そんな声が聞こえる。
――でも、どうしたらいいのかわからないんです。
そんなわたしなのに、男の子からこんな手紙が来たりするのは、納得することができなかった。
『それにみのりってあたしが見てもけっこうかわいいと思うよ?』
真澄さんに言われた言葉がよみがえる。
――わたし自身が、真澄さんの言うようにかわいいわけではない……。
わたしの身体は、みのりさんの身体。本当のわたしの身体ではなかった。
考えているうちに、手の中の手紙をクシャリッと握りしめていた。
担任の先生が出席を採っている間、頬杖をついた真澄は見るとはなしに長瀬みのりの背中を見ていた。
緊張しているのか、肩が少しあがっている。
教室にいるときのみのりがいつもそうであることを、真澄は知っていた。観察していたわけではなかったが、目の前の席にいるみのりの背中をいつでも目に入ってきていた。
――だからこそ、声をかけてみたんだけどね。
中学校生活が始まって一週間くらいが経った頃。一応クラス委員などが決まって、あいうえお順だった席がくじ引きによる席順になり、クラス内は同じ出身校だった人の集まり以外にも話をする人たちが増え、新しい生活、新しい人の集まりとしての緊張はほぐれてきていた。そんな中でも、自己紹介で帰国子女だと言ったみのりはクラスの中にうち解けていくことなく、緊張して肩を強ばらせていた。
真澄はその頃にはクラスメイトの全員の顔と名前をだいたい憶え、そのときまでに見えている性格も把握しつつあった。けれどもクラスの中にいる「長瀬みのり」という名前の女の子のことだけはわからなかった。
黒くて長い髪、髪と同じ色をした澄んだ瞳、恐がりなのか人見知りするのか、少し落ち着きがない感じの奥手な性格。それらは最初から男の子には好印象だったらしく、クラスの内外を問わず噂には上っていたらしい。
そんなみのりに真澄は声をかけてみた。
彼女は奥手ではあっても人嫌いではなく、話をするようになってすぐに見せるようになった笑顔は、同性の真澄が見てもかわいいと思えるものだった。毎日の勉強や小テスト、実力テストで見せ始めた頭の良さは、みのりの噂を広めていった。
しかしそれが、ほかの女の子にとってはいい印象ではなかったらしい。真澄は気にせず声はかけるけれど、真澄以外のクラスメイトがみのりに声をかけることは珍しい。無視するまでにはなっていなかったが、けっして長瀬みのりがクラスに受け入れられているとは言い難かった。
――あたしも同じだけどね。
真澄自身、みのりに声はかけているが、クラスの友達がいる場所に彼女を連れ込んだりはしなかった。話しかけもするし、たまに遊びもするけど、別にみのりのことを特に友達と考えているわけではない。友達のようでいて、友達未満のつきあいしか真澄とみのりの間にはなかった。
――本当の『長瀬みのり』の性格って、どんなのかな。
力がこもっているのか、かすかに肩をふるわせているみのり。先生によって自分の名前が呼ばれてビクリッ、と肩を震わせ、遅れて返事をする。
その様子の一部始終を見ていた真澄の口元には、笑みが浮かんでいた。
* 2 *
客から商品の入った籠を受け取ったアヤノは、リーダーを片手に次々とバーコードを読みとらせていく。もう一体のアヤノが読みとり終えた商品を袋に詰めていった。
その間も柔らかな笑みを絶やさない。
並んでいた客の会計がだいたい終わってきたところで、二体のうち一体のアヤノがレジを離れた。
様々な商品が並んだコンビニエンスストアの通路を通り、ひとりの若い男に話しかける。男はなにかを否定するかのように手を振り店を出ようとするが、アヤノはそれを引き止め、腰に下げていた端末のディスプレイを彼に見せた。そこに映し出された映像は、男がチョコレートの箱をズボンのポケットにしまうところだった。
しぶしぶチョコレートを取り出した男にアヤノはレジの方を指し示したが、彼はそれをアヤノに突き渡し、店を出ていった。
会計を済ませレジの前が空いた後、二体のアヤノは分担して品出しを始める。ただ品出しをしているだけではなく、まだ残っている商品ひとつひとつもチェックしていく。二体が手分けして行う品出しと在庫のチェックは何分もかからなかった。
店の奥からアヤノとは違う色のエプロンをした男が現れ、アヤノを手招きする。男とともに店の奥に入った一体のアヤノは、そこに置かれていた管理コンピュータの画面に今日の現在までの売り上げやいまのところの月の集計を表示させた。そして売れ筋の商品や売れ行きの悪い商品を表示させていく。
「ふむ」
映像のだいたいのところを見終えて、私は息をつく。
画面の方は移り変わり、微笑んだアヤノの全身像とともに彼女がコンビニエンスストアにおいて関わるシステムが文字で映し出されている。
会計とその集計、監視、在庫の管理や不足商品の発注など、これまで人間の手で行っていた面倒ごとを、柔軟に、そして人間よりも正確にこなすことができると説明書きがなされていた。そしてそれを店舗間でネットワーク化することによって、さらなる管理の容易化、コストダウンにつながると説明がなされている。
「少しヤラセのように見えてしまう部分が大きいですかね」
「ある程度は仕方ねぇだろ、それも。実際プレゼンテーション用に用意したものだしな」
執務机にしつらえられた端末を操作して壁にはめ込まれている大型ディスプレイを消し、音山は暗くしていた照明を強くする。
「『メイト』の他社に対する紹介としちゃぁ充分なものだと思うぜ」
「そうですね」
いま音山が私に見せていたのは、総合店舗管理システム「メイト」、通称メイトシステムのプレゼンテーション用の映像だった。
メイトシステムは来栖川系コンビニエンスストアには順次導入中であった。しかし後発として出発した来栖川のコンビニエンスチェーン部門はいくつかの企業を吸収しつつ成長しているとは言え、店舗数は大手には及んでいない。また多数の商品を扱うコンビニエンスストアやスーパーマーケットに店員としてメイドロボを使うことは前々から行われてきたが、こういった総合的な管理を行うシステムなどは最近の法改正の見込みが立ったことによるもので、各メイドロボメーカーがこれからしのぎを削ろうとしている分野だった。
医療現場の雑事として出発したメイドロボは、会社や家庭内での手伝い役として発展し、そしていま人間の代理としての仕事を与えられようとしていた。
「やっとメイドロボが人間のパートナーとして認められてきた証拠、ってことかもしんねぇな」
私の思いを見透かしたかのように、音山が言う。
「そうですね」
顎に手を添えて考え込んでしまっていた私は、その声に笑みを返した。
人間が持っている資格の問題や、人間がやるべき仕事を奪ってしまうという反対から、暗黙の了解があるにせよ、最近までメイドロボの仕事はある程度のところで制限されていた。けれどもソフトかハードに問題がない限り基本的にミスのないメイドロボは、少しずつその存在を社会に受け入れられつつある。品質管理や実際の現場でのチェック機構を充実させることを前提としてはいるものの、法改正によりこれまで関わることができなかった場所にまで、メイドロボの仕事が増えていこうとしていた。
医療現場では食事を運んだり掃除程度しかできなかったが、ミスの無さに着目し、看護補助や薬品の管理の仕事が提案されているし、運動性能やパワーを強化された機体が警備会社に導入される計画も持ち上がっていた。そして行く行くは、警察の内勤ばかりでなく、外勤においても導入していくという構想が来栖川HMの内部にはあった。
「まぁ、それもこれも、日本の出生率が低下傾向にあるから、っつぅ理由はあるがな」
「それはそれで深刻な問題ではありますけどね」
「確かにそうだが、俺たちにゃぁどうすることもできない問題だしな」
「そうですね」
子供が減ることは近い将来の大人が減ることでもある。米国や中国に比べてその度合いが強い日本では、世界一の参入メーカー数を誇る各社の開発と低価格の競争も相まって、メイドロボの浸透の速度が加速しつつあった。
「人が減ってメイドロボの仕事が増えようと、パートナーなんて言われていようと、しょせんメイドロボは人間の手足でしかない。頭が動かなければ手足なんて無駄なだけだ」
「教育現場も変わりつつありますね、そういう意味では」
「来年辺りから導入だったか? 特徴重視の教育って奴は。それによって学力とかよりも特徴のある子供ってぇのが増えれば、もうちっとメイドロボの居場所が増えるだろうな。まぁ、日本の傾向じゃあ実際期待に添う結果が出るまでに何年かかるかわかりゃしないがな。それでも長い目で見れば、道具として、手足としてメイドロボを使って、人間は今以上に創造的な仕事ができるような風になっていくだろうよ」
「えぇ」
音山の言葉に頷いて、机の上に散らばっていた書類をまとめ始めた、そのときだった。
「どういうことですか、音山さんっ!」
騒々しく社長室の扉がを開いて大きな声を上げたのは、三津木君。
「あいつがいないとどうもこういう不届き者が入ってきちまうな」
「不届き者はなんとも……。ともあれ、あいつというと例の秘書さんですか。いまはどちらに?」
「ちょっと遣いに出してる。後で俺を迎えに来る予定だがな」
「なるほど」
三津木君を一瞥しただけで音山と話していると、ドスドスと足音を立てながら机の前までやってきた。
「これはどういう――」
「ちょっと待て、三津木」
憤りに任せて手にした書類を突きつけようとした三津木君を、音山が制する。
「身内みてぇなもんとは言え、客の前でいきなりその剣幕はねぇだろ」
「あっ……」
気づかなかったわけはないのに、私の存在にいま気づいたように声を漏らし、三津木君はすごかった剣幕を納める。
「こんにちは、長瀬さん。お久しぶりです」
「はい、こんにちは」
笑い出しそうになるのをこらえつつ、私は挨拶を返した。
「で、だが、三津木」
「は、はい」
勢いを殺されてしまった三津木君は音山の呼びかけに力なく応える。こうなれば音山のペースだろう。
「一週間の休暇命令のことだよな?」
「……はい」
芝居がかった動作で椅子から立ち、三津木君に背を向ける音山。これまたわざとらしい仕草で窓のブラインドを指で押さえて外を見る。
「ミノリ計画が正式に始動し、研究室長補佐としてのお前の仕事が増えているのはわかる。いまもこれから先もお前にやってもらわなくちゃぁならない仕事はたくさんあるぜ。わかってるよな?」
「わかっています」
首だけ振り返ってジロリと三津木君を睨み、音山は続ける。
「だが、だ。計画が動き始めてからどれほど時間が経った? 計画はどこまで進んでる? それはお前が一番わかってるよな? 休日さえ返上して研究室に籠もってんだからな」
――三津木君らしいですね。
口を出さずに思い、彼を見つめる。
音山のペースにすっかりはまってしまっている彼は、言葉を挟むこともできずに返事をしているしかない。
――まるで昔の自分を見ているようですね。
メイドロボの製作に関わるようになった頃の私は、計画の山場などではないにも関わらず、いまの三津木君のように休日を研究室で過ごしていることも多かった。
――でもそんなことをしていては、身体が保たないでしょうね。
その心配は、私が言うまでもないことだった。
「自分の身体のこともちったぁ考えろ。てめぇはメイドロボじゃねぇんだぞ? 充電すりゃぁ毎日同じように仕事ができるわけじゃねぇ。いや、メイドロボだって仕事を続ければ関節やらが疲労してガタがくる。人間の身体はそれ以上だ。その上パーツの交換だって利きやしねぇ。わかってねぇわけじゃないだろ?」
「……はい」
ニッ、と唇の端をつり上げて笑う音山は、うつむき始めた三津木君に振り返って言う。
「それにおめぇ、ついこの前婚約したばっかりじゃなかったか?」
「ばっ、うっ――」
「てめぇの身体だけじゃなく、好きな女のことも考えないといけないぜ? ということで、その一週間の休暇に撤回はない。もしその期間に研究室に顔でも見せた日にゃぁ次のボーナスはないと思えっ!」
「それはいくらなんでも……」
厳しい口調と内容にやっと口を挟んだ三津木君だったが、
「それじゃあ婚約者との時間はなくてもいいってのか?」
と言われて口をつぐんでしまった。
「以上だ。今日の分の仕事を済ませて休暇に備えてさっさと家に帰れ」
「――わかりました」
不満そうな顔をしつつも、三津木君は私と音山に挨拶を残し、社長室を去っていった。
「相変わらずですね、三津木君は」
押さえていた笑いを顔に上らせた私に対し、ため息をもらしながら音山が言う。
「変わらなすぎだ。まぁ、休みについちゃぁ俺もお前も人のことを言えた義理じゃないがな」
「そうですね」
ひとしきり笑った後、そろそろ私も辞するために書類をまとめる作業を再開する。
「若い頃の無茶がどれほど後で負担になるのか、あいつはわかっちゃいねぇ。それが後々、どれほど人を悲しい目にあわせるかも、な」
椅子に座って真剣な顔で私の顔を見つめてくる音山に、今度は私が言葉を失い、顔を伏せてしまう。
「結局、言うことも、言わないこともできなかったんだな」
「――そうですね。知っていたのに、言うと判断することも、言わないと判断することも私にはできませんでした。今更では、手遅れです。私はマルチに対して、どうするべきかわからなかった」
そう告白する私に、音山は椅子に身体をもたせかけて鼻を鳴らす。
「父親ってなぁどういうものなんだろうな。やった経験もなければ、お互いまともに自分の父親ともつきあったことねぇんじゃ、わかんねぇもんだろうけどよ」
「そうですね」
「初めて、ってぇのは怖ぇし、ためらうことも多いものだろう。――それはおそらく、マルチも同じだと思うがな」
「マルチも?」
顔を上げると、音山の鋭い視線に射抜かれた。
「お前も父親一年生なら、マルチも人間一年生だ。わからねぇこともいまんところできないことも多いだろうよ。でもやっていくしかないだろ? 後に戻ることもできねぇんだから」
「……その通りですね」
音山が見せてくれた笑みに、私も小さくではあるが、笑みを返すことができた。
*
長瀬との話に思いのほか時間を費やしてしまい、俺はちゃっちゃと準備を整えて社長室を後にした。
早足で建物を出て、研究所前のロータリーへと向かう。
腕時計を見てみると、スケジュールで予定されていた時間ほぼきっちりになっていた。
「そろそろ来るかな?」
これから他の会社まで行ってそこの社長との会議がある。けっこう面倒だがこれも社長の仕事のひとつだ。そのための迎えの車が来るはずだった。
「来た来た」
正面入り口の門をくぐってやってきた車は、ゆったりとロータリーを回り、俺の元へとやってくる。と、俺のところにやってくる前に車は警備の人間に止められてしまった。
おそらく車を止めたのは新人の警備員なんだろう。新人であっても車種とナンバーから社長用の車であるのはわかっているはず。問題は別にある。
「くくっ」
吹き出してしまいそうになるのをこらえつつ、車に近づくことなく運転してる奴と警備員のやりとりを遠目に見ていた。
どうやら証明書を見せることで一応問答は収まったらしい。やっと俺の前まで来た車の助手席に問答無用で乗り込む。
「社長が座るべき席は後部座席です」
こちらを一瞥すらせず、女の運転手は愛想のない声で指摘してくる。
「相手先の近くまできたら後ろに移るさ」
「――ショージ、シートベルトはしておいて下さい」
肩をすくめて答える俺に、運転手はそれだけ言って車を発進させた。
曲がりなりにも社長の俺に向かっていまみたいな不躾な口調を使ってきたり、ショージっていう愛称で呼ぶ奴は長瀬の他に社内ではひとりしかいない。
ひとり、というのはおかしいかも知れない。なにしろシートをリクライニングさせつつ横目に見た運転手の耳には、イヤーセンサーが突き出ているのだから。
つまりいまこの車を運転しているのはメイドロボ。顔形はセリオタイプ。それも幾度か手を加えられたセリオの基本タイプの中でももっとも古い、試作型セリオそのままだった。
見た目はHMX―13セリオとは言え、中身は別物。俺の采配で、俺の設計で実験モデルとしてつくられたメイドロボ、それがこいつ、「セルフ」だ。
運動性能、センサー系はもちろんのこと、内部機関も実験中のものを採用している。そしてなによりこいつをつくった第一の目的は、移植を考えられていない時代につくられたメイドロボの記録を新しい機体に移し替える、というもの。こいつには二機までつくられた試作型セリオ両方の記録を移植してあった。
記録引継機能を持たない時代のメイドロボに愛着を感じ、学習記録を新しいボディに移し替えたいという要望は決して小さなものではない。しかしそれは人間の脳に近い構造をしているPNNCを採用するメイドロボにおいては簡単なことではない。単純なデータばかりでなく、PNNCは学習内容によって並列処理構成が変化し、その構成情報そのものが学習記録に密接に関わっている。
つまり俺は、要望があるために行われた実験とは言え、昔長瀬が性能不足の上、劣化著しいマルチのボディから記録を取りだし新型のボディに移し替えたように、セリオにおいてそれをやったわけだ。
――ある意味俺の趣味の塊だな、セルフは。
来栖川HMの技術の粋を集めてつくられた、と言えば聞こえはいいが、いまではアヤノシリーズに統合されてカスタムタイプの外見としてしか残っていないセリオの外見を採用したのも、残しておいた試作型セリオの記録を移植したのも俺が指示してやったこと。セルフは俺が自分のために趣味と欲望でつくったものだと言えた。
ともあれセルフは未来の人間のパートナーとなるべきメイドロボのコンセプトのひとつとして開発され、国の方の認可も得、法的議論を終えていないにも関わらず実験として運転免許なんかも発行されていた。そうしたセルフがやっているのが、実験の名目を立てた俺専属の秘書兼雑用係だった。
――実際俺はそんなお題目より、もっと他のものを求めてたりするんだがな。
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもねぇよ」
いつまでも横顔を見つめられて、なにかあるのかと感じたのだろう。セルフの言葉を俺はごまかした。
「マルチに会ってみるか?」
唐突にセルフに訊いてみる。
試作型セリオの記録を移植してあるのだから、セルフにはマルチと一緒に過ごした頃の記録ももちろん入っている。明確な答えを求めていない質問は柔軟な返答のできるAHSとは言え難しいものだが、おそらくこいつはひと味違う答えを返すだろう。
初めて俺の方をちらりと見たセルフは言う。
「考えておきます」
「あぁ」
唇の端をつり上げて、俺はセルフの答えに相づちを打った。
* 3 *
「だぁーーーーーーーーっ!」
気合いを込めて廊下の端から端までモップをかける。
担当の場所は自分の教室の前だけだけど、でもやっぱり掃除は気合いを入れて思いっきりやった方が気持ちがよかった。
折り返してまた声を出しながらモップをかけていく。次に一直線ではできない場所にモップをかけて、続いて窓と窓枠を雑巾で拭く。
――やっぱり掃除は楽しい。
学校は毎日掃除しているからそんなに汚くなることはないけれど、たった一日でも砂埃がけっこう溜まる場所もある。そんなところを見つけてひとつひとつ雑巾をかけたりすると、褪せてしまっているはずの塗装がちょこっとだけ光って見えたりする。
たいしたことではないのに、それが楽しくて、掃除をしている間にわたしの頬には笑みが漏れてきて、鼻歌を歌いたい気分になってくる。
ホームルームが終わってしばらく経った教室の前には、居残っているクラスメイトやわたしと同じような掃除をしてる人がいるだけだった。
「んっ、ん~っ、んんん~」
いつのまにか鼻歌が出てきていた。
手の届かない高い位置の窓ガラスを、教室から持ってきた自分の椅子に乗って丁寧に拭いていく。
「こんなこと、メイドロボにでもやらせればいいのにね」
「そうよねぇ」
後ろからした声にちらりと振り返ると、箒を手にしたまま立っていたのはわたしと同じ掃除当番のクラスの女の子だった。
この学校にも何年か前に導入されたというメイドロボがふたり、いろんな仕事をしているのはわたしも知っていた。少し話してみたことがあるけれど、ふたりは学校の事務の仕事や先生方に言いつけられた仕事をこなしていて、掃除をしている暇なんてなさそうだった。「教室や廊下の掃除は生徒の自主性を養うための大事な勉強です」って姫川先生も言っていた。でもクラスメイトのふたりは、最初から掃除をやる気がない様子だった。
だからけっきょく廊下の掃除をわたしひとりでやることになってしまったけど、気にしてはいない。むしろ思いっきり掃除ができて楽しいくらいだった。
「メイドロボみたいだよね、長瀬って」
窓拭きを再開したわたしの耳に入ってきた言葉。
瞬間、ピクンッと肩が動いてしまった。
「そうそう。いい子ちゃんだし、掃除が好きだし――」
止まりそうになる手を歯を食いしばって動かし続ける。
――やっぱりわたしは……。
「なんだっけ? あの来栖川のちっこいメイドロボ」
「えぇっと、確かマルチ」
「そうそう。あれみたいな感じ?」
――マルチ……。
続けられる言葉を聞きながら、身体から力が抜けていきそうな感じがしていた。
「メイドロボみたいだよね、長瀬って」
教室内の掃除を終えて帰る準備をしていた真澄の耳に飛び込んで来たのは、そんな言葉だった。
無意識に反応して鞄を閉じて廊下に出る。
――確か今日の廊下掃除はみのり。
思った通り教室を出ると、椅子に乗って窓を拭いているみのりの姿が見えた。
「なんだっけ? あの来栖川のちっこいメイドロボ」
「えぇっと、確かマルチ」
「そうそう。あれみたいな感じ?」
――やばっ。
真澄の身体は勝手に動いて、椅子から転げ落ちそうなくらい力が抜けているみのりの手を取っていた。
「掃除、だいたい終わってるんでしょ? 一緒に帰ろ、みのり」
「あっ、はい。はいー、わかりました~」
「わかったんだったらさっさと椅子をしまって鞄を持ってくるっ」
「はい!」
真澄の声に元気が出たのか笑みを浮かべて、みのりは椅子を持って教室へと入っていった。
振り向かなくても真澄にはわかる。みのりのことを話していたふたりが、自分のことを見ているのが。気づかない振りをしてやり過ごしているうちに、ふたりは箒を廊下用の掃除用具入れにしまって教室に入っていった。
「お待たせしましたー」
入れ違いにみのりが戻ってきて、彼女が向けてくる笑みに真澄はため息が出そうになった。
――なにやってんだろ、あたし。
「そいじゃ帰ろうか」
「はいっ」
元気な声で応えたみのりにふっと漏れた笑みを返しつつ、真澄は並んで廊下を歩き始めた。
学校の男の子がみのりのことを気にかける理由が真澄にはよくわかった。
綺麗な髪や瞳、小柄でかわいい感じ。
みのりを見たときの印象はそんな感じだろう。けれどもラブレターなんかが送られてくる理由は外見以外にもある。
なにより活発に動き、にこやかに笑い、驚いたりはしゃいだり、ときには泣いたりと、みのりはいろんな一面を見せてくれる。何事にも真面目で、明るい女の子。それが長瀬みのり。
外見のことはもちろんひとつの理由だろうけれど、頭の良さなどより、なによりその性格こそが男の子を惹きつける理由なのだろう。
けれどもそんなみのりの性格はときに同性にとって逆の印象を与えることもある。
みのりがクラスの女の子から影で「メイドロボ」や「マルチ」と呼ばれ始めているのを、真澄は知っていた。
――みのりのことなんて……。
真澄もまた、そんな風に思っているひとりだった。
それなのにいまはこうして、なんとはない話をしながらふたりで帰り道を歩いている。
――なんでだろうな。
考えても答えは出てこない。さっきはみのりがショックを受けているだろうと思った途端、身体が動いてしまっていた。
「どうしたんですか? 真澄さん」
「え?」
歩いたままみのりが真澄の目をのぞき込むように見上げてきていた。
みのりがよく心を読みとることはずいぶん前から知っていたのに、気を抜いてしまったらしい。
「な、なんでもないよ。――そうだ、帰りにどっか遊んでいこうか? みのり、時間は大丈夫?」
「あっ……、はい。大丈夫ですー」
視線を外して適当に言葉を続ける。
言ってしまってからそんなことをしてクラスの女の子にバレたら明日から話しづらくなりそうな気がしたが、いまはそれほど気にならなかった。
「どこに行きましょうか?」
「どこがいい? みのりが決めていいよ」
「……えっと、――わたし、友達とあんまり遊んだことがないので、どういう遊びがあるのかわからないんですよー……」
「そうなの? 外国にいたときも?」
「はい――」
寂しそうな表情でうつむくみのりの横顔を見ながら思う。
――本当はあたし、みのりのことなんて、――マルチのことなんて、大嫌い。
*
「遅くなりすぎちゃったかな?」
「楽しかったですよー」
「よかった」
満面の笑みを浮かべた真澄さんに、わたしも笑みを返す。
真澄さんと商店街にあるブティックを見て回って、それからカラオケに行ってずいぶん遅くなってしまった。カラオケには昔浩之さんと何度か行ったことがあったくらいだけど、歌えない歌はないくらいだった。
「じゃあまた明日ね、みのり」
「はいー。また明日」
駅の前で手を振って真澄さんと別れたときには、もうすっかり暗くなってしまっていた。
電車には乗らずに商店街を抜けて歩いていく。
お父さんと一緒に住んでいる家は、電車に乗ってふた駅先。いまわたしが向かっているのは商店街から少し外れたところにある、浩之さんのお店「マルチ」だった。
いつもなら今日はお手伝いの日ではないから、お店に行く必要はなかった。学校が始まってからはお店の手伝いは週に三日しかできないと決められていた。だから浩之さんの顔が見たくて、仕事をしている彼の姿が見たくなって、お手伝いの日でなくてもお店に足を運んでしまうのはいつものことだった。
商店街から角をふたつ曲がって、お店まではもう一本道。だんだんと近づいてくるT字路の突き当たりに、「マルチ」がある。
看板に書かれた「喫茶マルチ」の文字が読めるようになってくる。いつもならまだ営業時間で、この時間ならそろそろディナーメニュー目当ての常連さんがお店に来ている頃だった。
お店の前までやってくる。
でもお店の中に灯りはない。定休日でもないのに、お店は真っ暗なままだった。
夢……。
何度も繰り返し見ている夢。
浩之さんが倒れて、身体が冷たくなっていく。
それは現実だった。
あの日、公園で浩之さんは倒れてしまった。生きてはいるけれど、もう二度と意識を取り戻さないかも知れないと、お父さんから聞かされていた。
「もっともっと、いっぱいお話がしたかったんです」
わかっているのに、浩之さんはいま病院で眠っていると知っているのに、それでもわたしはここに来てしまう。
あのとき「お前ならできる」って言われたのに、わたしはまだなにもできていなかった。なにができるのかも、わからないでいた。メイドロボみたいだと言われてしまうくらい、わたしはダメなままだった。
「浩之さん、わたしはこれから先、どうやって生きていけばいいんですか?」
こぼれてくる涙を拭うこともできずに、わたしはここにはもういない浩之さんに問いかけていた。
「ふぅ」
店の倉庫の掃除はだいたい終わって、息をつきながら回りを見回す。掃除中開けていた裏口の外はもう真っ暗になっている。
先週浩之ちゃんが倒れてから、店は営業できなくなっていた。私自身が混乱していて、開店していない理由を紙に書いて張っておく余裕もなかった。
ここ三日くらいは、みのるが眠ったいまくらいの時間に家のことをお母さんに頼んで、お店の整理をしていた。
腐ってしまうようなものだけは昨日までに処分しておいた。コーヒーの豆や紅茶の葉は少しは保つけれど、置いておけばどんどん風味も味も失われてしまう。このままお店を開くことがないなら、早めに処分してしまった方がいいかも知れなかった。
「浩之ちゃん……」
ひとりでお店にいるのは辛かった。ここにいるときはいつも浩之ちゃんが一緒で、振り向けばそこにあの人がいて、とても暖かくて、安心できる場所のはずだった。
名前を呼んでも浩之ちゃんが来ない。たぶんもう二度と、来ることはない。
倉庫の灯りを落として、店の表に行く。そこは真っ暗な空間。カウンターがあって、スツールが並んでいて、その向こうにいくつかのテーブルセットが置いてある。
たったそれだけの空間が、浩之ちゃんと私とでつくった空間だった。浩之ちゃんの夢を実現させるために、この場所ができたはずだった。
いまは真っ暗なここには、たぶんもう二度と光が戻ることはない。
カチリと音がするスイッチを押して電灯を灯す。見回してみると、一週間も経っていないのに店内にはうっすら白い埃が溜まっているのが見えた。
――あれ?
暗かったときはわからなかったけど、明るくしてみると正面の扉のところに小柄な人影があるのが見えた。
人影と目があってすぐに気がつく。
――マルチちゃんっ。
急いでカウンターから滑り出て扉に向かう。いつも浩之ちゃんに開けてもらっていた、少し固くなっている鍵をもどかしく感じながら開けて外に飛び出した。
「マルチちゃん!」
走り去ろうとしていた後ろ姿に呼びかけると、人影は振り向く。確かにその影はマルチちゃんだった。
「あ――」
視線があってなにか言おうと思うのに、なにも言葉が出てこない。出てこない言葉に迷っている間にマルチちゃんはまた走って行ってしまった。
「……」
路地の壁に彼女の影は消えてしまった。そうしてから考えてみて、いまの私がマルチちゃんに会っても、なにも言う言葉がないことに気がついた。
扉を開け放った動きのまま止まって、私はそこに立ち尽くす。
――浩之ちゃんは、帰ってこなかったから。
私は少し前から浩之ちゃんの様子がおかしいことに気がついていた。本当は二ヶ月くらい前から身体がおかしくなってきていたとお医者さんに聞いたけど、浩之ちゃんはなにも言ってくれなかった。ひと月くらい前から私は気がついて、気がついたことに彼も気がついたはずだけど、なにも教えてはくれなかった。
あのとき、私は浩之ちゃんと約束をした。でもその約束は守られなかった。
――私は、浩之ちゃんに振られたのかな。
*
ロッカーから上着を取り出して手にしたエプロンをしまう。夜はまだ寒いから、厚めの上着を手に表に出ていこうとする浩之ちゃん。
歩きながら右手を袖に通して、少し苦労しながら左手を通していく。服を整えている浩之ちゃんの前に回って様子を見た。
「あ、浩之ちゃん、襟」
「おっと」
近寄って襟元に手を伸ばす。羽織ったときに挟まってしまった襟を手を伸ばして整えて上げながら、こっそり見上げるように微笑んでいる彼の顔を見ていた。
店の方は閉店して、店内の照明は弱く落としてある。今日はこの時間までマルチちゃんが残っていたために、浩之ちゃんが駅まで送ることになった。
ここのところのマルチちゃんはいろんなことを考えてるみたいだった。学校に通うようになってふた月ほど。学校のことなのか、どうなのか、悩みもある様子だった。たぶん歩きながら浩之ちゃんと話をするんだろう。
――たぶん、――そうなんだろう。
話の内容は想像がつかないこともない。浩之ちゃんがどんなことを言って、マルチちゃんがどういう反応をするかは気になる。けど浩之ちゃんのことは、信じることができた。
私がいま一番気にしているのは、別のこと。
服を整え終えた浩之ちゃんは外で待つマルチちゃんのところに行くために扉に手をかける。
「それじゃあ行ってくる」
「うん……」
不安な気持ちが見えているだろう私に向かって、浩之ちゃんは微笑んだ。
背を向けて扉を開けようとしているとき、抑えきれずに私は言う。
「帰って、くるよね」
「……あぁ」
返事が返ってくるまでのわずかな時間がもどかしかった。
――なんでだろう。
すごく悪い予感がしている。
私に背を向けようとする浩之ちゃんの笑みが残像のように残っていく。扉が開いて、閉まる。ガラスの向こうの浩之ちゃんの姿が遠のいていく。
胸が張り裂けそうなくらい痛くて、彼の背中を追っていきたかった。その背中に抱きついていきたかった。
「絶対に、絶対に帰ってきてね、浩之ちゃん」
行ってしまった彼に、私はもう一度声をかけていた。
そうしてその夜、浩之ちゃんは帰ってこなかった。
夜遅くになってかかってきた電話は、病院からのもの。担当だというお医者さんの言葉で、私は浩之ちゃんの意識がもう戻らないかも知れないことを、約束を守ってくれなかったことを知った。